練馬区 08 (18/01/23) 下練馬村 (5) 練馬

下練馬村 練馬 (ねりま)

  • 馬頭観音 (23番、24番)
  • 練馬十一ヶ寺
    • 仁寿院
    • 迎接院
    • 本性院
    • 得生院
    • 九品院
    • 林宗院
    • 称名院
    • 受用院
    • 仮宿院
    • 宗周院
    • 快楽院
  • 栗山城跡/右馬頭屋敷
  • 信行寺
  • 白山神社
  • 成田山不動尊
  • 馬頭観音 (25番)、聖観音
  • 阿弥陀寺
  • 瘡守神社
  • 馬頭観音 (21番) 
  • 馬頭観音 (19番) 愛染明王堂
  • 庚申塔 (42番) 
  • 了見寺
  • 筋違橋跡

昨年の10月8日、10日に練馬の幾つかの史跡は巡ったのだが、まだまだ、見終わっていないスポットがあるので、今日は残りを巡る。午後からは病院、夜は前職の同僚と会食があるので、午前中だけの練馬訪問となる。


下練馬村 練馬 (ねりま)

練馬は練馬区のやや中央東寄りににあり、北部を早宮、南部を中村北、豊玉北、豊玉上、東部を桜台、西部を向山と接している。

歴史上で「練馬」があらわれるのは15世紀には石神井城の出城として練馬城が登場している。1477年 (文明9年) に、練馬・石神井の領主豊島泰経は、太田道灌を攻めて両城から出陣をし、道灌に敗北し、豊島氏は滅亡している。また、戦国時代の記録に「練間」と書いたものがある。練馬の当て字と思われる。更に練馬の由来については一説では8世紀頃に武蔵と下総を結ぶ官道に「乗瀦」という宿駅があった。これをノリヌマと読んで、ネリマに訛ったと推測されている。まだまだ練馬の由来については諸説あり、むかし馬どろぼうが、盗んで集めた「馬を調練」したところが現在の練馬だという話がひろくしられている。練馬は練場 (ねりば) だとする説もある。この辺は古代に土器を作る粘土が豊富で、材料の土を練るのに最適の場所であった。貫井 (旧上練馬村) の遺跡から都内では珍しい窯場跡が発見された。

練馬は、江戸時代から明治、大正までは下練馬村に属していた。1929年 (昭和4年)、村は一時町制をしいたが、1932年 (昭和7年) の板橋区成立によって、練馬南町4丁目、5丁目となった。1947年 (昭和22年) に板橋区練馬支所管内が分離独立して「練馬区」が誕生し、練馬南町から南町に変更。1962年 (昭和37年) に住居表示制度が施行されて、翌年に町名が「練馬」となった。都内で住居表示制度が施行されての第1号だった。

練馬の民家の変遷を見ると、明治期は南側に大きな集落があることが判る。東側に小さな集落が点在している。北側はほとんど民家は見当たらない。戦前まではこの南の大集落と東の集集落がわずかに拡張している。戦後は全域の民家が拡張してる。現在では学校、公園などの公共施設と寺社仏閣以外はほとんど民家で埋め尽くされている。

上の民家の分布を見てもわかるように、練馬の発展は戦後に始まっている。人口データは1955年以前は未入手で、戦前は人口がどのように推移していたかは不明だが、1950年代前半までに、1915年 (大正4年) に開通したて鉄道の練馬駅を中心に発展し、人口が増えていったのだろう。そのせいか高度成長期でも、他の練馬地域に比べて人口はさほど増加していない、1968年を人口のピークとしてその後は人口減少が長く続き、2000年には1956年のレベルまで減少している。2000年代に入ると人口は横ばい状態となり現在もその傾向にある。一方世帯数は2000年代に入ってからは増加傾向が続いている。世帯数あたりの人数が1.7人と極めて低い。練馬の南部は商業施設が多く、単身者や学生が人口に占める割合が多いのではないだろうか。


練馬区史 歴史編に記載されている練馬台内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院、林宗院、称名院、受用院、仮宿院、宗周院、快楽院、成田不動尊、阿弥陀寺、信行寺、了見寺
  • 神社: 練馬白山神社、瘡守神社
  • 庚申塔: 1基 馬頭観音: 7基

馬頭観音の20番は表示されている住所を何度も回り探したが見つからなかった。消滅したか移設されたのかも知れない。


まちづくり情報誌「こもれび」- 練馬

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


練馬訪問ログ



馬頭観音 (23番、24番)

旧豊島園の庭の湯の前の細い路地に、二つの馬頭観音が並んで置かれている。23番の馬頭観音は1910年 (明治43年) に作られた比較的新しいもので、三角形の自然石を利用して文字型になっている。隣の24番馬頭観音は更に新しく、1927年 (昭和2年) 製で方形文字型となっている。昭和時代にもまだまだ馬頭観音信仰が続いていた事がわかる。

練馬十一ヶ寺

馬頭観音 (23番、24番) から豊島園通りを少し南に進んだ東側に寺院が集まっている地域がある。豊島園通りから一本道が東に伸びており、その両側に区画整理されていくつもの寺院がある。敷地は狭いので、民家が寺となっている様な所もある。ここには浄土宗の11の寺が集まっており、練馬十一ヶ寺と呼ばれている。浅草にあった田島山誓願寺の塔頭のうち11ヶ寺が、関東大震災後に、この地へ移転してきたもの。田島山十一ヶ寺とも呼ばれている。道の奥は墓地になっている。この11の寺の仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院、林宗院、称名院、受用院、仮宿院、宗周院、快楽院を見ていく。

仁寿院

仁寿院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、1597年 (慶長2年) に本蓮社心誉祖源和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

迎接院

迎接院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、寛文年間 (1661-1673) に清蓮社久誉接阿浄可比丘が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

本性院

本性院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、寛永年間 (1624-1644) に乗蓮社台誉蓮休和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

得生院

得生院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、寛永年間 (1624-1644) に吟蓮社竜誉王阿雲跡和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

九品院

九品院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、1599年 (慶長4年) に本蓮社正誉秀覚和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建し、田島山誓願寺の塔頭西慶院と合併した。関東大震災後当地へ移転。狭い境内には西慶院で安置されていた蕎麦食地蔵が安置されている。蕎麦の尾張屋へ蕎麦を食べに来ていたという言い伝えがあるそうだ。

林宗院

林宗院は、阿弥陀三尊を本尊とする浄土宗の寺で、1617年 (元和3年) に重蓮社葉誉林宗和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

称名院

称名院は、阿弥陀三尊を本尊とする浄土宗の寺で、名蓮社方誉実阿称西和尚が、田島山誓願寺の塔頭として1594年 (文禄3年) に開山、開基、1599年 (慶長4年)開創。

受用院

受用院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、1626年 (寛永3年) に浄蓮社清誉円授和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

仮宿院

仮宿院は、腹帯阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、1595年 (文禄4年) 音誉上人が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

宗周院

宗周院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、寛永年間 (1624-1644) に迎蓮社求誉古閑和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

快楽院

快楽院は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺で、1594年 (文禄3年) 翁誉文公和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建。

栗山城跡/右馬頭屋敷

練馬十一ヶ寺の墓地の東は開進第二中学校になっているが、付近には旧石器時代から平安時代にかけての栗山遺跡があり、校舎建設の際に縄文時代のものと思われる貝や土器が多数発掘された。また、ここには南北朝時代に練馬城の出城の栗山城があったとされ、おなじく中世に右馬頭の屋敷が建っていたという伝承がある。
栗山城は石神井川の段丘高台の上にあり、西側にある練馬城の守りの出城の役割をになっていた。

信行寺

栗山城跡 (開進第二中学校) の南に浄土真宗本願寺派の本尊を阿弥陀如来とする龍王山信行寺がある。新しい寺院で1920年 (大正9年) に西巣鴨町池袋不動堂に真行寺出張所 (高尾山説教所) として開教した事から始まり、1929年 (昭和4年) に現在地に移ってきている。現在の本堂は1955年 (昭和30年) に本願寺築地別院を模して、インド式築地型に建立されたもの。

白山神社

練馬十一ヶ寺の南には白山神社があり、主祭神として伊邪那美命を祀っている。創建は平安時代といわれている。8世紀半ば頃には、この辺りには馬を乗り継ぎ施設の武蔵国の乗潴駅 (のりぬま) があったと云う説があり、当時から周辺に集落があったと考えられている。現在は中野沼袋氷川神社の兼務社となっている。鳥居を入ると左側には1997年 (平成9年) に新築された神楽殿 (写真右上) がある。本殿への階段の登り口に国の天然記念物に指定されている大欅 (下) がある。以前は2本の欅があったのだが1本は枯れて2016年に撤去されてしまい、今は一本のみ残っている。この欅は樹齢は推定900年と言われ、1083年 (永保3年) に源義家が後三年の役で奥州へ向かう際、戦勝を祈願して欅の苗を奉納したと伝承が残っている。
階段を登った境内正面には2010年 (平成22年) に造営された拝殿と本殿がある。社殿の右手に境内社の赤鳥居の三社稲荷神社 (右下)、石段を上った左手には、この地の三峯講で信仰を集めた小さな祠の境内社の三峯神社 (中下) がある。

成田山不動尊

白山神社の鳥居の横の道の向こう側に真言宗智山派の成田山不動尊がある。開山は正平・文和年間 (1352年-1355年) と言われている。敷地内には不動堂が建てられて、中に不動明王坐像が置かれている。門には新省講と書かれている。新省講は成田山を信仰する講組織で、明治20年に認可されている。この地域にはいくつもの成田山不動尊がある。


馬頭観音 (25番)、聖観音

成田山不動尊敷地内には二つの石仏もあった。向かって左は1775年 (安永4年) に造られた馬頭観音で、右は1788年 (天明8年) に造られた聖観音になる。


阿弥陀寺

成田山不動尊のすぐ南側に阿弥陀寺がある。阿弥陀寺は山号 慈光山で本尊を阿弥陀如来とする練馬区内では唯一の時宗寺院になる。開基 渡船により1380年 (康暦2年) に創建されたと伝わっている。この辺りの時宗布教の拠点であったといわれる。江戸時代のには、品川の長徳寺の説教所 (阿弥陀堂) として付近の信徒を集めていた。本堂前には1729年 (享保14年) に作られたひぎり地蔵が堂宇に鎮座している。日を限って祈願すると願いが叶うことから「ひぎり地蔵」と呼ばれ、眼病治療、子育ての信仰を集めていた。

瘡守神社

阿弥陀寺の南側の駐車場の中に赤鳥居と小さな祠の瘡守神社が残っている。日本各地に瘡守神社、瘡守稲荷、笠森神社は多くあり、疱瘡から村の人を守るために建立されている。瘡守神社の前にももう一つ小さな祠があるが詳細は不明。

馬頭観音 (21番)

阿弥陀寺の西側は共同墓地になっており、その中に21番で登録された馬頭観音が移設されている。1707年 (宝永4年) に造られた舟形で馬頭観音が浮き彫りされている。

馬頭観音 (19番) 愛染明王堂

馬頭観音 (21番) のある墓地の南は住宅街で、その民家の塀にもう一つ馬頭観音が置かれている。Google Mapでは愛染明王堂となっているのだが、資料では馬頭観音で19番として登録されていた。つくられた時期は不明だが、板駒形で頭に馬の飾りをつけた馬頭観音が浮き彫りされている。

庚申塔 (42番)

東側の弁天通り沿いに、1753年 (宝暦3年) に作られた方形笠付きの庚申塔が道角に置かれている。垣根で囲まれて大切に保存されている。庚申塔正面には青面金剛像が浮き彫りされている。

了見寺

練馬駅の北側に真宗大谷派の栄照山了見寺がある。1925年 (大正14年) に練馬近在で最初の浄土真宗の説教場を設けたのが、了見寺の前身になる。1931年 (昭和6年)、当時は新寺建立が制度上困難だったため、山梨県東山梨郡岡部村 (現在の笛吹市) にあった廃寺寸前だった了見寺を練馬に移設。現在の本堂は1942年 (昭和17年) に建てられたもの。

筋違橋跡

練馬駅の南を走る千川通りの道に筋違橋跡と書かれた石柱が立っている。千川通りは江戸時代に造られた千川上水が走っていた。この辺りにはもはや上水の面影はなく、現在では暗渠化されている。この場所には千川上水を渡る筋違橋という小さな橋が架かっていた。ました。
石柱の側面に説明とかつての橋の写真がある。それを見るとこの石柱は筋違橋の親柱を復元したものだった。


午後からは病院で定期検診、そのあと別の病院で薬をもらう予定があるので、午前中に練馬の史跡巡りが終了し、病院のある虎の門に向かう。そのルートで中野区を通ったのだが道沿いにいくつもの地蔵尊、庚申塔、神社があり、寄り道をしながら自転車を走らせた。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
  • 練馬の石造物 路傍編 1 (1991 練馬区教育委員会)

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