東京 (10/04/24) 江戸城 (44) 坂道巡り (12) 新宿区 (8)

坂道巡り 新宿区 (8)

  • 一の坂 [2022年1月16日 訪問]
  • 二の坂 (蘭塔坂) [2022年1月16日 訪問]
  • 三の坂
  • 四の坂
  • 五の坂
  • 六の坂
  • 七の坂
  • 八の坂
  • ごりょう坂 (御霊坂)
  • 中井御霊神社
  • バッケの坂

今日訪れた史跡で別レポートに追記したもの



今日は定期検査で病院を訪れる。午前中には終わるので、午後は新宿区の坂道巡りをしながら家に帰る予定。


検査と診察が終わり、新宿区のまだ見ていない坂道を通る。幾つかは、過去に見落としていたものなので、その時の訪問記に追加している。

落合を通り中井に移動する。この地域は江戸時代は上落合村となっている。ここにも多くの坂道がある。、ここには一の坂”から八の坂まで番号が振られた坂名が並んでいる。一の坂と二の坂は2022年1月16日に通っている。それから随分と時間が空いてしまったので、その時の訪れた坂も記載しておく。



中井2丁目の落合台地の下を東西に流れる妙正寺川に向かって南側斜面には東から西に一の坂から八の坂と呼ばれる多くの坂がある。江戸時代から名が付いている坂道は少ないのだが、2009年に新宿区が道路通称名を一般公募して名が付けられ、地元町会が標識をが取り付けている。

坂上通り

落合台地の上には坂上通りが東西に走っている。この通りは江戸時代からあり六の坂に続いていた。江戸時代にはこの通りの北側に大上という集落があったが、南側には殆ど民家は無かった。台地下に西武鉄道が1927年 (昭和2年) に村山線 (現在の西武新宿線) を開業し、ここには中井駅が置かれた。この時から駅周辺、線路沿いに民家が立ち始めた。戦後にはほぼ全域が住宅地に変わっている。この坂上通りから、8つの坂への道が通り、坂下の中井通りに下っている。この中井通りは江戸時代から明治時代には妙正寺川の支流が流れていた。川が埋められて中井通りとなった。

一の坂 [2022年1月16日 訪問]

中井地区の「一の坂」から「八の坂」まで番号のついた坂名の一番東の坂が一の坂。この道は江戸時代には存在せず、大正末期に周辺の宅地化に伴いこの道が開けたそうだ。


二の坂 (蘭塔坂) [2022年1月16日 訪問]

一の坂から1ブロック南に行った所、東からの中井通りが山手通りと立体交差する地点 (山手トンネル) を越えたの西側から、左右に曲がりながら上る坂が二の坂。この二の坂は江戸時代からの道で、蘭塔坂と呼ばれていた。坂下にその由縁を説明した柱が立っている。

かつてこの坂の途中に墓地があり、蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり、多くは禅僧の墓標として用いられた。


三の坂

三の坂は江戸時代には存在していなかった。かなり急な坂。

四の坂

四の坂も江戸時代にはなかった。いつ頃造られたのかはわからなかったが、大正期にはこの中落合地区が開発され、高級分譲住宅地「目白文化村」が売り出され、多くの文化人が住んでいたそうだ。四の坂は途中が階段になっている。坂下には林芙美子記念館がある。ここは芙美子が実際に住んだ家と土地を区が買い取り、遺族から遺品の提供を受け、1992年に開館している。

五の坂

五の坂は江戸時代からあったもので、急な坂道は140mもある。

六の坂

六の坂も江戸時代からあった坂で、江戸時代の坂上通りはこの六の坂に続いていた。江戸時代の六の坂は現在の様なまっすぐな道ではなく、少し湾曲した道だった。多分文化村建設時に整備されたのだろう。

七の坂

七の坂も江戸時代から存在していた。この坂も昔は曲がった道だったが現在ではまっすぐになっている。

八の坂

八の坂は江戸時代には存在していなかった。

ごりょう坂 (御霊坂)

このごりょう坂も江戸時代にはなく、明治以降にできた道。坂上通りから妙正寺川に向かって下っている。2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し、坂上に御霊神社があるので、この名が付けられている。

中井御霊神社

ごりょう坂の坂上、八の坂との間に、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、仁徳天皇、武甕槌神を祀る御霊神社 (五霊神社) がある。御霊神社は日本各地にあり御霊信仰が元になっている。この御霊信仰は、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本独自の信仰。ここの中井御霊神社の創建年代は不明だが、伝承では西暦100年、景行天皇40年の際、日本武尊の東征に従った常陸国鹿島神宮の神裔の一部がこのあたりを統治するようになり、祖神・武甕槌命を祀ったという。その後、源義家が奥州征伐の後に源氏の一族がこの地に居住するようになり、故郷・大和国宇陀郡の御霊神社 (宇陀郡に御霊神社の存在は確認されていない) を勧請・合祀したともいう。景行天皇の時代に創建は景行天皇の存在も怪しく、信じられないのだが、源義家の時代はありえるかもしれない。とにかく中井御霊神社は古くからあったようで、落合村小名中井の鎮守となっていて、五霊社、五神之宮とも称されていた。江戸時代の地図では最勝寺持天満宮となっているのだが、菅原道真は祀られていない。
鳥居をくぐると、手水舎が置かれ、その脇に獅子山と呼ばれる狛犬が守っている。少し変わった狛犬の形だ。
境内はさほど広くなく、入って右側に社務所、右側には神楽殿殿が建てられている。社務所は昭和16年に建てられたもの。
境内奥に明治時代に建てられた権現造りの幣殿、その奥に1700年代建造の本殿がある。幣殿前には、1715年 (正徳5年) に落合村下落合の人々によって奉納された新宿区内最古の狛犬がある。
境内には幾つも案内板が置かれている。それによると
  • 備射祭 - 中井御霊神社で行われている祭祀行事に主として関東地方で行われる備射祭がある。毎年1月13日の弓神事 (歩射) で、的に向かって矢を射て、その年の豊凶を占い、魔を払って豊作を祈る行事。拝殿での祝詞奏上に続き、盃ごと、弓射の式、祝宴の順で進行する。備射祭で使った弓の弦は安産のお守りとして授けられる。備謝祭の的を製作に使った「分木」と呼ばれるコンパスが2本保存されている。1563年 (永禄6年) と1620年 (元和6年) に作られたもの。また、江戸時代1830年 (文政13年) に修復して奉納された絵馬も残っており、当時の備射祭が描かれている。社殿前に座る僧侶や村人たちの姿が描かれ、現在とは異なる備射祭の様子がうかがえる。
  • 雨乞いの儀式 - 中井御霊神社では、かつては雨乞いの儀式が行われており、儀式のときにむしろ旗を使っていた。文化・文政年間 (1804~30年) 頃のものと推定される表面に「龍王神」の墨書、裏面には龍の図が描かれたむしろ旗が残っている。この雨乞いは1923年(大正12年)の関東大震災まで行われていたという。
境内末社として三峯社/八雲社 (写真上)、稲荷神社 (写真中、下) が鎮座している。
拝殿裏には三基も石塔が置かれている。真ん中のものは、1758年 (宝暦8年) に下落合村中井講中が建立した駒型の文字塔で庚申青面金剛塔と刻まれ、下部には三猿が浮彫されている。右には富士登山三十六度記念で社殿廊下廻のコンクリート一式の奉納碑。左はよくわからないが、土地を寄進した碑の様だ。

バッケの坂

落合台地斜面の最後の坂。現在の坂の上通が妙正寺川に下る延長線で明治時代に造られたバッケの坂になる。この地域でこの斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のへの近道であった。バッケというのは崖のことで、武蔵野ではハケ、バッケなどと呼ぶことが多い。坂下はバッケが原という野原だったころから、バッケへの近道という意味でバッケの坂と呼ばれていた。

ここで既に五時半を過ぎ、そろそろ日が暮れ始めているので、これで今日は打ち止めとして自宅に向かう。新宿区の坂道巡りもあと数カ所にが残るのみとなった。次回の東京訪問で完走となるだろう。

今日の訪問ログ

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