Okinawa 沖縄 #2 Day 66 (04/01/21) 旧兼城 (8) Teruya Hamlet 照屋集落

照屋集落 (てるや、ティーラ)

  • 村屋跡 (ムラヤー)
  • アガリモー (サーターヤー跡)
  • 照屋公民館
  • 中道 (ナカミチ)
  • 照屋井泉 (テイラガー)
  • 西原にある門中墓 [沢岻 (タクシ) 腹、下庫理 (サグン) 腹、川当 (カード―) 腹、平田腹]
  • 龕屋 (ガンヤ―)
  • 軽便鉄道 糸満線 兼城駅
  • タナガー
  • 照屋の火返し村獅子
  • 照屋グスク
  • 照屋御嶽
  • (ア) 照屋氏神様
  • (イ) クバオーの按司世 (アジシー)
  • (ウ) 波平腹の按司墓
  • (エ) 門中の按司世 (アジシー)
  • (オ) 地頭火ヌ神
  • (カ) 新屋腹の按司世 (アジシー)、(キ) 宇腹の按司世 (アジシー)
  • (ク) 殿小 (トウングワー)
  • (ケ) 殿 (トウン)
  • (コ) 御嶽お通し (ウトウーシ)
  • 神道 (カミミチ)
  • 国元 (クニムトゥ)
  • 根人屋 (二ーッチュヤー)
  • ノロ殿内 (ヌンドウンチ)
  • 根神屋 (二ーガンヤー)
  • 嶽井泉 (タキガー)
  • 居神屋 (イガンヤー)
  • 井戸跡
  • ニーブ神屋
  • 火ヌ神の神
  • カミガー
  • 宗地井泉 (ソージガ-)
  • 報得橋

今日から一週間は雨予報なのだが、今日は夕方から雨と出ていたので思い切って、集落巡りに出かける。今日は照屋集落を巡る。これで旧兼城村の8つの集落が終了となる。


照屋集落 (てるや、ティーラ)

字照屋は北は糸満市字兼城と字座波に接し、東は字大里、南は字国吉、西は字糸満に接している。照屋部落は高い所に位置することからターヒラ (高平) が転じてティーラになったともいわれている。主な産業は農業で、サトウキビ、野菜、芋などが栽培されている。戦後の一時期まで、稲や藺草も載培され、藺草を使った筵づくりも盛んであった。現在、専業農家は少なく、ほとんどが兼業農家である。

人口は1991年に減少した時期もあったが、それ以降はコンスタントに増加している。増加率は他の字に比べてそれほどでもない。1991年の減少の理由については気になったが、その理由はわからなかった。

1880年には人口は上から二番目に多い字であったが、人口増加率は低く、沖縄本土復帰時点では下から4番目となり、現在もその位置に甘んじている。

糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財


村屋跡 (ムラヤー)

元々の村屋 (ムラヤー) はアガリメーヌチヂと呼ばれる場所にあり、村屋が移転した後は青年広場となっており、現在は緑の広場と呼ばれ、老人クラブのゲートボール場として使われている。


アガリモー (サーターヤー跡)

 村屋 (ムラヤー) の跡の東側のアガリモーには製糖小屋 (サーターヤー) があり、村屋 (ムラヤー) はこの製糖小屋 (サーターヤー) の管理所として機能していた。その場所には、県道7号線拡張工事で売却した字の土地の資金で建てた自治会アパートになっている。


照屋公民館

その後、現在の公民館のある場所に移り、小さい瓦葺き小屋を建てて、筵を編む作業場としても使われた。1970年 (昭和45年) に高等弁務官資金によって現在の公民館に建て替えられた。公民館の前は広場になっており、典型的な沖縄の村屋の造りだ。公園の隅には恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされている。沖縄戦の後、村の人々が自力で復興をした象徴だ。


中道 (ナカミチ)

公民館の前の道は他のより広くなっている。多分この道が中道 (ナカミチ) であったのだろう。

集落内に残る沖縄伝統建築の家の数々


照屋井泉 (テイラガー)

落の南側、旧村屋のあったアガリモーのすぐ南に照屋井泉 (テイラガー) がある。ンブガーとも呼ばれ、ンプユ (産湯) や元旦のワカミジ (若水) に使われていた。井泉の上方中央に香炉があり、御願されている。1957年 (昭和32年) にこの照屋井泉 (テイラガー) を水源として簡易水道が設けられ、ここから部落の十数か所に水栓を置き、給水が開始された。

現在は、農業用水として利用されている。井戸の前には溜池と給水装置がある。


西原にある門中墓 [沢岻 (タクシ) 腹、下庫理 (サグン) 腹、川当 (カード―) 腹、平田腹]

照屋井泉 (テイラガー) から西に進むと西原 (ニシバル) 地区に入り、古くからある墓地にあたる。ここには照屋集落の有力門中といわれる十腹の内四つの門中墓がある。この十腹は南山国の武将の子孫といわれている。沢岻 (タクシ) 腹、下庫理 (サグン) 腹、川当 (カード―) 腹、平田腹の4つの門中墓がある。

この4つの門中墓の他に、仮墓 (写真左上) も見受けられた。川当 (カード―) 腹門中墓の脇には、「前川原タ」と書かれた印部石 (シルビイシ 写真左下) が置かれている。ここで書かれている前川は照屋井泉 (テイラガー) の事ではないかといわれている。


龕屋 (ガンヤ―)

墓から更に西に少し行ったところに龕屋がある。昔の造りのものはなくなっており、コンクリート造りで、比較的新しいもののように思える。

村落資料 旧兼城村編に」中に納められている龕の写真が載っていた。


軽便鉄道 糸満線 兼城駅

アガリモーの南側には戦前糸満駅から軽便鉄道糸満線が走っていた。照屋集落の東に兼城駅がある。戦争で鉄道は完全に破壊されて、その後再建はされなかった。この時に鉄道が再建されていれば、糸満市はもっと発展していたのではないかと思う。

兼城駅跡地にはJAが建てられている。


タナガー

糸満線兼城駅跡から照屋集落に向かい照屋集落の東端にタナガーがある。簡易水道が設置される以前は照屋や大里屋取の住民らがこの井泉を使った。コンクリート製の小さな祠が置かれ、その隣には土地改良記念の碑が立っている。


照屋の火返し村獅子

タナガーの近くに石彫獅子があり、火返し村獅子といわれ、10月のクルンゲーの御願や水の御願の際に拝まれている。


照屋グスク

照屋部落背後の丘陵の上に山があり、そこは照屋グスクだった場所だ。この照屋グスクのある丘陵を麓には報得川がながれており、三山時代に南山国の船着き場があった。報得川感潮域上部にはトーシンザキ (唐船獄)、山巓毛の西南西にはトーシングムイ (唐船小堀)、唐船嶽下部にはティンマーガー (伝馬井戸)、サンティンモウ (山巓毛) / ミチンサンチン (海鎮山鎮) があったとされ、南山の祭祀や交易船の遙拝所であった。ここを南山国の貿易拠点として明に進貢船を送っていた。そのことから、この照屋グスクは南山国の貿易庫であったとか、南山城の出城であったといわれている。このように照屋グスクは南山国にとって重要な要所のひとつで、当時この地を治めていた照屋大親 (ティラウフヤ) は汪英紫、汪応祖、他魯毎の重臣であった。もう一人の重臣であったのがで兼城按司で報得川を挟んだ北側の丘陵を治めていた。この兼城按司と照屋大親はことごとく対立していたといわれている。南山国の勇猛な武将として波平大主 (ハンジャウフヌシ) はこの照屋から出ている。南山国が滅びたあと、波平一族は報得川の対岸の兼城集落に移住して、そこで有力門中となっていた。  

グスク跡には当時の遺構は残っていない。沖縄戦でほとんど破壊されてしまったそうだ。以前ここを訪れた際には照屋御嶽から雑木林に強引に入ったが、やはり遺構らしきものはなかった。

グスクの北側斜面には古墓が残っていた。


照屋御嶽

照屋グスクだった場所に拝所が集中している照屋御嶽がある。大正から昭和の初めごろに部落内にあった拝所やアジシー (按司世)、アジバカ (按司墓) を移したといわれている。部落の重要な聖域として各種行事の中心となる場所となっている。


(ア) 照屋氏神様 (写真下)

照屋正面奥の数段高くなったとろにがあり、中には照屋氏神様と書かれた石が置かれている。琉球国由来記に見える「照屋嶽 神名サトシキ若御威部」、沖縄島諸祭神祝女類別に記戦されている「上ノ御嶽」に該当するといわれている。

(イ) クバオーの按司世 (アジシー) (写真右上)

波平門中の娘である差本ハル (四男兼元) が拝んでいたといわれる。


(ウ) 波平腹の按司墓

クバオーのアジシーの西に波平腹の被司墓があり、「御嶽波平按司御墓」、「御嶽赤嶺按司御墓」と記されている。ナナハライリクにあった遺骨をここにウンチケー (勧請) したという。ウマチーやウハチには、部落と各門中が「御嶽波平按司御墓」を拝む。


(エ) 門中の按司世 (アジシー)

照屋御嶽の正面左側に各門中のアジシーが並んでいる。向かって右から下庫理腹、一官腹、前ン当腹、沢寺腹の按司世 (アジシー)。


(オ) 地頭火ヌ神

チムンと呼ばれ、コンクリートの建物の中に数個の石が置かれている。かってはウマチーに使うミキ (神瀬) はここで炊かれたという。村火の神 (ムラヒメカン) という説もある。


(カ) 新屋腹の按司世 (アジシー)、(キ) 宇腹の按司世 (アジシー)

御嶽に入って左側に新屋腹のアジシーと宇腹のアジシーが並び、3つの香炉が置かれている。向かって右が新屋腹のアジシーで、波平の屋敷の近くにあったものを移したといわれている。新屋腹のアジシーの隣の宇腹のアジシーには香炉が2つ置かれており、向かって右側の香炉を部落と各門中が拝んでいる。説によると、そこにはムラ建て、国造りをした人が祀られているという。また、イリク (入り込み) だという説もある。


(ク) 殿小 (トウングワー)

御嶽敷地の両脇に殿小 (トウングワー) と呼ばれている所がある。東側は殿ウトゥーシの背後、西側は宇腹アジシーと新屋腹アジシーの背後にあり、どちらも円を描くように10数の石火岩が配置されている。東西に分かれて何らかの祭祀を行ったと書かれているのだが、その場所は雑木林となって、10個の石は確認できなかった。



(ケ) 殿 (トウン)

照屋御嶽内の庭が殿(トウン) で、上之殿小 (イーントゥヌグワー) と呼ばれている。球国由来記にある里主所之殿と思われ、ウマチーには神人がここに会した。


(コ) 御嶽お通し (ウトウーシ)

アガリューヌウタンカーともいわれている。照屋御嶽に入って右側にあり、9個の香炉が置かれている。向かって右から世持ち神、今帰仁、南山、玉城、西原殿内 (大城城)、中城ミントン城、ミチンサンチン、ウィースカー (上諸泉)、シムスカー (下諸泉) へのウトウーシ (遥拝) といわれている。


神道 (カミミチ)

集落の北から照屋御嶽に向かう道が神通神道 (カミミチ) になっている。


国元 (クニムトゥ)

神道の両側には多くの拝所が集中している。その一つが国元 (クニムトゥ) と言われている波平門中の屋敷があり、そこに神屋があり、火の神を祀っている。


根人屋 (二ーッチュヤー)

国元 (クニムトゥ) の東隣に部落の根屋 (ニーヤ) があり、根人屋 (二ーッチュヤー) と呼ばれている。屋号波平の東に位置することからハンジャヌアガリ (波平の東)、アガリニーヤとも呼ばれている。神屋の中に、火の神と香炉と黒石が置いてある。香炉は6つあり、向かって右から玉城、南山、根人神、ニーブ神、中城、今帰仁に通じる香炉だといわれている。床の間に置かれているウマールの黒石は、字真璧にある真壁のテラの分身という。戦前、旧暦9月の「ムヌメーレームイ」には各家庭が真壁のテラに拝みに行っていたが、戦後、サンジンソー (三世相) の助言を得て、根人屋に真壁のテラの分身を設置し、各家庭はこの石を拝むようになったという。この石は宇腹の屋号兼本が管理している。


ノロ殿内 (ヌンドウンチ)

根人屋 (二ーッチュヤー) の東隣にノロ殿内 (ヌンドウンチ) があり、ヌル神ともいわれる。屋号 川之上小が管理している。コンクリートの祠の中に火の神 (写真下中) と香炉が1つ置かれている。琉球国由来記にある「照屋巫火神」だと思われる。ノロ殿内の屋敷西側に井泉があり、ヌルクサイヌカー (写真左下) と考えられている。


根神屋 (二ーガンヤー)

照屋御嶽の南側、波平屋敷跡の西側、神道の反対側に根神屋 (二ーガンヤー) があり、タキニーヤ(嶽根屋)、ニーヤ (根屋)、イリー二ーヤ(西根屋)、ハンジャヌイリー (波平の西) とも呼ばれている。神屋の中には火の神と5つの香炉があり、波平腹からの分かれである糸満の当銘門中が管理している。ここは部落で最初に人が住みついた場所との伝承もあるが、詳細は不明。照屋御嶽に上る前の合図として先に拝むそうだ。


嶽井泉 (タキガー)

根神屋 (二ーガンヤー) から照屋御嶽の入口方向に井泉がある。嶽井泉 (タキガー)、またはタキクサイガーと呼んでいる。水の神を祀っていると思われ、石の香炉 (ウコール) がある。この地は照屋集落が始まった場所といわれており、その時代はこの嶽井泉 (タキガー)を生活水として利用したのであろう。ウマチーなどには西側の井泉を先に拝む。


居神屋 (イガンヤー)

嶽井泉 (タキガー) から村屋に向かう道に別の神屋がある。ここは比較的新しい拝所で、1987年 (昭和62年) に建てられ、居神屋 (イガンヤー) と呼ばれている。


井戸跡

居神屋 (イガンヤー) のすぐ近くに井戸跡がある。1月2日の村ニントゥ、綱引きの御願、シリガフーの御願の時に拝んでいる。村の人はガ-オー、ウサチガーなどと呼んでいる。


ニーブ神屋

居神屋 (イガンヤー) のすぐ西に別の神屋がある。下庫理腹三男系の屋号 小渡の敷地内にあり、ニーブ神屋と呼ばれている。


火ヌ神の神

御嶽原の照屋グスク北側の畑地に、火の神の神と呼ばれている拝所がある。火を使って物を食べた最初の場所という説や、ムラヒヌカンという説もある。


カミガー

報得川沿いのアミガーラ、ンマガーラと呼ばれている所にある井泉をカミガーといい、ウマチーにはここの水を使ってミキを作ったという。兼城集落を訪れた際にここにきている。字兼城ではテイラガー (照屋井泉) と呼んでいる。


宗地井泉 (ソージガ-)

報得川沿いを更に上流に進んだところに別の井戸跡がある。宗地原にある井泉で、ウマチーに拝んでいる。現在、井泉の水は農業用水に使われている。


報得橋

報得橋は、大里村字稲嶺から西へ流れ、東風平を横切り、東シナ海に注ぐ報得川に架けられた橋。元々は木製の橋が架けられていたが、大雨で傾いたり流されたので尚氏王統12代の尚敬王の命により、毛鴻基 奥平親方安三と童能秀 安仁屋親雲上長義らによって、1732 (尚敬20) 年に石橋が建立された。工事は8月21日から11月1日まで70日の期間で行われ、石工4687名と人夫11868名で完成。と石碑には記されている。沖縄戦により破壊されたが、戦後になって米軍が鉄橋を架け、1957 (昭和32) 年には鉄筋コンクリート造りの橋に改築された。1991年 (平成3年) に橋の改築工事中に遺構が発見されて移築復元。橋の修復工事中に ”報得橋” の遺構が発見され移築復元された

これで照屋集落巡りは終わりなのだが、終わったとたんに雨が降りだした。予報よりも少し早くなったようだ。だんだんと雨脚が強くなったので、近くで雨宿りをするのだが、一向に止む気配がない。これ以上は文化財を見るわけでもないので、雨合羽で帰ることにした。一時間弱の行程だが、結局雨は降り続け、深夜まで降り続いた。明日からは気温も低くなり雨続きとなりそうだ。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011) 
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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