Ride in Setouchi & San-in Day 69 (23/5/19) Bicchu Matsuyama Castle Ruins 備中松山城跡

Grave of Yamanaka Shikanosuke 山中鹿之助墓
Bicchu Matsuyama Castle Ruins 備中松山城跡
Takahashi City 高梁城下町

Grave of Yamanaka Shikanosuke 山中鹿之助墓

偶然に山中鹿之介の墓があることを知った。囚われて護送される最中に殺された事は知っていたが、その護送先が備中松山城で高梁川のほとりのここで惨殺された。今回の旅で多くの山中鹿之介ゆかりの地に遭遇した。事前に調べたものではなく、訪問先で見つけたものがほとんどで、調べればもっとでてくるだろう。この地方での山中鹿之助の人気の高いことを改めて認識した。落ち着いたらもう一度小説を読んでみたい。

Bicchu Matsuyama Castle Ruins 備中松山城跡

現存12天守の一つ。標高430mの臥牛山山頂にある。臥牛山は4つの峰からなっており、現在の天守は小松山びある。大松山はこの城の始まりの場所、残りの2つの天神も丸と前山にもいこうが残っている。
起源の大松山城は1240年に築かれ、1331年に小松山までしろが拡大した。城主は目まぐるしく変わり、戦国時代には三村氏が治めていた。三村元親は毛利氏から離反して、織田方につき、それ以降三村氏と毛利氏の抗争が続く。備中兵乱と呼ばれている。1574年、毛利方の小早川隆景に城を攻められ落城、三村もは自刃し、毛利の領有するところとなる。
関ヶ原(1600年)で毛利が敗軍となると、1617年に池田長幸(池田輝政の弟)が入城し6万5千石で松山藩が始まる。小さな藩だった。その子の2代目城主に嫡男がなく、1641年に池田氏廃絶。1642年に水谷氏が藩主として入城。水谷氏も1693年に後継なく断絶。この時に城の受け取りのために大石内蔵助が入城し、暫く城番を務める。1695年に安藤氏、1711年に石川氏と藩主が変わる。更に1744年に板倉氏が藩主となり、明治まで8代続くことになる。

明治の戊辰戦争では旧幕府側につくも、陽明学者の山田方谷の決断で開城した。この高梁市ではこの山田方谷が一番人気で、城には山田方谷を大河ドラマで取り上げてもらおうと署名運動をしていた。名前は知っていたが、何をなしたのかは詳しくは知らなかった。多分、名前も知らない人がほとんどだと思う。大河ドラマへは難しいのではとの個人的感想。
明治4年に廃藩置県で高梁県となるが、その年の暮れには備中備後の11県が合併し深津県となる。1975年に深津県は岡山県に吸収された。
では城の見学と行こう。
登山口から当時の登城道を登って行く。かなり急なな坂道だ。城までは1.5kmで自動車道では3km。当然登城道で行く。
途中で大石内蔵助腰掛け石と言うものがあった。当時の藩主の水谷氏は嫡男がいないまま没し断絶。城の受け取りが赤穂藩に要請され、大石内蔵助がその目的で来た。同じように腰掛けてみた。丁度中間点にあるので、内蔵助だけでなく多くの侍が腰を掛けたのだろう。
今日は夏日で少々バテ気味のよう。
上太鼓丸
上の図では載っていないのだが、大手門に行くまでにいくつか曲輪跡がある。
上太鼓丸のすぐ下には中太鼓櫓跡
ここからみた高梁市。昔は高橋と書いたのだが、中国に高梁と言う地名があったので、こちらの方がカッコいいという事で、高梁になったそうだ。
大手門
ようやく大手門に到着。三の丸への入り口。櫓門形式であった。
再現CG
門の両脇にはそれぞれ足軽箱番所と大手櫓がありその隣は二の平櫓があった。
ここから城の上部が見える。石垣は自然の崖を利用して作られている。
大手門から三の丸へ
三の丸には上番所と足軽番所があった。
ここから細い下山道が三の平櫓から伸びている。
三の丸から黒門へ
黒門
黒門を潜ると右側に厩門があり内部は厩曲輪があった。
左側には四の平櫓でその上には御膳棚があった
二の丸に向かう。
二の櫓門を潜ると二の丸
二の丸には面白い事に雪隠跡が残っている。
二の丸からは本丸が見える。
本丸を囲む様に道があり。何ヶ所か本丸への門がある。ここは東門。
この本丸を囲んでいる一つが搦門曲輪で搦手門を通り城外へ抜ける道に通じる。
ここからも本丸への門がある。腕木門
ここも曲輪跡で番所があったと思われる。十の平櫓跡があり天神の丸跡と古城の大松山城に通じる水の手門跡がある。
ここから二重櫓へ登る曲輪跡がある。後曲輪とそこにあった九の平櫓。
二重櫓
本丸へ
現存天守閣
五の平櫓、六の平櫓と南門が復元されている。
以上が江戸時代の松山城。小松山城とも呼ばれている。これは松山城は元々この近くにあった大松山城が拡張していったもので。大松山城に対して小松山城と呼ばれたそうだ。
余談だが、ここには城主がいる。猫城主でさんじゅうろうという名前だ。館員さんに名前の由来を聞くと、谷三十郎からとったという。新撰組の谷三兄弟はこの高梁出身だったそうだ。館員さんは一ヶ月前に脱サラをしてここに移住して松山城の館員をしている人。まだ三十代と思う。城が大好きで全国の300もの城跡を巡ったそうだ。谷三十郎はドラマではいつも悪人のように描かれているので、ちょっと可哀想かなと館員さんと話した。たださんじゅうろうはそんな事は気にせず、城内で愛嬌を振りまいていた。
館員さんからの勧めもあり、水の手門を通り城の起源であった大松山城に向かう。まず土橋と番所跡
そして城らしい雰囲気の石垣が見えてきた。ここは相畑城戸跡
天神丸跡 江戸時代には天神社があった。神社跡への階段で爺さんにあった。大松山城への道で唯一会った人。階段の落ち葉を掃除している。ボランティアで掃除しているのかと思い、話をすると、ボランティアでもなく、城を見に来たのでもなく、虫を探していると無邪気に笑っていた。ここには多くの種類の虫がいるらしい。階段の落ち葉をひっくり返していたのは虫を探していたのだった。個人的に研究しているのだそうだ。没頭できる何かがあるのは良いことだ。
更に奥に進む。大池と言うところに出た。池がある。石垣で囲まれている。溜池か?立派すぎる。階段まである。何の為か?発掘調査中となっていた。これは後で館員さんとの話で盛り上がるるのが、神社の近くにあるという事と。池の中からは生活用品が発見されていないので一般的な使用ではないと推測される。文献ではここに船を浮かべていたとある。山の中に船を浮かべてもどこにも行けない。館員さんと一緒に出した結論は、神社の神事の為の池であろう。発掘の結果が待ち遠しい。
やっと大松城跡に到着。石垣や土塁、井戸跡、そして切り通しの跡が城の周りに残っていた。城跡は松山城のように綺麗に整備もされていないが、何段にも曲輪跡があり、一見して城跡とわかる構造が残っている。
これで城の見学は終了。もう5時になっていた。急いで下山をする。城見学は山登りも含めて5時間使ったことになる。当初は城だけでなく郷土資料館や武家屋敷、庭園など4カ所の共通券を購入し、見ようと思っていたが、城だけでタイムアップ。

Takahashi City 高梁城下町

城に登る前に通り道で撮った写真があるので掲載する。街の雰囲気が少しはわかるだろう。
明治時代に建てられた教会。新島襄が絡んでいる。
少し高梁市について調べてみた。過疎化の度合いが凄い。大学が2校もあるので20歳の人口分布が突出している。真備国際大学があるせいか、街中で観光客でない外国人を何名か見かけた。人口分布図をよく見ると、大学生は卒業後の年代の分布が急落しているので、ここに残る人はほとんどいないのではと思う。大きな企業も無いので、この街は更に人口減少が進むだろう。高齢者の割合が18歳未満の倍、20年後には人口2万人程になる可能性がある。

2コメント

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  • Kazu Saeki

    2019.05.25 23:01

    @sumito dohi土肥さんの言う通り。学生はここに4年間住むわけだから、その間に何か手を打てるはず。そうでなければ、学生自体も減り、大学が移転するかも。ただ、高梁市はこの大学にも金を出している。これは他の地域にも使えるだろう。例えば有名大学のサテライトキャンパスを地域も金を出す方法。山口で見たことは若者が大学進学で県外に行ってそのまま就職という有様。人の定着化には仕事がある事が重要だが、それと教育も重要な要素。ここも検討の価値あり。
  • sumito dohi

    2019.05.25 22:45

    今までこのブログでバーチャル訪問させてもらったどのお城よりも立体的というか、地形のままの高低差を活かしきっているディメンションのお城というか、見て回るには結構足腰に来そうな造りですね(笑)。当時はユンボウがある訳ではないですし、測量の技術も機械もそんなに洗練されていた訳ではないでしょうけど、こんな複雑なお城を作れてしまうというのは(お城全般がそうなのですが)驚愕の事実です。すごい。 この高梁市のここ20年の未来は、所謂少子高齢化の大きな波に呑まれてしまうことになりそうですね。大学が二つもあって、一時的とはいえ20代の人口が数年はキープできるのですから、その間に何かをスタートさせる施策を施さないのはもったいない。国際的な産業を彼らに考えさせるようなことはできないものでしょうかね。。。