埼玉県 (13/04/23) 蓮田市 (11) 平野地域 井沼

平野地域 井沼 (いぬま)

  • 蓮田工業団地公園
  • 井沼久伊豆神社
  • 宝泉寺
    • 庚申塔 (14番)、馬頭観音 (未登録)
    • 馬頭観音 (3番)、庚申塔 (16番)
    • 庚申塔 (15番 不明)、庚申塔 (17番 不明)
  • 百箇所巡礼塔
  • 薬照院
  • 庚申塔 (13番 不明)

上の地図は4月13日の走行ログがiPhoneアプリの不具合で消えてしまったので4月14日の走行ログを使っている。



平野地域 井沼 (いぬま)

大字井沼は江戸期前には伊沼村だった。元荒川に臨む沼地という意味で、後に井沼と書かれる様になった。井には古語で川の意、そして堰の意もあり河沼を塞ぎとめ細い水路に導くのをイゼキ堰と言った。 この地には 古くから大小の沼があり、江戸後期には、北と南に溜井があり水田の用水として利用していたが、その後、溜井は干拓され現在は残っていない。井沼村には小名として的場、馬洗戸、堀の内、土手の集落があったとされる。


大字井沼の人口の推移は下記の通り


資料に記載されている井沼の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 宝泉寺、薬照院
  • 神社: 井沼久伊豆神社
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: 1+1基


井沼 訪問ログ



蓮田工業団地公園

井沼地区の大部分は工業流通業務ゾーンと土地利用規定がされている。蓮田清水工業団地があり、その敷地の元荒川沿いには蓮田工業団地公園が造られていた。申し訳程度の小さな公園だが、昼休みには工業団地の従業員が昼食休憩で何人か来ていた。こちらもここで今日の昼食を食べながら休憩とした。

井沼久伊豆神社

蓮田工業団地公園の南の道を挟んだ所に鎮守の森があり、この森の中に鎮座しているのが井沼村の守り神になる井沼久伊豆神社になる。この付近からは縄文時代の住居跡なども発見されており、古代から人が住んでいたと考えられている。鳥居をくぐると、長い参道が奥に伸びている。参道には1802年 (享和2年) に氏子中により奉納された石燈籠が置かれている。
参道を進んだ奥に社殿がある。社殿は幣殿 (左上) と本殿 (右上) で構成されている。社殿は、1808年 (文化5年) と1923年 (大正12年) に改築が行われた後、老朽化が進み1989年 (昭和64年) に氏子の協力により大修理され現在に至っている。
井沼久伊豆神社の創建年代などは不詳だが、この神社周辺は、堀之内と呼ばれており、東・西・南の三方に空堀と土塁跡が残る館跡になる。室町末期に菖蒲城主佐々木氏綱の家臣の佐藤内蔵助がこの井沼に居館 (井沼館) を構えていたことから、佐藤家の氏神として祀られていたと考えられている。佐藤氏は代々内蔵助を名のり江戸期には名主を務めている。1710年 (宝永7年) に久伊豆神社の本社とされる玉敷神社 (騎西の明神様) から改めて分霊を受けて再建、井沼の鎮守として祀られていた。(その子孫とされる佐藤清家は、神社の参道脇に居を構えている。) この後に訪れる別当であった宝泉寺の住職は、しばしば佐藤家から輩出しており、本来佐藤家の氏神であった社が、村の鎮守として信仰されるようになったと思われる。1907年 (明治40年) にもう一つの村の字的場の鎮守だった久伊豆神社を合祀している。大己貴命 (おおなむちのみこと) を祀っている。
井沼久伊豆神社では、元旦の四方拝の祭典、4月第1土、日曜日に春祭礼 (騎西町の玉敷神社から明神様を借りてきて氏子各戸回り家内安全、無業息災を祈る行事)、7月第1土、日曜日に夏祭礼、8月15日に観音様灯籠、10月第2日曜日に秋祭礼が執り行われている。
境内には末社として辨財天、稲荷社が二つ、天満宮、八幡が祀られている。
  • 天満宮 (写真左) - 1823年 (文政6年) に学業成就祈願して切妻破風角柱形石塔に「天満宮」の文字が刻まれている。左側面には愛辨山宝泉寺十世を表した「當山十世玉温」、右側面には「願主 筆子中」と刻まれており、宝泉寺周辺にあった寺子屋の生徒たちによって建てられたという。
  • 稲荷明神 (写真中) - 1869年 (明治2年) に五穀豊穣祈願、一家繁栄祈願して造立された駒角柱形石塔に「稲荷大明神」の文字が刻まれている。
  • 稲荷明神 (写真右) - 1690年 (元禄3年) に像立されたもので、稲荷明神と言われている。
  • 辨財天 (写真上) - 境内末社の一つとして祀られているが、情報は見つからず。市柿島姫命 (いちきしまひめのみこと) を祀っている。
  • 愛宕神璽 (写真下) - 境内末社とは紹介されていないのだが、防火祈願のため、1880年 (明治13年) に造立されたもので、自然石形の石塔に愛宕神社の分霊意味する「愛宕神璽」と刻まれている。
資料にあった八幡は見落とした様だ。また、以上の末社以外にも、別の資料ではこれ以外に素佐之男命を祀る須賀社、1815年 (文化12年) に造立された天満宮の石塔もあるとなっていたが、これも見落とした様だ。
これ以外にも境内には古い石塔などが置かれている。
  • 手水鉢 (写真上) - 1923年 (大正12年) に奉納されたもの
  • 力石 (左下) - 2基置かれている。1737年 (元文2年) に奉納された石には「元文二巳天 奉納力石廿八貫目 (約105Kg)」 、もう一つは奉納時期は読めず「□□□□年 井沼村 m 奉納力石三十ニ〆目 (120kg) □□□□□」と刻まれている。
  • 石橋供養塔 (中下、右下) - 石橋の完成を記念して久伊豆神社の外に建てられたのを境内に移設されたもので、駒角柱形石塔に「奉納 大乗妙典 石橋建」と刻まれている。

宝泉寺

井沼久伊豆神社の南、県道87号線沿いには江戸時代には別当寺だった曹洞宗の愛辨山宝泉寺がある。梅眼香譽(天正12年1584年寂)が開山と伝わっている事から、創建は16世紀半ばだろう。


庚申塔 (14番)、馬頭観音 (未登録)

  • 庚申塔 (14番 写真左) - 1729年 (享保14年) 造立の隅丸角柱形石塔に「奉造立庚申供養塔」の文字が刻まれ、蓮華座が浮き彫りされている。
  • 馬頭観音 (未登録 右) - 庚申塔 (14番) の隣にある石塔は馬頭観音と思える。文字型なのだが上半分は剥落が激しく、年号が見えず「七月吉日」、「観世音」のみが読み取れる。
墓地の入り口には六地蔵、墓地内の道には地蔵菩薩が置かれている。
  • 六地蔵 (写真下)  - 1823年 (文政6年) に造立された六地蔵で蓮華座と共に丸彫りされている。左から、柄香炉を両手で持つ法性地蔵、合掌する宝性地蔵、印を結ぶ陀羅尼地蔵、両手で数珠を持つ地持地蔵、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ鶏亀地蔵、両手で幡を持つ法印地蔵が並んでいる。
  • 地蔵菩薩  (左上) - 1702年 (元禄15年) 造立されたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像及び蓮華座が丸彫りされている。台石には「錫擔眉上 珠棒掌中 敲断地獄 轢破天宮」と地蔵の偈句が刻まれている。


馬頭観音 (3番)、庚申塔 (16番)

墓地には庚申塔と馬頭観音が置かれている。

  • 馬頭観音 (3番) - 祠の中には1887年 (明治20年) 造立の駒角柱形石塔に合掌する六臂の馬頭観音立像が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (16番) - 1707年 (宝永4年) 造立の笠付角柱形石塔に瑞雲を伴う日輪、月輪が線刻され、その下に餓鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像、二鶏三猿が浮き彫りされている。両側面には未敷の蓮華も浮き彫りされている。地元では「庚申さま」と呼ばれているそうだ。

庚申塔 (15番 不明)、庚申塔 (17番 不明)

資料にはもう二つ庚申塔があるとなっていたのだが、どういうわけか見つからなかった。写真は資料から借用

  • 庚申塔 (15番 不明 右) - 1710年 (宝永7年) 造立の笠付角柱形石塔の上部に瑞雲を伴う日輪、月輪、その下に餓鬼を踏みつけた青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。左右両側面には未敷の蓮華と鶏も浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (17番 不明 左) -造立時期は不明だが、山角柱形石塔に「庚申塔」と刻まれている。「奉請秩父 西国」とも刻まれているので廻国巡礼塔を兼ねている。また、判読不能何だが、道しるべを兼ねていた文字の一部も刻まれている。

道を南に進む途中に、こに地域ではよく見かける綺麗に手入れされたツツジの庭を見かけた。蓮田市の北部はこの様なツツジの庭を探索するのも良いかも知れない。

百箇所巡礼塔

宝泉寺の南、県道87号線 (上尾久喜線) と77号線 (行田蓮田線) が交わる所に、1764年 (明和元年) に造立された山角柱形石塔がある。「奉納 西国 坂東 秩父百所 為二世安楽」と文字が刻まれている百箇所巡礼塔になる。この塔は道しるべを併設し、正面に「西 こうのすみち 東 よ志みみち」、左側面に「右 いわつき 志おんじ」、右側面に「左 くき さってミち」と記されている。先程訪れた宝泉寺への道 (87号線) が久喜/幸手への道、77号線を南に行くと岩槻、北に行くと鴻巣、87号線を南に進むと吉見に通じている。道のルートが江戸時代と同じかは分からないが、この地が街道の交差点だった様だ。

南の薬照院に向かう途中、道沿いに小さな祠を見つけた。何を祀っているかは不明。

薬照院

曹洞宗の瑠璃山薬照院に到着。薬照院は、薬師如来を本尊とし、鼎岩嶽周大和尚 (宝永5年1708年寂) が開山したと伝えられている。先日訪れた上閏戸村の秀源寺の末寺になる。墓地の中には廻国巡礼記念として1740年(元文5年) に造立された右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像が造立されている。台石正面に「六十六部供養」の文字が刻まれている。

庚申塔 (13番 不明)

資料に載っていた庚申塔 (13番) を訪れる。県道77号線沿いのその場所は整地されて資料の写真とは変わっており、祠も石塔も見当たらなかった。造成工事のために移設されたのだろうか? 資料によれば、祠の中に、如意輪観音 - 1815年 (文化12年)の如意輪観音と1768年 (明和5年) の道しるべを兼ねた駒角柱形六臂青面金剛立像の庚申塔があるとなっていたのだが。



旧井沼村巡りは終了。この地域は見つからなかった史跡が他の地域に比べて多かった。次回訪問時にもう一度探してみよう。今日はまだ時間があるので、となりの駒崎も巡ることにした。駒崎の訪問記は別途


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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