Okinawa 沖縄 #2 Day 51 (2/11/20) 旧具志頭 (1) Koshihara Hamlet 後原集落

後原集落 (こしはら)

  • マージ之御嶽 ・後原之御嶽・火之神 (ヒヌカン) 
  • 新垣村小 (アラカチムラグワァー)
  • 墓群跡
  • 後原
  • 公民館
  • 神屋


後原集落 (こしはら)

後原集落は旧具志頭村の中で最も北に位置しており、南城市と隣接している。この字後原は屋取 (ヤードイ) 集落で、俸禄だけでは生活に困窮した首里や那覇の士族が、文政年間 (1818-1829年) に琉球王朝の募集 (第二期) に応じて移住し、帰農して形成された。1831年に最初にこの地に移住してきたのは玉城門中の玉城亀という人物で、この集落の創建者といわれている。その後、首里や那覇の士族や既に別の場所で帰農していた屋取集落の士族が移り住み、発展していった。資料では1831年以降120年にわたり、16以上のの門中がこの地に移住してきたとなっている。当時はこの後原は新城村の一部であったが、人口に対して土地が広すぎて、この後原までは開墾できず荒れ地であった。帰農した士族たちは新城集落の地主から小作として土地を借り (叶掛 カナエカ) し、小作料 (叶米 カナエマイ) を収めていた。この小作料 (叶米 カナエマイ) は多くの場合、日雇い (スカマ) の労働提供で支払われていた。米を収めるだけの十分な収穫はなかったのだ。小作以外にも土地を取得していた。それは、土地を割り当てられた新城村では、耕作できず土地を首里に返納したり、帰農士族に売却していた。新城村にとっても生活は苦しく、帰農士族はその一つの解決策にもなっていた。前にも触れたのだが、屋取集落が出来上がっていくフェーズをまとめたものがあるので、もう一度おさらいでここに載せておく。この後原集落は第二次屋取フェーズから始まっている。

  • 第一次屋取: 1713-1751 12代尚敬王 ー 嫡男でない次男、三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えれ政策をとった。
  • 第二次屋取: 1795-1875 15代尚温王から明治の廃藩置県まで ー 第一次の帰農制作に一定の成果が見え、この屋取が貧困士族の解決策と認識されたことと、科挙と呼ばれた官吏への登用試験が実施され、試験に通らない士族が増加し職を失った時代背景もある。
  • 第三次屋取: 1879-1909 廃藩置県から明治の土地整理まで ー この時代が一番悲惨な期間で、廃藩置県で大量の士族が職を失った。士族は帰農せざるを得なかった。この時期が屋取集落の発展期にあたる。
  • 第四次屋取: 土地整理以降 ー 集落化した屋取集落が小字として行政区分で独立し、土地所有権が得られる様になったことが、屋取集落への移住の要因となっていた。

後原集落は1908年 (明治41年) までは新城村の一部であったが、人口も当時で287名 (54戸) まで増加したため、行政区としての分離が請願されていた。これは一つには、帰農した士族は士族としてのプライドが捨てきれず、元々住んでいた農民との交流はほとんどなく、お互いに距離を置いた関係だったそうだ。後原集落の住民は新城村からの分離を請願し、1908年 (明治41年) に字となる。しかし、実際には大字としての新城村の行政下に置かれていた。完全な分離が実現したのは、昭和22年に沖縄県議会で字後原を大字後原に変更する告示が出され、1986年 (昭和60年) にこれが発効となった。(昭和22年に制定された告示では発効日が昭和60年となっており、なぜ40年もの移行期間が設けられたのかは疑問だ。) これでようやく独立した行政区となり、 具志頭村では最も新しい字が誕生した。

人口はここ10年間で35%もの伸びを示している。これは他の字に比べても大きな率だ。この字では県営とか町営のマンモス団地はない。何が理由だろか?

 旧具志頭村の中では字 具志頭に次いで人口の多い字になっている。以前は小さな字であったことを考えると、人口の伸び方は顕著だ。旧東風平の隣接する字東風平やその周辺の字伊覇、字屋宣原も人口の伸びが10年で100%を超えている。八重瀬町で最も開けている字東風平に隣接していることが高い増加率の理由だろうか?

旧東風平町との合併で八重瀬町になる前に、旧具志頭村で発行している「具志頭村史 第4巻 村落編」の中で紹介されている文化財は二つだけ。

  • 御嶽: マージ之御嶽 (後原之御嶽)
  • 拝所: 神屋


今日は旧具志頭村の初日。昨日、一昨日と沖縄県立図書館でこの集落について、調べ事前準備をしたのだが、二日間では時間が足らず、まずは幾つかの集落だけにした。そのうちの後原 (こしはら) 集落と新城 (あらぐすく) 集落を訪れる。新城集落も訪れたのだが、この集落についてはまだ十分調べ切れていないので、次回も新城集落を訪れる予定。新城集落については、今日の訪問したレポートと合わせて書くつもりだ。ということで、今日の訪問記は後原集落のみとする。

先日訪れた字東風平から南東に道を進むと、一面サトウキビ畑、その中を進む。

向こうの丘の上に集落が見えてきた。あそこが後原集落だ。


マージ之御嶽 ・後原之御嶽・火之神 (ヒヌカン) 

この御嶽は新垣マージと呼ばれた場所にある。真壁間切新垣村の人々がこの未開地に移り住んで開墾した場所で、上で述べた1831年から始まった屋取集落のずっと前の延亭年間 (1744-1747年) と推定されている。新垣村からの移住なので「新垣村小 (アラカチムラグワァー)」と呼ばれた。本土でいうと小新垣村、英語だと Little Arakachi Villageとなる。資料ではこの御嶽が新垣マージにあるとなっていたが、御嶽の場所を記した地図はなく、新垣マージと思われる場所に行き探すが、見つからない。畑で作業している女性に場所を聞くと、すぐ近くの芋畑にあると教えてくれた。御嶽の周りには芋を植えてはいけない事になっているそうだ。早速、行ってみると、まずは畑の中に井戸があり、そこも拝所になっている。

畑の奥にも拝所がある。ここが新垣村小がこの地に移住してきたときに造った御嶽だ。1831年に首里那覇から移住してきた士族が、このマージ之御嶽の隣に自分たちの御嶽を造った。これが後原之御だ。その後、新城の脇地頭が火之神 (ヒヌカン) をさらに設けた。現在は一つの祠を建て直して、その中に三つの拝所を移設している。写真の向かって右からマージ之御嶽、後原之御嶽、火之神 (ヒヌカン)。


新垣村小 (アラカチムラグワァー) 跡

御嶽がある新垣村小 (アラカチムラグワァー) は一度消滅している。ここに移り住んだ新垣村の人たちは一時期成功して裕福になったのだが、その後、飢饉の年が何年も続き、結局は村を捨て、故郷の真壁間切の新垣村に戻ったそうだ。1831年に屋取集落の始まりのころには既に村はなく、屋敷跡と御嶽だけが残っていたそうだ。この地域は今でもひっそりとした場所だった。周りをサトウキビ畑で囲まれた丘の上にある。この村に行くには道が一本しかない。民家も少ない。字後原の中でも、辺鄙な地域だ。資料には、新垣村小 (アラカチムラグワァー) が消滅したいきさつが伝承で残っているのが紹介されていた。「ここに移り住んだ新垣村の人たちは多くの土地を開墾し、生産も増え、村の人すべてが金持ちになり、近隣の村に金貸しをするまでなっていた。そこで、村人は畑仕事もせず、ウマチーも忘れ、紫芝の練習に没頭し、村芝居は盛況に終えたのだが、気が付くと金を使い果たし食料の貯えもなくなってしまった。その後は不作が続き、ある時、夢に神様があらわれ、きつく叱られすぐさま新垣村に帰れと言われたいう。村人は御嶽に行き、許しを乞うたが、その後も不作は続き、とうとう新垣村に戻っていった。」


墓群

新垣村小の奥に道があり丘の上に続いている。この先には山グスクがあるはずなので、登り口があるかもしれないと思い行ってみた。山グスクは目の前にあるのだが、この丘と山グスクの間は深い谷になっており、行き止まりだ。

この丘は墓地になっていた。いくつかの大きな門中墓がある。


後原公民館

屋取集落ができた場所にある公民館に行く。公民館の前は広い広場がある。ここは元々はなにだったのだろうか?村屋 (ムラヤー) か砂糖小屋 (サーターヤー) か?多分砂糖小屋 (サーターヤー) ではないかと思う。この集落の主要産業はサトウキビからとれる黒糖だった。戦前はこの集落には各門中で組織された10もの砂糖小屋 (サーターヤー) があった。門中で閉じて組を作るとは、沖縄の父系親族集団 (チュチョウデー) の結束は強い。公民館の裏には多分馬場跡と思われる長い広場がある (写真下中).。公民館の敷地の角に平仲の記念碑があった。二つある。大きいほうは平仲がロサンゼルス五輪に出場した時のもの。小さい方はWBA世界ジュニアウェルター級王者になった時のものだ。平仲はこの後原出身だった。実家はサトウキビ畑農家だったそうだ。


神屋

公民館には神屋がある。この拝所が造られたのは比較的新しく、1908年 (明治41年) に新城 (あらぐすく) から分離した翌年に、新城にある上江洲ヒラ嶽の神の世持若司威部を分霊してここに祀り御火之神とした。その後、1950年 (昭和25年) に後原屋取集落の祖である金城亀を集落の守護神として神アサギに祀った。沖縄の祖先崇拝がいまだに根強いことを表している。1988年 (昭和63年) に、この公民館にコンクリート製の祠を造り、御火之神と神アサギを移し、現在に至っている。

これで後原集落は終了し、今日はまだ時間があるので、隣の新城 (あらぐすく) 集落に向かう。途中馬小屋があった。この近辺には養牛所や養鶏所はよく見かけたのだが、馬ははじめてだ。こちらを見ている。

新城集落はもう一度来るので、今日の新城集落の訪問地はその際に含めてレポートする。今日も夏日で暑い。汗でびっしょり。


参考文献

  • 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
  • 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
  • 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)

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