Okinawa 沖縄 #2 Day 187 (29/05/22) 旧宜野湾間切 (6) Isa Hamlet 伊佐集落
旧宜野湾間切 伊佐集落 (いさ、イサ)
- 伊佐前原遺跡
- フンシンガー (クンチンガー)
- 大井泉 (ウフガー)
- 産井泉 (ウブガー)
- ふんしん せせらぎ公園
- キャンプ瑞慶覧 (Camp Zukiran) 、伊佐旧集落跡
- 伊佐浜強制接収地
- 佐阿天 (サーラ) 橋碑
- 軽便鉄道路線跡
- トゥユナガヌカー跡
- 白比川 (しるひがわ)
- 伊佐公民館
- 共同拝所
- 慰霊之碑
旧宜野湾間切 伊佐集落 (いさ、イサ)
明治時代は伊佐は安仁屋に次いで2番目に人口が少ない村だった。戦後は様々な問題があったにもかかわらず、人口は順調に増加している。ここ10年は世帯数は増加が続いているが、人口は横ばい状態となっている。
伊佐は元々小さな集落だったので、人口の増加率は宜野湾市の中で二番目に多いのだが、依然として人口の少ないグループ内にある。
琉球国由来記に記載されている拝所は下記の通りだが、すべてが米軍キャンプ瑞慶覧敷地に接収された土地にあり消滅している。これらの拝所は公民館に移設され祀られている。
- 御嶽: 伊佐之嶽 (神名: 真白マシラゴノ御イベ、御願)、南風之嶽 (神名: 不傳、御願小)、小嶽 (神名: 不傳)
- 殿: 松下之殿
主な祭祀は、2月2日は、腰憩いで野良仕事を休み、年中行事組ごとに宴を開いた。2月、3月、5月、6月のウマチーを総称して、ユマチー (麦稲四祭) といい、拝泉御嶽を巡拝した。 昔、屋号蔵根 (クラニー) の主が王府に陳情し、米上納を上納に代えてもら ったことから、六月ウマチーの時には、屋号蔵根の火の神も拝むようになった。6月15日の綱引きは、部落総出の祭であった。7月エイサーを最初に行ったのが伊佐だという。8月10日はカンカーで、主要路の入口に注連縄 (しめなわ) を張り、豚骨を吊り下げた。 10月は種子取で、種子取毛に部落民すべてが集い、歌・三味線の宴や、角力大会が行われた。
伊佐集落訪問ログ
伊佐前原遺跡
フンシンガー (クンチンガー)
大井泉 (ウフガー)
産井泉 (ウブガー)
ふんしん せせらぎ公園
キャンプ瑞慶覧 (Camp Zukiran) 、伊佐旧集落跡
伊佐浜強制接収地
伊佐浜後屋取集落住民136人、32戸が強制移動を強いられ、一年間は大山小学校で生活していた。
一か月後の8月には、この内、116人、23家族が現在の沖縄市の美里村高原 (インヌミヤードゥイ) へ生活補償も不十分なまま移住させられた。新たな移動先での生活は、トタン屋根の規格住宅の建設と荒廃した畑の開墾に始まり、台風で家屋が損壊、農作物が全滅など苦労の連続だった。
1955年10月には米国はプライス議員を長とする調査団を沖縄に送り、この軍用地問題の調査を行い、この報告書 (プライス勧告) が1956年 (昭和31年) 6月に出された。その内容は琉球立法院が決議した (1)一括払い反対,(2)適正補償,(3)損害賠償,(4)新規収集反対の四原則に対し、琉球列島米国民政府 (USCAR) の方針を全面的に肯定し、地代の一括払い、土地買い上げの必要を勧告したものだった。これに対して県民は怒りを爆発させ、基地化反対闘争は「島ぐるみ運動」に発展する。
生活援助費が打ち切られたことで、貧困に耐えかねた伊佐浜住民の10世帯59人は、1957年(昭和32年) 8月の第一農業技術移民募集に応じてブラジルへ移民している。この時に移民した122名の内には伊佐浜住民60名が含まれていた。半数が伊佐浜からの移民だ。
この後、1958年8月から10月にかけて、住民と米軍で条件の話し合いが行われ、住民の最も関心の高かった用地一括支払い (これは期限なしの土地借用を意味していた) を断念し、一応決着となった。地代も大幅にアップしたが、新規接収は行わないとしていたが、その後も基地建設は黙認されていた。
佐阿天 (サーラ) 橋碑
軽便鉄道路線跡
トゥユナガヌカー跡
白比川 (しるひがわ)
伊佐公民館
殆どはキャンプ瑞慶覧内で、昔から存在しているのはフンシンガーとサーラ橋碑だけだ。解説が地図の裏側にある。それによると、戦前の伊佐集落は戸数わずか86戸の小さな集落だったが、豊富な湧水にめぐまれ、風光明媚な西海岸があり、豊かで肥沃な田畑が広がり家々は南北に走る旧県道 (現在の国道58号線) に沿うように連なり、集落の西側にはのどかな軽便鉄道が平行して走っていた。この豊かで人情味のある集落は、沖縄戦で破壊され、戦後、帰村し復興に向けて動き出した矢先に再び米軍基地へと接収され、今日に至っている。集落住民にとっては、かつて存在した集落が文化遺産で、地図として残し後世に伝える」といった趣旨が刻まれていた。読んでいると、成る程と思った。現存し目に見える文化財を巡っているのだが、住民にとっては無くなったものも記憶の中で文化財以上の存在として残っているのだろう。
共同拝所
慰霊之碑
沖縄戦で犠牲になった村民33名を含み、当時の伊佐の人口が348人なので、約9%で宜野湾市の中では最も犠牲者が少ない地域だった。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍が読谷北谷海岸に上陸する前に、前年1944年5月から伊佐村に駐屯していた日本兵約100名は、浦添での防衛戦に備えて移動し、米軍が4月4日に村に侵入してきた際には日本軍がおらず、簡単に占領されている。日本軍の抵抗はなかったのだが村は焼かれている。日本兵がおらず戦闘が無かったことや、避難壕にも日本兵がおらず、捕虜になる事を妨げられなかった事が、犠牲者が少なかった背景だろう。
伊佐住民はに本島北部へ疎開する者や小字前原のケレンケレンガマとアカガマへ避難するもの、集落内の壕に残ったものがいた。殆どは米軍捕虜となり野嵩収容所に集められ、その後、うるま市具志川や沖縄市の収容所へと移動され、1946年 (昭和21年) 二~三月頃には野嵩に再収容された。伊佐の住民は、1947年 (昭和22年) 五月頃から帰村が許可されたが、集落は米軍基地となり、屋敷、畑も接収されて故郷に帰ることはできず、農作業も許されない状況だった。そのため、小字前原にテント小屋の字事務所を設置し、住民の集会場・共同作業の食事場・監視場・農耕の休憩場として利用した。 屋敷地も50坪の住宅地55戸を割り当て、残地を共同の農耕地として村の再建が始まった。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- 伊佐誌 (2011 宜野湾市伊佐区自治会)
- 伊佐浜の土地闘争 (2021 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課宜野湾市立博物館)
- 伊佐前原第一遺跡 (2001 沖縄県埋蔵文化財センター)
3コメント
2023.08.21 18:09
2023.08.20 08:03
2023.08.20 04:51