Okinawa 沖縄 #2 Day 227 (10/12/22) 西原町 (18) Onaga Hamlet 翁長集落
西原町 翁長集落 (おなが、ウナガ)
- 翁長公民館、中道 (ナカミチ)、翁長ガニク
- 翁長の焚字炉 (フンジュルー)
- 神 (カミ) アサギ、火之神 (ヒヌカン)
- タンパラヤンチ井戸跡
- 与那城 (ユナグスク) 神屋
- 翁長のヨンシー
- 与那城井 (ユナグスクガー) 跡
- サーターヤー跡
- シージーモー
- 喜納 (チナー) 門中屋敷
- 地頭火ヌ神 (未訪問)
- 喜納井 (チナーガー)
- 翁長村馬場跡
- 西原国民学校跡 (西原中学校)
- 寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガー (2020年5月29日 訪問)
- 按司墓 (未訪問)
- 樋川井 (ヒージャーガー) (2020年5月29日 訪問)
- サーターヤー跡
- 西原の塔
- 地元住民戦没者刻銘碑
- 西原町戦没者刻銘祈願碑
- 顕彰碑・歩兵第八十九連隊山476部隊
- 魂魄 (独立二十八大隊・海上挺身隊慰霊碑)
- 外地戦没者之碑と歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑
- 観世音の像 (石独立歩兵第11大隊)
- 納骨堂
- 旧西原町役場跡 (西原間切番所跡)
- 喜納大屋 (チナーウフヤ) の墓
- 旧村役場跡
- 検査井 (ケンサガー) (未訪問)
- 村役場壕
- サーターヤー跡
- 今帰仁坂 (ナキジンビラ)
- 坂田自治会館
- クバヌ嶽 (消滅)
- 上ヌ毛 (イーヌモー)
- 西原運動公園、歌碑月桃
西原町 翁長集落 (おなが、ウナガ)
西原町の他の集落と比較すると本土復帰以降は人口の増加率は西原町の平均を上回っており、2000年以降は最も人口の多い地区となっている。
琉球国由来記に記載ある内間集落の拝所は、
- 御嶽:コバノ嶽 (神名コバ ツカサノ御イベ、クバヌ嶽、消滅)
- 拝所: 翁長火ヌ神、翁長神アシアゲ、喜納ヌ殿
- 拝井:テラノコシノ口川 (寺腰奴呂川、ティランキーガー)
- その他記載ない拝所: 地頭火神、喜納井泉 (チナーガー)
翁長集落訪問ログ
翁長公民館、中道 (ナカミチ)、翁長ガニク
翁長の焚字炉 (フンジュルー)
神 (カミ) アサギ、火之神 (ヒヌカン)
タンパラヤンチ井戸跡
与那城 (ユナグスク) 神屋
翁長のヨンシー
- ヨンシーは藁で作られ、長さは約 6メートル、頭部は大きく、尾部は細めに蛇型に作る。
- 儀礼が始まるまで、ヨンシーは公民館敷地内の翁長火ヌ神の前にとぐろ巻きにして置かれる。
- 7日は「イータティー」と称し、獅子を先頭にその後から女の子らがヨンシーを頭上に掲げ、公民館から南のシージモーへ行く。シージーモーでの祭祀儀礼が終わると、子どもたちがお供え物の餅を取り合う。これをムチグヮートゥエーといい、その餅を食べると病気にならないという。
- シージモーでの祈願が終わると、再び子どもたちがヨンシーを肩の上にあげ、馬場 (ウマイー) 跡を通り西のティランキーガー (テラノコシノロガー) に行く。道中、婦人らがチヂン(鼓)や鉦などを打ち鳴らしながら「ヨンシー、ヨンシー、ウナガヌヨンシー」と歌う。
- ティランキーガーそこに着くと、ヨンシーの頭と尾を繋げるような形で円陣をつくり、その場で七回まわった後、ヨンシーを下に降ろしてから片手を口にあて、「アーワーワー」との声出しを行う。そこから、またヨンシーを担ぎ「ヨンシー、ヨンシー、ウナガヌヨンシー」と唱えながらシージモーへ戻り、そこでも前述と同様の儀礼を行います。それを7往復する。15日まで同様なことが繰り返される。
与那城井 (ユナグスクガー) 跡
サーターヤー跡
シージーモー
喜納 (チナー) 門中屋敷
喜納大親役 (チナーウフヤ) は知念間切安座間村の出身で、そこから船に乗って首里城へ向かう途中、暴風に遭い船が沈んでしまった。溺れる寸前に亀に助けられ、西原間切小那覇村の伊保之浜にたどり着いた。そこから首里城に登る時、翁長部落を通った。 その時翁長部落の娘と知り合い、大親役の職を辞してからは、この翁長部落で田畑を耕しながら余生を送った。死後、西原の塔近くの墓に埋葬されたという。しかし、親戚らが、昔の習慣通りに死後三日してから墓に行き、櫃の中を覗いてみると、その遺体はすでになくなってい という。
喜納之殿 (チナヌトゥン)
地頭火ヌ神 (未訪問)
喜納井 (チナーガー)
翁長村馬場跡
西原国民学校跡 (西原中学校)
寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガー (2020年5月29日 訪問)
按司墓 (未訪問)
樋川井 (ヒージャーガー) (2020年5月29日 訪問)
サーターヤー跡
西原の塔
西原村の住民をまきこんだ一連の戦闘は、翁長集落の当時の住民の886人の62.8%に当たる556人が犠牲となっている。島尻に逃げた住民の多くが犠牲になっている。これは西原町では最も犠牲者が多い集落だ。一家全滅世帯数71家族で全世帯の38%に及ぶ、生存者の中で家族を失い孤児となった人数は55人で生存者総数の16.7%と非常に多い割合になっていた。戦後、各地区の収容所に1年余の期間収容されていたが、昭和21年4月に120人余の建設隊が胡差地区より西原村の再建のために我謝区に集結。 村民受け入れのために、我謝区に幕舎や井戸、便所などを造設。同年6月、棚原区や幸地区への居住許可はおりたが、翁長には米軍が駐留しており帰還は叶わず、我謝区から棚原区へ移った。旧翁長部落は米軍の小波津川取水池の上流にあたり、米軍は汚染を怖れ、住民の帰還は許可がおりなかった。その為、昭和22年1月から坂田 (上翁長) に新しい部落を建設し8月に移転が完了した。昭和24 年9月、ようやく旧翁長部落 (下翁長) への帰還が許可されている。
地元住民戦没者刻銘碑
村民の戦没者の氏名が記されている。世帯ごとに刻まれている。亡くなった当時の年齢も併せて記されている。同一家族なのだろう見ているだけで落ち込んでしまった。
西原町戦没者刻銘祈願碑
村人の戦没者の統計リストも置かれ、各字毎に戦没者の人数が記載されている。これをみると沖縄戦の悲惨さに胸が痛くなる。当時、西原町全体で総世帯数は2,156で一家全滅してしまったのは476世帯の21%。戦没者が出た世帯は1,803世帯で83.6%にも及ぶ。当時の西原町全体の人口は10,881人で戦没者は5,106人で45.1%。戦没者の多い字は、我謝 (55%)、翁長 (63%)、小波津 (54%) が目立つ。一つの村で5千人もの死者が数日で発生したのだ。一瞬で家も仕事もなくなり、家族も失ってしまった。戦後、数年も苦しい生活を強いられた。明治初期に琉球王国が消滅し、完全に日本に併合され、その70年後には日本本土の防波堤として沖縄県民は12万人の犠牲者がで、その中で一般人は9万4千人に及ぶ。その後、米軍の支配が続く。現在の新型コロナの被害とは比べ物にならないほどの惨劇だ。この様な悲惨な歴史を経験しているからなのか、この新型コロナでは日本本土ほど、動揺していない様に思える。
顕彰碑・歩兵第八十九連隊山476部隊
西原町住民の犠牲者慰霊塔だけでなく、この場所にはいくつもの軍属の戦没者慰霊碑が建てられている。その遺族や関係者たちが建てたものだ。西原の塔の隣には沖縄戦で日本軍主力歩兵部隊だった歩兵第八十九連隊山476部隊の顕彰碑が置かれている。1981年 (昭和56年) に遺族と戦友から構成された八九会によって建てられている。山476部隊はここ激戦地から糸満の新垣にいどうし、6月17日に新垣の司令部壕にて玉砕している。西原町の説明では以下のようになっている。
歩兵第89連隊は昭和14年満州に創設され爾来兵員補充地を北海道とし、第5隷下第24師団に所属軍旗の下に団結東部ソ満国境守備の重責を全うす。とき移り日本が国運を賭して戦った大東亜戦争末期、戦局の逼迫に伴ひ、精鋭第3大隊の中部太平洋派遣をはじめ、多くの戦友を各地戦域に送る。しかれども戦局の推移好転せず。昭和19年7月連隊主力も沖縄防衛の重任を担う。かくして日本が総力をあげた戦は善戦苦闘の甲斐むなしく連隊将兵の多くはふる里を遠く離れた異境の地に屍を埋め、悠久大義の下祖国に殉ず沖縄守備に任じた連隊主力は昭和20年3月より連合軍侵攻を遊撃80余白の永きに亘り凄絶な死闘を重ね連隊長金山大佐以下2千6百余名が玉砕終焉を迎へた。特に此の西原一帯は沖縄戦最大の激戦となった5月4日の第32軍総攻撃に連隊は総力をあげて勇戦敢闘数昼夜に亘りたるも、遂に矢弾つき将兵の多くはこの戦闘に斃るまた此の戦闘に協力せる多くの現地村民も祖国の為に運命を共にせり。これら国難に殉じた尊い犠牲が日本の平和と子孫の安寧を築く礎石となった崇高な歴史を永く後世に伝へ顕彰する為、西原町の協力を得て戦友と遺族の集いである八九会が此の稗を建てる。
魂魄 (独立二十八大隊・海上挺身隊慰霊碑)
外地戦没者之碑と歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑
更に、1965年 (昭和40年) に建立の第24師団 (山部隊) 歩兵第89連隊山3476の慰霊碑 (右上)、1968年 (昭和43年) に沖縄外地引揚者協会西原村支部によって建立され、南洋諸島その他外地で戦死した兵士を慰霊した外地戦没者之碑 (左下)、この村から移民として海を渡った在ペルー西原村人会が建立したうるま島の榮祈るの碑やペルー観光記念碑、戦没者個人の慰霊碑が置かれている。
観世音の像 (石独立歩兵第11大隊)
納骨堂
旧西原町役場跡 (西原間切番所跡)
喜納大屋 (チナーウフヤ) の墓
旧村役場跡
検査井 (ケンサガー) (未訪問)
村役場壕
サーターヤー跡
今帰仁坂 (ナキジンビラ)
坂田自治会館
クバヌ嶽 (消滅)
上ヌ毛 (イーヌモー)
西原運動公園、歌碑月桃
参考資料
- 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
- 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
- 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
- 西原町 歴史文化基本構想
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