Kii Peninsula 紀伊半島 11 (18/12/19) Tanabe Castle Ruins 田辺城跡

熊野古道 大辺路
日神社
潮垢離
田辺城跡
今日は紀伊田辺迄進む。距離は串本から70km程で日没までには着ける距離。朝早く出れば、途中で史跡が見つかれば立ち寄るつもりではあったが、疲れが溜まっているのか朝寝坊してしまい出発が9時過ぎになってしまった。7時には出発するつもりだったので2時間ロスでの出発となる。あまり見学の余裕はなさそうだ。
串本から紀伊田辺までは国道42号線を行くのだが、この道路以外で行くには山の中の標高400m~500mの峠を3つ越える必要がある。流石に山間部ルートはきつすぎるので海岸線の国道42号を選択。熊野古道の大辺路は全く同じでは無いのだが山間部ルートが近い。東海道や中山道よりも石畳の古道が多く残っており自転車で通るには事前にルートを調べておかないと途中で走行不可能な路になってしまう。熊野古道は歩いて行くしか無さそうだ。いつか歩いてみたい路だ。ただ国道42号線と所々交わる所もあるので、少しは熊野古道を通れた気もする。

熊野古道 大辺路

串本から紀伊田辺迄の熊野古道大辺路
那智勝浦から串本迄
楽そうな国道42号線もリアス式海岸のせいか、アップダウンが非常に多かった。決して楽では無い。海岸の狭い低地には集落があり、集落を通過すると、すぐに岬を越える登り坂になる。下るとまた集落がある。この繰り返しを何度となくこなす。後で走行ログを見ると17回にもなっていた。紀伊田辺に着いた時は足はかなり疲れている。今晩は腓返りが心配だ。
日置と言う地の道の駅で。ベアーズロックと呼ばれる岩が海岸にある。熊が寝ている様にも見えるかな....  変わった木が海岸線に植わっている。なんと言う木?
走行も後半になり、だいたいの到着時間が見えてきたので、国道沿いに史跡が有れば立ち寄る事にした。表示に気をつけながら走るが、なかなか見当たらない。熊野古道への案内板があったのだが、そこに行くにはかなりの距離で熊野古道への寄り道は断念。
そうこうするうちに山を下り川沿いの富田と言うところに面白い名前の神社が目についた。

日神社

にちじんじゃと読む。珍しい名前だ。どういう経緯でこの名前になったのだろう。創建は平安時代で仁安2年 (1167) 藤原範秀が伊勢の天照皇大神の分霊を奉斎をした。神社は元々は若一王子之宮と呼ばれこの地域の富田12ヶ村の産土神であった。明治の神仏分離令で名称を日神社にしたのだが、結局名の由来は判らずじまい。
紀伊田辺に到着。港町だ。

扇ケ浜潮垢離

紀伊田辺に到着して海岸で休憩をしていると、これが目に入った。読んでみると熊野参詣の潮垢離場がここにあったと書かれている。この紀伊田辺は大辺路と中辺路に分かれる場所で、参拝者の多くは、海岸線の大辺路から中辺路を辿るため、ここで最後の潮垢離をとっていたそうだ。 お参りの前に身を清める習慣がありここが参詣前の最後の潮水での垢離となっていた。
もう日が沈みかけている。ほんのり夕焼けになっている。

田辺城跡

地図に田辺城跡とあったので夕方近くで薄暗くなり始めたがとにかく行ってみた。地図上で城跡となっているところには何もなく民家が密集している。
川のところの公園がありそこの城の水門跡が残っていた。掲示板を読むと田辺城の遺構はこの水門だけだそうだ。
1605年 (慶長10年) に洲崎城が波浪によって破壊され、その代わりに田辺城が1606年 (慶長11年) に浅野家の家老の浅野知近によって築かれ、城代として安藤氏重が入城。1615年 (元和元年) の一国一城令の後は改築して陣屋として使われていた。幕末最後のの1868年 (慶応4年) に16代目の安藤直裕は紀伊田辺藩として独立したが、1871年 (明治4年) の廃藩置県で城は払下げられ、城郭は破却された。
日も暮れ、今日はこれでおしまい。
今日はかなり疲れた。なるべく早く寝るとしよう。明日は90km先の和歌山迄走るので、出来る限り早く出発したい。


0コメント

  • 1000 / 1000