Ride in Setouchi & San-in Day 26 (10/4/19) Hofu 防府
Hofu 防府
- 周防国分寺
- 周防国衙跡
- 三田尻御舟倉跡
- 英雲荘
- 防府天満宮
- 毛利家本邸/毛利氏庭園/毛利博物館
- 山頭火の小径/生家跡
今日は一日をこの防府の市内巡りに充てる。天満宮で売店のおじさんとが話したのだが防府は山口市との合併の話しが出たのだが、当時の市長同士が仲が悪く見送りとなった。防府は昔からの国府としてのプライドがある。似た話は昨日となった下松市にもある。地域に多角的商売を行なっている有力者の反対で周南市への合併話が潰れた。しかし、山口県で一番うまく行っているのは下松市かな..と言っていた。防府市は観光については下松市に比べて断然力を入れているので今日は楽しみだ。(下松市が観光には興味が無いかの感じだのだが....)
周防国分寺
防府には国分寺がある。という事は奈良時代の聖武天皇の国分寺設置プロジェクトの中でその国の中心となった所。周防国の国府で防府という。
ここには現在も寺が続いている。創建当初の境内に、現在もそのままの規模や配置で寺域が残っているのは珍しい。ついこの間行った安芸国分寺とここしか知らない。殆どの国分寺が廃墟となり、人里離れた所に国分寺跡があるのに、数カ所は現在まで街として残っている。何が違ったのだろうか?これを調べると、街が存続発展する条件や理由がわかるのでは無いだろうか。一つ気付いたのは西国街道が通っている。つまり当時の幹線道路が走っていた。人の行き来があった。交通は重要なポイントだ。それと有力者の庇護を受けた事。パトロンがいた。金を出してくれる人。それと産業。防府は塩、西条は酒。気がついただけなので、違っているかもしれないし、別の要因もあるかもしれない。
建物はさすがに奈良時代のものはなく、建て替えられてはいる。それでも大内氏や毛利氏の庇護を受けて当時再建や修復したものが残っている。案内板ではかなり謙遜して、「建立年代は古いとは言えないが....」とあるが、十分に古い。
金堂は時代を経てその形を変えてきている。(案内パンフレットから借用)
本尊薬師如来坐像とこの本尊の体内から発見された仏手。(案内パンフレットから借用)
周防国衙跡
当時は国分寺は行政機関も兼ねていたところもあるが、ここは別に行政施設があった。東北を巡った時はいくつも軍事行政機関が別に設けられていた。胆沢城、多賀城 など。周防では周防国衙というものが国分寺に近い場所に跡地として公園になっていた。
長門、周防の2カ国の長州藩(萩藩)の中であまり目立たない。長府、岩国、山口、萩は歴史上注目されるが、防府は二軍的存在だ。
関ヶ原の後、毛利氏は長門、周防の二カ国に減封され、萩を藩庁とした。何故、萩なのかの疑問は誰でも持つだろう。これについて質問をした。色々な理由が憶測されているという。江戸幕府が毛利氏の封じ込めの為に、辺鄙な萩にした。毛利氏がそこを望んだとの説もこれは文書でそう解釈出来るような物もあるらしい。はっきりしない。萩でなければならない理由が文書では残っていない。まともに考えるなら、瀬戸内に近い場所を選ぶ筈。この防府も候補であったらしい。防府を選ばなかったのは政治的判断ではないかという。私見は毛利氏の政治的忖度であったと思う。これは防府に毛利家の重要施設がある事からそう思う。
三田尻御舟倉跡
防府の港近辺を三田尻と呼ぶ。古くは中関にあたる所だ。長州で重要な港は下関があるが、もう二つ中関の防府、上関の室津(今回は訪れず)。毛利氏の水軍は軍事上重要であった。萩に封じ込められても、この水軍は手放す訳には行かない。そこで水軍基地を上松(昨日訪れた)に設営したが、萩との交通が今ひとつという事で、ここ三田尻に移した。
案内パンフレットから借用した当時の敷地図。それ程多くの船を停泊できる様には思えない。これは江戸時代1851年当時のもので埋め立てが進み、軍艦など大型船は水路で結ばれた港に停泊していた。
当時はここは海岸線であった。江戸時代から徐々に埋め立てられ、今見るとこんな所に水軍基地が?と思えるほど地形が変わっている。
幕末期の1864年長州藩内戦時には高杉晋作がここを急襲し軍艦を確保藩の中で中心的な位置を確保することになる。薩長同盟の前年の1865年には坂本龍馬仲介で、薩摩船がここに入港し大量の武器が荷揚げされた。この支援により、ま幕府の長州征伐の時(1866年)は高杉晋作がここから長州軍艦を率い、大島の幕府軍艦を撃退、更に門司、田野浦を占領し、幕府軍に対し有利に戦争を進め勝利に導いた。
萩往還
この三田尻と萩を結ぶ街道が設置された。全長53km峠越えのきつい道のり。萩藩にとり、この三田尻がいかに重要であったかがわかる。参勤交代はこの萩往還を通り三田尻から海路で大阪まで移動。
英雲荘 (三田尻御茶屋)
この萩往還の終点の三田村には御茶屋が設けられていた。西暦1654年(承応3年)、萩藩2代藩主毛利綱広により参勤交代や領内巡視の際の宿泊用に建設された藩の公館。御茶屋とは東海道の宿場町にあった陣屋に相当する。この御茶屋が一部復元されている。三田尻御舟倉跡から500m程の所にある。のちに7代藩主毛利重就(しげたか)が隠居後に大観楼などを増築し移り住んだことから、重就の法名にちなみ英雲荘と呼ばれる。重就は元は支藩の長府藩で藩主であったが、その手腕を買われ、宗家の萩藩藩主となった。重就はこの三田尻で塩田を開発し、製塩業を萩藩の重要な産業にまで育てた。この英風荘でその成り行きを見守りたかったのがここを選んだ理由だ。
幕末には京都から落ちて来た攘夷派の三条実友はじめ七卿が2ヶ月ほどこの大観楼に滞在した。(ここに残る大観楼の額は三条実友の筆)
高杉晋作率いる奇兵隊がここの警護をしており、長州の勤皇の志士達がここに集まり大いに議論したという。幕末期の一つの舞台となった。
明治期には毛利家当主が毛利家本邸が完成するまでここを住居とした。大観楼以外はこの時期に造られてもの。
襖や釘隠しなどに色々な家紋が使われている。聞くと、対外的にはよく知られている長門三ツ星だが、藩内部では替紋として沢瀉を使っていたと教えてくれた。その沢瀉も数種類あるそうだ。
防府天満宮
高杉晋作と幕末の話だが、晋作は天神様を信仰していたそうだ、菅原道真の生き様に憧れ尊敬の念を抱いていたという。そのせいか、この防府天満宮は長州藩の勤皇の志士の溜まり場となっていた。
境内にある暁天楼は、旅館「藤村屋」の離れとして神社の門前に建てられた。2階には隠れ座敷が設けられており、高杉晋作、伊藤博文、坂本龍馬などの志士が密会していた。
暁天楼から参道を挟んだところには、高杉晋作が激論を交わした大専坊がある。伊藤博文が幼少期を過ごした場所でもある。
毛利家本邸/毛利氏庭園/毛利博物館
先に訪れた英雲荘に代わる毛利邸宅が大正5年に竣工。もうこの時代は藩主ではなく公爵(貴族の最高位)であった。広大な敷地に贅沢な和風建築や庭園。この時代にあってもまだ毛利家の財力は凄いものがある。現在はどうなっているのだろう。鹿児島に行った時はまだまだ島津家の影響力が大きいことに驚いたのだが、ここ山口での毛利家はどうなのだろう。
庭園
邸宅
シャンデリアの個数は部屋の格によって違う。
山頭火の小径/生家跡
明治 大正の放浪の俳人 山頭火の生まれ故郷とあった。名前だけしか知らないのだが、記念館まである。改装中の為閉館。彼が通った小径の案内板があり
細い路地を通って見ると古い家に囲まれた風情のある場所だった。
2コメント
2019.04.12 02:15
2019.04.12 02:05