Ride in Setouchi & San-in Day 28 (12/4/19) Yamaguchi Castle Ruins 山口城跡

Akada Shrine 赤田神社
Ryounji Temple Ruins 大内氏遺跡附凌雲寺跡
Xavier Memorial Church サビエル記念聖堂
Kameyama Park 亀山公園
Yamaguchi Castle Ruins 山口城跡
   - Former Regional Hall 山口県政資料館
   - Former Regional Parliament 旧県会議事堂
Yanaguchi Historical Museum 山口市歴史民俗資料館

Akada Shrine 赤田神社

古来周防四の宮。717年創建と伝わっている。16(31)代大内義隆が社殿を再建。

Ryounji Temple Ruins 大内氏遺跡附凌雲寺跡

昨日訪れた朝田神社に戦勝祈願した第15(30)代当主大内義興の菩提寺であった凌雲寺の遺跡。広大な敷地で、ここに建物が建っていた当時を想像すると大内氏の権勢がどれほどであったかと思う。今まで見た寺院跡の中では巨大なものである。
石垣は寺の惣門の遺構と伝えられる。通常の寺院としてのみの役割だけではなく、有事の際には城郭としても機能する城郭寺院であったと推定。
凌雲寺の石垣は、大きな石を両面に積み上げて隙間を小石で埋める構造で、朝鮮半島の城や、沖縄のグスクの石垣に類似。大内氏が朝鮮半島等と盛んに交流していた影響であろう。
ここには大内義興と義興夫人の墓が残っている。
この遺跡の下にある民家のおじさんと立ち話をした。大内氏の事を自慢していた。400年以上前の領主だが、大内文化を今に残している。影響力も大きさに驚く。ここ山口では毛利氏より大内氏の人気が圧倒しているように思える。ちなみにおじさんの家はここに800年続いているそうだ。歴代を感じる。
大市氏の歴史は長く、分かりにくい。何代目かの数え方もどこを基準にするかでまちまちだ。まずは系図とそれぞれの時代の領土。義興、義隆の時代に中国、北九州で領土が最大となっている。大内氏衰退が始まり滅亡への時代だ。何とも皮肉な事だ。
ここに出ている藩主が歴史上重要な役割をなしている。南北朝時代、24代(9代)弘世の時に居城を山口に移して来た。ここから大内山口の歴史が始まる。

Xavier Memorial Church サビエル記念聖堂

九州の旅ではキリシタン伝来から隠れキリシタンを追ってみたが、その歴史で重要な役割を果たしたのが、スペイン人宣教師のフランシスコ•ザビエル。彼はここ山口でも布教活動を行なった。彼とその仲間が山口で活動した時代は大内義隆から義長の大内氏が滅びる直前の時であった。義隆には布教の庇護を受け、九州で面識のあった義長には日本ではじめてのキリシタン教会設立の許可を得た。
記念堂は1952年に建てられたが、1991年に焼失。現在のものは1998年に再建された洒落たデザインの教会堂だ。一階に展示室がある。うまく整理されたスマートな展示で、分かりやすい内容となっている。興味を引いたのはザビエルがローマに出した書簡で当時の日本人に対しての考察。こんなに日本人は素晴らしいのかと思うぐらい評価している。その気質はある程度まだ残っていると思う。もう一つはこの山口県にも隠れキリシタンが存在していた事。長崎県ほど隠れキリシタンを観光の前面には出していない。淡々とその史実を紹介。
展示室でザビエルの生涯をビデオで流している。彼の生き様に興味を持った。長いビデオで閉館時間内に見れそうに無いので、もう一度来て、初めから全部見てみたい。
礼拝堂内部はシンプルではあるがモダンなデザインでステンドガラスが優雅さを出している。落ち着ける環境になっている。

Kameyama Park 亀山公園

サビエル記念聖堂のすぐ前が亀山公園となっている。ここは長山とも呼ばれており、毛利秀元(毛利輝元の従弟)が慶長元年(1596年)から築城しようとしていたが、長府に移った為、途中で断念。明治22年に亀山公園となり、毛利敬親と四支藩主の銅像が建っていたが、第二次世界大戦で拠出させられ無くなってしまった。敬親像だけ再建され現在の姿になった。

Yamaguchi Castle Ruins 山口城跡

山口城は中世の城ではなく、長州藩当主毛利敬親が幕末期1864年10月に幕府に無許可で藩庁を萩から山口に移し、藩庁をここに造設した。この時期、欧米諸国の来航に危機感が高まり、海岸線に近い萩では危ないと言うことと瀬戸内方面に迅速に動ける場所が必要であった。城と言うよりは政務を行う館に近いだろう。大砲を備えた西洋式城郭。平城ではあるが、高嶺城を詰城として活用。遺構は殆ど残っていない。石垣と門が幕末を偲べるぐらい。
この山口城へ居城を移した頃の出来事を見ると良くわかる。
  • 1863年5月10日: 長州藩が関門海峡において外国船砲撃を行う。米仏の報復に逢い惨敗。(下関戦争) [これが山口城へ居城を移す決定的な要因であった。]
  • 1863年9月30日: 八月十八日の政変で三条実美ら破約攘夷派の公家および長州藩を京から追放。(七卿落ち)
  • 1864年8月20日: 禁門の変。正義派主導の下、長州藩勢力が、京都守護職松平容保らの排除を目的とし京に攻め登るが、敗退。朝敵となる。
  • 1864年8月24日 - 1865年1月24日: 第一次長州征討。長州藩3家老の切腹や4参謀の斬首、山口城の破却などで決着。長州藩は俗論派政権となる。[1964年10月: この第一次長州征討の最中に山口城に移るが、山口城一部破却で一旦は萩に居城を戻す。]
  • 1865年1月12日: 元治の内乱 正義派の高杉晋作が兵を率いて俗論派打倒のためにクーデターを起こす。藩政は正義派が掌握することとなった。
  • 1965年4月: 再び居城を山口に移す。
正義派主導になった後、第二次長州征討では、山口城は政治・軍事の拠点として機能している。
現在は山口県庁となっている。大正時代の旧政庁と議事堂がその一部を資料館として無料公開している。
  • 山口県政資料館
  • 山口県政資料館(旧県会議事堂)

Yanaguchi Historical Museum 山口市歴史民俗資料館

小さな資料館だがひょっとして面白い物があるかもしれないと思い、入場料金100円を払い見学。特に貴重な物を展示しているわけではないが、インターネットではなかなか探せないと思う資料が置いてあった。殆どがパネル展示。個人的には実物や複製品を見るよりはパネル展示を見る方が好きだ。そこでしか知り得ない事が多々あるからだ。

資料館のパネルを何枚か添付

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