Kii Peninsula 紀伊半島 13 (20/12/19) Wakayama Castle Ruins 和歌山城跡
和歌の浦
- 観海閣/海禅院多宝塔
- 不老橋
- 鹽竈神社
- 玉津島神社
- 奠供山
- 紀州東照宮
- 和歌浦天満宮
Wakayama Castle Ruins 和歌山城跡
- 三の丸/旧大村家住宅
- 岡口門
- 南の丸/空堀
- 岡中門/御蔵の丸/東内堀
- 大手門/一の橋/北内堀
- 二の丸/二の丸御殿 (表、中奥、大奥)
- 西の丸/鳶魚閣/二段の滝
- 御橋廊下
- 砂の丸/吹上門/追廻門
- 表坂
- 松の丸
- 本丸御殿
- 本丸
- 天守閣
今日は一日和歌山市観光でもう一泊。昨日は100kmのロングライドで今日は脚を休める。
和歌の浦
宿の近くに和歌の浦と呼ばれる名勝がある。平安の昔から万葉集で詠まれた地だ。朝早いので観光客もいない。のんびりと散策。
観海閣/海禅院多宝塔
先の台風で三断橋が崩れ通行止めで中に入れなかったのだが、架設橋ができ観海閣と海禅院多宝塔は見学ができる様になっている。ここは和歌川の河口で名勝になっている。観海閣は木造の水上楼閣で、紀州藩の徳川頼宣が慶安年間 (1648 〜 1652) に昨日訪れた名草山にある紀三井寺の遥拝所として建立した。昭和36年の第二室戸台風で流出したが、コンクリートで再建されたものが現在の建物。
ここ和歌山は徳川御三家の一つで、その祖が徳川頼宣。徳川家康の十男で徳川吉宗の祖父にあたる。文献ではかなり優れた人物の様に描かれている。徳川家康は特に目をかけた様だ。大坂冬の陣が初陣。家康没後に第二代将軍の秀忠の命で、駿河から紀州に転封となった。慶長の変 (由比正雪の乱) では関係を疑われ、謀反の疑いで、(結局疑惑は晴れたが) 10年間紀州へ帰国できなかった。徳川幕府にとっては、家康の子と言うこともあり、少々目障りな存在であった様だ。
河口は干潟で引き潮で川底が顔を出している。
対岸には昨日行った紀三井寺が臨める。(小さくて見辛いのだが...)
観海閣/海禅院多宝塔はこの河口にある小さな離小島の妹背山にある。
先の台風で壊れたが、現在修理中の三断橋
壊れる前の写真と古写真でどの様な趣だったが分かる。
三断橋を渡ると経王堂。経王堂は何度か流されて、多宝塔内の題目碑と一対になっていて、国家守護を願い建立され、サンスクリット語の梵文題目碑が長い間野ざらしになっていたが、これも数年前に再建されたもの。中にはその梵文題目碑が納められている。
観海閣
何度も流されたのでコンクリートで造ったのは理解できるのだが、やはり史跡としてはコンクリート製だと少し違和感がある。
海禅院多宝塔
観海閣のある小島の妹背山の中腹にあり、徳川頼宣が承応2年 (1653) に、母の養珠院の弔いのために多宝塔を改建。宝塔内には背面に建立の由来が記した題目碑が安置されている。
不老橋
左があしべ橋、右の小さな橋が不老橋。あしべ川に架かっている。不老橋は紀州藩第10代藩主の徳川治宝が嘉永4年 (1851) に建造したアーチ型の石橋で、紀州東照宮の祭礼の和歌祭の際に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうための「お成り道」に架けられたもの。
この不老橋の隣に架けられたのが新不老橋 (あしべ橋)で、平成3年に完成したのだが、この橋の建設には和歌の浦の景観を損なうと言う事で住民の間で反対運動が起こる。全国規模に発展し裁判沙汰までになった。地図で見ると、このあしべ橋が無くても海岸通りから和歌の浦の細長い半島にある片男波公園まで行けるので、住民の主張も我儘では無い様に思える。
その様な事があってか、この橋のデザインには相当気を使っている様に思える。アーチ型の石積み橋の雰囲気を演出しようとしている。行政側も色々と頭を悩ませたのだろう。住民が昔ながらの景観を残したいと切望したのはどの様だったのか? あしべ橋ができる前の景観が知りたくインターネットで探すと数点見つかった。確かに風情はあるが、周囲もかなり変わってきているのでどこまで景観が保てただろう。
鹽竈神社 (しおがまじんじゃ)
安産の神様として塩槌翁尊 (シオツチオキナノミコト) が祀られている。初めて聞く名なのだが、子供の頃読んだ日本神話の「山彦と海彦」の物語に関係していると知って興味が湧いた。主人公の山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を亡くし、途方に暮れているところに、塩槌翁尊の助言で龍宮に行き豊玉姫と結ばれ子を授かったと言う話。この縁結びの神であった塩槌翁尊がこの神社に祀られていると言う事。ちなみに山幸彦は神武天皇の祖父と言う事になっている。現在の研究者は山幸彦と海幸彦は架空の人物で天孫族と隼人族との闘争を山幸彦と海幸彦で神話化したと解釈している。海幸彦は九州にいた熊襲と呼ばれた隼人族の阿多君の始祖とされている。それを天孫族の象徴の山幸彦が撃つと言う話。それが大真面目に神武天皇の祖父となっている。伊勢神宮をまわった時に、多くの日本神話に関連した神様が出て来た。紀伊半島にはこの様な神社が多く存在する。(もっとも、神社は日本全土で8万社もあり、仏教寺院の数を少し上回るぐらいなので、日本各地にも山幸彦ゆかりの神社が多くある。) 今では、ほとんどの人が作り話である事はわかっているのだが、昔の人はどこまで信じていたのだろう?
玉津島神社
日本武尊の子の第14代 仲哀天皇の皇后 息長足姫 (おきながたらしひめ 神功皇后) が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まると言われている。古くから和歌の神様として多くの万葉人の信仰を集めてきた神社。この祀られている神功皇后は初めての摂政とされた。日本書紀では仲哀天皇が逝去してから応神天皇即位まで約70年間ヤマト王権に君臨したとされ、明治時代までは第15代天皇で初の女帝とされたが、大正15年の皇統譜より正式に歴代天皇から外された。 その結果、この約70年間は天皇不在ということになる。このように現在の歴代天皇リストは江戸時代から昭和前半まで、入れ替えが頻繁に行われている所々、学んだ歴史と歴代天皇が食い違っている箇所もあるのだが、宮内省は特に気にしていない様だ。
奠供山 (てんぐざん) の反対側にはかつて旅館があった。当時は多くの旅人が訪れていたのだろう。
奠供山 (てんぐざん)
鹽竈神社と玉津島神社は奠供山という小さな山の麓にある。この奠供山を登る。かなり急勾配の階段を登り頂上へ。
ここには奈良時代に和歌浦の風景を楽しむために望楼があったそうだ。眺めは今より遥かに良かっただろう。今でも良いのだがビルが建ち過ぎて趣が半減。
逆光で暗くなってしまったが、これはこれで結構気に入っている風景。不老橋が眼下に見える。
あしべ川に沿って次の訪問地の東照宮まで進む。
紀州東照宮
参道を進むと長い急勾配の108段の石階段。迂回路もある。緩やかな階段と書かれていたがこちらも急な階段でほんの少し楽なくらいだが距離は長くなる。楼門が階段の上に見えている。階段の下には稲荷神社と弁財天がある。
階段を登って楼門越しに目にしたのは全面工事スクリーンで覆われた本殿。唐門が正面に見える。ここも今年の台風で被害を受けている。境内に入るには拝観料を取る。拝観料を払って工事現場を見ても仕方がない。来年3月に工事終了だそうだ。また和歌山には来る機会があるだろうから今回は境内には入らなかった。少し残念。
紀伊東照宮は元和7年 (1621年) に徳川家康の十男である紀州藩祖の徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建された。関西の日光とも称される。本殿には伝左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵がある。祭神は徳川家康 (東照大権現) と紀州藩初代藩主徳川頼宣 (南龍大神)。
和歌浦天満宮
紀伊東照宮の近くにある天満宮は和歌浦天神山 (標高約93m) の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神。延喜元年 (901年) に菅原道真が大宰府に流される途中、和歌浦に停泊し歌を詠んだと伝えられている。菅原道真は二年後の903年に亡くなった。その後、第62代村上天皇の康保年間 (964 - 968年) に参議橘直幹 (たちばなのなおもと) が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まり。橘直幹は平安時代の官僚で漢詩人として高い評価を得ていた。太宰府にいた時には既に菅原道真は亡くなっているのだが、官僚として、それ以上に文学者として道真に対する尊敬の念が強かったのだろう。恐らく橘直幹が太宰府に行き、ここに立ち寄らなかったら天満宮はこの地には無かっただろう。日本の各地に似たような経緯で天満宮が建立されている。全国で12000社もある。数え方によっては2万から3万にもなるらしい。(多分、道真が主祭神ではなく配神として祀られているのを含めた場合と思う) 日本全国に神社数が約8万社と言われているので、天満宮は神社総数の15%を占め、道真が祀られているのは38%にもなる。道真の影響力の大きさには驚く次第だ。
ここも急勾配の階段と少しだけ緩やかな階段がある。ここも工事中だった。やはり台風の被害の復旧作業だ。東照宮程ではなく本殿は無事だった様だ。
やはり天満宮だ。牛がいる。山門の下には狛犬ならぬ狛牛。境内には撫で牛。狛犬は見当たらなかった。
Wakayama Castle Ruins 和歌山城跡
1585年 (天正13年)、紀州征伐の副将として豊臣秀吉の弟の秀長が参陣平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増され、当時は”若山”と呼ばれたこの地に藤堂高虎に城を築かせたのが和歌山城の始まり。若山を和歌山と改めている。1600年 (慶長5年) の関ヶ原の戦いの後、東軍に属した当時城代であった桑山一晴が正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となり、浅野幸長が37万6千石で紀州藩主となる。1619年 (元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の広島藩に加増転封となり、徳川家康の十男の頼宣が55万5千石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立。頼宣は入城後、城の改修拡張に取り掛かるが、頼宣はかなりの実力者で幕府から警戒されていた。何度も謀反の疑いをかけられ城の拡張は断念せざるを得なかった。それでもかなり広い縄張りだ。下の図は二の丸まででこの外に更に三の丸があった。紀州徳川家は明治の廃藩置県まで続くのだが、他の城と同様に廃城令で多くの建造物が解体もしくは移設された。残ったものもほとんどが第二次世界大戦の空襲で焼失し、現在のものは一部を除き、その後に外観復元されたもの。
和歌山に近くなると天守閣が見えてきた。ここは三年坂という通りの交差点。歩道橋を上まで上り、天守閣がすっきりと見える所を探して撮影。
交差点には徳川吉宗像が建っている。この銅像はいつも見る真面目そうな直立不動の像とは違う。暴れん坊将軍のイメージで造っているのだろうと苦笑。
やはり紀伊は暴れん坊将軍吉宗かと思ったのだが、吉宗を和歌山で感じたのはこれだけで、それ以降、吉宗は登場してこなかった。これは意外だ。初代紀伊藩主の徳川頼宣は何度となく史跡に登場するのだが、和歌山城を築城した豊臣秀長も出てこないし、暴れん坊将軍吉宗も登場しない。和歌山の人に一番人気の歴史上の人物は誰なのだろう?
三の丸
和歌山城の内堀の内側が城址公園になっている。まずは内堀沿いを走り自転車を停める事が出来る場所を探す。この内堀の外側はかつては三の丸であったが、今は市街地に変わり、名残らしきものはほとんど無い。どこの城跡に行っても三の丸は市街地になっている。これは鳥取城に行った時にボランティアガイドさんから聞いた事だが、通常三の丸は武家屋敷で城に近い方から重臣が屋敷を構えており、その敷地はかなり広いものだった。武士の世の中が終わり廃城後はこの広大な屋敷は市役所、軍施設、学校、病院の様な広い土地が必要な施設に変わり、その周りに商店街や住居となっていったという。和歌山も例に漏れず、県庁、市役所、消防局、裁判所、検察庁、中央郵便局、美術館、博物館学校、商業施設、オフィス街になっている。
その中で一つ史跡があった。旧大村家住宅の長屋門。移築されてはいるのだがこの様な住宅街この三の丸には多くあったのだろう。
裏が駐車場になっている。別の公園の駐車場だ。陸奥宗光の像が建っている。陸奥も和歌山出身だそうだ。歴史上有名な人物だが、その功績はと言われればピンとこない。
ここに自転車を停め、城に向かう事にする。
岡口門
和歌山城の南東の隅にある櫓門の岡口門から見学を始める。浅野時代初期には大手門であったが、後期に大手門から搦手門として修復。現存しているのは1621年 (元和7年) に徳川頼宣により再建されたもの。岡口門を入ると広い広場に出る。
南の丸/空堀
岡口門の広場の西側には南の丸があったのだが現在は動物園になっている。数十年前までは城跡公園に行くと必ず小さな動物園があった。最近は大半が姿を消しているのが、小さな子供のいる家族で公園に来た時は動物園があると家族で楽しめる。維持が大変なのと、昔と違い小動物園に興味を示すのが幼児に限られてきており、今の小学生は他の事の方に興味があり、この様な小さな動物園は人気がない様だ。個人的には、今でもこの様な小さな動物園は昔が懐かしくて大好きだ。動物が好きだからかも知れないが、観察していると愛らしい動きをする。それを見るのが楽しい。この南の丸は徳川頼宣が紀州入国後に拡張した郭で、城の南側の砂丘を掘り割って東西の道 (三年坂通り) を造り、道の北沿いに南堀と石垣を築き郭として内郭へ取り込んでいる。南の丸には三棟の蔵跡が確認できるのみで、その機能は不明。南堀が深い空堀となっている。現在の空堀跡はやはり公園になっており空堀の中を散歩できる様になっている。
岡中門/御蔵の丸/東内堀
広場の先の北側には岡中門。門の定番の枡形になっている。入ると、ここも広い広場で御蔵の丸と呼ばれた所。東内堀で囲まれている。堀に面した石垣の上は一定の広さがあり、おそらく多聞櫓が建っていただろう。(図を見るとやはり多聞櫓と記載されている) ただこの石垣の城の内側は全面階段状の雁木になっている。珍しい。何故だろう。解説では城兵の昇降用とさらりと書かれているのだが、雁木を登った先は多聞櫓の白壁に阻まれているはず。この説明にはしっくりいかない。今度来た時には、この雁木がどの様な効果があったのかを聞いてみたい。個人的推測では、当初は多聞櫓は存在せずに城壁だけで、戦闘時にはそこに一気に兵が駆け上がり戦闘態勢が取れると言うものでは無かったろうか、だから全面階段の雁木構造になっていたと思う。太平の世になりその必要性が薄れて多聞櫓が造られて雁木がそのまま残ったのでは無いだろうか。答え合わせは次回訪問時になるだろう。
大手門/一の橋/北内堀
御蔵の丸の北の枡形の門跡を抜けると名前はとうとうわからなかったが別の細長い曲輪跡がある。 ここも東内堀に囲まれており、北の端には堀を一の橋で渡っての大手門がある。ここが和歌山城の正式な表玄関になる。
ニの丸/二の丸御殿 (表、中奥、大奥)
大手門を入った曲輪の西側で、内堀に面した城の北川はニの丸になっている。ここに行くには、名が判らない曲輪を通り、御蔵の丸から入ることになる。ここは和歌山城の心臓部でニの丸御殿が建っていた。ニの丸御殿は東から西へ、表、中奥、大奥と仕切られており、表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所。
二の丸からは本丸への登り口もあった。徳川頼宣の時は本丸御殿で政務をとっていたが手狭と言う事で、二の丸御殿が造られて、その機能がこちらに移った。
これは史跡では無いのだが、御蔵の丸から二の丸に入った所に虎が伏した像がある。この城は伏虎城とも呼ばれていたので、昭和の時代に造られたそうだ。
西の丸/鳶魚閣/二段の滝
二の丸の西側には西の丸があるのだが、二の丸と西の丸の間には内堀が城の内側に入り込んでおり、この二つの曲輪は直接面しておらず分断されている。西の丸に行くには台所前門からこの入り込んだ内堀沿いの細い通路の鶴の渓経由で行かねばならない。藩主とそれに付き添う人達はこの入り込んだ内堀に架けられた御橋廊下を通って西の丸庭園に行く事ができる。御橋廊下が復元されている。
西の丸には西の丸庭園と西の丸御殿で構成された日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれ、藩主の隠居所として使われていた。ここには鳶魚閣や二段の滝が設けられている。写真右上は松下幸之助が寄贈した茶室紅松庵。松下幸之助も和歌山出身だそうだ。
御橋廊下
当時のものに復元されている。藩主の居場所が判らぬ様に橋は壁と屋根で囲われている。二の丸からは下りの傾斜になっている。今は一般の訪問者も渡る事ができるのだが、何とも歩きにくい橋だ。橋桁の板がそれぞれ重なり合っており、歩くたびにその板の角が足の裏に食い込み痛いのだ。これは工法の制約なのか、それとも意図的にこうしているのか。ここで疑問が出る。何故だろう? 次回訪問時の宿題だ。
砂の丸/吹上門/追廻門/不明門
西の丸の西側には砂の丸があり、城の西側を固めている。城の外側から、つまり三の丸からは北方面は吹上門、西側からは追廻門で砂の丸に入る事ができる。更に砂の丸の南端の南の丸との境には不明門があった。砂の丸は徳川頼宣が紀州入国後に拡張した郭で、勘定御門から不明門の間にあり、乗馬調練場として使われていた様だ。江戸後期には、北部に勘定所等が配置され、南部には松林が広がっていました。そのほかにも御薬園や同心居御長屋などが設けられていた時期もあったそうだ。砂の丸とは奇妙な名前。その名の由来に興味が湧いたが、調べても分からずじまい。
砂の丸跡には護国神社も建っている。
吹上門の西側には吹上御門もあったのだが現在は消滅してしまい護国神社の鳥居が建っているのみ。
追廻門は砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門で、馬を追い回したことから、この名が付いている。
不明門は開かずの門で緊急時以外は閉じられたままであった。現在は駐車場のゲートが置かれている。
不明門の近くから裏坂という本丸への登り口があった。本丸裏門に通じる道。
いつの時代にできたのか判らないがこの裏坂の道の半ばで、石垣沿いに二の丸との合流する細い道もある。見学コース外なのだが、強行突破で立ち入った。発掘中なのか、修復中なのか石垣が崩れた様になっている。
これで、内堀内の本丸の周囲は反時計回りに周り、いよいよ本丸へ登城する事にする。
表坂
御蔵の丸に戻り、岡中門の内側から西に曲がりくねった登り階段がある。表坂と言う。登りきると櫓跡。そこからは先程通った二つの広場が一望できる。
松の丸
ここから長い曲輪跡が続く。松の丸と呼ばれていた。先には本丸への坂道になる。
途中にこの様なものもあった。七福の庭と呼ばれているもので、徳川頼宣が藩の隆盛を祈念して、本丸御殿の庭園に造らせたものを廃城後の大正時代に本丸御殿跡に貯水池をつくるため、この松の丸に移設した。どうりで見た時に周囲に馴染んでおらず違和感があった。
ここで昼食をとっていると、サンドイッチを食べ終わるかの時にカラスにサンドイッチを取られてしまった。爪が鋭いので、指先を負傷。カラスに襲われたのはこれで三回目だ。天敵なのか? 鳩や野鳥、犬、猫、ネズミなどは、あまり警戒をしないで近寄ってきて仲良くなるのだがどうもカラスはいつも戦闘的だ。場所を変えデザートのみかんとバナナを食し、ショックから立ち直る。
本丸
気を取り直し先に進む。松の丸の終わりは登り坂になり、曲がりくねって上の方は階段になっている。ここには下から本丸表御門、中の御門、天守一の御門と三つの門があった。本丸へのの入り口は厳重だ。
天守閣が近くに見えてきた。まだ見上げると言った感じだが... ここから天守閣が綺麗に見える。ここを登れば本丸だ。
本丸御殿
その存在したと思われる門を通ると二手に分かれる。すぐのところが本丸御殿。今は給水設備になっており、中には入れない。徳川頼宣の時代には、ここが藩主の住居及び政務の場であったが、手狭な事と、ここは虎伏山の頂上にあり、いちいち登城してくるのは不便という理由で、ここの機能は二の丸御殿に移った。その後、本丸御殿がどの様な役割だったのかは調べたが見つからなかった。これも次回の質問事項の一つ。
ここからの天守閣。立派な眺めだ。
次は天守閣へ向かう。
天守閣
曲がりくねった坂の三つの門を通って、天守一の御門を抜けると天守郭で広場になっている。
天守閣は石垣の上にそびえる連立式天守になっている。
A: 大天守 B: 二の門櫓 C: 乾櫓 D: 小天守 E: 多聞櫓 F: 天守二の門 (楠門) [なぜかこの図は天守や櫓の位置が間違っているのだが、連立式天守がどの様な物かが分かりやすいので敢えて掲載した。]
天守二の門 (楠門) と二の門櫓
乾櫓
大天守と小天守
天守閣など天守郭の建造物は全て復元されたもので、小天守から入り、大天守、多聞櫓、乾櫓など中をぐるっと回れる資料館になっている。展示内容は形だけのもので、和歌山城の歴史や見所のパネル展示もほとんど無く、甲冑、武器や書簡などがストーリーも無く寄せ集め展示になっている。有料展示としてはお粗末すぎた。これだけ金を注ぎ込み和歌山城を復元しているのだから、展示にももう少し資金を出して内容を充実させるべきと思う。
これで和歌山城の見学は終了。午前中に和歌の浦もじっくりと見て時間を使った。本当は和歌山城だけの見学に、まる1日欲しい所だ。時間が有れば、今は市街地になっている三の丸の散策もしてみたい所だ。それは次回としよう。今までこの旅で訪れた所は、その後、もう一度行きたくなる。今の旅のスタイルは訪問前にその場所をじっくりと調べていくわけで無く、その場で調べながら見学する様にしている。事前に入念に調べる時間が取れないことと、見る前に調べてもイメージがつかめない。その場で調べながら見るのが一番効果的だ。見ながらレポートを書いているのだが、後半は日暮が迫ってきて、レポートを書く時間が取れない。だいたいレポートの70%ぐらいは見終わった時に完成しているのだが、宿に着いた時には疲れ果て、夕食、シャワーを終えると暫くして眠りに落ちてしまう。レポートの残り30%が後回しになり、その日の内にレポートを完了させる事ができない日が続いている。後で更に調べながら書いていると、見落とした事や、行けなかった所が出てきて、また行きたくなる。通常は滞在を延ばし翌日行くのだが、今回は沖縄行きのフライトを予約し、年末年始のピークシーズンで予約変更が難しい。とにかくフライトの前日までには大阪に着かねばならないので、今回は和歌山はこれで終了とし、明日は岸和田に向かう。
0コメント