Ride in Setouchi & San-in Day 100 (23/6/19) Miki Castle Ruins 三木合戦 [2] 三木城 本丸/二の丸
Miki Castle Ruins 三木城跡
- 本丸
- 本丸御殿
- 二の丸
- 雲龍寺
大村由巳法印像
谷大膳墓
八幡森史跡公園
今日はいよいよ三木城を訪問する。今回で3回目の訪問。1回目は小学生の時に祖母に連れられ、訳のわからないまま見た。2回目は5年程前、瀬戸内の自転車旅行の時、ただあまり、三木合戦については興味がなく、城跡をさらりと見ただけだった。今回は数日滞在して深く見てみたい。
Miki Castle Ruins 三木城跡
三木城は平山城で釜山城 (城のある山が釜山) や別所城とも呼ばれる。三木城は明応元年 (1492年) 前後に別所則治により築かれた。三木合戦が起こるまでの歴史を見る。
- 別所は播磨国守護の赤松氏から出ている。文明15年 (1483年) 冬、山名氏に大敗し、堺に逃げていた赤松政則を擁して上京し、足利義政の助力を得て家督を復活させた。赤松.政則より8郡が与えられ、三木城を築城し、赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ、実力者となる。
- 別所就治時代になると、赤松義村と浦上村宗が内紛状態となり、享禄3年 (1530年) 夏、細川高国・浦上村宗連合軍に攻められ落城。別所就治は一旦国外にのがれるが、中島の戦いで浦上村宗が戦死、細川高国も自害した後、別所就治は三木城に戻り、その後、東播磨国で大きく勢力を伸ばす。
- その後天文7年、8年 (1538年、1539年) の2度に渡って尼子詮久が三木城を攻撃。当時、赤松氏の国人衆は、ほとんどが尼子晴久軍に下り、三木城のみが東播磨の拠点となった。赤松晴政の守護としての地位が落ちるが、別所就治の東播磨での地位は上がり、赤松氏から細川晴元派へ鞍替え。
- 細川晴元と対立していた三好長慶軍に天文23年 (1554年) 10月、三木城の支城7つを攻撃され落城。同年11月に、別所就治は三好氏と和議を結び、その傘下に入る。
- 別所安治に代わった永禄11年 (1568年)に、三好三人衆から織田信長方に鞍替え。翌永禄12年(1569年) 別所安治は織田信長軍として西播磨へ攻め込んだが、逆に三好三人衆軍の浦上宗景が三木城に来襲。翌永禄13年 (1570年) 再び西播磨に攻め込む。安治が病死の後、当主が別所長治に変わり、北播磨の在田氏も滅ぼすと戦国大名化していった。
次に三木合戦の話だが、昨日、三木城支城訪問記 (6月22日)で、織田に反旗を翻したのは、叔父の吉親の暴走と書いたが、もう一つしっくりこなかった。東播磨8郡を収める城主が、単に感情で長年関係を築いていた織田をそう簡単に裏切るとも思えない。ここでいくつかヒントとなる記述を見つける。記述内容は微妙に違っているのだが、だいたい想像はつく。
- 17才で信長にあった際、東播磨8群の安堵された。
- 信長に毛利攻めを命じられた? 毛利攻めの先鋒を申し出た?
信長がそういったとしても、信長の家臣への対応を見ると、本当にそう言ったか、それが考えた上で真剣に言ったかは疑問。ただ若い長治にとっては大きな事だった。自分なりの解釈をしていただろう。それが加古川会議では、先鋒という危険をおかし勝利したとしても、播磨は秀吉のものになり、自分は傲慢な秀吉の傘下になり、今の東播磨8群全てを維持できるか不確定要素が多い。武家として名門で、東播磨の盟主にとり、これは屈辱と映っただろう。尚且つ、反信長には強大な毛利と石山本願寺がおり、援軍が期待できる。(実際に確約は取っていたと言われている。ただ実際には兵站以外の援助はほとんで無かった。これは誤算だっただろう) 勝率は五分五分と見ていたかもしれない。もし自分が別所長治の立場であったなら、不遜な秀吉の下ではなく、東播磨の支配を維持するために、反織田を選ぶだろう。ただ、決断をする前に、何故、信長に直に会い確かめなかったかと思う。長治はそうしたかったかも知れないが、叔父にそれを止められたのかも知れない。これはビジネスでも同じで、良いレッスンになる。
- 人の動機ずけ。秀吉はこれに失敗した。自分の都合だけで人を従わせ様とした。
- 想像だけでなく確認が必要。長治は思い込みで決断をしている。
- 決断が感情的であってはならない。論理的根拠とその後の計画があるか。別所長治は多少とも感情が決断に影響を与え、柔らかなままの計画で決断している。
反旗を翻してからは、別所の動きは早かった。城の周りを固め、支城の城主と兵士を三木城に集結させ、戦闘準備を整えていた。それが、最初の戦いで勝利し、秀吉を慌てさせ、結局、秀吉はまともに戦っては危ないと判断して、大軍勢での兵糧攻めとなった。
三木城攻め
加古川評定の後、3月29日に秀吉は兵7500で押しかけてきている。(まだこの時は織田の援軍の要請は不要と思っていた) 別所勢は準備を終え、近隣の支城から兵を三木城に集結して7500人となっていた。兵力では互角。まともに戦えば、地の利の別所長治が有利であったろう。(私見だが、別所長治はこの時点での秀吉の兵力は把握していたと思われる。加古川評定では兵力の話も出たはず。これも毛利側につく要因だったかもしれない。) 秀吉は別所の防御ラインが硬いと踏み、兵3千を弟の秀長に託して、残りの兵とともに姫路書写山本陣に帰り、別所の支城から攻める事にした。
最初の戦いはその3日後に起こる。
別所長治は、別動隊で織田方に組した公卿・冷泉為純が籠る嬉野城を攻撃し占領後、冷泉為純父子を処刑する。一説には冷泉為純は態度を決めかねていたのだが、頻繁に秀吉からの使者が出入りするのを知り織田に加担と判断しての行動だったとも言われる。そうだとしても、長治の即決し、直ぐに行動に移したのは正確だ。20才と若い長治だが、リーダーとしての資質は十分に持っていたと思う。一般に叔父の執権政治でひ弱な操り人形の様なイメージがあるが、色々見ていくにこれは違うだろうと思う。 (余談だが儒学者として有名な藤原惺窩は冷泉為純の三男。彼も三木市の自慢の一人)
これに秀吉援軍が大村坂に着陣した夜、三木城より1000余りの精鋭軍と、その外部の援軍(第一陣は志方城主の櫛橋伊則、二陣は野口城主の成井四郎左衛門、三陣は神吉城主の神吉頼定、合戦奉行は高砂城主の梶原景行がそれぞれ司った)らも加わった大がかりな夜襲攻撃を受け、秀吉の大軍は姫路まで潰走する。 これにより、秀吉勢のみでは攻略が難しいと判断し、織田に援軍を要請する。作戦も竹中半兵衛によって考案された長期戦の兵糧攻めに切り替えることとなった。これ以降は、秀吉が構築した付城に対しての局部戦が数回行われただけで、終始兵糧攻めを継続していた。
この夜襲には別所吉親の妻も勇猛に戦闘に加わっていた。吉親の妻は、男も目をみはるほどよく剣を使い、馬を走らせたという。日没と共に三木城包囲の準備をはじめた秀吉軍にひと泡ふかせようと別所方の軍勢はいくつかの支城から出て、相手方の大村坂の陣に夜襲をかける。火の手を合図に三木城からも1,000余の軍勢が松明、提灯をかざし川向こうの敵陣に突入した。この時、吉親の妻はモミの鉢巻に桜縅(さくらおどし)の鎧に白芦毛の馬に打ち乗って二尺七寸余の太刀をかざして敵陣に切り込み、逃げる敵を馬の蹄にかけて切りまわしたといわれる。
城山の麓には立派な看板。これを見るとびっくりするほど大きい。国の史跡になり、国からの補助金で作ったそうだ。200-300万円かけたらしい。この大きさだからこれぐらいかかるのだろう。大河ドラマ 軍師 官兵衛の放映から2年でようやく国史跡になれた。大河ドラマのおかげだけれど、放映時のように、観光客が押し寄せることは無くなっている。土日でも数グループ程度だそうだ。
本丸跡
見栄えが良い様に漆喰の城壁があるが当時はこの様なものでなく土塁や柵であったと推測されている。遺構は殆どなく、大きな井戸が残っている。後に城が破却され、材料を明石城の築城に使用されたという。
天守閣
と推定されているが、近年ではこの跡地に建っている保育園が跡地ではないかと言われている。天守台とされたところには別所長治の辞世の句の碑がある。「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」城内の兵士や民の命と引き換えに自害した長治が自分の死に自分なりに納得しようとしての想いを詠んだのではないか。享年23才、13才で家督を継ぎ、想像だが、叔父達に振り回され、織田を裏切る事になった。恨みもあっただろうが、民の命を救うならばと、最後は自分の意思で決着を着けた。
本丸御殿
本丸の中に御殿があった。実際に執務を行う場所。現在は金物資料館になっている。三木市は金物で有名。大工道具が中心であった。今日は時間が取れず、見学できなかったが、ガイドさんが言うには、三木は三木城と金物はぜひ見るべきと言っていた。後日行ってみよう。
二の丸 (西の丸)
みき歴史資料館があった。無料で入場出来る。他の施設も無料。三木市は観光には頑張っている様な気がした。館員さんと長く話した。三木市民にとって別所長治と三木城には特別な想いがあると言う。館員さんに色々と質問をした。答えられないこともあったのだが、資料館を出てウロウロしていると追いかけてきて、質問の答えの資料が見つかったといって見せてくれた。親切な館員さんだった。展示は半分以上が三木合戦の事で、合戦をビデオで詳しく解説していた。
三木でも瀬戸内のたいこ祭りがあることを知った。正式にはふとん屋台太鼓というのだが、街の人は屋台とだけ呼び、たいことは言わないそうだ。三木も瀬戸内文化圏なのだなぁ。
この二の丸には、美術館もある。そして旧制高校もあった。古いボロボロの校舎が建っている。昭和30年代まで実際に高校として使われていた。保存すべきか解体かの議論がなされたが、解体と決まった。市民は残念と思うが、修理と維持費に相当の金がかかるという事で、涙を飲んでの決定だそうだ。今度来る時にはもう無いのだろう。
歴史資料館の後、城跡に戻り、東屋で昼食を取っていると、地元の絵描きさんと話す機会ができた。30分ほど話をして、帰っていった。入れ違いに、地元の個人的ボランティアガイドさんが入れ替わりに話しかけてきた。後から聞いたところでは、先にあった絵描きさんが観光客に絵を売っているらしい。それが心配で話しかけてくれたそうだ。絵描きさんは身なりを見て絵を売る対象でないと思ったのか、ガイドさんが心配する様なことは無かった。ボランティアガイドさんは75才。定年後、毎日この三木城に来てガイドをしていたという。特に大河ドラマ放映中は大勢来て忙しかった。最近はあまり観光客がいないので土日だけやっていると言っていた。
歴史好きで、三木の歴史についてはいっぱい知っていて、ボケ防止のために色々なことを暗記している。歴代天皇の名前、元号、三木市や三木城に関わる事が流れるように口から出てくる。ガイドさんと歴史談義が続き、結局ガイドさんと別れたのは夕方5時だった。今日は大勢の地元の人と話をして、あまり回れていないけれど、いろいろなことがわかり有意義であった。話した内容は訪問日記に随所に入れている。
雲龍寺
雲龍寺は三木城の城郭の中にあった。三木合戦で開城の際には別所長治が雲龍寺の和尚に後事を託した。この寺の南側には別所長治と照子夫人の首塚が残されている。別所長治は当時の慣わしに従い、照子夫人と3歳になるわが子をまず刺殺し、その後切腹の場にのぞんだと伝わっている。
上の絵蒔きは、以前、本丸前にあったのだが、切腹シーンなどの刺激が強すぎると、今は撤去されている。祖母に連れられてきた時に見た覚えがある。子供だったので、不気味な感じを覚えた。やはり子供には刺激が強すぎるだろう。この絵の元となったものが法界寺にあるのだが、それはもっと刺激が強い。子供の時に見たその絵巻物は今でも覚えている。
大村由巳法印像
ここ三木市大村出身の秀吉の御伽衆。秀吉の活躍を「天正記」、「聚楽行幸記」を書いた。三木合戦の際は、秀吉に同行した。彼が戦局にどれだけ貢献したかはわからないが。戦争終結後、三木の復興に尽力をした事で、地元の人からは感謝されている。
谷大膳墓
秀吉の第1期付城の平田村付城に布陣し、毛利からの兵站の持ち込みを遮断する目的で、この地域の街道を監視していた。天正7年 (1579年) 9月9日に兵站を運び込んで来た毛利勢と別所勢の猛攻撃で討ち死にした。これは大村合戦と呼ばれている。二回に分けて合戦が行われて、1戦目は別所勢の勝利で谷大膳討ち死、2回目は秀吉軍の圧勝。詳しくは、付城を訪問した時に書く事にする。
八幡森史跡公園/淡河定範一族自刃の地
前述の谷大膳が討ち死にした大村合戦で淡河定範も手勢を連れて参陣するもの、別所軍が大敗し、淡河勢ももはやこれまでと、僅か5騎になり、この地まで逃れ、一族郎党共に自害をした。昭和57年に子孫や有志が慰霊碑を立て小さいが公園として整備している。
東條街道/上津船付場跡
別所氏によって城と城を結ぶ街道が作られた。東條街道という。江戸時代は物流のため高瀬舟の船着場があった。籠城していた時も、近くまではこの川を利用して兵糧を運んだのだろうか? 兵庫県、岡山には大きな川が多く、かなりの内陸山間部までも船が行き来していた。だからこそ、内陸部に発展した街があったのだろう。
街にはところどころ古い家がある。
今日は三木城全体を見て回りたかったが、ガイドさんとの楽しい歴史談義で午後全てを使ったので、城見学の続きは明日に持ち越し。
0コメント