埼玉県 (13/04/23) 蓮田市 (12) 平野地域 駒崎

平野地域 駒崎

  • 馬頭観音 (1番 不明)
  • 石橋供養塔
  • 馬頭観音 (3番)
  • 星久院
    • 馬頭観音 (4番、5番)
    • 馬頭観音 (2番)、正和元年銘板碑
  • 駒崎久伊豆神社
  • 萬霊塔
  • 道六神

上の地図は4月13日の走行ログがiPhoneアプリの不具合で消えてしまったので4月14日の走行ログを使っている。


平野地域 駒崎 (こまさき)

駒崎村は、綾瀬川の左岸、井沼村・上平野村の南に位置する。古くは「駒前」とも書き、14世紀初頭の文献にも現れている事から古くから存在した村だった。

鎌倉末・南北朝時代の1315年 (正和4年) に伊賀光貞は父頼泰から武蔵国駒前等を譲られ、1327年 (嘉暦2年) に幕府より外題安堵を受けている。当時、伊賀氏は奥州好島西庄預所職と飯野八幡別当職を代々領有し、庄園支配をめぐって地頭岩城氏としばしば争論をくり返した。15世紀に入ると領国形成を着実に促進した岩城氏の傘下に属し、飯野八幡宮神主として命脈を保ち、飯野氏と改姓している。

駒崎 のサキには端 (ハナ) 先端の意味があり。 駒 (コマ) には河間の意味がある事から、コマサキとは綾瀬川の乱流のころ、その河間の地であったがための地名と考えられている。
1490年 (天正18年) には岩槻藩領となり、その傘下で、高力氏、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、森川氏、渥美氏と次々と領主が代わっている。宝暦6年に 天嶺となり、明和年中その一部を川越藩松平氏に、文政年間に天領の一部を忍藩松平氏に、一部を旗本の森川氏、川越藩松平領は公収され天領となり旗本の内藤氏、渥美氏はに子孫が世襲 して維新を迎えている。


大字駒崎の人口推移は以下の通り


資料に記載されている駒崎の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 星久院
  • 神社: 駒崎久伊豆神社
  • 庚申塔: なし  馬頭観音: 5基

馬頭観音 (1番) は見つからず


駒崎 訪問ログ



旧井沼村から見沼代用水を西に渡り旧駒崎村に入る。

馬頭観音 (1番 不明)

資料地図に従って馬頭観音 (1番) の場所に行くが、ここでも見当たらない。どうも今日は見つからないものが多くがっかりする。移設されたのだろうか? ここにあったものは、1931年 (昭和6年) に造立された駒角柱形の馬頭観音で、夏の暑い日に、馬を田に連れて行き水浴びさせようとしたところ、撹乱して死んでしまったので、供養のために建てたという。正月にお餅をお供え拝んでいるそうだ。資料に掲載されていた写真は以下のもの。

石橋供養塔

馬頭観音 (1番) のすぐ南の四角に石塔がある。1826年 (文政9年) に石橋の完成記念として造立されたもので、山角柱形石塔には、もう判読不能にはなっているが「石橋供養」の文字が刻まれている。この石橋供養塔は道しるべを兼ねており、左側面に「左 いわつき じおんぢ」。右側面「右 志やうぶ きさい」と記されている。ここは街道の合流点だったのだろう。

馬頭観音 (3番)

星久院に向かい、寺への道への曲がり角に、1748年 (寛延元年) に馬の持ち主たちががお金を出し合って造立されたと伝わる馬頭観音が置かれている。寄棟破風付舟形の石塔に三面六臂馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされ、ニ臂は馬口印を結び、蓮華座が線刻されている。像脇には「奉造立馬頭観音為現當安楽也」と刻まれている。元々は榎戸橋のたもとに位置していたものをここに移設している。馬頭観音は道しるべを兼ね、正面「南こむろ道」、左側面に「是よりせうぶみち」、右側面「是よりあげを道」と記されている。

星久院

馬頭観音 (3番) から道を進み星久院に入る。真言宗智山派の寺院で正式には佛光山遍照寺星久院で、倉田村 (桶川市) の新義真言宗足立郡明星院の末寺になる。星久院は、祐長 (文安3年1446年寂)が開山したと伝わっているので、室町時代の創建と考えられている。江戸期に建てられた堂宇はことごとく火災にあい焼失している。
境内に入った所には、蓮田市内では一番大きい宝篋印塔がある。1776年 (安永5年) 造立の宝篋印塔で、金剛界大日如来を表す梵字が、台石正面に不空成就如来を表す「アク」、右側面に阿閦如来を表す「ウン」、左側面に阿弥陀如来を表す「キリーク」、背面に宝生如来を表す「タラーク」が刻まれている。台石正面には「宝篋塔」の文字、台石の右側面と背面には宝筐印陀羅尼経の教えも刻まれている。その向かい側には救済祈願の為に1703年 (元禄16年) に造立された行脚姿の地蔵菩薩立像が置かれ、右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。関東百地蔵尊の一つとされており、地蔵信仰の盛んだったころ関東各地から多くの巡礼者が来ていたという。

馬頭観音 (4番、5番)

境内にはいくつもの石塔、石仏が並べられている。
  • 笠付地蔵菩薩 (写真右上) - 1776年 (安永5年) に造られた地蔵尊で、笠を被っているのが特徴で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。少年二人と女性の供養のため造立されたと伝わり、地元では巡行地蔵と呼ばれていた。
  • 宝篋印塔 (右下) - 1636年 (寛永13年) に故人の供養の為に造立された宝篋印塔で水を表す梵字「バ」、基礎には地を表す「ア」が刻まれ、基礎には「淨恵禅門為菩提也 妙善禅尼」とも刻まれている。
  • 馬頭観音 (4番 左下) - 造立時期は不明、切妻角柱形石塔に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (5番 中下) - 石塔の大半が欠損して上部だけが残っている。切妻角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字の一部が残っているのだが、剥落が激しく読めなくなっている。

馬頭観音 (2番)、正和元年銘板碑

寺院墓地の一画に、鎌倉時代 1312年 (正和元年) の古い板碑が残っており、板碑には阿弥陀三尊を表す梵字と花瓶が刻まれている。その隣には馬頭観音 (2番) も置かれている。1801年 (享和元年) に造立の駒角柱形石塔で馬の顔が線刻され「馬頭観世音」の文字が刻まれている。

駒崎久伊豆神社

朱塗の一の鳥居の所には日露戦役従軍記念碑が置かれている。神社には良くある記念碑だが、戦没者慰霊碑ではなく従軍記念碑となっているのは世相を反映している。鎖国から西洋化を進め日清戦争、日露戦争で勝利した明治時代には戦没者の慰霊よりも従軍した事を名誉と考えていたのだろうか?その他にも伊勢神宮参拝記念碑もある。
参道を進むと二の鳥居が見えて来た。その手前には明治時代に寄進された石燈籠 が置かれている。
二の鳥居を入ると境内になる。明治時代 1870年 (明治3年) に伊勢太々講中により寄進された狛犬が置かれている。左の吽形狛犬には「除禍」、右の阿形の狛犬には「神徳」、背面には「太々」の文字が刻まれている。
社殿は幣殿と本殿で構成され大己貴命を祀っている。駒崎久伊豆神社の創建年代は不詳だが、駒崎久伊豆神社の別当寺だった隣接の星久院が室町時代の創建なので、駒崎久伊豆神社も室町期に創建したと推定されている。江戸期には駒ヶ崎村の鎮守社となり、明治6年に村社に列格、明治40年には無格社八幡社を合祀している。現在の氏子は80名程だそうなので、神社の運営維持はかなり厳しいと思われるが、それでも、で元旦の四方拝の祭典、4月第1日曜に春祭礼、7月14日に近い日曜に夏祭礼があり、4月と4月の祭には獅子頭をかついで氏子各戸を回り五穀豊穣・病魔退散を祈っている。12月15日に近い日曜には秋祭りも行われているそうで、村の鎮守様として信仰を集め地域住民に親しまれている神社だ。
境内末社として八坂神社の祠が置かれており、その中には1785年 (天明5年) に造られた切妻角柱形石塔が鎮座している。疫病退散祈願で京都の八坂神社を勧請した牛頭天王を祀っていると思われ、石塔には「八坂神社」の文字が刻まれている。
その他境内には1887 (明治20年) に寄進された社寺型の手水鉢が残っている。また、駒崎自治会館も置かれており、この地が駒崎村の行政中心地だった事がわかる。ここと同じように村の公民館が、村の鎮守社に置かれていることは多く、村の行政運営と信仰が密接な関係だった事がわかる。
竹林の中に四つの力石が残っている。奉納された時期は不明だが、この内三つには文字が読め「力石二十六〆目 (約97kg)」、「二十八〆目 (105kg) 八幡宮」とある。一つには「奉納 久伊豆神社 力石四十八〆目 (180kg)」とあり、これまで見た力石でもかなり重いものだ。これを持ち上げていたのは驚きだ。

萬霊塔

駒崎久伊豆神社の横を走る県道87号線沿いに石塔が立っている。1711年 (宝永8年) にこの世の生きとし生けるものを供養するために造立された山角柱形石塔に「草木国土悉皆成仏」の文字が刻まれている。正面には胎蔵界大日如来を表す梵字「ア」、右側面には聖観世音菩薩を表す梵字「サ」、左側面には勢至菩薩を表す梵字「サク」、背面には不動明王を表す梵字「カーン」が刻まれています。地元では「大日さま」と呼ばれている。

道六神

県道87号線沿いを綾瀬川方面に進むと一帯は畑が広がっている。道沿いに小さな祠があり、中に小さな石塔が置かれている。風化が激しく笠付角柱の形も変わり、文字も剥落で見えなくなっている。にもかかわらず、祠で大切に維持されており、道六神と伝わっている。道六神とは道陸神とも書き、村々の入口にあって疫病や悪霊の侵入を防ぎ、旅人の安全を守る道祖神の事。


これで旧駒崎村に史跡巡りは終了。今日は朝早く8時前には出発したので三つの村を見ることができた。まだ少し日没まで時間があるのだが、この後は図書館で蓮田市に関する資料を見ることにする。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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