杉並区 11 (26/10/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 (3) 本村
旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 小名本村
- 荻窪八幡神社
- 東参道 (表参道)、一の鳥居
- 神輿庫
- 境内末社
- 御嶽神社、稲荷神社、須賀神社、琴平神社、祓戸神社 (合祀)
- 猿田彦神社、庚申塔 (111番)
- 秋葉神社、四面燈、六十六部廻国供養塔 (110番)
- 小俣金治先生像
- 北参道、源頼義陣所跡
- 石鳥居、菊紋狛犬
- 彰忠碑
- 二の鳥居、祓門
- 神楽殿、神輿庫
- 社務所、手水舎
- 神門
- 道灌槇
- 勝海舟直筆大幟
- 社殿 (拝殿、本殿)
- 延宝七年銘石造狛犬
- 杉並会館
- 六面地蔵 (109番)
- 屋敷神?
- 薬罐坂 (やかんざか)
- ビストロ•オヂ
- 善福寺川、中田橋、本村橋
- 本むら庵、現明稲荷神社
- 渡邊錠太郎邸跡
- 光明院
- 山門、不動明王像 (108番)
- 六地蔵 (101番、102番)
- 無縁仏墓石
- 仏石塔群 (103~107番)
- 境内、本殿斎場 (小斎場)、観音ホール
- 鐘楼
- 手水舎
- 閻魔堂
- 本堂
- 荻の小径
- 慈雲殿斎場 (中斎場)
- 馬頭観音
旧井荻町 (井荻村) 旧上荻窪村 小名本村
上荻窪村では最初に開拓されたのがこの小名 本村の地域だった。1889年 (明治22年) に東側が小字 本村と西側は小字 中田に分割されている。資料によっては小字 中田の地域は江戸時代には小名 本村の中心だったとしている。村の中心部だった中田は水田の側にあったことから中田と呼ばれていたという。1932年 (昭和7年) の町名変更で、小字 本村と中田は合併して上荻窪二丁目となり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で再度分割され、旧小字 本村と中田はそれぞれ上荻ニ丁目と上荻三丁目となっている。資料によってこの小名、小字の位置関係はまちまちで、どれが正しいのかは分からないが、とりあえず、杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹) に記載されているもので見ていく。
明治時代までは民家は青梅街道沿いに集中している。1927年~39年の地図では旧小名本村の東側荻窪駅にかけて民家が拡大し、戦前にはほぼ全域が住宅地となっている。
荻窪八幡神社 (4月7日 訪問)
旧井荻村の北東が江戸時代の小名 本村で、西隣の小名 関根との境界、青梅通り沿いに旧上荻窪村の鎮守の荻窪八幡神社がある。(資料を読み込んでいくとこの場所は江戸時代には小名 関根だったようだ。) この荻窪八幡神社には今年の4月7日に訪れている。以下はその時撮った写真。荻窪八幡神社のホームページには境内の見取り図があったので、それに沿って見学していく。
荻窪八幡神社は応神天皇を祭神として旧上荻窪村の鎮守だった。荻窪八幡神社は、寛平年間 (889年-898年) に創建されたと言われている。その後の1051年 (永承6年) の前九年の役に源頼義が奥州の安倍貞任征伐に行く途中でここに宿陣して戦勝を祈願し、後の1062年 (康平5年) に凱旋の折、戦勝に感謝して当社を厚く祀ったと言われている。とは、明治政府が1868年 明治元年) の神仏分離令が布告され利以前、神仏習合の時代には、相模小田原玉龍坊 (現・松原神社) の配下だった松永山大泉院が別当寺として神事を司っていた。1874年 (明治7年) には村社になり、当時は84戸の氏子を抱えていた。
東参道 (表参道)、一の鳥居
境内には東の大鳥居を入り参道を西に進んでいく。この参道は表参道と書いている資料もあるが、東参道と呼ばれ、大鳥居、その前の大燈籠と共に1959年 (昭和34年) に新設されたもの。参道入口には杉並区内最大で都内では靖国神社に次いで二番目の大きさの自然石造りの大鳥居 (一の鳥居) が置かれている。この大鳥居は2011年 (平成23年) 東日本大震災で倒壊したが、半年後の例大祭に建て直し、復旧祭が行なわれた。
神輿庫
鳥居を入っ手すぐ左手には、荻窪八幡神社の氏子である各町の神輿を治めている神輿庫が建っている。以前は二の鳥居を入っと広場に置かれて入れ神社の神輿庫の隣のあったのがこの場所に移設されている。
この東参道脇に石のベンチが置かれ休憩ができるようになっている。ベンチの上には猫の石造が置かれ、休憩でなごめるように趣向が凝らされている。同様のベンチが北参道にも置かれていた。
境内末社
参道の反対側右手には境内社の二つ祠が並んでいる。以前は回廊の南外側にあったものをこの場所に移設している。
御嶽神社、稲荷神社、須賀神社、琴平神社、祓戸神社 (合祀)
向かって右側の鳥居の中には境内末社五社が合祀されている。開運の神の太詔戸神の御嶽神社、商売繁盛、五穀豊穣の保食神を祀る稲荷神社、縁結び、病気平癒の神の須佐之男命を祀る須賀神社、旅行安全、事業繁栄の大物主神を祀る琴平神社、厄災消除の瀬織津姫神、速開津姫神を祀る祓戸神社が並んでいる。
猿田彦神社、庚申塔 (111番)
隣にももう一つ鳥居があり、中には境内社の祠が二つ置かれている。正面には神体の導きの神、交通の神の猿田彦大神を祀る猿田彦神社があり、祠内には1733年 (享保18年) 造立の駒型石塔の庚申塔が置かれ、石塔正面には上から日月が刻まれ、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。その前には三猿の三体の猿像が置かれている。
秋葉神社、四面燈、六十六部廻国供養塔 (110番)
猿田彦神社の横には一回り小さな祠が置かれている。火防火除の神の火之迦具土神を祀る秋葉神社になる。以前は四面道に置かれていたが、境内に 移されている。その横には江戸時代末期の1854年 (嘉永7年) に造立された高さ約2mの常夜燈もは四面道から一緒に移設されている。この常夜燈は四面燈 (写真左) となっており、四面道の地名の起源といわれている。その隣のも石塔が置かれている。1709年 (宝永6年) に造立された笠付角柱の六十六部廻国供養塔 (110番) で石塔正面には梵字の(バク) 奉納法華六十六部天下泰平處と刻まれている。この石塔も四面道から移設されたもの。
小俣金治先生像
境内社の隣にこの神社の宮司だった小俣金治先生像が置かれている。荻窪八幡神社の宮司は代々小俣氏が継承している。この地域には小俣姓が多く、昔からこの地域の有力一族なのだろう。先に見た猿田彦神社の庚申塔も小俣某の造立だった。一の鳥居の扁額も宮司小俣金治氏の書だった。胸像には次のように小俣金治をたたえた文が添えられている。
小俣先生は父祖代々神職の家に生れ明治三十五年小学校に奉職三十有余年先生の薫陶を受けし者数千名に及ぶ又荻窪八幡神社神職として五十有余年郷土の発展に尽す茲に先生を敬慕し寿像を建て崇髙なる人徳を偲ひ教訓を後世に伝う 昭和三十七年九月吉日 小俣金治先生を讃える會
北参道、源頼義陣所跡
ここで東参道は北参道と合流する。北参道が元々の参道のようだ。北参道は青梅街道に面している。青梅街道から北参道に入った右手側の林となっている地帯は1051年 (永承6年) の前九年の役に源頼義が奥州の安倍貞任征伐に行く途中で宿陣を置いた場所とされている。今でも神社の南側一帯の丘地は館の趾として、城山と呼ばれている。
石鳥居、菊紋狛犬
北参道には、1914年 (大正3年) に建立された石鳥居が置かれ、その両脇には赤坂一ッ木町で袋物商を営み成功したこの地の出身の扇屋文吉が1855年 (安政2年) に奉納した狛犬があり、台座に菊の紋が彫ってある。葵 (徳川家) が衰え菊 (天皇家) が栄える時代が垣間見える。
彰忠碑
北参道を東参道に進むと左手には林が保存されその中には樹齢200年以上といわれている樺並木 (東京都保護樹林に指定) がある。木立ちの中に乃木将軍筆の彰忠碑が置かれている。この彰忠碑は桃井第一小学校に置かれていたが、大東亜戦争の直後で地中に埋められていたのを、1956年 (昭和31年) に掘り出して、この場所に再建している。
二の鳥居、祓門
北参道が東参道戸交わる場所には社殿への二の鳥居が立っている。その隣には祓門 (はらいもん) が、以前あった2011年 (平成23年) の東日本大震災で倒壊した一の鳥居の台座から作られている。この祓門はくぐると災いが取り除かれ、福を招くそうだ。
神楽殿、神輿庫
二の鳥居を入ると広場になっており、右手側には1933年 (昭和8年) に建てられ、後に改築された総檜造銅板葺の神楽殿とこの神社の神輿を納めた神輿庫 (1955年 (昭和30年) 後に改築) がある。
社務所、手水舎
広場の反対側、東参道の左手には1955年 (昭和30年) に建てられ、その後改築された社務所があり、その前に1953年 (昭和28年) に奉納された手水舎が置かれている。獅子の口に柄杓を近付けると水が流れる仕組みになっている。
神門
東参道の突き当りに神門がありここから社殿に入る。この総檜造の神門は1967年 (昭和42年) に建立されたもの。
神門を入ると境内を取り囲む回廊となっている。この回廊は1968年 (昭和43年) に、明治維新百年記念事業として新築されたもの。
道灌槇
回廊で囲まれた境内には1477年 (文明9年) に江戸城の太田道灌が上杉定正の命をうけ石神井城主の豊島泰経を攻めるの前日に、源家の故事に倣い、この神社で軍旗祭を行ない、武運を祈願し、その時植えた高野槇の樹1株が現在も神社の境内に「道灌槇」と呼ばれて御神木として残り拝まれている。元々は一根ニ幹だったが親木の一幹は1934年 (昭和9年) の台風で倒れたが、一幹が残り現在では、木の 先端が折れ、樹勢は弱っ ているが樹高約20mとなり天然記念物に指定されている。
勝海舟直筆大幟
荻窪八幡宮の社宝のひとつに勝海舟直筆の一対の大幟 (おおのぼり) が保管されている。三年に一度、例大祭の日に、この回廊内に展示されるので、いつもは見ることができない。1883年 (明治16年) に上荻窪村氏子により奉納されたもの。資料にあった展示された際の写真を借用。
社殿 (拝殿、本殿)
回廊の奥に銅板葺の社殿がある。本殿は1895年 (明治28年)、拝殿は1936年 (昭和11年) に建てられたもので、1968年 (昭和43年) の明治維新百年記念事業として、神門と回廊を新築し、この場所に社殿が移されている。社殿の前には同時期に奉納された狛犬が鎮座している。
延宝七年銘石造狛犬
拝殿の奥にある本殿には御神像 (写真右下) が置かれ、1679年 (延宝7年) 造立の対向型阿吽形式の安山岩石造狛犬に護られて祀っているそうだ。神体は馬上の衣冠の木像で、1730年 (享保15年) に上荻窪村名主の小張吉兵衛が願主となって再造したもの。荻窪八幡神社は寛永年間(1624 ∼44年) 頃から氏子中による社殿修復などが盛んに行われ、この狛犬はこれと関連して社殿守護の目的で寄進されたものと考えられる。この狛犬は杉並区指定文化財に指定されており、都内の石造狛犬では浅草寺恵比須大黒堂の狛犬 (1675年 [延宝3年]) の次に二番目に古いもの。素朴な造形で、江戸初期の作風がよく現れている狛犬となっている。
杉並会館
六面地蔵 (109番)
杉並会館のすぐ東側、道路角に堂宇が建っている。堂内には灯篭型六面幢の石塔が置かれ、六面に地蔵立像が浮き彫りされている。文政11年と文政13年の年号が記されている。これは供養塔で供養されている二人の女性の戒名が記されているので、年号はこの女性の没年だろう。造立年は不明だが、多分、文政年間 (1818~1830)に建てられたものと思われる。
屋敷神?
六面地蔵の前の道を東に進むと大きな屋敷があり、その前が庭の様に整備され、その中に祠が置かれている。稲荷神社と思われるが、ここの情報は見当たらなかった。多分この屋敷の屋敷神ではないかと思われる。
薬罐坂 (やかんざか)
屋敷神から南に進むと坂道になる。この坂道は薬罐坂と呼ばれる坂で、昔は両側に樹木が茂って薄暗く、道幅の狭い急坂だった。大正末期から昭和初期にかけて行われた区画整理事業で周辺は住宅地となり、急坂もなだらかになっている。この坂の名の由来には様々な言い伝えがある。
- 昔、雨の降る夜にはいつもこの坂道の中程で薬罐が転がる奇怪事が起こっていた事から薬罐坂と呼ばれる様になったという。
- 雨のある夜、八丁通りで一杯飲んで家に帰る途中、下り坂を歩いていると、真っ赤に焼けた大きな薬罐が道路の真ん中に転がっていた。酔って良い心地なので、邪魔な薬罐を蹴飛ばすと、真っ赤な薬罐は坂を転がり落ちていった。その後も何人もの人が焼けて真っ赤になった薬罐を見たという
- 昔、野狐を野豻 (やかん) とも言い、野狐が人にいたずらをする坂となり、野狐坂が転じてを薬罐坂となったと伝わる。
ビストロ•オヂ
道の東の住宅街の中に大正時代に建てられた瀟洒な洋館のレストランがある。この建物は国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。関東大震災後、1924年 (大正13年) に区画整理事業により整備された土地を購入し、個人宅として洋館が建てられ、その後、1973年 (昭和48年)) に1階のテラスを改修し、レストランが開業している。
善福寺川、中田橋、本村橋
薬罐坂の道を更に南に進むと善福寺川に出る。ここには神明橋が架かっている。昨日もこの善福寺川の遊歩道を走った。この辺りの橋の由来などは置田橋までは旧上荻窪村 小名出山の訪問記に記載している。本村と関わりのある橋は、神明橋から二つ目の本村橋になる。今日は上荻窪村小名本村を巡っているのだが、本村という小名がある村が幾つかあった。村の中心部という事で本村なのだが、ここの本村は下荻窪村の名主の宇田川家の屋号が本村 (ほむら) といったことから本村 (ほんむら)、本村橋 (ほんむらばし) になったそうだ。
中田橋は小名 本村の真ん中あたりにあった中田という地名に由来している。
本むら庵、現明 (げんみょう) 稲荷神社
本村橋 から善福寺川から中央本線に並行して走る道に入ると、1924年 (大正13年) 創業の本むら庵がある。小張家が蕎麦屋を営んでいる。小張家は戦国時代の上杉謙信配下の関東一門の武士だったが、上杉家の力が衰えた時に、武蔵野のこの地に居を定めた。それ以降は代々百姓をしていたが、江戸享保年間に欅を商い始め、江戸市中に卸し成功をおさめ、寺や神社の改築、地蔵の建立や寄進を盛んに行っていた。大正12年の関東大震災以降、荻窪へは東京中心部から多くの人が移って来てから、百姓をやめ蕎麦屋を営む様になった。当初は「本村庵」と称していたが、1971年 (昭和46年) の改築の際に「本むら庵」 とひらがな混じりに変えている。蕎麦屋の中庭には江戸時代に欅商いで成功していた時期に建てた現明稲荷神社が残っている。
渡邊錠太郎邸跡
本むら庵の道を東に進んだ所にはかつては渡邊錠太郎邸があり、近年まで残っていたのだが、平成20年に取り壊され、マンションが建てられている。教育総監をしていた渡邊錠太郎は1936年 (昭和11年) の二・二六事件で殺害された一人になる。とは昭和11年2月26日、大雪の東京の早朝に陸軍の一部青年将校たちが政府転覆を企てて1400名の下士官と兵が政府要人の官邸や私邸を襲撃した反乱事件が起きている。翌日には反乱は鎮圧されたが、岡田啓介首相は難を逃れたが、齋藤實内相、高橋是清蔵相と渡邉錠太郎教育総監が殺害されている。この渡邉錠太郎教育総監私邸は高橋少尉と安田少尉に率いられた兵隊30名に急襲され、渡邉錠太郎は機関銃で撃たれて死亡している。
光明院
更に線路沿いを東に進むと、環八沿いに慈雲山荻寺光明院がある。言い伝えでは奈良時代以前の708年 (和銅元年) に行基作の仏像を背負って遊行していた僧がこの地を通りかかった際に、急にその仏像が重くなり、運べなくなったので、荻で草堂を作って仏像を安置したのが当寺院の始まりと言われている。あたりが荻だらけだったので荻寺と呼ばれ、それが荻窪の地名の由来になったと言われている。また、当寺院付近にある四面堂(現在の「四面道」)や「堂前」という地名も当寺院に由来するとされる
本尊の千手観音は南北朝時代の作とされる。「荻窪の観音様」と呼ばれ、人々から厚く信仰されていた。境内からは本尊と同時代に作られたとみられる碑などが出土しており、南北朝時代には当寺院の基礎は出来ていたと言われている。
本堂は1840年 (天保11年) に火災に遭い、1850年 (嘉永3年) に再建されている。明治期までは無住で中野の宝仙寺の貫主が住職を兼ねていた。甲武鉄道 (現在の中央線) が敷設され、1888年(明治21年)に北側に移設された際に寺の住職が決まっている、更に1969年(昭和44年)には現在地に移築され、境内も一新されている。敷地が狭くなってしまったのか、境内の一部は駐車場となっている。
山門、不動明王像 (108番)
山門を入ると参道左の竹藪に不動明王像 (108番) が置かれている。1746 (延享3年) に造立された舟型石塔で塔全体が火焔が刻まれ、それを背景に不動明王立像が浮き彫りされている。
六地蔵 (101番、102番)
参道、不動明王立像の向かいには二組の六地蔵が安置されている。下の段の丸彫り六地蔵 (102番) は向かって右三体には1803年 (享和3年) に造立されたと刻まれているが残りの三体には年号がないが、同時期と思われる。それぞれが女性 (□□童女とある) の供養塔になっている。上の段の丸彫り六地蔵 (101番) は1740年号 (元文5年) の造立で、それぞれに下荻窪村、上荻久保村(上荻窪村)、天沼村の講中と刻まれている。
無縁仏墓石
六地蔵の隣には幾つもの石仏、石塔が集められた無縁仏墓がある。この中には古い石仏が含まれている。
- 如意輪観音菩薩座像 (右下): 1668年 (寛文8年) 造立の舟型石塔上部にキリークの梵字が刻まれ、その下に六臂の如意輪観音菩薩が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (中下): 1668年 (寛文8年) 造立の舟型石塔に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (左下): 1788年 (天明8年) 造立の舟型石塔に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
石仏石塔群 (103~107番)
無縁仏墓の隣には古い石仏と石塔が並べられている。向かって右側から見ていく。この中の4体の大きな石仏 (阿彌陀如来、聖観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩) は当時名主だった小張吉兵衛が両親と妻を相次いで亡くし、悲しみをまぎらすために建てたもの。建てた当時は普通の顔だったが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になり、「泣きべそ地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられている。
- 弘法大師 (写真右上): 1885年 (明治18年) に造立された山状角柱の高祖千五十年御遠諱供養寶塔で正面にはバーンクの梵字が刻まれ、その下に大きく弘法大師と刻まれている。裏面には47名の寄進者名が刻まれている。1897年 (明治30年) に移転世話人の名が刻まれているので、この年に何処かからこの地に移転したのだろう。
- 地蔵菩薩立像 (写真右中 103番): 1728年 (享保13年) に講中82人により造立された丸彫の地蔵菩薩立像で宝珠を携えている。
- 勢至菩薩立像 (写真中中 106番): 1728年 (享保13年) 造立の塔型丸彫の勢至菩薩立像。1937年 (昭和12年) に修理されている。
- 阿弥陀如来立像 (写真左中 105番): 1728年 (享保13年) 造立の塔型丸彫の阿弥陀如来立像。1937年 (昭和12年) に修理されている。
- 聖観音菩薩立像 (写真右下 104番): 1728年 (享保13年) 造立の塔型丸彫の聖観音菩薩立像。1937年 (昭和12年) に修理されている。
- 南無阿彌陀佛 光明眞言供養塔 (写真中下 107番): 1774年 (安永3年) 造立の山状角柱の梵字のキリーク、その下に南無阿彌陀佛 光明眞言供養と刻まれている。
境内、本殿斎場 (小斎場)、観音ホール
参道から境内に入る手前には家族葬などで利用される小規模の本殿斎場 (小斎場 写真右下)、大斎場の観音ホール (右中) が近代建築で建てられている。
鐘楼
境内は駐車場も兼ねており、線路側には鐘楼が置かれている。
手水舎
本堂側には天和2年(1682年)近在の村人が、飢饉の折に亡くなった方を弔うために奉納されたと伝えられる手水舎がある。
閻魔堂
本堂之階段下には閻魔堂が建てられており、堂内には冥界の大王で死者の生前の悪行を裁く閻魔大王とその両脇には閻魔様を補佐する書記官が並んでいる。
本堂
千手観音座像 (推定 南北朝時代作・1300年代) を本尊として祀る本堂は1840年 (天保11年) の火災から10年後に再建された建物で、1888年 (明治21年) に甲武鉄道 (現在の中央線) 建設のため北へ移り、その後、1969年 (昭和44年) のホール新築の際に現在の場所へ移築されている。以前は、毎年8月16日に縁日が行われ、村の男女が、この縁日がきっかけで結ばれる事が多かったことから、本尊の千手観音座「出逢い観音」と呼ばれて賑わったという。
荻の小径
線路沿いに整備された「荻の小径」がある。光明院を東西に横切る自由通路で、通路の周囲には季節の花がや草が植えられている。光明院の西から荻窪駅への近道になる。昔は境内がその通路の様に使われていたのだが、境内の一部にこの小径を造り、住民に24時間開放している。
慈雲殿斎場 (中斎場)
荻の小径を西に抜けると、もう一つ斎場が建てられている。中規模の葬儀に使われる慈雲殿斎場 (中斎場) になる。
馬頭観音
慈雲殿斎場と境内の間には小さな広場が整備され、その中に二基の馬頭観音が置かれている。昔は境内各所に馬頭観音があり長年放置されて災害や工事などの際に紛失し、現存するものはこの二基のみとなっており、2023年 (令和5年) にペットを含め生きた全ての動物たちの供養と交通安全を祈り、ここを整備して移設し祀られている。馬頭観音は、かつては農耕や交通の手段として用いた馬の供養のために建立し供養を行っていたのだが、牛を使っていた地域では牛頭観音も造られていた。現代ではこの馬頭観音は主にペット供養や交通安全を願う本尊として信仰されている。一基は経年劣化により建立年不明だが、もう一つの碑には1958年 (昭和33年建立と標されている。馬頭観音石塔の両脇にはペットの納骨棚と思われるものが置かれている。
これで今日の訪問予定は終了。まだ三時前だが、今夕は東京駅近くのレストランで大学時代の同窓生と会食があるので、早めに切り上げて、一度娘宅に戻り電車にて東京駅に向かうことにした。いつもは自転車で行くのだが、自転車でも飲酒運転が取り締まりの対象になっており、最近は厳しくなっているので電車での移動とした。明日は衆議院総選挙なので、家族で投票に行き、昼はみんなで昼食をとる予定なので杉並区探索はお休み。
参考文献
- すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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