杉並区 10 (25/10/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 (2) 三ツ塚、柿ノ木、伊勢前、堂前

旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村

小名 三ツ塚 (→三ツ塚/二ツ塚→西荻窪一丁目/二丁目の一部→西荻南三丁目/四丁目の一部、西荻北二丁目の一部)

  • 西荻窪駅
  • 花の童子 (2024年4月4日 訪問)
  • こけし屋
  • 三ツ塚跡
  • 神明通り (新田道、北街道)
  • おすもう童子 (2024年4月4日 訪問)
  • 縁結び地蔵 (2024年4月4日 訪問)

小名 柿ノ木 (→東原→上荻窪一丁目の一部/二丁目の一部/西荻窪一丁目→南荻窪三丁目/南荻窪四丁目の一部、西荻南三丁目/西荻南四丁目の一部)

  • 願泉寺
  • 稲荷坂、坂上、穴稲荷

小名 伊勢前 (→東原→神明町、西荻窪一丁目の一部→南荻窪二丁目の大半)

  • 神明天祖神社
  • 宇田川家屋敷の欅
  • 桜の馬場跡 (神明中学校)

小名 堂前 (→本村に吸収→上荻窪一丁目の一部→南荻窪四丁目の大半)

  • 善福寺川、東吾橋、荻野橋、界橋
  • 長明寺



昨日、沖縄から東京に到着。今回は長女の結婚式がメインの上京だが、半年ぶりの東京滞在になる。この滞在中に定期健診と以前から続けている東京の続きを予定している。今日は初日で、杉並区の旧上荻窪村の地域の史跡を巡る。


旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 三ツ塚、柿ノ木、伊勢前、堂前

前回は江戸時代の小名だった団子山、関根、出山を巡った。今日は三ツ塚、柿ノ木、伊勢前、堂前の4つの小名の史跡を訪問する。

江戸時代から現在に至る旧上荻窪村の行政区の変遷は以下の通り。赤字で示した地域が今回の訪問地になる。

明治時代から現在までのこの地域での民家の分布がわかる地図は以下のの通りで、江戸時代から明治時代までは大きな変化はないと思われる。明治時代にはすでに鉄道は敷かれていたが、利用者は少なく、民家は江戸時代からの街道沿いに集中している。(史跡の地図に江戸時代の街道や村道を使いしているので、そちらの地図を見ると当時の各小名集落の分布がよくわかる。) 関東大震災の前から、この地域には少しづつ、東京中心地からの移住者が増えてきたが、急激に増加するのは関東大震災後で、家を失った首都圏住民が多くこの郊外で住宅地が整備された地域に移ってきている。戦前の地図ではすでに全地域は民家で埋め尽くされ、戦後には農地は消え失せ、全地域が住宅地、商業地となっている。



小名 三ツ塚 (→三ツ塚/二ツ塚→西荻窪一丁目/二丁目の一部→西荻南三丁目/四丁目の一部、西荻北二丁目の一部)

江戸時代の川南組の小名三ツ塚は、その地域内に三つの塚があったことからそのように呼ばれていた。小名三ツ塚は1889年 (明治22年) の井荻村誕生の際に、三ツ塚と二ツ塚の二つの小名に分かれ、1932年 (昭和7年) に杉並区となった際の町名変更で、三ツ塚は伊勢前と共に、西荻窪一丁目に吸収され、ニツ塚は西荻窪一丁目と西荻窪二丁目に吸収されている。更に1969年 (昭和44年) の住所変更で西荻窪一丁目は西荻南三丁目と西荻南四丁目に分割され、西荻窪二丁目は西荻北二丁目になっている。


西荻窪駅

小名の三ツ塚 (1889年 [明治22年] にニツ塚と三ツ塚に分離) の西の端はJR東日本中央本線 (明治時代は甲武鉄道) 西荻窪駅になる。1922年 (大正11年) に、当時の井荻村村長の内田秀五郎を中心に地元有志により新駅誘致運動が行われた結果、旧荻窪村ニッ塚の敷地が寄付され、鉄道省の新駅が設置された。開業当時は、畑の中に一軒家の西荻窪駅があるだけだった。1923年 (大正12年) の関東大震災後、東京市内より移住者が急増し、特にサラリーマン、軍人、教員、画家、小説家などの知識階級の人が多く、昭和初年には「西荻の文化村」の愛称で呼ばれた程だった。

花の童子 (2024年4月4日 訪問)

西荻窪駅の南口には花の童子像が置かれている。西荻窪の町おこしの一環で六童子像巡りと称して、六つの童子像が各所に置かれている。ここに置かれているのは象の上に坐り茶壷を抱えた童子になる。台座にはメッセージが書かれている。
象の背中にゆられつつ、
あなたにお花を届けます
少し沈んだこころにも
希望のはながさきますように

こけし屋

西荻窪駅の南口のすぐ東にこけし屋という老舗の洋菓子とフランス料理の店がある。1949年 (昭和24年) に、甘味店として開業 (写真左上)。この店ではこの地域に住んでいた作家、画家らが集い、「カルヴァドス会」が生まれた。多くの文化人が日頃より集まっていたそうだ。その後、洋菓子・フランス料理店として有名になり、西荻窪のシンボル的な存在だった。昭和54年には駅前に本館 (写真左下) を新しく建築したが、 40数年が経ち老朽化により、2022年 (令和4年) に、本館のビルの建て替えのため営業を一旦停止していた。前回通った時にはまだ工事中だったが、今回来てみると新ビル (写真右) が竣工し、その一階で営業を再開していた。


三ツ塚跡

西荻窪駅の東、小名 三ツ塚の東端、線路沿いにこの小名の由来となった三つの塚が並んでいた場所がある。かつて面影は全く残っておらず、マンションが並び立っている。

神明通り (新田道、北街道)

西窪駅から南東に道が伸びている。神明通りという道で南は五日市街道に合流する。神明通りの南西地域、当時は幕府御用の茅の採取地として千町野、札野と呼ばれていた原野を寛文 (1661年~1673年) 初年頃に関村の井口八郎右衛門、河原九郎兵衛ら4名が中心となって大宮前新田 (現在の宮前地域) として開発された際に作られた道で、かつては新田道、北街道と呼ばれていた。現在では、道の両側には飲食店、商店が立ち並び賑わっている。

おすもう童子 (2024年4月4日 訪問)

神明通り (新田道、北街道) を五日市街道方向に進むと、西荻南児童公園にもう一つ六童子像が置かれていた。おすもう童子で二体の童子の相撲の仕切りを表している。ここに書かれていたメッセージは
八卦よいい、のこったのこった
おいこまれても押し返し
艱難辛苦もうっちゃりうちゃり
かってもまけてもうらみっこなしさ

縁結び地蔵 (2024年4月4日 訪問)

神明通り (新田道、北街道) の商店街を五日市街道方向に進み、小名三ツ塚の南端、小名伊勢前との境に縁結び地蔵が置かれていた。この地蔵は西荻窪の町おこしの一環で設置された西荻六地蔵の一つになる。


小名 三ツ塚から東隣にあった小名 柿ノ木に移る。


小名 柿ノ木 (→東原→上荻窪一丁目の一部/二丁目の一部/西荻窪一丁目→南荻窪三丁目/南荻窪四丁目の一部、西荻南三丁目/西荻南四丁目の一部)

江戸時代の川南組の小名柿ノ木は、昔は柿の木がたくさん生えていた事からその名が生まれたと伝わっている。柿ノ木は1889年 (明治22年) の井荻村誕生の際に、伊勢前と共に小名東原となり、1932年 (昭和7年) に杉並区となった際の町名変更で、東原は上荻窪一丁目の一部、西荻窪一丁目の一部に分かれている。更に1969年 (昭和44年) の住所変更で上荻窪一丁目は南荻窪三丁目と南荻窪四丁目の一部に分割され、西荻窪一丁目は西荻南三丁目と西荻南四丁目に分割されている。柿ノ木は、昔は柿の木がたくさん生えていた事からその名が生まれたと伝わっている。


願泉寺

総武線沿い南側、善福寺川の北に願泉寺という寺がある。本尊を阿弥陀如来立像とした真宗大谷派の寺院で正式には真成山願泉寺という。1641年 (寛永18年) に、僧願正によって奥州幸手宿に近い武蔵国葛飾郡神明内村 (現埼玉県幸手市) に開創され、谷中山善照院と称していた。昭和初期に宗門の隆盛を図るため、浅草・中野等で布教を行い、1933年 (昭和8年) にこの場所に本堂を建立し1937年 (昭和12年) には移転している。現在の伽藍は50周年を記念して1983年 (昭和58年) に建立されたもの。

稲荷坂、坂上、穴稲荷

善通寺川と総武線が交わる場所から南に進む。道は緩やかな登り坂になっている。少し進むと左側にたんぽぽ公園がある。公園内には少女像が置かれている。西荻の六地蔵、六童子ではないのだが、公園にこのような可愛らしい像が置かれていると心が和む。
坂を登った所は坂上と呼ばれた地域で、そこには大きな屋敷があった。この屋敷内に穴稲荷と呼ばれる祠がある。以前は個人宅なので見ることは出来なかったのだが、杉並区がこの敷地の一部を所有者の好意で借り受けて、市民緑地に整備してから公開されている。移民緑地内には穴稲荷の祠がおかれている。祠に祀られている狐の木像は元々はここの西側にあった崖穴の奥に祀られていたそうだ。明治時代にはこの洞窟で天然氷を貯蔵して夏場に東京へ出荷していたという。1907年 (明治40年) 頃に製氷場は閉鎖され、その後、明治末年に、穴の奥にあった稲荷を地上のこの場所に移し祀っている。


稲荷坂を南に進み、小名 伊勢前に入る。


小名 伊勢前 (→東原→神明町、西荻窪一丁目の一部→南荻窪二丁目の大半)

江戸時代の川南組の小名伊勢前は、伊勢神宮の分神を祀った天祖神社 (旧名 大神宮) があった事から伊勢前と呼ばれる様になったという。伊勢前は1889年 (明治22年) の井荻村誕生の際にに柿ノ木と共に小名東原となり、1932年 (昭和7年) に杉並区となった際の町名変更で、東原は旧小名柿ノ木に相当する上荻窪一丁目の一部と旧小名伊勢前に相当する西荻窪一丁目の一部と神明町に分かれている。更に1969年 (昭和44年) の住所変更で西荻窪一丁目は西荻北三丁目と西荻北四丁目に分割され、神明町は南荻窪二丁目になっている。


神明天祖神社

稲荷坂の道を進むと前方に鎮守の森が見えて来た。そこが神明天祖神社だ。
この神社は色々な名称で呼ばれている。南荻窪天祖神社、神明天祖神社、神明神社、荻窪八幡攝社天祖神社、荻窪天祖神社とも呼ばれ、祭神を天照大御神とする旧上荻窪村の鎮守で、地元では「神明さま」の愛称で呼ばれている。当神社は、戦国時代に伊賀国の農民が当地に移住し、伊勢大明神を祀ったのが起こりであると言われている。1584年 (天正12年) の検地の際には、すでに小祠があったと伝えられており、それ以前の創建であると考えられている。その後、当地は紀州徳川家の領地となり、その家臣の水刀谷氏が社殿を築いたと言われている。明治維新後、荻窪八幡神社の境外摂社となっている。1882年 (明治15年) に社殿を修築、1937年 (昭和12年) に社務所、1957年 (昭和32年) に社殿・神楽殿を新築し、1978年 (昭和53年) に社殿・社務所を改築している。
神社へは石の一の鳥居から入り、その先に二の鳥居、社務所、そして三の鳥居と長い参道になっている。
三の鳥居をくぐると左側に手水舎が置かれ、龍の口から手水が流れ出すような仕組みになっていた。
右側には1957年 (昭和32年) に新築された神楽殿がある。
参道奥に社殿があり、これも神楽殿とともに1957年 (昭和32年) に新築されている。
社殿の左側には境内末社の御嶽神社が鎮座している。

宇田川家屋敷の欅

神社の南隣は宇田川家の屋敷で、そこには十本の大欅が一かたまりになって空高くそびえている。その中の一本は4.5mあり、区内で二番目に大きい欅だそうだ。

桜の馬場跡 (神明中学校)

昔は、神社の東側一帯、現在は神明中学校のグラウンドとなっている場所には、桜の木を植えた馬場があって「桜の馬場」と呼ばれていた。神明中学校は建て替え工事中で、元のグラウンドに新しい校舎が建つそうだ。


小名 堂前 (→本村に吸収→上荻窪一丁目の一部→南荻窪四丁目の大半)

江戸時代の南組の小名堂前 (堂ノ下) は本村の光明院観音堂の前方 (南側) の低い土地にあった事が小名の由来になる。小名堂前は1889年 (明治22年) に井荻村誕生の際に小字本村に吸収され、1932年 (昭和7年) に杉並区となった際の町名変更で、小名堂前に相当する地域は上荻窪一丁目になっている。更に1969年 (昭和44年) の住所変更で南荻窪四丁目になっている。


善福寺川、東吾橋、荻野橋、界橋

小名 堂前のほぼ真ん中東西に善福寺川が流れており、域内には三つの橋が架かっている。江戸時代には川筋は現在とは少し異なっており、これらの橋はなく、いずれも新しく架けられたている。東吾橋は1967年 (昭和42年)  に架けられている。
荻野橋は1966年 (昭和41年) に架けられている。
界橋も1966年 (昭和41年) に架けられている。

長明寺

善福寺川の南岸に大英山長明寺がある。創建は比較的新しく1934年 (昭和9年) になる。

これで今回の東京滞在の初日が終了。東京も異常気象のようで、10月も終わりというのに今日一日は半袖で過ごせるほどの気温だった。

参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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