練馬区 09 (19/01/23) 下練馬村 (6) 早宮

下練馬村 早宮 (はやみや)

  • 夜泣き地蔵尊、庚申塔 (61番)
  • 庚申塔 (62番) [不明 未訪問] 早宮3-43
  • 内田家屋敷森
  • 庚申塔 (73番)
  • 御嶽神社、須賀神社、榛名神社
  • 庚申塔 (60番)、地蔵尊
  • 下練馬道碑
  • 庚申塔、埼玉道説明板
  • 旧下練馬村役場
  • 不動明王坐像と敷石供養塔
  • 糀屋庚申塔 (37番)
  • 堰ばあさん祠跡
  • 東早淵遺跡、早宮史跡公園
  • 早宮公園、田柄早淵道紀念碑
  • 本寿院
  • 馬頭観音 (44番)


今日は昨日訪れた練馬がある旧下練馬村の早宮地区を訪れる。早宮ににあった早淵 と宮ヶ谷戸の二つの小名に残っている史跡を巡る。夕方は日本橋で大学時代の同級生との会食がある。長い一日になりそうだ。



下練馬村 早宮 (はやみや)

早宮は練馬区の東北部に位置し、北は北町、南は練馬と桜台、東は平和台と氷川台、西は春日町と接している。

現在の早宮は江戸時代には下練馬村に属し、早淵 (はやぶち) と宮ヶ谷戸 (みやがいと) の二つの小名があった。早宮の名はこの2つ小名の1字ずつをとって町名にしている。早淵の「淵」は澪 (みお) のことで、川の底が深く、舟が通りやすいところをいう。石神井川の大橋の辺りから高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かった。その付近の左岸(早宮1丁目・3丁目)を昔から早淵前 (はやぶちまえ) といっていた。 明治になって江戸時代の早淵は東早淵、西早淵、北早淵などに、宮ケ谷戸は北宮、中宮、南宮などの小字に分割された。明治22年町村制施行後は、これらの分割地名が公称となった。 
この地域は1929年 (昭和4年) に練馬町に含まれ、1932年 (昭和7年) に板橋区練馬仲町4~6丁目となった。1965年 (昭和40年) の住居表示変更で早宮となった。この時に、地元ではここにある明治15年開校の開進第一小学校の名をとって、町名を「開進」とする案が有力だったが、開進の名の学校がここ以外に幾つもある事からふさわしくないということで、江戸時代の二つの小名「早淵」と「宮ケ谷戸」の1字ずつをとって早宮に決まった経緯がある。 
明治時代には現在の早宮には多くの集落が見られる。他の練馬区の明治時代の村の中でも集落の数は多い。戦前までは、それほど拡張していないが、戦後、急速に発展して現在は地域全土は民家で覆われている。

早宮の人口は戦後に増え始めている。特に高度成長期には急激に人口が増えている。高度成長期が終わると人口増加は緩やかにしだいに横ばい状態となるが、は減少しているが、1980年代、1990年代に再び人口増加となり、2000年からは横ばい状態となっている。


練馬区史 歴史編に記載されている早宮内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 本寿院
  • 地蔵尊: 地蔵尊、夜泣き地蔵尊
  • 神社: 御嶽神社、須賀神社、榛名神社
  • 庚申塔: 5基 + 1基 (桜台から移設) 馬頭観音: 1基


まちづくり情報誌「こもれび」- 早宮


早宮訪問ログ



早宮の南側からこの地域にある史跡を見ていく。

夜泣き地蔵尊、庚申塔 (61番)

賑やかな早宮中央通りから路地に入った所に堂宇があり、中には地蔵尊と庚申塔が納められている。この地蔵は1718年 (享保3年) に講中27人によって建てられたもので、地元では夜泣き地蔵と呼ばれ、子供の夜泣きに御利益がある事から古くから多くの人に信仰され、遠方からも多くの人々が参詣にやってきたとつたわっている。地蔵尊の隣の庚申塔は夜泣き地蔵よりも10年程前の1708年 (安永5年) に下練馬の内宮谷戸西村 結衆12人により、駒型の塔で造られ、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿/二鶏が彫られている。地蔵尊や庚申塔は人通りがある場所に建てられており、このケースも例外ではなく、この道がかつて、練馬の村々をつないでいた下練馬道になる。旧下練馬道は早宮中央通りでこの地点でこの路地に通じていた。

庚申塔 (62番) [不明 未訪問] 早宮3-43

夜泣き地蔵尊、庚申塔 (61番) の近くに庚申塔 (62番) があると資料にあったので、この番地を囲んで入る道沿いを注意して探すが、新しい住宅街となっており、見つからなかった。消滅したのか、移設されたのだろうか?


内田家屋敷森

夜泣き地蔵尊の東側の住宅街の中に立派な邸宅がある。内田家の屋敷で、ここ邸宅内には屋敷林があり、ケヤキ、シラカシ、ムクノキ、エノキなど、高さ2m以上の樹木が300本以上生育しているそうだ。門前のケヤキは高さ30m、幹周り4.5mの巨木。
その他も屋敷の四方を取り囲むように幹周り2m以上のものが21本生育しているそうだ。


庚申塔 (73番)

夜泣き地蔵尊の前の道は江戸時代は北町と豊玉を結ぶ下練馬道と呼ばれた古道で、現在の早宮中央通りになっていく。早宮中央通り (旧下練馬道) を北に少し行ったところの街道沿いに小堂があり、その中に1735年 (享保20年) に下練馬村宮ケ谷戸の講中14人によって作られた駒形庚申塔が置かれている。正面には日月雲 合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされ、右脇に「奉造立庚申供養爲二世安樂」と刻まれている。


御嶽神社、須賀神社、榛名神社

早宮中央通り (旧下練馬道) を更に北に進みと、祠が集中している場所があった。御嶽神社、須賀神社、榛名神社の三つの神社となっているが、立派な神社ではなく、小さな祠があるだけだ。この三つの神社についての情報は見当たらなかったが、かつては屋敷神だったように思える。


旧下練馬道から路地を入った所に御嶽神社がある。

路地を少し進んだところに須賀神社がある。

早宮中央通り (旧下練馬道) に戻り、進んだ四つ角には榛名神社。神社と呼べるほどのものではないが、榛名神社と書いている。1916年 (大正5年) に北早瀬中講中により、講中安全を祈願して建てられたもの。


庚申塔 (60番)、地蔵尊

三つの神社のすぐ近くの東側に空き地があり無数の石塔や地蔵尊が立っている。整備されているようでは無い。墓地だった様な気がする。墓は奥に、道沿いに地蔵尊、観音像、庚申塔は自然な配置と思う。地蔵尊は三体あり、いずれも18世紀に早淵村の有志により作られている。この辺りは江戸時代は小名の早淵で明治時代になり三つに分割され北早淵だった地域。庚申塔 (写真下) は地蔵尊よりもっと古く1665年 (寛文5年) に早淵村講中により方形笠付塔で庚申塔と文字が刻まれている。文字塔の下部には三猿が彫られている。


下練馬道碑

下練馬道に戻り更に進む。道には新しく建てられた道標があった。下練馬道は江戸時代には川越街道の七軒家 (板橋区上板橋) 付近から南に分岐し、旧下練馬村の今神 (現在の錦の一部)、本村 (現在の平和台の一部)、重現 (現在の平和台の一部)、ここ早淵など、下練馬村の中央を北東から南西へ走る幹線道の一つだった。この下練馬道は村の中心 (本村が下練馬の中心地だった) から近郷の村々へ通じる便利な生活の道だった。


庚申塔、埼玉道説明板

環八通りの開進第一小学校の前に埼玉道説明板とそこに庚申塔が置かれている。庚申塔は道しるべを兼ねている。平和台駅前交差点から氷川台駅に向かうこの道は、江戸時代には北は戸田から南は雑司ヶ谷、高田を結ぶ埼玉道という街道だった。

庚申塔は1866年 (慶応2年) の駒型の石塔で作られ、正面は摩耗してるというよりは削り取られた様で何が刻まれていたかは不明だが、輪郭は青面金剛像だったように思える。塔の右側には「右 上板ばし 下板ば志 道」、左側には「左 ねりま宿 戸田渡し 道」と道しるべになっている。道の分岐点に置かれていたのだろう。右方向が上板橋/下板橋とある。これは下練馬道ので下練馬宿の下宿/上板橋に通じている。左方向が練馬宿 (下練馬宿) 更に戸田の渡し (荒川にあった) であれば、高田道の事かも知れない。高田道だと下練馬宿の上宿に通じ、さらに戸田の渡しに通じる。ここはそのような道並みではないので、いつの時代かに、近くからここに移設されたように思われる。


旧下練馬村役場

埼玉道説明板が置かれている場所にある歩道橋を渡った所にはかつては下練馬村役場が置かれていた。ここを走っている道路が早宮と平和台の境で、下練馬村役場は平和台川にある。現在は子どもクラブになっているが、その門柱は以前あった下練馬村役場当時のものを使っている。役場は木造2 階建てで、明治末に建てられ、昭和22年に練馬区が板橋区から独立した時に、第2出張所となり、昭和34年には老朽化して建てなおされた。



旧下練馬道の南側、石神井川沿いにある早宮の文化財に移る。



不動明王坐像と敷石供養塔

先に訪れた夜泣き地蔵尊から東の石神井川に架かる大橋の遊歩道に不動明王坐像がある。この大橋辺りから高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かったので、その付近の左岸を昔から早淵前と呼ばれていた。この大橋は埼玉道から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、ふじ大山道へ至る田中道が通っていた。 武蔵国から大山へ詣でる人々が、石神井川のこの辺りのほとりで禊をしていた。その事から、大山の阿夫利神社の祭神の不動明王像が、1821年 (文政4年) に下練馬村早淵念仏講中の人々によって造立された。正面には「奉造立不動明王村人安全祈所」と刻まれている。右脇には石柱があり、同じく淵念仏講中の人々によって1792年 (寛政4年) に建てられた鋪石供養塔。正面には「奉建立鋪石供養塔」とあり、右側面には1803年 (享和3年) に隣村の宮ケ谷戸の玄覚という人が金三両一分寄進したと追記されている。敷石の整備費用だろう。今回訪問で幾つかの敷石供養塔があった。これも民間信仰の一つで、石にも魂があると考えられており、踏みつけられて人の役に立つ敷石を、魂あるものとして供養していた。天台宗などでも供養する事から一般的なものだった。敷石や石橋の敷設には多大な経費と人手を必要とし、人々は寄進や労力提供は功徳と考え、供養塔を建てる事で村を悪霊から守ることにつながると考えられていた。

糀屋庚申塔 (37番)

石神井川沿いの高稲荷公園の道路脇に花が供えられた庚申塔がある。糀屋庚申塔と呼ばれている。この庚申塔は、かつては埼玉道から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、石神井川の大橋を渡ってふじ大山道へ至る旧道の辻 (桜台2-43) に建てられていた。1689年 (元禄2年) に講中8人が庚申待の成就を記念して造立したもので、板駒形の塔で正面には青面金剛立像が浮彫りされ、上部に青面金剛を表す梵字 「ウーン」が見られ、右側には「奉 ときにげんろく 造立庚申待成就所」左側には「于時元禄 つちのと み 二天己巳二月十七日」と刻まれている。

堰ばあさん祠跡

糀屋庚申塔 (37番) の道を石神井川沿いに進み高稲荷橋の橋柱に堰ばあさん祠跡の案内板が置かれていた。それによると、
高稲荷の台地から西へ500m ほど、石神井川をさかのぼったあたりを糀屋といい、その昔、村人たちは、田畑に水を引くための堰をつくりました。 村人は長い間、堰の番をしていたおばあさんを「堰ばあさん」と呼んで大事にしていました。ある時、堰ばあさんの姿が見えなくなり、心配して小屋をのぞくと大きな蛇がいました。 村人たちは蛇は堰ばあさんの化身 に違いないと思い、堰の安全と堰ばあさんの供養のために小さな祠をたて、「堰ばあさん」と呼 んで、花や線香をあげました。ここにお参りすると咳が治るといわれていました。

東早淵遺跡、早宮史跡公園

堰ばあさん祠跡がある高稲荷橋から北に進んだ所に早宮史跡公園がある。この公園はここで見つかった旧石器時代から平安時代までの複合遺跡の東早淵遺跡を保存の為に造られている。1983年から1984年にかけて発掘調査が行われ、旧石器時代の石器製作跡をはじめ、石蒸し調理をしたと思われる礫、縄文時代の鏃や土坑、弥生時代の住居跡、方形周溝墓、高坏型土器、甕形土器、壺型土器などが確認された。1990年の調査では、平安時代の住居跡や墨書土器も発見されている。それらの遺構は地下に埋め戻し、覆土の上に雑木林が植えられ公園はとなっている。発掘調査には多くの子供たちが参加し、公園には子供達の作品や弥生土器を模した石塔など遺跡の発掘物をイメージしたモニュメントが展示されている。


次は旧下練馬道の北側の早宮の文化財に移る



早宮公園、田柄早淵道紀念碑

東京メトロの平和台駅の近くに早宮公園がある。公園内に田柄早淵道紀念碑が置かれてる。大正15年11月に建てられたもの。この辺りは北早淵で田柄はこの北西に当たる。田柄早淵道が度の道なのかは調べても見つからなかったが。この碑がある前の道を北に進むと田柄通りに通じている。明治時代之地図ではこの道は無く、戦前の地図にはあるので、多分、この前の道が田柄早淵道だったのだろう。


本寿院

東京メトロの平和台駅の近くには日蓮宗の久遠山本寿院がある。寺伝によると、開山日宜上人が江戸時代の初期に宗祖 (日蓮) の尊像を背負って諸国を廻り、中仙道の板橋仲宿で火事に遭遇し、祖師像を失くしてしまった。祖師像発見の祈願をしたところ、近くの林の中に発見したが、どうしても動かすことができなかった。そこで祖師像を安置する堂宇を設け、その後、布教伝道に尽くしたのが当寺の起こりといわれている。本尊は久遠実成の本師釈迦牟尼仏。二世日秀上人の時代に、開山の法諱に因んで寺号を「本壽院」と称え、三世日意上人の代には身延山久遠寺から特に「久遠山」の山号が与えられている。長く板橋にあったが、1937年 (昭和12年) に中山道の改修工事の際に現在の場所に移転した。1972年 (昭和47年)、宗祖の降誕750年記念として本堂を再建、1982年 (昭和56年) には宗祖の700遠忌を記念し、客殿の新築その他の整備が行われた。
境内には報恩塔、大供養塔、記念碑等の石造物や聖観世音菩薩青銅像等多数ある。

馬頭観音 (44番)

本寿院墓地の入り口左手、雨除けの下に石塔がある。馬頭観音が納められており、今まで見てきた馬頭観音とは大きく異なり非常にユニークな像だ。1823年 (文政6年) に造られたもので舟形光背に馬が法衣をまとって数珠を持つ僧形の馬頭観世音菩薩が浮き彫りされている。光背部分の左側面に「施主 三河屋安次郎」、右側面には「駄善孩子 文政六年 六月廿日」と刻みまれている。これは三河屋安次郎がかわいがっていた仔馬の駄善孩子の供養のための造塔と伝わっている。


今日の会食は夕方6時からとなっている。再開する二人とも遠方からなので、早い時間から開始となった。夕食の場所は日本橋で、ここからは15km程で、自転車で1時間半ぐらいで着くので、この時間に合わせて、4時過ぎに史跡巡りを終えて東京に向かう。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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