Ride in Setouchi & San-in Day 25 (9/4/19) Saigoku Kaido Kudamatsu to Tokuyama 西国街道 下松 - 徳山

Saigoku Kaido 西国街道
  • No 38 Kuboichi Post Town in Kudamatsu 久保市(下松市)
  • No 39 Hanaoka Post Town in Kudamatsu 花岡(下松市)
  • No 40 Tokuyama Post Town  in Shinan 徳山(周南市)
  • No 41 Fukukawa Post Town in Shinan 福川(周南市)

No 38 Kuboichi Post Town in Kudamatsu 久保市(下松市)

宿場町として観光に力を入れている訳ではなさそうで、宿場町としての雰囲気は特には感じられない。歴史を感じてるところとしては、戦国時代に中国地方を治めた大内氏の始まり所縁の寺がある。

妙見宮鷲頭神社

歴史は古く百済の王子琳聖太子が建立したと伝えられている。この琳聖太子が大内氏の太祖。奈良時代の日本人の要人の起源が朝鮮人で、特に百済からの渡来人であった事は面白い。当時朝鮮では高句麗、新羅、百済が覇権を争っており、大和朝廷は百済を支援していた。百済が高句麗に滅ぼされ多くの百済の要人が日本(倭国)に逃亡してきた。当時は技術、文化では百済が遥かに優れていた事から百済人が要職についていた。西日本に祖先を持つ人は百済の血が入っているのでは? 現在は韓国、日本の関係は悪い。悪い歴史だけでなく、もっと大きな歴史観を両国人は持つべきだろう。

切戸川桜並木

寺の近くに桜の綺麗な堤があると言うので行ってみた。満開の時期は過ぎてはいるのだが、まだ花見には大丈夫だろう。ちらほら花見客がいた。ここでも桜まつりがあるが、日程が満開の週末になるかが難しい。

No 39 Hanaoka Post Town in Kudamatsu 花岡(下松市)

ここから西国街道 (山陽道)に沿って走る事にする。まずは花岡に行って西国街道に合流。
江戸時代初期は下松藩があった。毛利輝元の子の毛利就隆(毛利秀就の弟)が1617年(元和3年)に3万石を分与されたことから長州藩の支藩としての立藩。1650年に藩庁が徳山に移るまでは藩庁としての機能していた。

花岡勘場/お茶屋跡

ここに花岡勘場と呼ばれるものがあった。勘場は代官所にあたる。隣接してお茶屋跡がある。この二つでここ宿場の本陣の役割をしていた。当時の絵にある杉が少し貧弱にはなったものの今でも残っている。

花岡八幡宮

ここには藤原鎌足が建立したという16の多宝塔の一つがある。現存しているのは室町中期のもの。
しめ縄、鳥居、狛犬が無ければ、寺と見間違う。当時の神仏習合がそのまま残っている。

遠石八幡宮 (といしはちまんぐう)

622年推古天皇のとき、神霊をここに奉安したのが起源とされる。708年に社殿が造営され、平安時代から石清水八幡宮別宮の別宮となった。江戸時代には、徳山藩の歴代藩主の氏神とされた。
境内のある高台からは周南石油コンビナートと山陽新幹線が見下ろせる。相当裕福な神社の様で境内には立派な結婚式場があるあった。後でホームページを見ると結構洗練されたサイトとなっている。神社よりこちらの結婚式場の方が強調されている。商売上手。近くに遠石の由来となった巨石がある。

No 40 Tokuyama Post Town in Shinan 徳山(周南市)

徳山毛利家墓所

ここには歴代徳山藩の藩主の墓所がある。それぞれの墓は立派なのだが、墓所自身は辺鄙な所にあり、雑草が生い茂る中にあった。
徳山藩は長州藩の支藩だが同じ支藩の長府藩と岩国藩に比べると非常に地味である。歴史上でも、脚光をあびる出来事や人物もおらず、史跡旧跡も無い。長府と岩国は観光の目玉としての毛利分家の史跡旧跡を前面に押し出して多くの観光客を集めているが、徳山にはそれが無い。

徳山城跡

徳山城というものの、ここは一般のイメージの城ではなく政務を行う陣屋であったが、城主格となり、これまで徳山陣屋と呼ばれていた藩庁が、徳山城と呼ばれるようになった。陣屋としては「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模であった。陣屋跡は残っておらず、現在は徳山市文化会館、徳山動物園、祐綏神社になっている。徳山文化会館の庭に少しだけ徳山藩があったという碑石があるのみ。
祐綏神社
徳山動物園
徳山市文化会館
石碑に古写真が載っていた。

No 41 Fukukawa Post Town in Shinan 福川(周南市)

徳山から次の宿場の福川宿に向かう。ちょうど中間地点に、厳島の戦いで敗れた陶氏所縁の寺に立ち寄る。

勝栄寺

南北朝時代の1350年に建てられた。寺の機能だけでなく土塁や堀で囲まれた城塞機能も持っていた。開山は其阿上人、開基は大内弘世の重臣陶弘政であった。土塁は一部しか残っていないが、立派なものである。厳島の戦いの後、毛利元就が陶の残党の一掃の為、ここを本陣とした。ここで三矢の教訓状が書かれたという。

福川本陣跡

ここは福田家の住居で、本陣のためにいえを提供している。大きく無い宿場町は藩の経営する本陣ではなく、土地の有力者の家を本陣として使っていつケースも多い。
脇本陣として使われていた寺

No 41 Tomu Post Town 富海(防府市)

もう夕暮れになって来ているので立ち寄れないが富海宿があった富海が見えて来た。
ここで面白いバス停に出くわす。洒落ている。近くに窯元があったのできっとそこが作ったのだろう。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • Kazu Saeki

    2019.04.10 23:18

    @sumito dohiただ、色々見て考えたのだが、観光を地域活性化の筆頭に置くのは危険。やはり地域に人が住み、産業が発展させる事が一番。観光には投資が必要だし、長続きしない。数々のところで大河ドラマや世界遺産への働きかけを行なっているが、採用/登録できた所も数年しか観光ブームが続かない。多分、行政サービス、雇用、産業誘致、観光を総合的に5ヶ年プランが必要と思った。
  • sumito dohi

    2019.04.10 23:09

    歴史的な名所や史跡史物、寺院や仏閣など結構な見所が多くある地域なのに(このご時世)観光に力を入れていないように見える自治体というのも不思議な感じを受けます。散策ルートやちょっとした商品開発などを入れて連合できれば広島以西における観光のゴールデンルート(~山口まで)ができそうな印象を受けるのですけどね.....。御多分に漏れず、縦割り行政の悪影響が出ているのかもしれませんね。各地域では本当はインバウンドで観光旅行者を呼び込みたいのにできない的な。