Okinawa 沖縄 #2 Day 206 (27/08/22) 西原町 (6) Konaha Hamlet 小那覇集落
西原町 小那覇集落 (おなは、ウナファ)
- 小那覇公民館
- 旧村屋跡 (小那覇児童公園)
- 才口門 (セーグチジョー)
- 竜宮お通し (リューグウトゥーシ)
- 才口井 (セーグチガー)
- メーマチダグヮ側の井戸
- 産井 (ウブガー)
- 集落内の井戸
- 後間毛 (クシマモー)
- リージヌメー、リージヌメーヌウカー
兼久集落に次いで小那覇集落を巡る。
西原町 小那覇集落 (おなは、ウナファ)
小那覇は、西原平野の東部に立地する大きな村落で、かつて、村落の東側は、ウナファターブックッとよばれる肥沃な水田地帯だった。北側は掛保久に、西側は嘉手苅に、南側は小波津川を隔てて兼久にそれぞれ隣接している。小那覇は百姓平民村落ではあるが、 西原平野をとりまくように立地している古村落とは違い、 海岸平野の一角に位置する村落だった。小那覇 (ウナファ) という地名の由来については定かではないが、魚がたくさん寄ってくる漁場 (ナバ) からウ・ナファと名付けられたともいわれている。
1646年の絵図郷村帳には小那覇の村名はなく1713年の琉球国由来記に初めて登場する。17世紀中葉までは内間村に包含されていたと思われる。当初、小那覇はクシマモーを腰当 (クサティ 聖域) に小さな集落を形成していたが、しだいに南側の平坦地に住居を構えるようになった。その後、集落には殿が造られ、その近くに旧家が住居を構え、その周りに分家筋が広がるようになったと思われる。小那覇部落の世立始めは「玉城仲村渠より来る小那覇 在所、根所」とあり、地組始めとして 「大里 同村より来る小那覇子 在所 座神」とある。 地元での伝承では、小那覇部落の主な創始家として三宗家が あり、最も古い宗家はオロ家 (シェーグチジョウ) だといわれる。そこの先代は、約580年前、 山原 (国頭郡) の久志間切から小那覇に移って来たといわれる。その他に、創始家として宮城(ナーグスク) 家、カーヌハタ家などがあり、ほぼ同時期ごろにそれぞれ大里、北中城から移って来たといわれる。
戦前、小那覇集落は、南側に一番組から三番組までの前組と、北側の四番組から六番組まで後組で構成されていた。綱引などの組分もこれによっていた。戦前、旧県道沿いには肉屋、豆腐屋、雑貨店、そば屋、理髪店、質屋、乳牛屋、風呂屋、写真屋などが立ち並び、 与那原・泡瀬間の軌道馬車の中継駅もあたり、 西原でもっとも賑やかな通りだった。
戦時中の昭和19年、日本軍によって部落の東側に広がる農耕地が東飛行場建設のため強制接収され、飛行場建設が始められが、完成しないまま終戦を迎えている。沖縄戦では北の中城村の157高地、スカイランリッジが4月24日に米軍に攻略され、米軍は次のターゲットは小波津/運玉森に移っている。小那覇はそのルートにあたり、4月27-28には、米軍連隊部隊、戦車部隊が村内に入り次の戦闘に控えていた。沖縄戦では小那覇住民の38.5%にあたる414人が犠牲になっている。
戦後、その飛行場を米軍が拡張・整備したため、農耕地の9割近くが失われた。終戦後、生き延びた字民らや、本土や海外から引き揚げた人々は、住む土地もなく、与那城や我謝などに仮住まいを余儀なくされた。米軍飛行場は昭和34年に解放され、琉球政府は土地改良組合を設立させ、飛行場跡地を一大モデル農場に整備する計画を進めたが、様々な要因が重なり、その計画はしりすぼみになってしまった。その結果、飛行場が解放された後も多くの小那覇住民は各字に分散していた。そのため、元小那覇集落の集会への集まりも悪く、字小那覇の運営もうまくいかなかったといわれる。(当時は、別の地域に住んでいても住民登録は元の住所にしていた)
戦後、小那覇部落内の旧県道を迂回するかたちで軍道13号線 (現在の国道329号線) が開削されたため、かつての小那覇通りは昔の面影はなく、閑静な住宅街となっている。
昭和52年、行政区の改編が行われ、小那覇は嘉手苅や掛保久と統合され、第八区に編入された。これは沖縄の特徴的なもので、新たな区を組織はするのだが、旧集落の結束は強く、複数の集落を分割や合併した区では、旧来通り、昔の集落単位で別個に運営されていることが多い。上手くいかず、行政区を元の集落単位に戻すケースもある。西原の人口統計データは、新区組織単位のものと、旧集落単位のものの二つがある。住民は依然として旧集落の意識が強い。公民館も小那覇公民館、嘉手苅公民館、掛保久公民館と別々になっており、それぞれに自治会長がおり、「事務担当者」としての区長は三つの字の輪番制になっている。この様に、沖縄では昔ながらの集落単位での結束が強く、行政がそれに合わせてざるを得ないという複雑な仕組みになっている。
小那覇の人口については、明治時代と比較して、1.7倍にしか増加していない。沖縄戦で仲伊保、伊保之浜含めて約40%の住民を失っている。戦前の人口には40年後の1984年にようやく戻った状況だ。それ以降は人口は伸びたのだが、その伸び率はそれ程でもなく、近年は世帯数が微増傾向にあるが、人口は横ばい状況になっている。
西原町の他の地域と比較しても、人口増加率はかなり低くなっている。戦前までは人口ではトップ3に入っていたのだが、この伸び率の低さで、ランクは年々落ちてきており、今は真ん中ぐらいになっている。
人口の伸び率が低い原因が何なのかについて疑問があったので、西原町の都市計画図を見ると、近隣の地域は住宅地指定になっているが、小那覇は米軍飛行場返還後の都市計画が挫折したこともあるのだろうが、面積の半分は工業専用地域に指定され、住宅地域は戦前の集落地域周辺に限られている。それでも指定なしの地域もまだかなり広範囲にあるが、現在はそのほとんどが農地になっている。住宅地が広がる余地はこの指定なし地域に可能性はあるが、開発事業者にとっては、先祖伝来の土地の買収は難易度が高いのが原因の一つかもしれない。
琉球国由来記に記載されている拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: なし
- 殿: 寄揚森之殿 (才口門の拝所)
- 拝所: 小那覇火神 (才口門内)、リージヌメー、後間毛 (クシマモー)
- 拝井: 才口井 (セーグガー)
小那覇は、西原でも有数のコージャー米の名産地であっ たために、稲作に関連する豊作祈願の年中行事が盛んに行われてきた。旧6月15日のウマチー綱と旧6月25日のウハチ綱の両綱引が行われた。ウマチー綱はウガン (御願) 綱とも呼ばれ、村の少年らによって行われた。七年ごとに大綱引が行われ、周辺の部落からも応援 (ムラガシー、村加勢) にかけつけたといわれる。掛保久や仲伊保は雌綱 (後組) を、嘉手苅や伊保之浜は雄綱 (前組) をそれぞれ加勢した。 旧暦8月15日には、村屋前広場において五穀豊饒を感謝するためのムラアシビ (村遊び) が行われた。 ムラアシビのために、青年らは一ヵ月以上も前から踊りや狂言の練習に励んだ。ムラアシビは年中行事のなかでも大きな行事の一つであったが、多額な経費を必要としたので毎年は開催できず、不定期に約七年ごとに行われた。ムラアシビの前には、綱引と同様に部落内を獅子舞や棒術などを先頭に「ミチジュネー」が行われ、村屋広場の舞台では、踊、狂言、獅子舞、雑踊、組踊などが上演された。
小那覇集落訪問ログ
小那覇公民館
まずは、小那覇集落の中心地にある公民館に向かう。戦前の民俗地図では、この公民館の場所には前の広場も含めてクムイ (溜池) もあったサーターヤーだった場所になる。
旧村屋跡 (小那覇児童公園)
公民館の前の道路を渡った所に小那覇児童公園がある。この場所には戦前は村屋が置かれていた。戦後、現在の公民館に移動している。かつて、旧暦8月15日には、村屋前広場において五穀豊饒を感謝するためのムラアシビ (村遊び) が行われた。 ムラアシビのために、青年らは一ヵ月以上も前から踊りや狂言の練習に励んだ。ムラアシビは年中行事のなかでも大きな行事の一つであったが、多額な経費を必要としたので毎年は開催できず、不定期に約七年ごとに行われた。ムラアシビの前には、綱引と同様に部落内を獅子舞や棒術などを先頭に「ミチジュネー」が行われ、村屋広場の舞台では、踊、狂言、獅子舞、雑踊、組踊などが上演されたそうだ。
才口門 (セーグチジョー)
公民館から西に2ブロックの所に拝所がある。才口門 (セーグチジョー) と呼ばれている。この拝所の向かいが小那覇の国元 (クニムトゥ) とされる才口門中の屋敷だった。拝所には火ヌ神と部落の獅子が安置されている。琉球国由来記に寄揚森殿 (ユイアギムイヌトウン) の記載があり、これが才口門とも考えられている。戦前の民俗地図では寄揚森殿は別の場所になってる。 ここに祀られている火の神が小那覇火神と推測されている。寄揚森之殿においては、稲二祭 (五月ウマチーと六月ウマチー) の時、花米九合完、五水八合完、神酒完 小那覇地頭より、神酒一完が地元の百姓らからそれぞれ提供され、内間ノロによって祭祀が行われたという。まずは火ヌ神を拝み、次に竜宮お通しを拝んで、広場に着座してユーカンの拝みを行う。現在では安置されている獅子舞が旧歴8月の十五夜で披露されている。小那覇集落で才口 (セーグチ) 門中は古い門中で、部落のタチクチ (創始家)、クニムトゥ (国元) であった。昔は、この地域は海岸線だったといわれ、才口 (セーグチ) の名の由来は潮口 (河口の意) に由来している。大きな祠にはどうも三つに仕切られているようで、左にはおそらく獅子が安置されているのだろう。中央には五つの香炉が置かれている。才口門中の祖先を祀っているのだろう。右には霊石が大切に祀られている。火ヌ神だと思う。
竜宮お通し (リューグウトゥーシ)
この拝所の入り口の場所に祠がある。竜宮神へのお通し (リューグウトゥーシ、遙拝所) となっている。
才口井 (セーグチガー)
才ロ門の拝所内の一角に、才口井 (セーグチガー) と呼ばれる部落の産井 (ウブガー) があると資料に写真付きで紹介されていた。かつて、正月の若水はその井戸から汲んでいたという。民俗地図では才口門 (セーグチジョー) の拝所の向かいに才口門の屋敷があり、その敷地内に中に南と東に二つの井戸があったとなっている。この才口井 (セーグチガー) も現在の公民館の場所にあったと戦前の民俗地図ではなっているののだが、その場所には見つからない。
才口門 (セーグチジョー) に移設合祀されたのだろうか? 拝所敷地に四角く囲まれた場所があった。何のためなのか少し不自然な造りだ。これが形式保存された井戸なのか?
その場所は民家が建っており、井戸跡は残っていない。敷地内の別の場所に井戸がある。
メーマチダグヮ側の井戸
才口門屋敷跡の隣の空き地にも井戸がある。メーマチダグヮ側の井戸と記載されている。詳細はないのだがを、村では拝まれていた井戸だそうだ。
産井 (ウブガー)
公民館の北側にも産井 (ウブガー) があり、集落住民で共同に使われていた村井 (ムラガー) だったそうだ。この井戸も村で拝まれていた。
集落内の井戸
この小那覇集落を巡って、目に付いたのは、多くの家に井戸跡が残っていることだ。今でも使っているものもある。この集落は水には恵まれていたと思われる。幾つかを写真に撮ったが、これ以外にも多くあった。
後間毛 (クシマモー)
掛保久と小那覇との字界付近に小高い森があり、そこは後間毛 (クシマモー) と呼ばれる。小那覇はこのクシマモーを腰当 (クサティ 聖域) に小さな集落を形成していた。小那覇の古島にあたる。その後、しだいに南側の平坦地、現在の公民館周辺に住居を構えるようになっていった。
言伝によると、本来その森は小那覇村の所有であったが、酒升で掛保久村に払い下げられたといわれる。現在は掛保久後間毛都市緑地になっており、そこの丘の頂上には小さな祠があって、才口 (セーグチ) 門中の宗家のある久志江間へのウトゥーシ (御通し) の拝所となっている。戦前そこで出征兵士の武運長久を祈願したといわれる。
この高台からは小那覇の街並みが見下ろせる。
リージヌメー、リージヌメーヌウカー
小那覇と嘉手苅との字界付近に架けられた橋の近くに、リージヌメーと呼ばれる聖地がある。資料によってはこの拝所をビージル、ウガングヮとしているものもあった。
戦前まで、二本の大きなガジュマルがあった。人々が移民や出稼出征などで県外に旅立つ時には、必ずそこで旅の安全を祈願したといわれる。祠の側にはリージヌメーヌウカーと呼ばれる井戸跡もあり香炉が置かれて拝所となっている。戦前の民俗地図によるとリージヌメーの拝所はここより少し東にあり、その側に寄揚森殿があったとされている。二つの資料で食い違いがある。
小那覇は西原町の中では最も広い地域になるが、戦前は小那覇集落の東側には仲伊保、その南側の海岸線には伊保之浜という二つの行政区が置かれていた。沖縄戦では焦土となり戦後は米軍に接収され、仲伊保も伊保之浜も消滅している。次はこの消滅した二つの集落を見て行く。 (別レポート)
参考資料
- 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
- 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
- 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
- 西原町 歴史文化基本構想
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