Okinawa 沖縄 #2 Day 224 (24/11/22) 辻村 (1) Tsuji Area 辻

辻村 (つじ、チージ)

  • じゅり馬まつり
    • 辻新思会(以前の村屋)
    • 鏡寺 (カガンヌウティラ)
    • 志良堂御嶽 (シラドウウタキ)
    • 祝女井戸 (ヌールガー)
    • 石被 (イシカブイ)
    • 唐守森 (トゥーマムイ、唐守嶽)
    • 辻 (チージ) の軸 (ジク)
    • 鄭大夫岩 (テイタイイワ) 
    • 辻御嶽の開祖三王女の祠
    • 辻開祖之墓
    • 辻御嶽の火ヌ神 (ヒヌカン)
    • 獅子屋拝所
  • 獅子屋御嶽 (辻南公園)
  • 大正劇場跡
  • 辻原墓地跡 (チージバルボチ)
  • 三文珠 (サンモウジ)
  • 料亭那覇、料亭佐馬、料亭松之下
  • 波の上うみそら公園


先日訪れた福州園は一年間休館で改修し今年7月に再開している。この改修でライトアップが追加されて夜も営業している。このライトアップを見たくなり、今日福州園を再訪する事にした。福州園のライトアップは6時からなので、その前にすぐ近くの辻村を巡る。今日の出発はいつもより遅く午後にした。



辻村 (つじ、チージ)

辻 (つじ、チージ) は自然発生的な村ではなく、尚貞王時代の1673年に当時の摂政 羽地朝秀により各地にいたジュリを一か所に集めて村建てをさせた特殊な村で、花ヌ島と呼ばれていた。羽地朝秀は1667年に売春の撤廃を試みているがこれは叶わず、やむなくこれを管理することで風紀の維持を求めるに至り、出来るだけ他地域との隔離政策でこの地と仲島が選ばれた。辻、仲島、渡地 (ワタンジ) は三大花街としてその名を馳せていた。村立て初期には拝所は無かったようだが、その後、辻村はの発展で上村渠 (ウィンダカリ) と前村渠 (メーンダカリ) のそれぞれに御嶽が造られている。三百年間の間に辻という村は大きく発達したことを示している。チージは琉球語で頂きとか高所などを意味し、辻の字は当字であり日本語の辻の意味は無い。
辻村は当時の血縁集団の農村集落とは大きな相違点があり異質の村であった。辻村の売笑を業としていたジュリ (侏璃、尾類 = 遊女) 集団だった。腹 (ハラ) や門中とか呼ばれる血縁集団は存在しなかった。沖縄の各地の貧農の娘たちが辻の抱え親に買われて連れてこられた女性達の集団だった。辻では女性達の面倒を見るアンマー (母親、抱親) がジュリにとっては血縁でなく金銭による擬制的親子関係だった。抱え親であるアンマーの下には複数のジュリが共同生活をしており、互いにチョーデー (姉妹) と呼び、擬制的なチョーデー関係が形成されていた。辻村は女性だけの村だった。きわめて例外的に男性がいたがごく少数だった。ジュリと客の間に男の子が生れても、たいていはジュリの郷里の親元にあずけて農業をさせる習慣だった。そのような特殊な社会集団は統率者により秩序ある女人政治の行なわれており、その行政組織や祭祀組織は、通常の農村の行政組織や祭祀組織と似ていた。
辻は森の下小路で東西二つの小さな村から成っていた。 上の角、畳屋小路を中心にして右側の小字を上村渠 (ウィンダカリ)、左側の小字を前村渠 (メーンダカリ) とよんでいる。この両字とも、神を祭った拝所がある。両方の御嶽とも嶽名も威部、神名も無く、単にウガンと呼ばれていた。このように生活集団では自分達の守り神として拝所をつくる事は一般的で、屋取集落ではよく見られ、遊廓でも同様で、泉崎の仲島遊廓でも拝所が造られていた。辻村の両御嶽の祭神神名は無かったが、戦前は上村渠はミルク (弥勒)、 前村渠は獅子を奉祀していた。 これは廃藩置県前後に、辻の女人政治家たちが、協議の上で農村の集落にならい、御嶽を造り、奉祀の神を決めたと考えられる。辻村には根所 (ニードックル) があった。農村では根所は門中の総本家だが辻村でもそれに倣って根所が置かれていた。


辻村の神職組織では上村渠、前村渠の両方に最高権威職の盛前 (ムイメー) という神職がおり、年齢的階級があって、姉盛前 (シーザムイメー)、妹盛前 (ウットゥムイメー) 、盛前小 (ムイメーグヮー) の三階級があった。無報酬だったので財産のあるジュリアンマーが選ばれていた。ムイメーの職務は拝所の祭祀、年中行事の運営で、それと同時に村の行政に関わるする為政者でもあった。他の農村と同じく祭政一致の女人政治が行われていた。女性だけの集団だった事から、冠婚葬祭行事はなかった。誕生は出身地、成人式はカタカシラ結いは男性の儀式で、公式な結婚もなく、葬式は出身地で行われていた。
辻のジュリヌヤー (娼家) にはそれぞれ楼名があった。辻村初期では、農村集落の屋号 (ヤーヌナー) と同じような楼名だったが、冊封使や商人など中国人の出入りが活発になると、中国風の楼名が増え、薩摩侵攻の後は薩摩の侍の名が楼名 (庄左ヱ門殿、助ヱ門殿、ビンター様、ブンサン様、新屋の様) に、大正時代には本土て使われていた楼名に変わっていった。
首里王府は辻村を特別区域とし、ジュリの外出禁止令を頻繁に出し他地域との隔離政策をとっている。ただ、この隔離政策にも関わらず、辻のジュリたちと那覇住民との関係は、きわめて密接だった。那覇の男たちが結婚前から遊廓へ通うことを一般社会は容認し、那覇の男たちは自分の結婚式の時には、ニービチジュリ (ミームクジュリ) というのを選んでいた。 結婚式の前後はそのニービチジュリのところに、そのジュリと寝たともいう。 花聟の友達は自分の馴染みのジュリ花の披露宴 (ニービチザー) に送りこんで接待させていた。このような風習が社会が受け入れていた。
那覇の物持ちの人々、あるいは頻繁に遊廓通いをする男たちは、遊興費は登楼するたびに手渡すのでなく、旧七月の盆にブンジリ、十二月の年の暮にトゥシジリとして手渡した。盆ジリや年ジリには菓子をジュリか客に贈答する習慣があった。
那覇の辻遊廓にいたジュリたちは売笑だけでなく歌舞音曲も披露し芸妓の性格をもっていた。辻遊廓のジュリの家は娼妓家兼料理屋、旅館の用も足していた。辻遊廓のジュリたちは、金銭でお客からかわれる身分であるという観念を忌み嫌っており、金銭では自分たちは身を売らないという信念と誇りを持っていた。この辻遊廓は泉崎の仲島遊廓よりもランクが高く、紹介のない一見客は遊廓には上がれず、ここに通う客は経済的にも階級的身分でも中以上の男たちで文化芸術を解する客も多かった。ジュリたちは客に遊興費の請求などはせず、もっぱら客の心づかいに委せきりだった。客もまた金をそっと渡すのが上客とされていた。ジュリ達は接待、社交、芸能、行儀作法、髪結い、衣装、料理の技能習得に熱心だった。娼妓と客という関係ではなく、恋愛感情に発展していくことも稀では無かった。ジュリをテーマにした数多くの琉歌が残っている。この点は京都の芸妓と類似している。

1908年 (明治41年) に仲島と渡地が辻に統合され、辻には政財界や教育界などあらゆる人々が集い、夜毎、接待や華やかな宴が繰り広げられていた。大正年間には沖縄県の年間予算の5%に及ぶ税収があったとも言われるほどの活況を呈し、沖縄県の一大産業と化した。1934年 (昭和9年) 頃には176軒以上の遊廓が建ち並び、政財界を始めとしたありとあらゆる階層の男達が出入りするようになった。1944年 (昭和19年) の10・10空襲により辻は焼失し辻遊廓も終焉となった。一部のジュリは慰安婦として日本軍に徴用されていた。翌年に敗戦となり、沖縄が米軍占領下におかれたことによって270年あまりの歴史に幕を下ろしている。戦後、辻には食事と琉球芸能を堪能できる料亭が立ち並ぶ花街として復活している。戦後、辻近辺は立ち入り禁止区域となり、ようやく1952年に解放されている。

1878年 (明治11年) には妓家200戸余存在して、大きな妓家は娼妓を20名、小さな妓家は娼妓5~6名で凡そ1500人いたという。1969年の資料では約800人の売春婦が存在していた。1960年以前の人口データは見つから無かったが戦前は辻は明治以降大正、昭和と大発展していたので、明治初期の1500人から人口は増加していただろう。復興は1952年からで以前のような遊廓はなくなり、料亭として那覇の繁華街として栄えていた。辻は商業地区とされ、ここでの商売のために人が集まり、1970年代までは人口が順調に増加している。その後は減少に転じている。ここ10年は人口はほぼ横ばいだが、世帯数は増加し横ばいに転じている。現在、世帯あたりの人数は1.5人と非常に低い。この地に風俗街があるというの環境が、家族の住居としては敬遠されているのではと思える。

辻は他の集落と異なり、女性だけの遊廓の街で、門中なども存在しなかった。通常の集落は御嶽、殿、門中関係、農耕関係の祭祀行事だが、辻にはそれらが存在せず、下の表の様に祭祀行事は他の集落に比べて少なく、反対に独自の行事があった。

十八夜の拝みは首里観音堂、辻開祖の位牌がある海蔵寺、辻の御嶽とした志良堂御嶽を拝む。旧暦正月二十日には年中行事のうち最も大切なジュリ馬行列が行われていた。チヂワタイは辻の行政組織要職の盛前 (ムイメー) の交代儀式で一年の任期開始終了の10月1日に行われていた。子 (ネ) の拝みは10月はじめの子の日に、羽地王子 (向象賢) が辻 (チージ) を設置した記念日として、御恩報じのお願を軸の拝所で行っていた。

辻村訪問ログ




じゅり馬まつり

辻では村拝みとして、かつては正月の締めくくり祝い納めとしての旧暦1月20日の祭祀行事の廿日正月 (ハチカソーグヮチ) に行われている。ジュリ馬行列の御願順序に従って辻村巡りをする。
    1. 鏡寺 (カガンヌウティラ)
    2. 志良堂御嶽 (シラドウウタキ)
    3. 祝女の井戸 (ヌールガー)
    4. イシカブイ
    5. 軸 (ジク)
    6. 辻御嶽 開祖の祠
    7. 辻開祖之墓
    8. 火の神 (ヒヌカン)
ジュリ行列の由縁については定かではないのだが、京太郎 (チョンダラー) が本土の春駒踊りを真似て伝えた伝統芸能といわれている。ジュリは遊廓から出る事は禁じられていた。そこで年に一度遊廓から出て親や親戚達に元気な姿を見せる事が出来るようにこのジュリ行列が始まったという。旧暦の1月20日には、綺麗に着飾って華やかに踊っている姿を、見物人にまぎれて親兄弟が観ていた。沖縄戦で辻は破壊され、戦後は米軍に接収された事で、辻遊廓は消滅してジュリ馬行列も開催されなくなっていたが、1953年 (昭和28年) に復活している。
1953年 (昭和28年) に復活したジュリ馬行列は、かつては、那覇三大祭りとして認知されていたが、1989年 (平成元年) に、女性たちを中心とした団体の猛反対で中止になった。この祭が女性差別、慰安婦や売春を肯定する忌わしい行事との主張だった。ジュリと現在の売春婦と同列に見る事は、辻村の歴史とそこで生み出された文化を否定する事になる。過去の辻村の存在を否定している。ジュリ馬行列を主催している辻新思会はジュリの子孫が参加しているのだが、この行列はジュリ達の慰霊でもあり、残した文化への感謝でもあるとして、2000年に、かなり規模を縮小して復活を果たしている。個人的には、このジュリ馬行列は続けて欲しいと思う。身売りされた娘達が、自分達では変えることのできない運命の中で懸命に生き、そこで生まれた文化を継承した事を後世に伝える為にも残すべきと思う。女性団体の主張は正しいが、正義感でジュリを忌わしいものとして蓋をして隠す事には賛成出来ない。ジュリ馬行列の背後にある女性の悲しい過去を追悼し、彼女達の犠牲の上で生まれた文化への評価を世間が認識する様に協力する方法があったのではないかと思う。

辻新思会(以前の村屋)

じゅり馬まつりは辻村の村屋の役割を果たしていた辻新思会で集まり、ここから出発する。戦前は別の場所にあり、戦後ここに移ってきている。公民館とは程遠い感じで、風俗店の無料案内所に挟まれた所にある。辻新思会の前身は貸座敷組合で、1920年 (大正9年) に公布された、沖縄県の貸座敷取締規則にもとづいて設立されている。上村渠と前村渠の盛前や元老たちがとり決めた要望を県庁、県議会、警察署など官公署へ取次ぎ、また官公署通達の連絡など調対外的交渉や事務的処理をおこなっていた。芸妓、娼妓、貸座敷者から組合費を徴収し、取締人(組合長、ムラヤースターリー)、副取締人が月給を受給していた。組合の評議員12名は無給でそれぞれは任期2年だった。通常の農村集落の村屋と、その設立の経緯がガ異なっている。
辻はかつては遊廓だった事から、この一帯は現在でも風俗店が多くあるが、元々の辻村は、この前の道が辻村の端だった。現在の風俗店街はこの通りに少しあり、多くはかつては辻原墓地群だった海岸側に集中している。ただ、風俗店の無料案内所だけは至る所に置かれていた。場所貸しだけなので住民が副業でやっているのだろう。

鏡寺 (カガンヌウティラ)

じゅり行列はまずは鏡寺 (カガンヌウティラ) での御願からはじまる。この鏡寺 (海蔵院) は若狭にあり、先日訪れている。若狭1丁目自治会事務所の隣に海蔵院 (ケージイン) がある。戦後、この民家に移され管理されているのだが、戦前は済広寺山 (セーコージヤマ) と呼ばれた旭ヶ丘に続く丘の上にあり、「向う寺」 と呼ばれ、海蔵院路 (ケージョーインスージ) が通っていた。海からの目印になり、海に出る人がお参りに来ていた。戦時中は出征する人も拝んでいた。八月十五夜の日に、鏡に十五夜の月を映し、月と鏡を一体にする 「八十八夜」の行事が行われていた。済広寺山 (セーコージヤマ) からこの界隈一帯が寺の広大な敷地だった。境内には井戸が置かれ、近隣住民が使用していた。現在、若狭1丁目と若狭2丁目の自治会が行っている若狭町村拝みでも御願されている。民家の一室の祭壇は二つに仕切られており、向かって左側には「花の代」の祭壇がある。これは辻の開祖とされる三人の王女 真加登之前 (マカトガニヌメー)、思鶴之前 (ウミチルヌメー)、音樽之前 (ウトゥダルヌメー) の位牌 (トートーメー) が置かれ祀られている。ここは首里から下りてきた王女たちが最初に暮らしていた場所と伝わっている。旧歴1月20日に行われる辻の「じゅり馬行列」は、ここでの拝みから行事が始まる。右側には、もともとここにあった真言宗の私寺の海蔵院 (ケージョーイン) の祭壇となっている。海蔵院は鏡寺 (カガンヌウティラ) とも呼ばれている。日秀上人が彫った阿弥陀如来像を安置されていたそうだ。民家敷地の中には、石碑が立っている。琉球王府の記録では海蔵院を建てた3人の親雲上がこの碑文を建てたと記されている。1673年 (尚貞5年) と碑文にはあるので、この年に海蔵院が建てられたか、それ以前から存在していたことになる。石碑隣には井戸拝所がある。かつての花の代敷地にあった井戸を形式保存 (作り井戸) して祀っている。

志良堂御嶽 (シラドウウタキ)

次に拝むのが志良堂御嶽 (シラドウウタキ) なのだが、この志良堂御嶽の場所についての情報がなく、いろいろな場所を探し回りようやくビルの合間にひっそりと隠れているのを見つけた。上村渠の御嶽であるのと同時に辻村全体の御嶽だった。この拝所に置かれた石碑には辻根家と刻まれているので、辻の根所 (ニニードクル、第一大平楽) が管理していたのだろう。かつては久米村が管理しており、唐への航海安全を祈念する拝所や首里への遥拝所だった。

祝女井戸 (ヌールガー)

次の拝所は祝女井戸なのだが、この拝所の場所の情報も見当たらず、ただ駐車場奥にあるとだけだった。殆どの拝所は村屋跡周辺にあったようなので、この付近にある駐車場を一つ一つ探すも、それらしきものが見つからなかった。一つだけ駐車場奥に井戸があった。どうもこれではないようだ。地元の人に聞かなければわからないようだ。辻新思会で尋ねようと行ってみたが、不在だった。機会を見て再度探す予定。
後でインターネットで調べると写真があった。やはり違う。マンションと駐車場の間にあるとなっていたが正確な場所までは書かれていなかった。この祝女井戸は海寺の花の代に祀られている辻開祖の王女たちが生活に使っていたと伝わる。このあたりは掘っても塩水しか出なかったのに、この井戸だけは真水が湧き出ていたという言い伝えもある。資料にはここが祝女井戸なのかは不明だそうで、唐守森にあったとも言われている。

石被 (イシカブイ)

辻新思会の前の道を渡った所に、コンクリート塀で囲まれた中に祠がある。石被 (イシカブイ) と呼ばれる拝所でじゅり馬行列の4番目の拝所になる。ここには何が祀られいるのかについては、那覇市歴史博物館では獅子屋、他の記事では龍神を祀っているとなっていた。

唐守森 (トゥーマムイ、唐守嶽)

石被 (イシカブイ) は置かれている場所は丘になっており、御願の阪 (ウガンヌヒラ) または唐守森 (トゥーマムイ、唐守嶽、唐真森、当間森) と呼ばれる拝所で、中国との往還の際の祈願所だった。御願ヌ坂 (ウガンヌヒラ) ともいわれ、この附近が辻 (チージ) 発祥の場所になる。琉球王統時代には、この近く西町に冊封使一行の宿泊公館だった天使館 (ティーシカン) があり、この辻の坂には中国人に魚肉や野菜、日用品を供給するところだった。この天使館には冊封使一行500人程の中国人がきて、5ヶ月~8ヵ月位も滞在していたので、その周囲には自然に中国人相手の遊女がたくさん集っていた。この点在していた遊女を集約したのがこの辻遊廓でここに置かれた。また、この場所は開祖の王女たちが暮らしていた真茅御殿 (マカヤウドゥン) の台所があったと伝わっている。
この場所の以前の写真が残っている。この場所には松之下という料亭が建っていた。

辻 (チージ) の軸 (ジク)

御嶽がある頂上への階段の途中、ガジュマルの木の前が平場になっており、そこに香炉が置かれている。この拝所は辻 (花乃代) の軸 (ジク) と呼ばれ、じゅり馬行列の5番目の御願所となっており、辻 (チージ) を創った向象賢への御願所とされ、香炉置かれている先の首里への遥拝 (お通し) を行なっている。この拝所は戦前まではこの丘の頂上にあったが、戦後にこの場所に移されている。

鄭大夫岩 (テイタイイワ) 

頂上には岩があり鄭大夫岩 (テイタイイワ) という。この岩の上に小さな祠が置かれている。ここが唐守森の拝所になる。かつては、この近くまで海が迫っており、船旅の航海安全を祈願する拝所だった。この唐守森の鄭大夫岩には伝承が残っている。
辻の隣の久米村に鄭憲という武勇に優れた人が住んでいた。鄭憲は大夫という官職にあり鄭大夫と呼ばれて人々から尊敬されていた。
ある日の夜、外から鄭大夫を呼ぶ声が聞こえ、鄭大夫が外に出ると、赤い目の巨大な牛マジムン (魔物) が鄭大夫に向かって突進して来た。鄭大夫は牛マジムンの角を掴まえて押し止めたが、牛マジムンと一進一退の押し合いとなり、遂には鄭大夫が牛マジムンを組伏せ、唐守森まで押して行くと東の空が明るくなってきた。鄭大夫は力を振り絞り牛マジムンを大岩に押し付けて夜明けを待った。陽が昇りきると遂に牛マジムンが動かなくなった。鄭大夫が牛マジムンを見ると、牛マジムンは消えて、古ぼけた龕があるだけだった。

辻御嶽の開祖三王女の祠

唐守森の丘の中腹には幾つもの祠が置かれている。ここにじゅり馬行列での6番から8番目までの拝所がある。6番目の拝所は上村渠 (ウィンダカリ) で伝わっている辻御嶽の開祖とされる三王女の祠で、辻のアンマー (抱え親、貸座敷の女将) となった真加登之前 (マカトガニヌメー)、思鶴之前 (ウミチルヌメー)、音樽之前 (ウトゥダルヌメー) が祀られている。前村渠 (メーンダカリ) では別の伝承が伝わっているそうだ。拝所への入り口脇には貸座敷組合 (現在の辻新思会) によって昭和6年に改築された記念碑が立っている。何故、王女が遊郭の管理人と思うのだが、その理由ははっきりとは分からない。言い伝えでは、
むかし沖縄には、唐から船が入ると、たくさんの男たちが上陸し、長い間滞在していたが、その間民家にはいり込んできて婦女子にいたずらをする者が多かった。困った首里王府は向象賢が王に進言をし、三人の王女 (ウミナイビ) を辻 (チージ) に住まわせて、男たちの相手をさせた、つまり一般家庭の娘たちを守るために王の娘が犠牲になったのがチージのはじまりとある。
また別の言い伝えでは
むかし、首里中山の王女 (ウミナイビ) 三人が、生活が苦しく、辻にきてひっそり暮して いるのを唐からきた男たちが見染めて恋心をおこして、唐から持ってきた金や着物や食物などを持ちよって王女 (ウミナイビ) と協力して花の島をおこした。

更に、別の伝承は

王女が外国人にさらわれて身をけがされてしまい、王家へ戻ることが出来なくなってしまった。王女は外国人から沖縄の女性を守る為、側女(そばめ)と共に遊郭を開いた。
ともあるが、どちらにしても、もともとは首里城にいた教養のあった女性たちが下ってきたことで、辻には秩序があり、女性たちには品位があった。彼女たちが宮廷料理を辻に持ち込み、この辻から、接待、社交、芸能、行儀作法、髪結い、衣装、料理などの文化が生まれている。

辻開祖之墓

6番目の拝所は辻開祖之墓で、開祖三王女の祠の隣に置かれている。香炉が三つ置かれている。開祖とされる三王女を祀っているとされているが、この墓は近年になって辻ができた頃の女性たちの遺骨を集め、貸座敷組合が墓をつくったそうだ。

辻御嶽の火ヌ神 (ヒヌカン)

更に隣には二つ祠があり、一つは以前は上村渠 (ウィンダカリ) 守護神の獅子神、前村渠 (メーンダカリ) 守護神の弥勒 (ミルク) 神を祀っていたが、現在は物置になっており、もう一つがじゅり馬行列の7番目、最後の拝所になる火ヌ神がある。祠内には香炉が2つ置かれている。辻にあったふたつの集落の上村渠 (ウィンダカリ) と前村渠 (メーンダカリ) のそれぞれの火ヌ神を祀っている。

獅子屋拝所

ここにもう一つ拝所があり、香炉が置かれている。石柱の上には石造りのシーサーが置かれている。側には石碑があり「獅子屋拝所移転改築記念碑 1951年12月17日」と刻まれている。辻にあった上村渠 (ウィンダカリ) では守護神を獅子、前村渠 (メーンダカリ) では守護神を弥勒 (ミルク) として拝んでいた。ここには1951年に建てられた獅子屋があったのだろう。
以前は二つの守護神のシーサーとミルク神を火ヌ神の隣の祠で祀っていたが、現在は村屋で上村村渠のビンシーと前村渠のビンシーを保管している。

獅子屋御嶽 (辻南公園)

辻一丁目の前身の前村渠 (メーンダカリ) の御嶽が辻南公園内に置かれている。この拝所のメインは正面の大きな祠で獅子屋となっている。この祠に獅子が保管されていたのだろう。公園の入り口にはシーサーのプレート、祠上には石のシーサーが置かれている。

この拝所は獅子屋 (シーサーヤー) の御嶽、クバチカサの御嶽と呼ばれ、前村渠の守護神の弥勒 (ウミルク) 神を祀っている。前村渠の根所であった春風楼が管理していた。明治41年に仲島と渡地の両遊廓が辻遊廓に併合された後は、移住して来た仲島と渡地のジュリはこの獅子屋の御嶽を拝んでいたが、戦後は唐守森で御願をするようになった。公園内にはいくつもの小さな祠が置かれている。それぞれの拝所が何を祀っているのかは情報が見当たらなかった。

前村渠にあった拝所で現在も残っているのはここだけなので、おそらく前村渠に点在していた拝所をここに移設合祀しているのだろう。前村渠の守護神はミルク神 (弥勒) なので、このうちの一つはその拝所と思う。


大正劇場跡

獅子屋御嶽 (辻南公園) から2ブロック南に戦前には大正劇場があった。1915年 (大正4年) に旧西新町3丁目 (現在は辻一丁目) に、琉球国最後の王 尚泰の四男の尚順男爵によって建てられた劇場で、当初は映画なども上映していたが、後半はもっぱら沖縄芝居を上映していた。1944年 (昭和19年) の10•10空襲により焼失してしまった。

辻原墓地跡 (チージバルボチ)

那覇の北西沿岸部は辻原 (チージバル) と呼ばれ、辻の街からの外れになる。海外線には岩礁台地が連なって潮の崎 (スーヌサチ) と呼ばれる岬があった。この辺りは戦前までは東村、西村に居住した人々の墓も造られ、那覇の一大墓地地帯となっていた。
普段は人気もなく、荒涼とした辻原も、旧暦3月の清明の時期には、それぞれの墓に親戚一同が集まり、 墓前に重箱を広げ、賑わいを見せたという。終戦後の1953年 (昭和28年) から辻から若狭にかけての区画整理が始められ、辻原を含む海岸一帯にあった 1,700基余りの墓はすべて移転を命じられ、1956年 (昭和31年) から整備された識名霊園に移転している。潮の崎のあった海岸丘陵も削り取られ、墓石や周囲の石垣の石は埋立部材や石粉として道路整備などに使われた。
辻原跡地はその後、歓楽街として整備され、現在も多くの風俗店が密集している。辻の遊廓跡はほとんどが住宅街になっている。

三文珠 (サンモウジ)

旧辻村の海端の岩礁台地にあった辻原墓群跡の西の端に三文珠と呼ばれる小高い丘陵がある。
三文珠の由来については、尚敬王の時代、名護聖人と称えられた程順則 (名護親方寵文 ナグウェーカタちょうぶん 1663~1734年)、スグリ山田と呼ばれた阮瓚 (山田親雲上龍文: 1678 ~ 1744年)、 三司官の蔡温(具志頭親方文若: 1682~1761年) の三賢人が琉球の国事について語り合った場所なので三文珠 (さんもんじゅ) と呼ばれるようになり、いつしかそれが「サンモウジ」に転訛したと伝えられている。これは後世の作り話とも言われているが、三人は首里王府内で同時期に要職にあったので、何処で会っていたかは別として、度々会合は行っていただろう。また、「サンモウ」は紗帽と呼ばれる被り物、「ジ (シー)」は岩を意味するので「紗帽のような形の岩」が語源ではないかともいわれている。 
この丘にも幾つか墓跡がある。その一つには坊主神 (ボウヂガミ) と書かれた石碑と香炉が置かれた古墓がある。徳の高い僧侶の墓で、死後も参拝者がたえなかったという。

料亭那覇、料亭佐馬、料亭松之下

1944年 (昭和19年) の10・10空襲により辻は焼失し、270年あまりの歴史に幕を下ろしている。戦後、辻には食事と琉球芸能を堪能できる料亭が立ち並ぶ花街として復活している。辻の女達が逞しく多くの料亭を立ち上げ、その中で、料亭松之下、料亭左馬、料亭那覇は那覇の三大料亭と呼ばれた。料亭那覇は現在で続いている。
料亭左馬は三文珠の前にあったが取り壊され、老人ホームが建てられ、玄関には料亭佐馬にあった馬の銅像が残されていた。

料亭松之下は唐守嶽の丘の上にあったが、現在は松風邸という老人ホームが建っている。

この料亭松之下は4才で辻に売られ、ジュリとなり、アンマーとなった上原栄子が、戦後、ブロードウェイの舞台や映画 (マーロン・ブランド、グレン・フォード、京マチ子) で話題にもなった八月十五夜の茶屋 (The Teahouse of the August Moon、後の料亭 松の下) を立ち上げた料亭。1953年には私費を投じて戦後初めてジュリ馬行列を復活させている。辻での人生を「辻の華」という自伝で表している。

波の上うみそら公園

辻村巡りが終わり、福州園のライトアップまではまだ時間があるので、戦後辻の海岸が埋め立てられた波の上うみそら公園で休憩と訪問記編集をする事にした。この波の上うみそら公園は、2011年に海底トンネル「うみそらトンネル」の整備にあわせて、大規模に再整備されたもので、トンネル名からうみそら公園となっている。
沖縄の公園はどこでも猫の楽園になっている。散歩する人が餌をあげるので、痩せた猫はあまりいない。東屋に入ると何匹も猫が餌をねだって泣きながら寄ってくる。残念ながら餌は持って来ていないのだが、それでも戯れついてきて、暫く猫の相手で時間を潰す。

福州園の6時のライトアップが近づいてきたので、公園を後にして福州園へ。着くと門は閉まり、突然の臨時休館の張り紙を目にした。事前に休館日も調べて来たのだが、残念。次回訪問として、帰途に着く。帰り道の途中、西町のパシフィックホテル沖縄がイルミネーションで飾ざられていた。クリスマスが近くなって来ているので、街はそろそろその準備を始めている。


今日も日中は時々パラパラと小雨が降る時があったのだが、帰り道の途中からまた雨が降り出し、暫くするとかなり強く降って来た。これ以降は朝まで雨が降り続いていた。この雨では福州園を訪れても大変だっただろう。訪問が別の日になって良かったのかも知れない。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)

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