Okinawa 沖縄 #2 Day 187 (29/05/22) 旧宜野湾間切 (6) Isa Hamlet 伊佐集落

旧宜野湾間切 伊佐集落 (いさ、イサ)

  • 伊佐前原遺跡
  • フンシンガー (クンチンガー)
  • 大井泉 (ウフガー)
  • 産井泉 (ウブガー)
  • ふんしん せせらぎ公園
  • キャンプ瑞慶覧 (Camp Zukiran) 、伊佐旧集落跡
  • 伊佐浜強制接収地
  • 佐阿天 (サーラ) 橋碑
  • 軽便鉄道路線跡
  • トゥユナガヌカー跡
  • 白比川 (しるひがわ)
  • 伊佐公民館
  • 共同拝所
  • 慰霊之碑


旧宜野湾間切 伊佐集落 (いさ、イサ)

宜野湾市の一号線道にあって、北に北谷町、南は字大山、字真志喜に接している。字伊佐内には、小字として後原 (クシバル)、伊利原 (イリバル)、伊佐原 (イサバル)、東原 (アガリバル)、前原 (メーバル)、上原 (メーバル ウィーバル) がある。集落は、伊利原と前原に形成されていた。戦前には、部落を南から北へ、県道と県営軽便鉄道が縦貫し、伊佐原に旧集落はあり、南側に丘陵、西側は伊佐浜に面していた。
伊佐部落は、現在の一号線山手の伊佐原、東原、前原に水田、キビ畑を形成していた純農耕部落だった。新城古川、伊佐の大川、ふんしん川などの水でうるおい、地質がよく豊かな農村だった。戦前、農作物の大半は、甘蔗と甘藷で、三分の一ほどが水稲と水芋で、甘蔗は、製糖会社へ売却するか製糖小屋で、黒糖にしていた。

伊佐集落の始まりについてははっきりした事は分からないが、南島風土記によると、伊佐村は慶長検地 (1609 ~ 1611年) の際には、既に浦添間切の一村として存在していた。 更に遡る記録では、1545年頃 (第二尚氏四代尚清王の時代) に、伊佐親方 (ウェーカタ) 豊長が伊佐村地頭に任ぜられたとあるので、16世紀前半には村として存在していた事がわかる。この伊佐親方 (ウェーカタ) 豊長は尚清王と伊佐大阿母志良礼 (いさうふあもしられ) の間の子で蔵根 (クラニー) 門中 思氏 (シーウジ) 伊佐家の元祖と伝わる。部落の拝所は東原に集在し、その辺から村建てが成され、伊佐原へ広がったという。伊佐集落の有力門中は、村元 (ムラムトゥ) の蔵根 (クラニー)、前門 (メージョー) で、後に呉屋が、200年前に喜友名部落より移住して来ている。
昭和20年4月1日に、米軍が北谷に上陸し、4月4日~5日には伊佐を占領し、住民は捕虜となり野嵩に収容された。昭和22年頃に、やっと部落への帰還の許可が降りた。
戦後、かつての国道58号線内側にあった集落や畑は米軍基地 (キャンプ瑞慶覧) に接収され、道路下の海岸側に移動を余儀なくされた。伊在は農耕地の約90%を失ない、農業は再開できず、ほとんどの住民が米軍基地に関わる軍作業で生計をたてていた。伊佐は水に恵まれていた事から、住民は自力で水道をしき、一戸あたり基本料金月額15セント、一人あたり月額7セントとし、間借人は月額50セントという安い水道代を設定していた。このため洗車場、洗たく屋などが一号線 (国道58号線) 沿いに集まってきたという。
1957年項、米国民政府の土地収用令により、伊佐部落の一号線寄りの上方、新城古川附近の伊佐浜が米軍の強制土地接収にあい、部落民の激しい抵抗にもかかわらず、着剣した銃口を向けて接収した。田畑は米軍のブルトーザーによって、深く埋められてしまった。米軍の強制土地接収により、家屋敷、田畑を取り上げられた住民は、大山小学校での仮住いを余儀なくされ、その後、現在の地に住み始めた。この強制接収は沖縄全島に反響をまきおこし、大きな社会問題となった。伊佐の土地闘争として知られている。

明治時代は伊佐は安仁屋に次いで2番目に人口が少ない村だった。戦後は様々な問題があったにもかかわらず、人口は順調に増加している。ここ10年は世帯数は増加が続いているが、人口は横ばい状態となっている。

伊佐は元々小さな集落だったので、人口の増加率は宜野湾市の中で二番目に多いのだが、依然として人口の少ないグループ内にある。


琉球国由来記に記載されている拝所は下記の通りだが、すべてが米軍キャンプ瑞慶覧敷地に接収された土地にあり消滅している。これらの拝所は公民館に移設され祀られている。

  • 御嶽: 伊佐之嶽 (神名: 真白マシラゴノ御イベ、御願)、南風之嶽 (神名: 不傳、御願小)、小嶽 (神名: 不傳)
  • 殿: 松下之殿

主な祭祀は、2月2日は、腰憩いで野良仕事を休み、年中行事組ごとに宴を開いた。2月、3月、5月、6月のウマチーを総称して、ユマチー (麦稲四祭) といい、拝泉御嶽を巡拝した。 昔、屋号蔵根 (クラニー) の主が王府に陳情し、米上納を上納に代えてもら ったことから、六月ウマチーの時には、屋号蔵根の火の神も拝むようになった。6月15日の綱引きは、部落総出の祭であった。7月エイサーを最初に行ったのが伊佐だという。8月10日はカンカーで、主要路の入口に注連縄 (しめなわ) を張り、豚骨を吊り下げた。 10月は種子取で、種子取毛に部落民すべてが集い、歌・三味線の宴や、角力大会が行われた。


伊佐集落訪問ログ



伊佐前原遺跡

先日、大山集落を訪問した際に交通安全の碑があった場所に戻って来た。ここは国道58号と県道81号 (宜野湾北中城線) が交差する メーバルアジマーと呼ばれる伊佐三叉路 (現在は十字路) の北東側で、キャンプ瑞慶覧の南西端 にあたる。ここでは平成4年の沖縄電力株式会社による鉄塔新設工事の際に伊佐前原遺跡が発見されている。グスク時代の12世紀後半から15世紀にかけての遺跡と推測されている。
発掘調査で南北二つの場所から当時の生活跡がみつかっている。掘立柱建物跡の柱穴群があり、高床の建物があったと判断されている。跡地にはこの高床式倉庫のモニュメントが置かれている。居住地跡からは土器製の鍋や壺などが出土している。

フンシンガー (クンチンガー)

伊佐三叉路から、現在の伊佐集落がある国道58号線の西側を見ていく。かつての伊佐集落には三つの村井 (ムラガー) があり、その一つのフンシンガーが伊佐三叉路近くにある。クンチンガーとも呼ばれている。二班が管理する井泉だった。井泉前の水溜めは二つに区切られて、「イモ、ヤサイ、洗場」 と「浴場男川」 があったそうだ。 いつ頃から使われていたか不明だが、1953年 (昭和28年) に改修工事が行われ、現在の形になっている。井戸の奥に香炉が置かれ、拝所となっている。戦前、フンシンガーのあるこのにあたりは前原と伊利原の境の人里離れた畑地帯で、10世帯ほどが利用していたという。大雨の日にも濁らない清水がこんこんと湧き出ていそうだ。
このフンシンガーで泳ぐ子どもたちの写真 (1970年 昭和45年) が残っている。このように、当時、井戸は生活用水に利用されるだけでなく、子どもにとっても遊びの場だった。この写真を見ると、現在のものより、はるかに大きな井泉で、小さなプールと言った感じだ。

大井泉 (ウフガー)

フンシンガー (クンチンガー) がある道を北にに少し進むと大井泉 (ウフガー) がある。この井泉は、元々、ここにあったのではなく、国道58号線あたりにあったのだが、米軍の軍道1号線の道路建設により埋められ跡形もなくなってしまった。そこで、水源を伊佐区の三班に移し、改修したのが現在の大井泉 (ウフガー)になる。この付近には砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。

産井泉 (ウブガー)

大井泉 (ウフガー) から道を少し進んだ所にも村井 (ムラガー) の三つ目の産井泉 (ウブガー) がある。この井泉も国道58号線あたりにあったのだが、米軍の軍道1号線の道路建設により埋められ、元の場所から少し西側に移して再現している。この井泉も源泉を移しているように思われ、現在でも使用されている。


ふんしん せせらぎ公園

三つの井泉がある道に西に並行して路地をがある。ふんしんせせらぎ通りと呼ばれ、公園になっている。フンシンガー (クンチンガー) から流れ出た水は、下流に当たるこのふんしんせせらぎ通りに流れ込んでいる。公園は、その水路に沿って遊歩道が作られている。水路の中には、今は米軍に用地接収で消滅したシーサーを再現していた。このシーサーがあるので、せせらぎシーサー通りとも呼ばれている。

キャンプ瑞慶覧 (Camp Zukiran) 、伊佐旧集落跡

伊佐三叉路から北にキャンプ瑞慶覧 (Camp Zukeran) が広がっている。かつての伊佐集落はこの基地に南側、伊佐原にあった。集落は丸ごと基地に飲み込まれてしまい、集落の名残も消滅してしまっている。殆ど全ての拝所も基地内にあったので消滅してしまった。
キャンプ瑞慶覧には在沖米海兵隊基地司令部や在日米軍沖縄調整事務所が置かれ、兵器・器材整備施設や住宅地、ゴルフ場等の施設がある。基地内は在沖米海兵隊基地司令部のあるバトラー地区、第58信号大隊が所在するバックナー地区、米軍住宅が所在するプラザ地区、兵器・器材整備施設及び各隊舎が所在するフォスター地区から構成されている。

伊佐浜強制接収地

伊佐集落があった伊佐原の北側は後原 (クシバル) 地区になる。ここには、いつの時代かは正確には不明なのだが、1800年頃と思われる時代に、首里、那覇、泊 から旧士族層が移住し、小規模な集落である伊佐浜屋取 (イサバーマヤードゥイ) 集落が存在していた。この伊佐浜屋取は、二地区に分けられ、字後原と伊利原に形成された前屋取 (メーヤードゥイ) と、 現在のキャンプ瑞慶覧内の伊佐の小字後原、喜友名の小字下原、安仁屋の小字前原と安仁屋原、北谷村北前の小字安仁屋原にまたがる後屋取 (クシヤードゥイ) になり、この二つの屋取を総称して伊佐浜屋取といっていた。
戦後、元の村への帰還許可で、伊佐原屋取集落住民も村に戻って生活の立て直しを開始する。前屋取の住民は元の村に戻った。 写真上は1950頃の伊佐浜集落。後屋取の住民は、元の集落には戻らず、前屋取集落がある海岸側に住み始め、毎日、元々の集落と畑があった後原に通っていたが、1951年の台風で多くの家を失ったので、戦前の集落があった後原に戻って集落再建を始めた。写真下に写っているのは、後に強制接収される1955年頃の後屋取集落の様子で、民家が建てられているの見える。
1954年 (昭和29年) 7月14日、米国民政府から伊佐、喜友名、新城、安仁屋に広がる後屋取集落の住居地と畑、前屋取集落の畑の13万坪の水田に水稲二期作の植え付けが禁止され、土地接収が通告された。伊佐浜の土地闘争として知られる住民の反対運動が起こる。住民は代替地を要求し、何度も協議が行われるが、代替地は解決しなかった。翌1955年3月11日に第一次強制接収が強行され、米軍兵士との対峙する緊迫した場面も起きていた。その後、反対運動は、その時の住民の思いを表した言葉が掲載されていた。悲壮感が伝わってくるが、それでも人として使命感を失っていない。感動する言葉だ。
「接収に反対するか、応ずるか、どの道を選んでも、自分たちには土地も残らないし、移動先もない。それを自分で土地を明渡したとあっては、アメリカ軍の野蛮な土地とり上げを自分たちが認めたことになる。それでは自分たちをこれまで支援してくれた沖縄中の人々や、遠くから激励の手紙を送ってくれた皆さんにも申し訳がたたない。私たちには、もはや、子孫に残す財産もすべて無くなろうとしている。この上は最後まで土地取り上げに反対して闘い抜き、せめて、歴史の上に伊佐浜の名を残そうではないか」 
住民は米軍の強権力に抵抗を続けたが、立退期限の1955年7月19日には県内から多くの人が集結して接収反対を訴えていた。
住民が接収反対を叫ぶ中、米軍は着剣した銃口を向け、ブルドーザーの前に座り込んだ住民をひきずり出し、ブル ドーザーで田畑は土深く埋められ、家屋敷も埋められ、翌日は金網で囲み、入り込むこともできなくなった。

伊佐浜後屋取集落住民136人、32戸が強制移動を強いられ、一年間は大山小学校で生活していた。

一か月後の8月には、この内、116人、23家族が現在の沖縄市の美里村高原 (インヌミヤードゥイ) へ生活補償も不十分なまま移住させられた。新たな移動先での生活は、トタン屋根の規格住宅の建設と荒廃した畑の開墾に始まり、台風で家屋が損壊、農作物が全滅など苦労の連続だった。

1955年10月には米国はプライス議員を長とする調査団を沖縄に送り、この軍用地問題の調査を行い、この報告書 (プライス勧告) が1956年 (昭和31年) 6月に出された。その内容は琉球立法院が決議した (1)一括払い反対,(2)適正補償,(3)損害賠償,(4)新規収集反対の四原則に対し、琉球列島米国民政府 (USCAR) の方針を全面的に肯定し、地代の一括払い、土地買い上げの必要を勧告したものだった。これに対して県民は怒りを爆発させ、基地化反対闘争は「島ぐるみ運動」に発展する。

生活援助費が打ち切られたことで、貧困に耐えかねた伊佐浜住民の10世帯59人は、1957年(昭和32年) 8月の第一農業技術移民募集に応じてブラジルへ移民している。この時に移民した122名の内には伊佐浜住民60名が含まれていた。半数が伊佐浜からの移民だ。

この後、1958年8月から10月にかけて、住民と米軍で条件の話し合いが行われ、住民の最も関心の高かった用地一括支払い (これは期限なしの土地借用を意味していた) を断念し、一応決着となった。地代も大幅にアップしたが、新規接収は行わないとしていたが、その後も基地建設は黙認されていた。




佐阿天 (サーラ) 橋碑

佐阿天 (サーラ) 橋が建設された経緯、及び、橋を架けた金城親雲上の功績を称えた石碑が再現されている。佐阿天橋は、1820年 (嘉慶25年、尚17年) に佐阿天川 (現在の普天間川に架けられた石造のアーチ橋で、地元の人びとはサーラバシと呼んでいた。沖縄戦で破壊され、石碑も行方不明だったが、数年後に伊佐浜の海岸で発見された。この碑文によれば、「ここより東側にもう一条の道があり、都に行く正路であるが、道が険しくて容易ではない。この道は平坦なので、人は皆正路を通らずにこの道を通るのである。しかしながら、平日はこの川を歩いて渡っても、大雨の時は川は氾濫し、とても渡れない。しかし、現今は政治が行き届いているので、民のためなら一つとして挙がらないものはない。それで、ここにこの橋を建設したのである。」と記されている。 元の石碑の文字はすり減ってほとんど読めなくなっていたが、拓本をもとに、2000年 (平成12年) に復元した新たな石碑をここに設置している。昔はここは海岸だったのだが、現在は埋め立てられて、その風情は失われている。
宜野湾間切図には碑で触れられた道が描かれている。内陸部の険しい道が元の中頭方西海道で、佐阿天橋が架けられた道が新しく改修された宿道だった。

軽便鉄道路線跡

新造佐阿天橋碑の前に置かれている香炉のすぐ横にコンクリートの水路の様な建造物がある。これは戦前にここ辺りの海岸線を走っていた軽便鉄道路線の名残になる。鉄橋の橋脚で、この上を線路が通っていた。

トゥユナガヌカー跡

佐阿天 (サーラ) 橋碑の近くに井泉があったそうだが、現在は消滅している。地図ではこの辺りにあたるようだ。

白比川 (しるひがわ)

宜野湾市伊佐地区と北谷町北前地区の境界線には白比川が流れている。この川を挟んで、かつては伊佐原屋取の前屋取集落があった地域になる。現在は海岸は埋め立てられているが、以前は伊佐浜の砂浜があり、風光明媚な場所だった。組桶「姉妹敵討」では「あれや牧湊 これや砂辺村、越えて湾渡具地 残波岬まで 見渡の広さ 浦々の釣船、いざり火のかげも 目の前引き寄せて、眺めてもあかね 伊佐の浜辺」と詠まれ、伊佐浜海岸は古くから白浜が遠浅の浜辺につづく美しい海岸だった。この一帯の海岸は景色がよいので、昔から若い男女が集って、遊び場にしたところ。 現在では、かつての海岸は1968年に埋め立てられて、住宅地や宜野湾浄化センターとなっており、昔の面影は失われてしまった。

伊佐公民館

伊佐集落の村屋 (ムラヤー、左上の絵) は集落があった現在のキャンプ瑞慶覧内にあったが、戦後、土地接収後、新たに村をつくった国道58号線のすぐ西側に村屋 (写真右上) を造り、後に公民館 (写真下) を建設した。
米軍による軍道1号線 (現在の国道58号線) 拡張工事で、再度移動して現在の場所に建てられている。公民館の広場の片隅に、恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされていた。伊佐ではこの酸素ボンベの鐘は他の集落とは、少し異なった性格を有していた。命を守る鐘と呼び、1950年頃に設置された。他の集落では住民への通常、緊急連絡のために鳴らされていたが、ここではそれに加え、当時は治安が悪く、米兵が女性目当てに集落内に侵入することが多々あり、米兵の村への侵入を伝え注意を促す役割があった。集落内で兵隊を目撃すれば、この鐘を乱打し、住民を集めて侵入者を追い出した。 時には集まった住民が兵隊に銃撃されることもあったそうだ。これは現在でも同じで、ここ1ヶ月で米兵の女性への暴行事件を二回もニュースで見ている。
公民館の前には戦前の伊佐集落の地図があり、各屋号名、拝所などが記されている。

殆どはキャンプ瑞慶覧内で、昔から存在しているのはフンシンガーとサーラ橋碑だけだ。解説が地図の裏側にある。それによると、戦前の伊佐集落は戸数わずか86戸の小さな集落だったが、豊富な湧水にめぐまれ、風光明媚な西海岸があり、豊かで肥沃な田畑が広がり家々は南北に走る旧県道 (現在の国道58号線) に沿うように連なり、集落の西側にはのどかな軽便鉄道が平行して走っていた。この豊かで人情味のある集落は、沖縄戦で破壊され、戦後、帰村し復興に向けて動き出した矢先に再び米軍基地へと接収され、今日に至っている。集落住民にとっては、かつて存在した集落が文化遺産で、地図として残し後世に伝える」といった趣旨が刻まれていた。読んでいると、成る程と思った。現存し目に見える文化財を巡っているのだが、住民にとっては無くなったものも記憶の中で文化財以上の存在として残っているのだろう。


共同拝所

戦前、旧集落の北側に村屋があり、敷地内に北ヌ御願 (ニシヌウグヮン) があり、東原の丘陵の麓に、御願 (ウグヮン) と御願小 (ウグヮングヮー) があった。その東側にはカンサギヤーがあり、火の神を祀ってあった。旧集落西外れに拝泉の大井泉 (ウフガー) と産井泉 (ウブガー) があり、前原にはフンシンガー (クンチンガー) があった。 魔除けの村獅子が、旧集落の北外れに三体、南外れに二体置かれ村のケーシ (返し) を担っていた。製糖小屋は北組と南組が管理する二ヵ所あった。御願、御願、御願小、カンサギヤーは、米軍の土地接収により破壊され、香炉のみをこの公民館敷地に1961年 (昭和36年) に移設合祀されていた。祠内には11の新しく作られた香炉が置かれ、五穀の神、縁結神、御獄神、子神殿内、ウミキ神、火神などの神名が刻字されている。祠の外には龍宮底神を祀った祠も置かれている。

慰霊之碑

祠の隣には慰霊之碑が建てられ、1931年 (昭和6年) の満州事変以後の戦没者198人を慰霊している。

沖縄戦で犠牲になった村民33名を含み、当時の伊佐の人口が348人なので、約9%で宜野湾市の中では最も犠牲者が少ない地域だった。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍が読谷北谷海岸に上陸する前に、前年1944年5月から伊佐村に駐屯していた日本兵約100名は、浦添での防衛戦に備えて移動し、米軍が4月4日に村に侵入してきた際には日本軍がおらず、簡単に占領されている。日本軍の抵抗はなかったのだが村は焼かれている。日本兵がおらず戦闘が無かったことや、避難壕にも日本兵がおらず、捕虜になる事を妨げられなかった事が、犠牲者が少なかった背景だろう。

伊佐住民はに本島北部へ疎開する者や小字前原のケレンケレンガマとアカガマへ避難するもの、集落内の壕に残ったものがいた。殆どは米軍捕虜となり野嵩収容所に集められ、その後、うるま市具志川や沖縄市の収容所へと移動され、1946年 (昭和21年) 二~三月頃には野嵩に再収容された。伊佐の住民は、1947年 (昭和22年) 五月頃から帰村が許可されたが、集落は米軍基地となり、屋敷、畑も接収されて故郷に帰ることはできず、農作業も許されない状況だった。そのため、小字前原にテント小屋の字事務所を設置し、住民の集会場・共同作業の食事場・監視場・農耕の休憩場として利用した。 屋敷地も50坪の住宅地55戸を割り当て、残地を共同の農耕地として村の再建が始まった。


伊佐浜には残っている文化財は少ないのだが、沖縄の戦後の苦難の縮図の様な所だった。資料で確認しながら巡っていくと、今年は返還50年で各地で集会が行われ、テレビでは連日、特別番組が放映されている。沖縄にとって基地問題は深刻な問題であることがわかる。沖縄戦では本土防衛の最前線となり、旧日本軍が退去して基地をつくった事で、米軍の攻撃にさらされ、兵士以上の民間人が犠牲になっている。この環境は今でも変わっていない。沖縄の人たちは基地がある限り、沖縄戦の再来の不安が拭えない。現在のロシアのウクライナ侵攻が、その不安を益々大きくしている。戦争の不安だけではなく、米兵の犯罪に対しての不安、基地騒音問題、戦闘機事故、PFOS問題など基地に由来する問題が山積みとなっている。何故、沖縄が日本の安全保障の犠牲にならなければならないのか?という思うが、県民には根強い。沖縄戦の時と政府の方針は変わっていないと思っている。日本政府や学者は地政学の観点で沖縄を考え、沖縄を軍事拠点とするのが正しいと考えている。確かに地政学的にはそうだろうが、そこには、その地の人の生活をどう守っていくかの考えが欠如している。本土の人達も、第三者的立場でこの問題を見ている。それが沖縄県民が日本政府に不信感を抱く理由ではないだろうか?


伊佐訪問の後、もう一つ隣の集落を見る予定だったが、目眩がして気分が悪くなった。去年の夏も同じ事があった。どうも、暑さでやられた様だ。今日は今年一番の暑さで、一日中、炎天下にいるので、軽い熱中症だろう。ここで切り上げて、帰ることにする。少し走ると気分が悪くなり、何度も日陰で休みながら、通常の2倍の時間をかけてやっと家に辿り着いた。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • 伊佐誌 (2011 宜野湾市伊佐区自治会)
  • 伊佐浜の土地闘争 (2021 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課宜野湾市立博物館)
  • 伊佐前原第一遺跡 (2001 沖縄県埋蔵文化財センター)

3コメント

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  • Goya

    2023.08.21 18:09

    佐伯さん、詳細をご提示いただきありがとうございます。他の地区や他府県の記事も拝読しておりますが質量ともに高い地域史の研究で驚嘆いたしました。 宜野湾市史の民俗編は参照したことがなかったのですが、そちらを参考にしてみます。ありがとうございました。
  • Kazu Saeki

    2023.08.20 08:03

    呉屋さん コメントありがとうございます。問い合わせの資料は、宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会) の第一節 各部落概況 (8) 伊佐部落 (26ページ) に呉屋家が喜友名から170年前に移住したと記述がありました。この書籍の発行が1985年なので、私の方でざっと200年前と書きました。呉屋家についての詳細は記されてはいませんが、戦前の喜友名の人口の三分の一が呉屋姓で複数の門中にまたがっています。この移住した呉屋家がどの門中からなのかは記されていませんでした。この点については今後何か関連のものがあれば、ご連絡いたします。 佐伯
  • Goya

    2023.08.20 04:51

    こんにちは。出身集落についてまとめてくださりありがとうございます。 小生の先祖である「呉屋が、200年前に喜友名部落より移住して来ている。」という記載に大変興味があるのですが、 こちらはご記載いただいた参考文献の内のどちらに記載があったか教えていただけますでしょうか? お手数をおかけして申し訳ありませんが何卒よろしくお願い申し上げます。