Okinawa 沖縄 #2 Day 68 (10/01/21) 旧高嶺村 (1) Toyohara Hamlet 豊原集落

旧高嶺村 豊原集落 (とよはら)

  • 村屋跡 (豊原集落農事集会所)
  • 鎖守ノ神、火之神 (ヒヌカン)
  • 仲井真井 (ナケーマガー)
  • ポンブガー
  • クバンチン
  • チンガー (産井 ンブガー)
  • アジ
  • 世持井 (ユムチガー) 
  • トゥンモーの拝所

前回、照屋集落集落を1月4日に訪問して以来、日本全土を覆っている寒波の影響は沖縄にも及び、気温はかなり下がり去年の同じ時期に比べてかなり寒くなっている。連日雨と強風で自転車での外出は出来なかった。まだ寒波は続きそうだが、今日は久しぶりに日が照っている。明日からまた雨が続く天気予報なので、貴重な晴れ間だ。今日から旧高嶺村の5つの集落巡りに入る。今日はまずは一番近い豊原集落を訪れる。



旧高嶺村 豊原集落 (とよはら)

豊原は、北は八重瀬町字志多伯および字当銘と接し、東は世名城と接する。南は報得川を挟んで字与座に接し、西は字座波に接している。かっては字与座の一部に属する屋取集落で、与座の本集落からみて北に位置したため西原屋取 (ニシバルャードウイ) や与座原屋 (ユザハルヤ―) 等と呼ばれた。1908年 (明治41年) には行政区として独立し第二与座となった。戦後の1947年 (昭和22年) に字国吉に仮住まいをしていた第二与座住民の協議により、戦争で荒廃したムラが再び豊かになることを願い、与座から行政分離をして字名を豊原に変更した。主な産業は戦前戦後を通して農業であり、特にサトウキビ栽培は報得川沿いの肥沃な土壌に恵まれ盛んで、単位面積あたりの収穫量は市内でも上位であった。近年はサトウキビ栽培は減少し、電照栽培による菊を中心にした花卉栽培やビニールハウスでの野菜作りにシフトしている。

豊原の前身である西原屋取 (ニシバルヤードイ) に18世紀中に最初に定住したのは査氏國吉一門の祖先といわれる。首里士族であり、南山王の汪応祖の孫の査氏國吉一門は東風平間切東風平村の宇志道原 (現 上田原) に寄留し、後に東風平間切当銘村に移住、さらに高嶺間切与座村の北の報得川流域、現在在の豊原を開拓して屋取集落を形成した。

集落を周ると、民家は一か所に集中しているのではなく、ポツンポツンと数軒ン民家がのグループが畑の中に点在している。屋取集落の形態が今でも続いている。


1947年 (昭和22年) に与座から分離して独立行政地区となったのだが、それ以降人口は減少を続け、人口統計では当時から約半分にまでなっている。もともと人口が多かったわけでもなく、屋取集落の特徴である住居が集中せず、それぞれが所有する畑の側に住居を構えて分散していたことや行政からは特定地区には指定されなかったことが一因ではないだろうか。

旧高嶺村では一貫して人口が最も少ない字であった。過疎化は更に進んでいる。

糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編に記載されている文化財 今地図に点在する民家が記載されているがが、現在は空き家になってこれ以下かもしれない。人口が減っているのが見てわかる程だった。

航空写真でもほとんど畑の字なのがわかる。


村屋跡 (豊原集落農事集会所)

現在の豊原集落農事集会所がある場所が、戦前からムラヤー (村屋) であった。戦前の最初の村屋は木造茅葺きで、国の補助金で製莚の作業場として建てられた。その後、瓦葺きの建物に改築され、戦後は1948年 (昭和23年) に木造茅葺きの豊原公民館が建てられ、さらに1957年 (昭和32年) には鉄筋コンクリートプロック造に改築された。現在の建物は1986年 (昭和61年) に、国と県と市からの補助金や区民負担金等で建てられた豊原集落農事集会所となっている。


鎖守ノ神、火之神 (ヒヌカン)

豊原集落農事集会所地内の建物後方に鎖守神を祀ったコンクリート製のとヒヌカン (火の神) がある。この拝所はお宮とも呼ばれ、1951年 (昭和26年) ごろに建てられ、当初は戦没名を刻銘した碑もあった。


仲井真井 (ナケーマガー)

村屋跡之東の仲井毛 (ナケーモー) の東斜面に仲井真井 (ナケーマガー) がある。屋号 仲井真の土地に掘ったのでこのように呼ばれている。戦前は現在より小さかったのだが、戦後、井戸を掘り下げてコンクリートで改修された。現在、井戸には蓋がされている。水量は少なく周辺の数世帯が利用する程度であったそうだ。


ポンブガー

仲井真井 (ナケーマガー) から少し北に上ったところにある掘抜き井戸で、手動ポンプで水を汲み上げていたので、ポンブガーと呼ばれていた。ヌルモーの東傾斜面にあることからヌルガーという人もいる。昭和初期に掘られ、近くの住民が飲料水としたが、現在も給水機が置かれて農業用水として使用されていることがわかる。「泉乃神」と記された香炉が井戸の後方に置かれ、字で拝んでいる。


クバンチン

南当銘原中心部のクバンモーと呼ばれる原野の中に拝所があり、クパンチン、クバンチンのウグワンジュ等といわれる。石製の香炉が3個並び、向かって左の香炉の背後には3個の石が立てられている。主にイリー (西) の住民が拝み、一時期は字でも拝んだが、近年は拝む人もほとんどいないそうだ。拝所周辺は雑木に覆われている場所を、地図と資料の写真を手掛かりに探すのだが、草が腰のあたりまで伸びて、いっこうに見つからず、断念。この場所は一説には占い時代のお金に関わる場所とか、南山へのウトゥーシ (遥拝所) 等ともいわれるが、戦後になってンマリ (霊的資質の高い人) が設けたものともいわれていて、詳しいことは明らかではないそうだ。


チンガー (産井 ンブガー)

集落の中央からやや西寄り、チンガーモーにある共同井戸をチンガーといい、戦前から戦後の一時期まで豊原住民の主要な水源であった。チンガーモーには3つの掘抜き井戸があり、一つは西側の道路沿いに離れている。

離れてある石積みがされている井戸は他の2つより古く、ンブガーと呼ばれる。ンブガーとは通常、ンプユ (産湯) を使う水を汲む井泉のことだが、ここから産湯に使う水を汲んだという伝承は特に残っていない。元日の朝、ンブガーから若水を汲み、各家庭のヒヌカン等に供えた。チンガーの井戸を拝むときは最初にンブガーを拝む習わしである。
ンブガーの東にある2つ並んだ井戸はどちらも2mほどの深さがあり、昭和の初めごろに掘られたもの。チンガーでは、かって女性たちが列をなして水汲みの願番を待つ光景がよく見られた。雨が少ないと水量が少なくなったが、つるべで濁りごと汲み上げて自宅で上澄みを飲んだ。チンガーの水はそれぞれ水脈が違い、味も徴妙に異なっていたという。1951年 (昭和26年) の改修で、東側の2つの井戸には1つの繋がったコンクリート製の屋根を設けて、その間に香炉が置かれた。現在は井戸の前面に金網が張られ、水は農業用水に使われている。


アジ

チンガーの南東の元の仲ヌ國吉の屋敷であったサトウキビ畑地の中に、アジと呼ばれる拝所がある。コンクリートプロック造りの小さな墓で、戦後、仲ヌ國吉之屋敷を造成した時に堀り出された骨を納めたものだそうだ。香炉の中には平御香 (ヒラウコウ) の沖縄の線香が燃え残っていたので、最近拝みに来た人がいたのだろう。


世持井 (ユムチガー) 

アジのある農道沿い仲ヌ國吉の屋敷ン近くに世持井 (ユムチガー) がある。國吉一門が拝んでいたそうだ。


トゥンモーの拝所

北当銘原のトゥンモーと呼ばれる場所に拝所あるので探すも見つからず、近所の人に尋ね、教えてもらった。底には数個の自然石が置かれ、コンクリートプロックで簡単な囲いがされている。もともとは市道から少し入ったところにあったのがここに移設されている。慶留村の村元で嶽元でもある字与座の屋号 大慶留が管理する拝所で、与座ではクマムトゥヌトゥンと呼ばれ、琉球国由来記では、与座村の拝所として「コマ本ノ殿」と記されている。豊原でも重要な所とされて、近所の人によると現在でも時々御願がされているそうだ。

この豊原は屋取集落なので、昔からの拝所は少ない。もう一つの集落も少し見てみたかったのだが、小雨が降り出した。雨が強くなる恐れもあるので、今日はこの集落でおしまいとする。雨は結局、小雨のままでそのうち止んだ。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編 (2013)

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