Ride in Setouchi & San-in Day 44 (28/4/19) Historical Places in Masuda 益田市史跡巡り

Historical Places in Masuda 益田市史跡巡り
  • 大喜庵
  • 小丸山古墳
  • 萬福寺
  • 医光寺
  • 益田氏城館跡
  • 七尾公園 (七尾城跡)
Hamada Castle Ruins 浜田城跡
昨日はこの益田には夕方に到着したので、何も見ていない。今日は浜田に移動するがそれ程の距離では無いので、昼過ぎまでは益田の史跡巡りをする。益田は柿本人麿の生まれた所、雪舟の終焉の地、毛利家の永代家老益田氏の本拠地だった所。このうち雪舟と益田氏所縁の史跡と益田氏居城を訪れる。

雪舟所縁の史跡

大喜庵

雪舟が晩年を東光寺で過ごし、1502年に83才で、ここで没したと書いていた。(東光寺は焼失してしまい。そのあと雪舟の200回忌の1702年に大喜庵を建設した。) 山口市で訪れた雲谷庵では山口で87才で没したとあったので、「雪舟は2度死ぬ」か? 昔の事だから、よくある話。他の解説では雪舟の亡くなった地は3つの説があるらしい。ただ、晩年をここで過ごしていたならば、ここで没した説は自然な様な気がするが、山口では別の事が書かれてあった。不明の空白期間が多いので、その空白期間に関して色々な説が出てくるという訳だ。
隣接して雪舟の郷記念館がある。管内の庭には雪舟チックな小庭園があった。
この裏に前方後円墳の小丸山古墳があったので行ってみた。綺麗に整備されている。

萬福寺

応安7年(1374年)に、益田七尾城主益田兼見が以前からあった寺をこの地に移築し、萬福寺と改め、益田氏の菩提寺とした。庭園は雪舟が益田に滞在したときに作庭したものと伝えられている。

医光寺

前身は崇観寺で代々益田氏の庇護を受けた。室町中期に雪舟が住職として招かれたときに作庭された雪舟庭園が残される。戦国時代に荒廃したが、17代当主益田宗兼が医光寺として再興した。
総門は七尾城(益田城)の大手門を移築したもの。

益田氏所縁の史跡

萩で史跡や博物館を訪れて際に、この益田氏がよく出てきていた。毛利家家臣団の中でこの益田氏は名門で、もし毛利が天下を取っていた場合か毛利が徳川に味方していたら、益田氏は大名になっていたと思うほど毛利家では影響力が大きい。

益田氏城館跡

益田氏は歴史が古く、鎌倉時代が始まる前に藤原国兼が石見国司として石見に移り、何代か後にこの益田に移り益田姓を名乗ることになる。三隅氏、福屋氏、周布氏、末元氏、丸茂氏、多根氏などは益田氏からの庶流。大内氏が勢力を伸ばすと益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。天文24年(1555年)の厳島の戦いの翌年には吉川元春に益田領へ攻め込まれ、その翌年(1557年)に降伏し、以降は毛利氏に従属することとなった。関ヶ原の戦いで毛利氏が萩に移る際、減封、益田元祥も益田を離れて長門須佐に移った。以後、益田氏は長州藩の永代家老として毛利氏に仕える。
城館跡は益田市が購入をし、今後整備をしていく予定と看板が出ていた。跡地には墓地の残骸がまだ残っており益田市購入前は墓地であったようだ。平常時は七尾城では無く、この城館で政務を行なっていた。城館を取り囲んでいただろう土塁は遺構として残っている。

七尾城跡 (益田城)

標高約100m程の山の上に築かれた山城。まずは長い急な階段を登り住吉神社に行きそこから山道が城跡に続く。
山の尾根を利用している。
本丸 写真を撮っても全て同じに見える。肉眼では違うのだが.....
二の丸
大手の帯曲輪
馬釣井
艮の出丸 尾根沿いに歩き、艮の出丸に出る。
厩の段
太鼓の段
千畳敷
尾崎丸
城から見た益田城下町
益田氏城館跡が川を渡った所に見渡せる。当時はこれ程密集していなかったので城館がひときはくっきりと見えただろう。
益田を出発し、風景を見ながら浜田氏へ向かう。
ナビにこんな所に誘導された。
道の駅にカメラを構えた人だかり。鉄ちゃんだった。便乗して写真を取る。確かに電車が走っている風景も良いものだ。

浜田城跡 Hamada Castle Ruins 

浜田市に着いたのは5時を回っていたが、明日は長丁場で浜田城にいく時間がないので、夕方だが浜田城跡に行く事にした。
よく整備されていて、案内板も丁寧に説明されている。
浜田県庁の門  
浜田県? そんな県があったのか。という事は浜田藩があったという事。調べると、ここ石見国は中国地方の大半を領有していた毛利家の所領であったが、関ヶ原の戦い後、石見は徳川氏の直轄領となり、ついで、津和野藩坂崎家の管理下となり、に置かれた。元和5年(1619年) 石見国5万4000石で浜田藩が立藩した。藩庁がこの浜田城に置かれた。藩主は頻繁に変わり、幕末期には第15代将軍・慶喜の実弟の松平斉厚が入封。当然徳川幕府側に味方をし、第二次長州征伐のとき、長州藩の大村益次郎が指揮する軍に城はことごとく撃破された。明治維新の際は浜田の街は焼き払われ、浜田城も同時に灰燼に帰した。版籍奉還により石見銀山領とともに大森県となり、さらに明治4年(1871年)、県庁が浜田へ移転され浜田県となった後、島根県に編入された。
三の丸
二の門
本丸
本丸から見る景色は最高だった。特に入江がある方向は絶景。今まで見た光景でもかなり綺麗。
出丸
焰硝蔵跡
中ノ門と裏門

2コメント

  • 1000 / 1000

  • Kazu Saeki

    2019.05.14 08:48

    明治の初めの県名を見ていると色々あって面白い。そのままで来たらどうなっていたかと考えるのも面白い。
  • sumito dohi

    2019.05.09 06:31

    浜田県とは。。。。日本狭しと雖も、知らない事ばかりです。