Ride in Setouchi & San-in Day 17 (1/4/19) Atomic Bomb Dome 原爆ドーム

Atomic Bomb Dome 原爆ドーム
Peace Memkorial Park 平和公園
Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims 国立原爆死没者追悼平和祈念館
Hiroshima Peace Memorial Museum 広島平和祈念資料館
Fudoin Ankokuji Temple 不動院安国寺
Nittsuji Temple 日通寺
Kohei Bridge 工兵橋
Anrakuju Temple 安楽寺
Nigitsu Shrine 饒津神社
Myojoin Temple 明星院
Turuhane Shrine 鶴羽根神社
Hiroshima Toshogu 広島東照宮
Kinko Inari Shrine 金光稲荷神社
今日は原爆ドームに行く。長崎では平和公園に行き衝撃を受けたが、広島は長崎の前に原爆が落とされて、長崎以上に訪問者が多い。さあ、どのような感じなのだろう。
原爆ドームは宿からそれ程遠くないところにある。旧太田川と元安川の合流地点の中州に原爆ドームと平和公園がある。まずは元安川に沿って登り原爆ドームを目指す。
今日から4月。桜が元安川辺りに満開。
川沿いには数メートルおきに慰霊碑が立っている。それぞれの地区や、会社、学校が、その知り合いの被災者を偲んで建てている。この後も広島市をまわるのだが、至る所に慰霊碑や祈念碑が立っている。市全体で語り継ごうとしているのだろう。長崎よりもその数は多いように感じた。長崎では慰霊碑は平和公園に集中していたが、広島は人が集まるところには必ずと言っていい程、慰霊碑がある。
原爆ドームに近ずくにつれて人だかりが多くなってきた。慰霊碑の規模も大きくなっている。
原爆ドームの近くに爆心地碑があった。この地域は猿楽町という商店街だった。今は高いビルがひしめき合っている。広島の復興は驚くほどだ。東北の震災地を巡ったが、復興には程遠い現状を見た。東北は広島、長崎、神戸とは状況が 異なる。もともと人口も少なく、強力な産業もない。物理的な復興は進んで行くのだろうが、街の復興は無いかもしれないと思えた。その意味で、広島の力強さを感じる。
爆心地辺り。

Atomic Bomb Dome 原爆ドーム

原爆については色々な論議がある。何故、米国は日本に原爆を落とす必要があったのか? 落とさなくても、日本の降伏は時間の問題だった。これは米国のエゴだと思う。戦争終結を早めるためにしたというが、本当は原爆の威力を実際に試して見たかったのだろう。他の国に対しても、これだけ強力な兵器を持ち、いつでも行使出来る事を示す意味もあったと想像する。米国としては、降伏される前に試したかった。戦争は人の死に対して、全ての人の感覚を鈍化させてしまう。日本の軍部がそうであったように、米軍も同じだ。戦争は一般市民を巻き添えにはしないのが通常だ。一般市民を殺戮したのは、歴史上侵略戦争だけだ。米国はこの時の異常な行動を省みる必要がある。勝者は常にその行動を正当化したがる。賠償問題など政治的な背景もあり、これを認めることに躊躇がある。日本も中国、韓国から責められている。政治的に認められないのだろう。政治とはつまらないものだ。原爆や慰安婦が両国の間で政治に利用されている。過ちは認めれば良い。その責任を今更問うべきで無い。責任を問うから守りたくなる。過去に対しての賠償ではなく、将来どうするかを協議すべきだろう。
元安橋からの原爆ドーム
原爆ドーム周辺には、被災者の遺族がボランティアで観光客に当時の様子を語っている。このような光景を何度となく見た。

Peace Memkorial Park 平和公園

公園内にも慰霊碑があるが、長崎ほどは多くない。公園を散歩していると、時々遭遇するといった感じだ。長崎の平和公園では、これでもかといった具合に慰霊碑が次から次へと目に入ってくる。個人的には広島の方が良い。慰霊碑がを見て歩きながら考える時間が持てる。そしてまた別の慰霊碑がある。また考える。
写真は左上から
  • 原爆供養塔: 被曝死者の遺骨が収められている
  • 平和の鐘
  • 原爆の子の像
  • 天神町北組慰霊碑: この公園は被曝前は天神町で大いに賑わっていた繁華街で、南と北に分かれていた。爆心地から500m、一瞬にして家屋は全壊、建物疎開地域に指定されていたため、作業に動員されていた中学生や女学生も住民とともに全員即死。
  • 韓国人原爆犠牲者慰霊塔: 在日朝鮮人の死者は、広島市は5-8千人、在日本大韓民国民団は2.5~3万人、韓国原爆被害者協会、朝鮮人被爆者協議会は3万人と推定している。正確な数字はいつまでも不明のままだろう。広島全土での被災死亡者が14万人と言われている、その中で韓国人犠牲者が 8千〜3万人とは無視できない数字だ。しかし、戦後、韓国人被災者は長くかえりみられなかった。
  • 平和の時計塔
慰霊碑にはその悲惨さ、と平和の祈りを込めた多くの像が建っている。
平和祈念公園から見た原爆ドーム
この写真スポットが一番人気のところ。原爆死没者慰霊碑。この写真を撮るために外人観光客の長蛇の列が出来ていた。人がいない時に撮影。
広島平和公園には原爆に関する展示は二つの施設で行なっている。国立原爆死没者追悼平和祈念館と広島平和祈念資料館だ。

Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims 国立原爆死没者追悼平和祈念館

この祈念館は死没者の冥福を祈る場所で、派手な展示などは無い。原爆で焼け野原になった広島を360度でパネルで紹介して、戦没者の顔写真を展示している。まだまだ未確認の人も多い。顔写真の提供を促している。戦没者の家族や知人がここを訪れて、自分の親、祖父母、曽祖父母の写真を見つけ、この時のことを伝えていく。地味ではあるが、心にしみる施設だった。ここには資料室もあり自由にデータにアクセスできる。当時の状況を語っているビデオ、当時の写真など多くの資料がある。次に訪れた広島平和祈念資料館にも同じような資料室があり、同じものを見れる。こちらの方が訪問者が少なくゆっくりと閲覧できる。ここで1時間ほど資料を見た。気持ちは重くなったが、それは必要なことなのだろう。

Hiroshima Peace Memorial Museum 広島平和祈念資料館

広島平和祈念資料館の本館はリニューアル工事中で閉館中で東館しか見学は出来なかった。東館は比較的刺激が少ないものの展示がされているそうだ。

本館に展示されていたものもこの東館で展示はしているが、スペースが限られているので、長崎の原爆資料館ほどのインパクトはなかった。本館には多くのものがその悲惨さを伝えるために包み隠さず展示されていた。やはり本館が見たい。いつか広島に戻ってきて見てみよう。

3Dプロジェクトマッピングで原爆投下の時を再現。
原爆の被害を紹介。刺激を抑えたものになっていた。
本館はかなり強烈な展示があったそうで、それを見て気分が悪くなった人もいるらしい。それで今は、その展示を続けるかどうかの議論があると言う。(これは後日、出会ったさんからお聞きした。)
これがその議論対象になっている被曝再現人形展示。賛否両論だそうだ。しかし、現実はこうだったそうだ。インターネットに当時の様子を語っているものがある。まさにこの通りだった。「原爆が落ちて、キノコ雲の下で何があったかというたら、子供たち、大人たち、みんな熱いよ、熱いよって、熱線と爆風で大やけどしたんです。私は17キロくらい離れた飯室という田舎におったから、午後になったら、被爆者がね、市街地から水を求めてぞろぞろ来るの。服はぼろぼろ、髪はぼさぼさ。幽霊みたいで怖くてね。母の後ろに隠れたの……」
本館が閉館中という事で、今日はまだ時間があるので、別の所に行くことにした。行きたいのは、安国寺。安国寺恵瓊が住職をやっていた寺。安国寺恵瓊は毛利家の重臣で、政治を動かした中心人物。

太田川沿いにサイクリングロードがあり、それに沿っていけば安国寺に行ける。

二葉の里歴史散歩道

広島市の北の方は爆心地から3キロほど離れていたことによって、建物の破壊は免れている。多くの古い寺院や神社が残っている。これを巡る道がある。安国寺が一番北なのでまずはそこから、何箇所か訪ねてみる。

Fudoin Ankokuji Temple 不動院安国寺

足利尊氏・直義兄弟が諸国に設けた安国寺利生塔の一つ。安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄。戦国時代には戦火で焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興。関ヶ原の戦い後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。後に浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った。

ここには安徳寺恵瓊の墓、広島藩藩主であった福島政則の墓、豊臣秀吉の遺髪の墓 (髪の毛だけで墓になるのか?)などがあり由緒深い寺。
この寺は原爆での破壊は免れたものの、被災した人たちが、太田川を北上しこの寺にも助けを求めたのだろう。川沿いには、とにかく爆心地から北へ向かう人たちに列ができ、川には力尽きた被災者の死骸が浮かんでいただろう。同じような話を高松で空襲を受けた母から聞いたことを思い出した。この時代の人は辛い時期を通って来ている。想像できないほどの経験だっただろう。

Nittsuji Temple 日通寺

浅野2代藩主光晟の夫人 (前田利家の孫・自昌院) の晩年の願いにより、元禄8年 (1695) に建てられた藩主ゆかりの法華宗の寺。梅鉢紋入手水鉢が加賀前田氏との関連を物語る。
Kohei Buridge 工兵橋
1889年 (明治22年)、大日本帝国陸軍工兵第5連隊と京橋川の北岸に所在した牛田の演習場の連絡橋として、工兵隊の手により木橋が架けられた。これが橋名の由来。1921年 (大正10年) に現在の形となる吊橋となった。1933年 (昭和8年) に架け替えられている。太平洋戦争中には、軍人専用となり、地元住民も近づくことができなかった。1945年 (昭和20年) 8月6日広島市への原子爆弾投下による被爆 (爆心地から約2.3km) 床版の一部が落下していたが、落橋はしなかったため、広島市内から郊外への市民の避難路として使われた。この橋を渡って太田川を北上したのか......

Anrakuju Temple 安楽寺

1533年 (天文2年)に建立。爆心地から2.19キロメートルで被爆。本堂や山門は骨組みだけとなり、庫裡も倒壊。

Nigitsu Shrine 饒津神社

1706年 (宝永3年)広島藩主浅野綱長により建立された。主祭神は、浅野長政、幸長、長晟。相殿神として、長政室の末津姫(やや)。地元では「にぎつさん」と呼ばれている。1945年 (昭和20年) 広島原爆により本殿や唐門が破壊され焼失した。石灯籠、手水桶などの石造物と樹木は10数本の松の木のみが残った。原爆で傷つき市中心部から逃れてきた多数の被爆者の避難所となったが、人々の多くはこの境内で落命。戦後、仮殿、本殿が再建された。1984年 (昭和59年)、本殿、拝殿、瑞垣が戦前の姿に復元、2000年 (平成12年) 唐門も再建された。

Myojoin Temple 明星院

広島藩の藩内五ケ寺の一つ。毛利氏の長州移封後、福島正則により真言宗・明星院と改める。 その後、4代藩主浅野綱長により、始祖浅野長政夫妻の位牌を安置、また、9代藩主浅野斉粛の代に敷地の西半分に饒津神社を建立した。本堂には原爆の被害から焼失を免れた赤穂浪士の木像が安置されている。(広島浅野宗家と赤穂浅野分家の関係からここ広島に置かれたらしい)

Turuhane Shrine 鶴羽根神社

建久年間 (1190~1191年) に、源頼政 (安芸國加茂群西條郷領主) の室 菖蒲ノ前の遺言によって、元久年間 (1204~1206年) に社殿を建立。昭和20年 (1846年) の原爆により、社殿は倒壊したが焼失を免れ、規模を縮小し再建された。石鳥居・石ノ太鼓橋手水舎・唐獅子・石燈籠は原爆の難をのがれ往年の姿のまま残っている。

Hiroshima Toshogu 広島東照宮

広島東照宮は徳川家康が東照宮を建立後、各大名に東照宮の建設を進めた事により、ここ広島でも浅野氏広島藩2代藩主浅野光晟により慶安元年 (1648年) に建立された。1945年 (昭和20年) 原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ。
ここに西南戦争の犠牲者の慰霊碑がある。広島鎮台から政府軍に参加し、西郷軍と戦い戦死した霊を弔っている。

Kinko Inari Shrine 金光稲荷神社

東照宮の境内社で、商売繁盛家内安全等、諸願成就のご利益があるそうだ。山頂の奥宮までの階段約500段、朱塗鳥居120数基ある。
(追記) 今回の瀬戸内/山陰の旅の紀行文はなかなか完成しなかったが、この日の旅日記を約3ヶ月後の8月10日にやっと書き終わり、全日程の日記が終了した。3ヶ月も経っているのだが、写真とメモは残していたので、その日にあったことや感じたことは今でもはっきりと覚えている事に少々驚いた。


2コメント

  • 1000 / 1000

  • Kazu Saeki

    2019.08.12 12:31

    そうだね、子供は是非連れて行った方が良い。自分なりに何かを考え、得るものがあると思う。
  • sumito dohi

    2019.08.12 11:33

    サスガに広島はボリュームがありますね。私も津山に佐伯さんを訪ねる前にほんの少しの時間でしたが原爆ドーム界隈を散策することができました。何度訪れても胸を締め付けられる思いがします。佐伯さんも綴っていらっしゃる通り、政治による史実の巧みな利用は、正直なところ気持ちのいいものではありません。現在の韓国とのやり取りなどは正にそのもので、毎日配信されてくる韓国情勢のニュースにも辟易しているところです。物事を深く考えられるようになるためにも、今度子供たちを連れて平和記念資料館には訪れてみたいと思います。