中野区 09 (24/11/25) 旧野方村 上高田村
旧野方村 上高田村 (かみたかだ)
小字 北原 (きたはら)
- 七星山息災寺光徳院 (真言宗豊山派)
- 山門
- 六地蔵、無縁塔
- 観音堂、千手観音菩薩立像
- 宝篋印塔 (ほうきょういんとう)
- 本堂
- 庫裡
- 客殿
- 五重塔
- 三井文庫
- 三井家野方墓所 (非公開)
- 大地からの蘇生
- 日照山阿弥陀院東光寺 (真言宗豊山派)
- 山門、宝蔵大龍神
- 大日堂
- 本堂
- 庫裡
- 聖観音、如意輪観音
- 大師堂
- 三峯神社
- 聖観音立像 (10番)、庚申塔
- 墓地
- 英霊供養塔 (慰霊碑・永代供養墓)
- 庚申塔 (17番)
小字 道北 (みちきた)
- 馬頭観音 (12 番)
- 上高田氷川神社
- 一の鳥居
- 手水舎
- 神楽殿
- 二の鳥居
- 社殿 (拝殿、幣殿、本殿)
- 境内末社 (合祀: 八幡社、稲荷、天神社、天王社)
- 表忠碑
- 上高田寺町
- 龍寶山萬昌院功運寺 (曹洞宗)
- 山門
- 本堂
- 鐘楼堂
- 庫裡、客殿
- 墓地
- 大関増業墓
- 永井家墓
- 吉良家四代墓
- 今川家歴代墓
- 糟屋武則墓
- 水野重郎左衛門墓
- 長沼国郷墓
- 長沼活然斎墓
- 歌川豊国墓
- 栗崎道有墓
- 武蔵石寿墓
- 林芙美子墓
- 歴代住職墓、三界萬霊塔/無縁塔
- 正覚山宝泉寺 (曹洞宗)
- 仁王門
- 本堂
- 道了堂
- 板倉重昌墓
- 長坂円陵墓
- 岡田十松墓
- 恵日山金剛禅寺 (曹洞宗)
- 本堂、庫裏
- 墓地
- 三宅家墓所、三宅康直墓
- 東護山法樹院願正寺 (真宗大谷派)
- 参道
- 本堂
- 万延元年遣米使節記念碑
- 新見正興墓
- 月岬山神足寺 (真宗大谷派)
- 山門
- 本堂、庫裏
- 永代供養墓/納骨堂、無縁塔
- 自證院墓地、上野国吉井藩主松平家墓所
- 安禅寺墓地
小字 道中 (みちなか)
- たきびのうた発祥の地
小字 道南 (みちみまみ)
- 百番供養塔 (11番)、馬頭観音
旧野方村 上高田村 (かみたかだ)
上高田村は江戸時代には武蔵国多摩郡 (後に東京府東多摩郡、豊多摩郡) の村で、西は新井村に、東部は妙正寺川を境に上落合村 / 下落合村、南は中野村、北は片山村 (後に江古田村に吸収) / 葛ヶ谷村に接していた。
村の発祥はかなり古く、平安から鎌倉時代には現在の豊島区や新宿区にまたがる広大な高田村とされ、その後、人口増加に伴って鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて上高田村と下高田村に分割された。下高田村は上高田村の東に位置し、現在の豊島区および新宿区側まで伸びていた。上高田村は江戸時代には武蔵国多摩郡に属し、細田氏など旗本の知行地で、北原と上の山の二つの小名があった。妙正寺川の水を利用した農村地帯が広がり、江戸へ野菜を供給していた。明治時代の地図を見ると上高田村の民家は新井薬師への薬師道 (旧鎌倉街道中道 現在の上高田本通り) を挟んだ地域に集中している。旧小名 北原は戦前までは寺院以外民家はほとんど見られない。民家が集中していた旧小名 上の山は大正時代から戦前にはほぼ全域が住宅地に変わっている。1960年年代後半までには旧小名 北原も寺社を除いた地域は住宅地となり、現在の形が整っている。
1889年 (明治22年) に町村制の施行で江古田村、新井村、上沼袋村など7カ村と合併し、東多摩郡野方村の大字上高田となっている。1924年 (大正13年) に野方村が野方町となり、その大字上高田となっている。関東大震災以降の人口増加により宅地化が急速に進み、1932年 (昭和7年) の東京市拡大で中野区の一部となり、大字上高田は中野区野方村大字上高田一丁目と上高田二丁目となった。1966年 (昭和41年) の住居表示の実施により、上高田一丁目と上高田二丁目は上高田一丁目 ~ 五丁目となり現在に至っている。現在の上高田町 (一丁目 ~ 五丁目) は旧上高田村とその南側の昭和通一丁目 ~ 三丁目の早稲田通りの北側が含まれている。
上高田村訪問地
小字 北原 (きたはら)
小字 北原は旧上高田村の北端に位置している。江戸時代には南側の妙正寺川の流域とその北側の平地に位置していた氷川前と山下と共に小名 北原の一部だった。上高田村の北側という事で北原と呼称されていた。
1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村が野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 北原は北から小字 北原、氷川前 (西の道北に氷川神社があった)、山下 (小名 上の山から見て西の妙正寺川流域の低地)となった。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の北原は氷川前、山下、道北と共に上高田二丁目となり、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 北原は大部分が上高田五丁目、一部は上高田四丁目となり、現在に至っている。
七星山息災寺光徳院 (真言宗豊山派)
小字 北原の北部の妙正寺川近くに真言宗豊山派の七星山息災寺光徳院が建っている。御府内八十八カ所霊場58番、山の手三十三観音霊場22番となっている。光徳院の創建年代は不明だが、亮珍和尚によって現在の半蔵門の付近に開山されたが、江戸城拡張工事に伴い、1606年 (慶長11年) に市ヶ谷田町、そして1635年 (寛永12年) に牛込柳町に移り、1910年 (明治43年) に現在地に移転している。
山門
道路から光徳院への参道が伸びており、山門から境内に入る。
六地蔵、無縁塔
山門を入ると右手に六地蔵が置かれ、その後ろには無数の石仏が並んでいる。1910年 (明治43年) に現在地に移転してきた際に旧地にあった無縁となった石仏を集めた無縁塔と思われる。
観音堂、千手観音菩薩立像
参道を進むと右手側に観音堂が置かれている。観音堂には木造の千手観音菩薩立像が安置されている。この千手観世音は子育観音とも呼ばれ、第60代醍醐天皇の時代に菅原道真が筑紫の太宰府へ左遷される際に、自ら刻んで供養したと伝わっている。道真の死後、筑前国の千手坊に安置してあったが、江戸時代初期に福井藩藩主松平忠昌が引き取り、千手観世音の化体と言われた子の松平昌勝の守護本尊とした。その後、宝仙寺住職が預かっていたが、住職が光徳院に転住した際に千手観世音も移されている。
宝篋印塔 (ほうきょういんとう)
観音堂の前には釈迦様の教えや功徳をまとめた経典を納める宝篋印塔が置かれ、この塔を参拝すると現世のあらゆる災いから逃れ、過去の罪が消滅し、死後は必ず極楽に往生できる信仰されていた。塔の笠の下の四つの面には、それぞれ東・南・西・北を司る四方仏 (阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就) を表す梵字が刻まれている。
本堂
参道の先に1987年 (昭和62年) に木造で建て変えられた本堂が建てられている。大日閣と書かれた扁額が掲げられており、堂内には本尊の大日如来が祀られている。
庫裡
本堂の隣から観音堂との間に住職の住居と法務や寺務を行う庫裡が建っている。
客殿
庫裡の反対側参道を挟んで客殿も建てられている。この客殿では葬儀、家族葬、法要が行なわれる。
五重塔
客殿の隣には1995年 (平成7年) に建立された木造瓦葺きの五重塔がある。
五重塔の隣には古風な造りの車庫がある。景観を損ねない様な造りとなっている。
三井文庫
光徳院の北側には旧三井財閥・三井家の下で収集された社会経済史史料の保存・公開、調査研究をおこなう史料館の三井文庫がある。三井家の修史事業は1891年 (明治24年) に始まった。1903年 (明治36年) に日本橋駿河町の三井本館内に、三井家編纂室を創立、1918年 (大正7年) に三井家編纂室は荏原郡・戸越に移転し、「三井文庫」に改称している。
太平洋戦争の空襲で貴重な資料が失われるのを防ぐために一部の貴重な資料は神奈川県大磯の三井総領家城山荘に疎開させたが、1945年 (昭和20年) 5月24日の空襲で戸塚の事務所が全焼し土蔵にも延焼し、多くの資料を喪失した。終戦によりGHQにより財閥解体され、1949年 (昭和24年) に文部省から土地と建物を売却するよう要請され、土地と建物は売却、収蔵品は文部省に寄託された。戦後、昭和30年代に三井文庫の再建が図られ、1964年 (昭和39年) に文部省と三井家の間でかつての所蔵物や保管物の返還に関する覚書が締結され、昭和40年(1965)翌1965年 (昭和40年) に現在の地に、三井グループ各社によって財団法人三井文庫が設立されている。
三井家野方墓所 (非公開)
三井文庫に隣接して三井家野方墓所がある。三井の菩提寺の真盛寺が1922年 (大正11年) に本所から杉並に移転した際に三井家は真盛寺の墓を野方のこの地に移し、野方墓所と改めている。この墓所は年に1回しか一般公開されておらず、中には入れない。公開されている三井高利の墓 (写真中下) と奉公人の供養碑 (左下) の写真があったので載せておく。
三井高利の生家跡へは2019年12月に三井家発祥の地の三重県松阪 を訪れた際に見学している。
大地からの蘇生
光徳院の西側にはBLESS中野哲学堂が建っている。BLESS中野哲学堂は2016年に建てられたRC2棟116戸の賃貸マンションで、ゆったりとした空間もあり人気物件だそうだ。その敷地内に 「大地からの蘇生」 題した石の芸術作品が置かれていた。説明には作者の横山徹氏は自然との対話をテーマとした作品作りを行っており、この作品は 「街なかミュゼ選考作品」 で自然石の醸し出す表情を活かしながら、直感的な再構成を試み、コミュニティーのシンボルとして、刺激を与えつつも心地よい空間が演出しているとあった。街なかミュゼ活動は日本建築美術工芸協会 (aaca) が中心となって建築・都市空間に美術・工芸などの造形作品を配置し、日常の生活圏や都市環境そのものを美術館 (ミュゼ) のように変え、人間性豊かな環境づくりを推進する取り組みだそうだ。
日照山阿弥陀院東光寺 (真言宗豊山派)
光徳院の南には真言宗豊山派の日照山東光寺が建てられている。豊島八十八ヶ所霊場87番札所で、本尊として薬師如来を祀っている。東光寺の創建年代は不明だが、江戸時代初期に第一世法印秀範和尚を開山として創建と推測されている。明和年間 (1764 ~ 1772年) に本堂及び庫禅、台所を建築し寺院が整備された。1945年 (昭和20年) の戦災によって、建物、本尊、過去帳等、ほとんどが焼失してしまった。戦後に再建して現在に至っている。
山門、宝蔵大龍神
山門を入った左手には宝蔵大龍神を祀った祠があり、その前には小さな池が設けられている。龍神の池と呼ばれ、何匹もの錦鯉が泳いでいる。
広大な境内は庭園も兼ねており、綺麗に整備されている。
大日堂
宝蔵大龍神の先には大日堂と扁額が掲げられた堂がある。大日堂は納骨堂として使用されており、その前には、慈命観音像が置かれ、その両側には摩尼車、右側に龍の口から水が流れ出す手水場が設けられている。
本堂
参道はまっすぐ本堂に通じている。1945年 (昭和20年) の大戦での戦災で焼失し、戦後、近代的な建物に再建されている。
庫裡
本堂の右側には庫裡が建てられている。
聖観音、如意輪観音
庫裡の前も綺麗に整備された庭園になっており、その中に幾つかの石仏が置かれている。詳細情報は見つからなかったが、
- 如意輪観音(写真右上): 1690年 (元禄3年) 造立の舟型石塔に上部に梵字種字のह्रीः (キリーク) が刻まれ、その下に右手を頬に当て、片膝を立てて座る如意輪観音独特の姿が浮き彫りされている。
- 聖観音立像 (写真右下): 故人戒名が刻まれている供養塔で、1715年 (正徳5年) 造立の舟型石塔上部に梵字種字 स (サ) が刻まれ、その下に左手に蓮華の蕾を持ち、右手でその花びらを開こうとする伝統的な聖観音の姿が浮き彫りされている。
- 聖観音立像 (写真左下): 1715年 (延宝?年) 造立の舟型石塔に聖観音の姿が浮き彫りされている。
大師堂
本堂の左側には大師堂があり、遍照金剛と書かれた扁額が掲げられている。大師堂の前には弘法大師立像が置かれている。
三峯神社
大師堂の隣には三峯神社があり、階段を上った所に祠が置かれている。伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) と伊弉冉尊 (いざなみのみこと) を祀り、祠の前には神の使いの大口真神 (おおくちのまかみ) とされる狼像が置かれている。火防や盗賊除け、魔除けとして信仰を集めていた秩父の三峯神社から勧請し祀られている。
聖観音立像 (10番)、庚申塔
境内から墓地へので登り階段の下に幾つかの石塔、石仏が並べられている。
- 弘法大師一千五百年供養塔 (写真上中)
- 興教大師七百五十年供養塔 (写真左上)
- 聖観音立像 (10番 写真左下): 五つ並んでいる石塔の右端には1783年 (天明3年) 造立の舟型光背型石塔に梵字種字のस (サ)が刻まれ、聖観音立像が浮き彫りされている。その傍には「奉供養百箇所聖観世音為二世安楽」と刻まれている。この聖観音像は元々は旧埼玉道三叉路にあったが1930年(昭和5年)に小字 道中の南端、現在は上高田三丁目の上高田本通り沿いの細井家に移設され、昭和時代末期にこの寺に移設されている。台石は道標になっており、「右なか村南蔵院へ 左あら村梅照院へ」 と刻まれている。又、細井家に移設されていた時に細井家の馬が日露戦争に参加し死亡して、その供養の為に造った馬頭観音塔をこの地に移した際に聖観音像の下にこの馬頭観音を埋めたという。
- 庚申塔 (写真右上): 聖観音の隣には1697年 (元禄10年) に造立された唐破風笠付角柱型庚申塔が置かれ、上部に日月、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、下部には三猿が浮き彫りされている。この庚申塔も元々は聖観音 (10番) があった場所にあり、聖観音と共に細田家、更にこの地に移設されている。
- 道標 (写真下中): 聖観音と庚申塔の元々の場所には道標も置かれており、それも聖観音の後方に移設されている。文字は摩滅していて読めないが、資料によれば「あらいやくしみち」と刻まれていた。
墓地
東光寺境内の西側は広大な墓地になっている。西武新宿線の線路沿いから山門への道沿いにも伸びている。道の途中に墓への階段があり、六地蔵が置かれている。
英霊供養塔 (慰霊碑・永代供養墓)
墓地の中には 「平和に祷る」と刻まれて石碑が置かれている場所がある。多くの石仏に囲まれた小広場になっている。 「平和に祷る」 の碑文には
うしきこの繁栄と自由は忘れまし 度重なる大戦に幾百万の人柱を礎としてあることをその犠牲まことに大きく痛恨の念未に去らず戦場に武器をとりて家に在り銃後を守りしも老若男女全ての國民の血と涙にて購いしこの尊き平和の護持を祈念すること切なり ここに当寺有縁の英霊の名を刻みとこしえにその冥福を祈らんとす
とあり、第二次世界大戦の戦死者の慰霊と平和への礎となった事への感謝と平和への祈願が表されており、小広場の中には丸石をドーム状に積み上げた供養塔が置かれている。
庚申塔 (17番)
西武新宿線新井薬師前の北東の上高田中通りの商店の前に庚申塔が残っている。ここは江戸時代の小名 北原と上の山の境界線、明治時代の北原、道中、道北の三つの小字が交わる場所だった。庚申塔は1719年 (享保4年) に地元の講中により造立された唐破風笠付角柱型で、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。石塔正面右側には 「奉造立庚申供養講中 二世安樂祈所」 と刻まれている。この庚申塔は耳、鼻、のどの病気平癒に霊験あらたかといわれ、昔から、病人がでたときには祈願して、病が治ると底をぬいた柄杓に氏名と 「大願成就」 と書いて供えたと伝えられている。
小字 道北 (みちきた)
小字 北原の南に隣接していたのが西から道中、道北、氷川前の三つの小字で、江戸時代には道中と道北以南は小名 上の山だった。(氷川前は小名 北原) 妙正寺川沿いの低くなった土地は谷盛 (やもり) と呼ばれ、そこから見て、上の山は高台の平坦な地域だったことからその様に呼ばれ小名の名となったという。1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村が野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 上の山は新井薬師への主要道路だった現在の上高田中本通り (旧鎌倉街道中道、旧新井薬師道) を基準に、北を小字 道北 (みちきた)、南を小字 道南 (みちみなみ)、その二つ小字に挟まれた地域を道中 (みちなか) となった。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の道北は上高田二丁目となり、小字の道南、道中、新井前は上高田一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 道北は大部分が上高田三丁目で一部は上高田四丁目と上高田五丁目となり、現在に至っている。
馬頭観音 (12番)
庚申塔 (17番) から上高田中通りを南に進む。この上高田中通りは江戸時代には細い道だったが存在しており、1889年 (明治22年) の町村制施行の際には小字 道北と道中の字境だった。現在でも上高田三丁目と四丁目の町境でもある。この字境の道北側に戦後に建てられた堂宇があり、その中に石仏が安置されている。1824年 (文政7年) に造立された舟型石塔に馬頭観世音像が浮き彫りされている。この馬頭観音はここより少し西側に住んでいた人の持ち馬が死んだ際に、その供養塔として造立したと伝わり、近隣の村民からはおできによく効くといわれ拝まれていたそうだ。馬頭観音の前には花も供えられ手入れもされており、現在でも信仰の対象として大切にされている事が分かる。
上高田氷川神社
馬頭観音から少し東に入った所に、上高田村の鎮守だった上高田氷川神社がある。高田氷川神社は1453年 (享徳2年) に村人たちが武蔵国一の宮氷川神社から分霊を勧請し、素戔鳴尊を祀り小社を建てたのが起源と伝わっている。
長禄年間 (1457 ~ 1460年) に、太田道灌は江戸城を構築するにあたり、しばしばこの氷川神社に詣で、松一株を当社に献上したと伝わっている。残念ながらこの松は1937年 (昭和12年) に枯木となり残っていない。1869年 (明治2年) に氷川神社と改称しているが、それ以前は山吹の里氷川宮とも称していた。第二次世界大戦による戦禍はまぬがれた事で、それ以前の建造物が残っている。かつては、この社前に立つと、東北には上高田の田んぼが一面に眺められ、妙正寺川にかかる橋、目白の山や森、北に東光寺が一望できたという。
一の鳥居
氷川神社へは敷地東側の道から階段を登り一の鳥居から入る。一の鳥居が二つある。道に面した手前の明神鳥居 (写真上) は1882年 (明治15年) に奉納されたが、古いので金属で補強されている。そのすぐ後ろにも1940年 (昭和15年) に奉納された明神鳥居 (写真上下) が置かれている。この様に前後二連型鳥居となった経緯は、古い鳥居が傷んだため建て替える目的だったが、氏子や地域住民から、先祖が明治時代に奉納した貴重な鳥居を壊してしまうのは忍びないと惜しまれ、解体せずに残されたそうだ。
鳥居の側には石燈籠(写真中) が置かれている。また、敷石供養塔 (写真中中) もあり、1926年 (大正15年) に寄進されたもので1922年 (大正11年) に氏子より土地の寄進を受け、境内地を広げた際に寄進された敷石の供養塔だろう。この年から社殿の建て替えが始まり、完成後の1926年 (大正15年) に遷座祭が執り行われ、現在の氷川神社の形となっている。
手水舎
一の鳥居を入ったすぐ左手に手水舎が置かれている。造られて年は確認していないが、新しい一の鳥居建立時期と思われる。手水舎に置かれている手水鉢は古いもので1821年 (文政4年) に奉納されている。
神楽殿
右側には1954年 (昭和29年) に新築された神楽殿がある。毎年9月の上高田氷川神社の例大祭の宵宮、本宮を通じて、この神楽殿で江戸時代から300年の歴史を持つ上高田囃子が大太鼓、しめ太鼓、笛、鉦の構成で据え置き演奏 (居囃子 写真左下) を行い奉納されている。また、街を練り歩く山車や神輿への先導としてお囃子屋台で同行演奏も行われている。三年毎には1933年 (昭和8年) に奉納された白木造りの大神輿 (写真右下) がお旅所を巡行している。
二の鳥居
一の鳥居から参道を社殿に向かって進むと、参道半ばに二の鳥居がある。こちらの鳥居は1926年 (大正15年) に社殿の新築の遷座祭の時に奉納され、一の鳥居と様式が異なり、笠木の反り増し無し、額束無し、貫が柱までの神明系伊勢鳥居になっている。二の鳥居をくぐると、同じ年に奉納された石燈籠と狛犬が置かれている。
社殿 (拝殿、幣殿、本殿)
参道の先に社殿が置かれている。先に述べた様に、この社殿は1922年 (大正11年) に土地が寄進され境内地を広げた際に社殿の建て替えが始まり1926年 (大正15年) に竣工している。社殿は手前から参拝者が祈りや礼拝を行う拝殿、神職が神様にお供え物や祝詞を捧げる幣殿、神様が鎮まる本殿の構成になっている。
社殿前にも1939年 (昭和14年) に奉納された一対の石燈籠が置かれている。
境内末社 (合祀: 八幡社、稲荷、天神社、天王社)
境内には上高田村の別の場所にあった四つの神社をこの地に遷し合祀した境内末社の祠が置かれている。合祀された神社は以下の通り。
- 天神社: 学業成就、受験合格、文化芸能上達の神とされる菅原道真公を祀っている。小字 北原の東光寺付近にあったが、明治以降の神社整理に遷座合祀されている。
- 天王社: 江戸時代から上高田村内にあり、須賀神社とも呼ばれ、厄除け、疫病退散、無病息災の神の素戔嗚尊を祀っている。江戸時代には既に氷川神社境内に移されていたと推測され、明治期の神社整理で移ってきた他の神社と合祀されている。
- 稲荷社: 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神の宇迦之御魂神を祀っている。江戸時代には既に氷川神社境内に移されていたと推測され、明治期の神社整理で移ってきた他の神社と合祀されている。
- 八幡社: 武運長久、開運招福、国家安泰、必勝祈願の神の誉田別命を祀る。明治以降の神社整理よって遷され合祀されている。
表忠碑
境内奥、本殿の近くの高台に大きな石碑が立っている。表忠碑と刻まれている。上高田村から一連の戦争に出征した者の顕彰や戦没者の為に1934年 (昭和9年) に建立されている。表忠碑の横には終戦20周年にあたる1965年 (昭和40年) に地元の有志によって建立された平和の礎と刻まれた石碑もあり、戦争の犠牲者が今日の平和の礎になっていることへの感謝と未来の平和の祈願をしている。またこれら石碑の奥にも横長の石碑が二つ置かれており、出征者と戦没者が刻銘されている。日露戦争 (2柱)、満洲事変、支那事変 / 太平洋戦争 (97柱) とある。
龍寶山萬昌院功運寺 (曹洞宗)
上高田寺町の西の端に建っているのが曹洞宗の寶山萬昌院功運寺になる。この寺は久寶山萬昌院と竜谷山功運寺が戦後1948年 (昭和23年) に合併してできた寺。
萬昌院は1574年 (天正2年) に開基を今川義元の三男の今川長得 (一月長得)、開山を仏照円鑑禅師 (喚英長応)として、江戸城半蔵門近くに創建と伝えられる。長得の兄今川氏真も萬昌院に葬られていた。また、今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家の菩提寺にもなっている。その後、市谷田町、筑土八幡町と移転の後、1914年 (大正3年) に現在地に移転している。移転してわずか3年後の1917年 (大正6年) に火災により本堂・書院などが焼失している。1923年 (大正12年) に関東大震災、昭和に入ると太平洋戦争へと突入したため、物資や資金不足から自力で本堂を再建することができないまま戦後を迎えている。
功運寺は徳川秀忠の老中の永井信濃守尚政が開基となり、父の直勝、祖父の重元の菩提を弔うために、愛知県の龍門寺より黙室芳闇禅師 (開山) を招いて、1598年 (慶長3年) に江戸城桜田門外に創建され、永井家の菩提寺となっていた。その後、三田に移り、寺中に3ヶ寺の末寺を擁していた。明治維新の際には無住職の時期もあった。1922年 (大正11年) に当地に移転してきた。
この二つの寺院は現在地に隣り合わせに建っていた。第二次世界大戦では萬昌院と功運寺含め上高田寺町にある複数の寺院が1945年 (昭和20年) 4月13日 ~ 14日の城北大空襲、5月25日の山の手大空襲によっての大きな被害を受け、避難民の対応や戦後処理に追われていた。更に、終戦直後の1940年代後半、日本を統治していたGHQによる農地改革で、多くの寺院は主たる収入源だった小作地が強制的に接収された。戦後の混乱期は檀家も経済的困窮状態で、檀家からの経済的支援も減少、寺院単独での寺院経営が非常に苦しくなっていた。これらの状況で、同じ宗派の萬昌院と功運寺は寺を維持する為に1948年 (昭和23年) に対等合併し、仏照円鑑禅師と黙室芳誾禅師を開山として釈迦如来坐像を本尊に祀り、龍寶山萬昌院功運寺として再出発している。
山門
上高田中通りの道沿いに1914年 (大正3年) に功運寺がこの地に移転した際に建立された高麗門形式の山門がある。第二次世界大戦の戦災から免れており、2010年 (平成22年) に大規模な改修が行われている。
本堂
山門を入り参道を進むと、右手側参道沿いにまこと幼稚園が建っている。戦災で焼け落ちた旧萬昌院のあった敷地に後に地域の教育に貢献するために設立されている。参道の先に本堂が建立されている。本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失し、戦後、1980年 (昭和55年) に二層屋根の近代的な様式で再建されている。
本堂内には1983年 (昭和58年) にあらたに作られた金色の釈迦如来坐像 (写真右) が本尊として安置されている。釈迦如来坐像の右には1985年 (昭和60年) の文殊菩薩像、左には1987年 (昭和62年) の普賢菩薩像が脇侍として置かれている。二寺が合併した際に本尊となっていた旧功運寺の釈迦如来坐像 (1867年 慶応3年 写真左) は戦災を免れて本堂で保管されている。
鐘楼堂
境内の高台に鐘楼堂がある。この鐘楼も第二次世界大戦の戦災を免れている。この鐘楼は1749年 (寛延2年) 頃に功運寺に建てられ、1914年 (大正3年) に功運寺がこの地に移転した際に移設されている。
庫裡、客殿
本殿の隣には新しく建てられた客殿 (写真上) がある。また奥まった所に庫裡 (写真下) がある。この庫裡は功運寺が移転してきた後、1919年 (大正8年) に建てられ、戦災を免れている。
境内は綺麗に手入れされた庭園になっており、所々に石仏、石塔が置かれている。
墓地
功運寺の墓地には多くの歴史上著名人の墓が元の墓地から移設されている。これらの墓に案内図があり、墓には案内柱も置かれている。
まずは江戸時代の大名や武家の墓碑を見ていく。
大関増業墓
下野黒羽藩主で国学者の大関増業(1782 ~ 1845)伊予大洲藩主加藤泰衑の子として生まれ、大関増陽の養子となり、後に下野黒羽藩主大関家11代藩主となっている。藩校何陋館を設立し、練武館を開校している。隠居後、科学、医学などの研究につとめ64歳で亡くなっている。
永井家墓
旧功運寺は永井信濃守尚政 (永井宗家二代 山城淀藩主 写真左中) が父の直勝、祖父の重元の菩提を弔うために開基となる創建された。この墓地には永井家一族の墓があり、宗家二代から五代頃までの当主や一族が弔われ、永井家の菩提寺となっている。父の尚勝は、小牧・長久手の戦いで、池田恒興を討ち取った武将 (写真左下)。関ヶ原合戦では、尚政は尚勝と共に参陣。1602年 (慶長7年) には、徳川秀忠付の小姓として近侍し加増を受け、大阪の陣では、使番としての働きにより小姓組番頭として活躍。井上正就・板倉重宗らとともに、秀忠近侍の三臣とも呼ばれている。徳川三代秀忠の時代には老中職にも任ぜられ初期江戸幕府の幕政の安定に寄与している。尚政の孫の永井尚長 (永井宗家四代 丹後宮津藩二代藩主 写真中中) は、増上寺での四代将軍徳川家綱の法要中に浅野長矩の叔父に当たる内藤忠勝 (志摩鳥羽藩主) により刃傷を受け殺害 (享年27)されている。内藤忠勝は切腹 (享年26) 殺害された理由は忠勝の狂気のためとか、忠勝との不和とか、尚長が忠勝に遺恨をもって斬りかかったが返り討ちにあったという説もある。これにより永井家の宮津藩、内藤家鳥羽藩共に改易となったが、永井宗家は尚長の弟の永井直圓 (永井宗家五代) により大和新庄藩主再興されている。
墓所正面に三代当主永井尚征 (写真右中) を弔う最高の格式の宝篋印塔の墓碑 (写真右上) が置かれて、その左側に一族や子女の複数の家族墓が並び、もう一つ宝篋印塔が置かれ永井家累代之墓 (写真右下) と刻まれている。大和新庄藩主累代も、この累代墓に弔われている。
吉良家四代墓
元禄赤穂事件で赤穂浪士により討ち取られた吉良上野介義央の墓もある。この墓所には、三河吉良家嫡流の西条吉良家15代当主の吉良義定、16代義弥 (よしむね、よしみつ 高家吉良家初代当主)、義冬 (よしふゆ、17代 / 二代)、義央 (よしひさ 18代 / 三代) の墓が置かれている。
義央が赤穂浪士に打ち取られた後、義央の孫で養子の義周 (よしちか、よしまさ 西条吉良家19代及 高家四代) に対して幕府は厳しい処分を下している。赤穂浪士討ち入りの際に不甲斐ない行動をとったとして仕方不届となり、義周は流罪となり、この代で西条吉良家及 及び 高家吉良家は断絶となっている。この背景には江戸では民衆や武家の間には圧倒的な赤穂浪士支持があり、幕府は吉良家を優遇する事ができなかったという。幕府の厳しい裁定もあり、義周は精神的にも不調に陥り、流罪後三年目に21才で亡くなった。幕府からの赦免もず、この墓所には葬られる事はなく諏訪の法華寺に葬られた。大きな歴史の中に巻き込まれた不幸な人生を送っている。
その後、三河吉良家分家の東条吉良家の東条義孚が断絶していた三河吉良宗家の再興を幕府に願い出て、吉良の姓に戻し、三河吉良宗家を継いでいる。しかし、本来の目的であったと思われる高家の継承は、既に奥州吉良家 (武蔵吉良家) の蒔田 (まいた )家が継承して吉良姓になっていた事で実現はしなかった。
四つの宝篋印塔の墓碑の右手前にはもう一つ宝篋印塔が置かれ、吉良家忠臣供養塔と刻まれている。これは1980年 (昭和55年) に作られたもので、赤穂浪士討ち入りに際に戦って打ち取られた吉良家家来を弔っている。映画などで名が知れ渡った清水一角義久や小林央通も弔われているということだ。左手前には討死した家臣を刻銘した吉良邸討死忠臣墓誌も置かれている。
今川家歴代墓
今川義元 (今川家11代当主) の三男で、旧萬昌院を開いた今川長得 (一月長得)などの墓がある今川家墓所が置かれている。この地に移転してくる前には市谷田町にあった萬昌院に今川氏真 (義元の嫡男、今川家12代当主) の墓もあったが、後に萬昌院が筑土八幡町に移転した際に氏真の孫の直房 (今川家13代当主) が母の蔵春院 (氏真正室、北条氏康娘) の墓と共に今川観泉寺に移している。この時に、今川家菩提寺は萬昌院から観泉寺に変えている。
墓所には宝篋印塔と卵塔の墓が混在している。卵塔は出家した故人の墓で萬昌院もそうだが、曹洞宗など禅宗では重視されている。(浄土真宗では教義上、原則卵塔は建てない) 宝篋印塔は出家しなかった武家の墓として建てられている。(真言宗では五輪塔、日蓮宗では題目塔が優先して建てられている) この墓所には一月長得 (卵塔)、兄の今川氏真、氏真の妻の早川殿 (卵塔)、氏真の長男の範以、子の澄存 (卵塔)、次男で品川氏の祖となった品川高久、今川直房およびその子女その他子女や一族が弔われている。この中の墓の多くは今川観泉寺に移された後も分骨として墓が残されている。
糟屋武則墓
賤ヶ岳の七本槍の一人として有名な糟屋武則 (1562 ~ ?) が墓地奥にあった。糟屋氏は、播磨国加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、戦国時代には別所氏の家臣だった。1577年 (天正5年) の羽柴秀吉の毛利/播磨攻めの際には当初当初秀吉側だった別所長治家臣団で議論が起こり、別所長治は毛利側、一部家臣は秀吉側に分かれた。糟屋武則は小寺孝高の説得により秀吉側となった。武則は孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となり、三木合戦に参戦し、支城である野口城の戦い、更に三木城の攻防戦では箕谷ノ上付城を守り、包囲網の一翼を担った。
晩年は1万2千石の大名にまで出世したが、関ヶ原の戦いでは西軍に付き、戦後、領土を没収断絶となっている。
水野重郎左衛門墓
墓地の中には水野家の墓所があり、その中に寂窓院殿一閑宗心居士と刻まれた水野重郎左衛門の墓 (写真右上) がある。歌舞伎の極付幡随長兵衛 (河竹黙阿弥作の世話物)、映画やテレビドラマで演じられる幡随長兵衛の敵役として有名な人物。
水野重郎左衛門成之 (1630 ~ 1664 写真下中錦絵) は 旗本水野成貞の長男で小普請組に列していた。江戸も旗本奴の大小神祇組を組織し、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くしたという。同じく男伊達を競いあっていた町奴とは激しく対立していた。1657年 (明暦3年) に成之は町奴の頭領を幡随院長兵衛 (写真右下錦絵) を殺害している。歌舞伎では旗本奴と町奴の対立を収めるための和解の酒宴が開かれ、湯殿に誘われて丸腰になった長兵衛を、水野の家来たちが騙し討ちにあったと脚色されている。これは記録にはなく、実際には長兵衛が水野の屋敷に召し出され、何らかの理由で処刑 (切捨て御免) されたとされている。この事件では成之にはお咎めなしとなっっている。この殺害の前には町奴と旗本奴の全面衝突が起こり長兵衛率いる町奴側が勝利、江戸の庶民から大喝采を浴びて旗本奴の面子が潰れた事で殺害計画が練られたと思われる。当時、切捨て御免 (無礼打ち) は武士には認められておりが、長兵衛を屋敷に呼び出し、切捨て御免の条件の無礼を働くように仕向け、無礼打ちになったと推測されている。幕府役所も無礼打ちという事と、町奴という幕府にとっては厄介な組織の頭領が排除されたという事でお咎めなしだったのだろう。
後の1664年 (寛文4年) に行跡怠慢で母の正徳院の実家である蜂須賀家にお預けとなり、評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして若年寄の土屋数直の命により即日切腹となり、家名断絶となった。共に蜂須賀家へ預けられた弟の水野忠丘が、1688年 (元禄元年) に赦免、1701年 (元禄14年) に旗本に復帰し家名は存続した。
長沼国郷墓
江戸時代中期の剣術家で鹿島神傳直心影流の第八代継承者で直心影流開祖とされる長沼四郎左衛門国郷 (1688–1767) の墓もある。
長沼国郷は直心影流でそれまで使われていた竹刀 (袋竹刀) と面、胴、小手などの防具を改良完成させ、現代剣道のルーツとなる竹刀を用いた打ち込み稽古 (仕合稽古) を普及させ、近代剣道の礎を築いた人物として知られている。
現在の鹿島神傳直心影流と呼ばれているが、初代の鹿島神傳から七代の直心影流までの総称で、各代毎に発展する際に名称を変えていたもので新しい流派が分かれた訳ではない。この様に名称が変更される事を憂い、七代直心影流以降は名称変更は行われ無かった。剣術の流派は以下の様な発展をしている。
長沼活然斎墓
長沼国郷の墓の近くに長沼活然斎 (1702 ~ 1772) の墓がある。長沼活然斎は長沼国郷の門弟 (斉藤正兵衛) で後に養子となっている。養子となった経緯は当時沼田藩から剣術師範の依頼が国郷にきていたが、国郷の江戸道道は人気があり多くの門弟を抱えていた事や一つの藩に抱え込まれるよりは江戸で直心影流の発展を重要視し、折衷案として当時の道場で高弟だった斉藤正兵衛を分家養子とし長沼活然斎綱郷と改名させて沼田藩に送り込んだという。その後、国郷 (1688–1767) 晩年に徳郷 (1742 ~ 1777) が生まれるが、国郷は直心影流後継者として、最も適した活然斎を分家のままで九代として選んでいる。この様に直心影流は活然斎に引き継がれ、更にその弟子の藤川近義 (十代) に継承されている。近義はそれまでの袋竹刀を現在の四つ割り竹刀に改良している。また、当時江戸の直心影流道場は下火となっていたが、近義は江戸に道場を開き、藤川派直心影流として最も活気ある道場に育てている。この活躍により、近義は直心影流十代となっている。後に、藤川の道場から幕府の最高指導者で幕末の三剣士の一人とされる男谷信友を輩出している。
長沼活然斎の墓が長沼国郷の墓のある長沼家所と別の場所にある事に違和感があったが、調べると長沼活然斎はあくまで分家、沼田藩家臣としての立場で、沼田長沼家の初代として別の墓所が置かれたという。活然斎の墓の隣には顕彰碑 (長沼先生墓碑) が建てられており、題額は活然斎の主君の沼田藩主土岐隼人正頼という。この様に活然斎の墓所は沼田藩剣術師範としての意味合いが大きい事がわかる。
次に江戸時代に活躍した文化人や医者の墓を見ていく。
歌川豊国墓
初代 歌川豊国 (1769 ~ 1825 明和6年 ~ 文政8年 写真右下) は江戸時代の浮世絵師で歌川派創始者の歌川豊春に学び役者絵や美人画で絶大な人気を得た。代表作として、役者舞台之姿絵 (右中)、風流芸者身振姿絵 、絵本時世粧 (左下) 等がある。この墓地には初代だけでなく、二代、三代の墓もある。
栗崎道有墓
江戸時代の南蛮外科医だった栗崎道喜 (正元)、初代栗崎道有 (正家)、二代栗崎道有 (正羽 1664 ~ 1726) の栗崎家三代の墓がある。栗崎家では代々道有を名乗っている。オランダ語で露を意味する dauw に由来すると言われている。この中では二代栗崎道有が有名で、外科医栗崎正家の子として長崎に誕生、祖父の栗崎道喜がルソン島でポルトガル人らから学んだ栗崎流南蛮外科を取得し、その後オランダ流の外科を習得している。1691年 (元禄4年)、江戸へ出て江戸幕府の官医となった。1701年 (元禄14年) には江戸城内で浅野長矩に切り付けられた吉良義央の治療を行い、1702年 (元禄15年) に義央が赤穂浪士に斬られた際には、首と胴体の縫合を行ったという。彼が執筆した栗崎道有記録、道有日記などが残っており、松の廊下、赤穂事件現場の混乱や、吉良上野介の傷の深さ、浅野内匠頭の様子などを当事者目線で生々しく伝えている。
武蔵石寿墓
聞いたこともない武蔵石寿という人の墓も墓所案内板に紹介されていた。武蔵石寿 (1766 ~ 1861) は江戸時代の旗本で本草学者。還暦後に江戸後期に富山藩主前田利保を中心として作られた本草学・博物研究会赭鞭会に参加し、1843年 (天保14年) 78歳の時に日本貝類学史上特筆される15巻13冊からなる大作で991種の貝を収録した貝類図鑑の目八譜 (写真上から二段目左) を編纂している。この他に風鳥韻呼類 (1830年頃 写真上から三段目、4段目左) や甲介群分品彙 (1836年 写真上から二段目右) も著している。この時代にも一つのことに没頭して、還暦後20年も熱意を失わず大業を成した事には敬意を表する。
ここまでは江戸時代に、この地に移転前に旧萬昌院と旧功運寺にあった墓を移転したもの。移転後に墓が作られた著名人も案内されている。
林芙美子墓
大正昭和時代に活躍した小説家の林 芙美子 (1903 ~ 1951) の墓がある。林芙美子は私生児として生まれ、養父・実母と共に行商を営みながら日本の各地を放浪する生活の中で、露天商やカフェの女給等の様々な職業を経験し、その時の日記をもとにした放浪記がベストセラーとなっている。この他、代表作に自伝的作品の 「蒼馬を見たり」、「風琴と魚の町」、「清貧の書」 など、客観小説の 「牡蠣」 など、戦後は 「浮雲」 がある。1951年 (昭和26年) に心臓麻痺により急逝している。
歴代住職墓、三界萬霊塔/無縁塔
墓地にはその他、墓地入口近くには旧萬昌院と旧功運寺時代も含めた歴代住職の卵塔墓がある。また墓地奥には墓石が小山のように積み上げられたものがある。上には三界萬霊塔が置かれいる。すべての精霊を平等に供養する三界萬霊塔があるので無縁塔だろう。
正覚山宝泉寺 (曹洞宗)
功運寺の東隣には曹洞宗の正覚山宝泉寺がある。宝泉寺は1562年 (永禄5年) に駒込吉祥寺三世興山圭隆大和尚によって江戸城清水門外に開山されたが、江戸城の拡張に伴い、田安門外へ移転後、1616年 (元和2年) に牛込通寺町 (東京都新宿区神楽坂) に移転し、更に、1909年(明治42年) に現在地に移転してきている。
仁王門
道から宝泉寺へは坂道を少し登った先にある。仁王門の山門がある。八脚門形式で造られた山門には朱塗りの江戸時代後期の作の仁王像が置かれている。山門も古く、牛込通寺町からこの地に移転してきた際に仁王像と共に移設されたと思われる。宝泉寺は、隣の功運寺と同じく戦災を免れた事で、古い建造物が残っている。
本堂
山門を入ると境内はコンクリートで固められ駐車場になっている。境内奥に本堂が建てられている。この本堂は1915年 (大正4年) に木造で建立されたもので、その後、木造の骨組みや姿を残しながら、大規模な修繕が行われ現在に至っている。本堂内には本尊として江戸時代中期の作とされる木造漆箔の瑞雲光背の法界定印の印相、玉眼の釈迦如来が安置されている。
その他にも江戸時代中期の作で両側に脇侍の阿弥陀三尊像が伝わっている。
道了堂
境内には庫裡に隣接して道了堂が建てられている。堂内には曹洞宗大本山の小田原の最乗寺の守護神として祀られた道了薩埵 (どうりょうさった 1400年代前半) を勧請し祀っている。江戸時代地元では 「小田原の道了さま」 として古くから親しまれているそうだ。師が亡くなった後、天狗となってこの山を守り、人々の願いを叶えようと言い残し、天狗の姿に変じ、白狐の背に乗って山奥へ飛び去ったと伝えられている。神仏習合として天狗信仰の修験道と曹洞宗が混じり合い道了尊信仰が生まれたと解釈できる。道了堂内には江戸時代中期の作の道了騎狐像が祀られている。
板倉重昌墓
板倉内膳正重昌 (1588 ~ 1638) は、京都所司代板合勝重の第三子で安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で江戸時代には三河深溝藩主となり、福島板倉家の祖と言われる。
三河時代には深溝城主となり徳川家康の近習を勤めていた。1614年 (慶長19年) の大坂冬の陣では天王寺口を守り、講和が結ばれると豊臣秀頼の誓書を受理している。翌1615年 (慶長20年 元和元年) の大坂夏の陣では天王寺口を守っていた。1616年 (元和2年) には5230石を領する大身旗本となり、1624年 (寛永元年) にに三河深溝を立藩した。1637年 (寛永14年) に起こった島原の乱の鎮圧の為に総大将として現地に赴き、反乱鎮圧にあたったが、参戦していた九州勢とは連携が取れず苦戦を強いられていた。剛を煮やした幕府は老中の松平信綱を派遣。重昌は松平信綱が到着する直前の 1638年 (寛永15年) 元日に総攻撃を行うが4000人もの戦死者の大損害を出し、重昌自身も原城攻めで板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の銃弾の直撃を受け戦死している。総大将が戦地で部隊を率いて突撃とは、重昌は松平信綱の登場で大いに焦ったと思われる。その後、幕府は兵を追加派遣増強し、12万以上で原城を取り囲み、兵糧攻めを行い、2月27日に総攻撃をかけ、天草四郎を討ち取り、原城を攻略し、島原の乱が平定されている。
板倉家は宝泉寺が江戸城清水門外や田安門外にあった時に深い関係を築き菩提寺と定めていた。重昌は牛込横寺町に移転していた宝泉寺に葬られている。牛込横寺町から現在地に移転する際には、板倉家子孫たちが全面的に協力したという。板倉家墓所には高さ約3 mの五輪塔に挙源光大居士と刻まれた重昌の墓の他、奥州福島藩、備中庭瀬藩の板倉家の墓が並んでいる。
長坂円陵墓
長坂円陵 (1737 ~ 1760) は、江戸時代中期の儒学者で、上野国高崎藩士の家に生まれ、大内熊耳の門で古学を学び、剣術や槍などの武芸にも長けた文武両道の人物で、24歳という若さで亡くなるまでに、(現存していないが) 徂徠学 (古文辞学) をベースとした彼自身思想や学説をまとめた 「円陵子」、円陵が門人や友人たちと学問、時事、武芸などについて熱く議論した内容を記録した 「抵掌録」などを残している。
墓の横には碑文の解説があり、長坂円陵の生涯や才能、人柄が漢文で詳しく讃えられている。
名は黒肱 (くろひじ)、字は 瞀人 (ばくじん)、号は円陵 (えんりょう)。先祖は鳥居氏・酒井氏らに仕えた武士の家系で、父は高崎藩の武士だった。幼少期から聡明で、成長すると学問を深く好み、博学かつ文章に優れていた。詩や文章の才能だけでなく、剣術、槍術、弓術、馬術といった武芸にも非常に秀でており、まさに文武両道の若き天才だった。当代の一流の儒学者である大内熊耳の門下に入り、熱心に荻生徂徠の学問を学んだ。当時の一般的な一芸に秀でれば満足するような周囲の風潮をよしとせず、もっと大きな世を治め、人々を救うための学問という高い志を抱いていまた。しかし、宝暦10年7月26日、わずか24歳の若さで病没した。才能にあふれた彼の早すぎる死を、師や友人、門人たちは激しく泣いて悲しみむ。
岡田十松墓
岡田十松吉利は江戸後期の神道無念流剣術家。武州埼玉郡砂山村の岡田又十郎の二男として生まれる。幼少より剣を好み、15歳のとき近郷志多見の松村源六郎に神道無念流をび、頭角を現し、ついで江戸麹町裏二番町の戸賀崎熊太郎暉芳に入門、1787年 (天明7)、22歳で皆伝印可を得、諸国を歴遊して剣名を高めた。1795年 (寛政7年) に師の道場を引き継ぎ、門弟が急増し、神田猿楽町に撃剣館を設立し、江戸屈指の大道場として門弟は3,000人~4,000人を抱えたという。撃剣館の門弟の齋藤弥九郎が開いた練兵館は、千葉周作 (北辰一刀流) の玄武館、桃井春蔵 (鏡新明智流) の士学館と共に幕末江戸三大道場と言われた。
大雄山普照院境妙寺 (天台宗)
境妙寺 は元和年間 (1615〜1624年) 頃に江戸城半蔵門外の麹町貝塚の地獄谷の千駄ヶ谷大神宮の隣に小湊誕生寺末寺として日蓮宗の高耀山寂光寺として創建された。1629年 (寛永6年) に御城廓造営の際に千駄ヶ谷 (現在の国立競技場付近) へ移っている。
1698年 (元禄11年) に、幕府の不受不施派禁教令により、東叡山の末寺となり、新たな開基を貞栄として天台宗へ改宗し、1834年 (天保5年) には大雄山境妙寺と改称している。不受不施派とは日蓮の教義である法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうとする宗派の事で、幕府将軍徳川家は法華経を信仰しておらず、徳川将軍家からの供養や命令を拒絶していた。幕府はこの不受不施派を権威に従わない危険思想とみなし、不受不施派を弾圧し、遂には禁教令を出した。不受不施派だった高耀山寂光寺は寺院を維持存続させるために天台宗に改宗したという背景があった。
この千駄ヶ谷時代には広大な敷地を有し、弁天堂、護摩堂、閻魔堂、鐘楼、及び、大通院、真立院、善龍院の三支院 (享保年間 1716 ~ 1736年に焼失) があった。また、寺の入口付近には松の名木 (江戸時代地図に松が描かれている) があり、三代徳川家光が鷹狩りをした時に愛鷹 「遊女」がいなくなり落胆していた所、その松にこの鷹が留まり家光の元に戻ったので、遊女の松と呼ばれる様になった。鷹の名が 「遊女」 とは現在では違和感があるが、当時は鷹匠たちが訓練した鷹には、勇ましい名のほかに、芸者、傾城、遊女など、あえて色気のある人間の女性名をつけることが流行していたそうだ。
1915年 (大正4年) に、明治神宮外苑の造営に伴い、現在地へ移転し現在に至っている。先に述べた遊女の松はそのまま残っていたが、その後、競技場、東京オリンピックの国立競技場の工事等で何度か移植されたが、枯れてしまい、現在では三代目の松が絵画館西に植っている。
山門 (黒門)
上高田中通りから宝泉寺東沿いの道を北に少し進むと右手側に境妙寺の山門がある。黒塗りの門で黒門と呼ばれている。この黒門は境妙寺が千駄ヶ谷にあった時代のもので、境妙寺がこの地に移転してきた際に、解体されて移設された。境妙寺の前身の寂光寺が不受不施派禁教令により天台宗に改宗し境妙寺になった後は、近隣に紀伊徳川家の下屋敷があった関係で紀伊公邨霊堂 (観如院) の管理をする別当に命じられ、徳川家と深い関係となっている。江戸時代には門の形式や色は身分制度によって厳格に制限されており、黒門は格式高い武家屋敷にのみ許されていた。この事から、この黒門は紀伊家から拝領したか、紀伊家と境妙寺の関係から武家屋敷の格式である黒門を寺の正門として構えることが許されたと思われる。
本堂
山門を入ると境内は広くはなく、その殆どは駐車場になっている。境内奥に本堂があり、堂内には本尊の阿弥陀如来三尊 (写真下中) が両脇に脇侍を従えて祀られている。この本堂も千駄ヶ谷にあった時代のもので、境妙寺がこの地に移転してきた際に、解体されて移設され、第二次世界大戦では戦災から免れた事で残っている。本堂屋根は寺院建築の中で最も格式が高い入母屋造りで、向唐破風の向拝 (向屋根) になっている。向拝 (向屋根) の頂点の鬼瓦は箱の形をした格が高い獅子口でその中心は紋瓦になっている。この紋瓦をよく見ると葵紋 (写真右下) になっている。江戸時代には葵紋は徳川家以外の使用は許されておらず、この境妙寺と紀伊徳川家との深い関係を表している。
恵日山金剛禅寺 (曹洞宗)
境妙寺の北側は曹洞宗の恵日山金剛禅寺 (金剛寺) になっている。 金剛寺の歴代は古く、1250年 (建長2年) に鎌倉幕府御家人の波多野忠経が開基となり、孤舟和尚を開山に迎えて鎌倉幕府第三代将軍源実朝の菩提を弔うために相模国大住郡波多野荘田原村(現 神奈川県秦野市) に臨済宗の寺院として創建された。その後、武蔵国豊島郡江戸荘小日向郷金杉村 (現 東京都文京区春日) に移転した。その後、金剛寺は寂れてしまったが、源実朝を弔っている金剛寺の衰退に心を痛めた太田道灌が領主としての領内の安定化を目的とした寺社保護政策として文明年間 (1469 ~ 1487年) に堂宇などを修復し再興されている。道灌が1486年に暗殺され、後ろ盾を失った金剛寺は、度々の火災に見舞われ、再び寂れてしまった。 この状況を打開し、寺の再興を果たすために当時、武家の間に急速に浸透していた曹洞宗の関東拠点として水道橋付近にあった吉祥寺の末寺となり難局を乗り切り、再興を果たしている。この様な背景で金剛寺は、1509年 (永正6年) に臨済宗から曹洞宗に転宗している。その後、再び、寺は荒廃し、無住職状態となった。1590年 (永正6年) に徳川家康が江戸に入国し、江戸の街を整備するにあたり、地域の古い寺社の復興を進めた。その中で、金剛寺の復興も含まれていた。この為に家康は直接支援ではなく、朱印地の寄進と格式の保証だった。小石川周辺の一定の土地から上がる年貢がすべて金剛寺の収入になるという強力な経済権限を与えている。また、金剛寺の境内やその門前町に対しては諸役免除の特権を与え、労働賦役や臨時の税金を免除、その事で門前町には人が移ってきて、急速に発展していった。
江戸名所図会 (1834-1836年) に当時の金剛寺 (右ページ) が描かれている。広大な敷地だった事がわかる。左上の丘には室町時代の1513年 (永正10年) に造立された実朝碑も見られる。実朝碑は現在の金剛寺墓地に移設されている。
嘉永年間 (1848 ~ 1854年) から安政文久年間 (1850 ~ 1860年代前半) の江戸切絵図には鶯が描かれている。この時代、金剛寺は江戸庶民の名勝で、金剛寺の周辺が江戸一番の小鳥の名産地で鳥の鑑賞・飼育の聖地だった。江戸時代中期から後期にかけて、江戸の庶民や武士の間では、メジロやウグイスなどの小鳥を飼い、その鳴き声の美しさを競い合う鳴き合わせ (鳥飼い) が爆発的ブームとなっていたそうだ。
戦後に、地下鉄丸ノ内線建設で茗荷谷-後楽園間は武蔵野台地の端にあたり、谷や急な斜面が入り組んだ高低差の激しい地形で当時の技術では地下トンネル建設は難しく、地上線となり、路線が金剛寺境内を突っ切る事になり、移転せざるを得なかった。大正時代から昭和時代にかけて、関東大震災もあり、東京の都市計画の一環で寺社を東京中心地から郊外への移転があった。政府は中野、世田谷、烏山、練馬などの幾つかの郊外の受け入れ地域を指定している。しかし、用地買収などは移転寺院の責任で、この確保に苦慮するケースもあったという。この上高田寺町は金剛寺の移転先選考時にはすでに寺町として整備されていた事や先に見てきた幾つかの曹洞宗の寺院が移転していたので、用地買収の際に協力が得られる環境だった事から、1950年代前半に春日からこの地に移転している。移転元の春日には金剛寺坂と江戸時代金剛寺の名残が残っている。
本堂、庫裏
境内には本堂と庫裏のみがある。江戸時代の広大な敷地や大きな本殿、鐘楼などに比べると少し寂しくも感じる。これは、この地域に移転にあたって土地買収を行ったのだが、その時代にはこの地域は住宅地として人気があり、地価も大正時代の地下に比べてかなり高騰していたそうだ。可能な限り土地を確保したが、多く抱えていた檀家の墓の移設を優先した結果、境内は最小限となったという。この限られた境内には、春日時代の本堂はおさまらず、新しい境内に合わせて、宝形造の本堂と庫裏を新設している。
墓地
金剛寺の広大な墓地は境内に隣接しておらず、金剛寺に北の路地を東に進んだ北側に神足寺墓地と隣接している。墓地には移転前の春日から移転した墓、移転後に作られた墓、写真にある様なペットの墓、壁面にタイル画で釈迦牟尼仏を描いた無縁塔、新しいデザインの墓などもある。
三宅家墓所、三宅康直墓
金剛寺の墓地の中に三宅家の墓所がある。三宅家は1万2,000石の譜代大名で三河国田原藩を治めていた。金剛寺が小日向郷金杉村 (現 東京都文京区春日) にあった江戸時代には近くに田原藩下屋敷があり、金剛寺を江戸における菩提寺としていた。墓所には幕末期に渡辺崋山が仕えた第11代藩主 (13代当主) の三宅康直 (1811 ~ 1893) の墓がある。
三宅康直は田原藩の血筋ではなく、田安徳川家からの養子だった。当時の田原藩は、度重なる凶作で財政が破綻し、前藩主の子供が次々と早世し、お家断絶の危機に瀕していた。1827年 (文政10年) に先代の藩主の三宅康明が病死し、その後継に家臣団の多くは酒井忠実の子である稲若を養嗣子として迎え、その持参金で長年困窮にあえぐ田原藩財政を救おうと考えた。江戸家老であった渡辺崋山は康明の弟の友信に跡を継がせようとし、論議となったが、稲若を藩主とした場合は友信の実子の康保を後継者とし、その確約として康直の娘を康保の室とする事で、家臣団の案に落ち着き、1828年 (文政11年) に16才の稲若が三宅康直として11代藩主として迎えられた。以後、持参金を携えた傀儡藩主の元、藩政は渡辺崋山が完全に掌握し主導していた。康直が藩主となって間もなく、天保の大飢饉 (1833 ~ 1839) が起こり、田原藩にも大きな影響を及ぼした。日本各地で餓死者が続出し、一揆が頻発する中、田原藩では、華山の指導で食料の備蓄倉庫 (報民倉) の設置や、徹底した配給制度を敷いている。藩主である康直も、自らの生活費を極限まで削って崋山の改革を財政的にバックアップしたという。この結果、全国で数十万人が餓死したが田原藩からは一人も餓死者を出さなかった。この成功で渡辺華山と康直には強い信頼関係に変わっていった。この成功の後、しばらくして1839年に蛮社の獄と言われる事件が起こった。崋山が幕府の鎖国政策を批判する開国論者であるきことが発覚し逮捕され、田原藩改易の可能性の危機になった。この様な情勢の中、康直は幕府からの厳しい追及を受けながらも、恩人である崋山の助命のために動き、崋山は死罪を免れ、田原での国元蟄居 (自宅謹慎) という寛大な処分に落ち着いた。しかし、華山はその後藩や康直への迷惑を恐れ、1841年に自刃して果てている。その遺言には藩主・康直への深い感謝と忠誠が綴られていたという。この華山晩年期には華山と康直にはお互いに認め合った深い繋がりがあったと解釈できる。華山死後、康直は華山の子の渡辺小華の養育や画家としての活動を、生涯にわたって経済的に支援し続けたそうだ。
この様に華山と康直の関係は大きく変化したが、田原藩のは康直には冷たい態度だった。それを決定付けたのが、時期藩主は娘婿の康保と約束していたが、康直は実子を後継者にしようと画策し、それに対し、田原藩は三宅家血統重んじ、1844年に真木定前が自刃して反対した。この結果、田原藩の血統重視派への権限移譲のプロセスが進み、康保が成人となった1850年 (嘉永3年) に元の約束通り、康直は家督を康保 (12代藩主 1831 ~ 1895) に譲り隠居している。
この様に康直は17才で持参金目当の田原藩に藩主として担がれ、39才でその役目を終えて見捨てられた (?) という半生だった。想像するに血統重視派の首領だった渡辺華山とだけ深い信頼関係が築け、共に危機を乗り越えていった時代が最も充実していたのだろう。康直はこの後、1893年 (明治26年) 83歳まで江戸で実家の酒井家の経済的支援を受け、趣味の日本画や書、茶の湯などに没頭する悠々自適の隠居生活を送った。息子達は酒井家に戻り、長男酒忠顕は姫路藩酒井家の当主、三男忠敬は酒姫路藩の分家の上野前橋藩の要職、四男竹腰は尾張徳川家の筆頭家老の竹腰家へ養子に入り、当主となっている。
東護山法樹院願正寺 (真宗大谷派)
境妙寺の東に隣接して、都内でも有数の広さを誇る真宗大谷派の東護山法樹院願正寺がある。願正寺は1590年 (天正18年) に、徳川家康の関東入国に従い江戸に来た法櫻院安養院了善師によって外桜田 (霞が関) に地所を拝領して光瑞寺として開山された。その後、本願寺に属し願正寺と改めた。寛永年間 (1624 ~ 1644年) は麹町に移っていたが、江戸城外堀の造成や火災による都市計画に伴い、1680年 (延宝8年) に牛込原町 (現 東京都新宿区原町) に移転している。1888年 (明治21年)に明治政府が東京市区改正条例により衛生面改善や道路拡幅など近代的な都市開発方針を打ち出し、東京中心部での墓地拡張の禁止で墓地・寺院の郊外移転政策が含まれていた。願正寺があった明治後期の牛込は、鉄道の開通などをきっかけに山の手の住宅地・繁華街として急速に発展しており、周辺の宅地化の波に押される形で移転を決断する寺院が相次いでいた。この事から、願正寺も1910年 (明治43年) に現在地に移転している。
参道
上高田中通りに戻り、道を東南に進む。緩やかな下り坂になっている。上高田第二住宅を過ぎたところで、北東へのの道に入ると、願正寺への階段の参道がある。階段途中に小さな地蔵菩薩蔵が置かれている。階段を登り切った所の石柱の門から境内に入る。
本堂
境内はそれほど広くなく、本堂と庫裏が建てられている。本堂と庫裏はこの地に移転した際に新築され、庫裡は2013年 (平成25年) に建て替えられてもの。
万延元年遣米使節記念碑
境内に1860年 (万延元年) に日米修好通商条約が締結されてから百年を記念した石碑が置かれている。碑文には
昭和三十五年五月廿四日常山願正寺に於て萬延元年遣米使節合同慰霊法要を厳修した記念として駐日米國大使ダクラスマッカーサー閣下並に東京都知事東龍太郎日米修好通商百年記念運営會長石坂泰三東京都慰霊協会長德川家正その他の参列者によって日本山櫻壱株米國花水木貳株を植え諸霊に永遠の感謝を捧ける。
とある。
万延元年遣米使節は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年 (万延元年) に派遣された。1859年 (安政6年) に外国奉行と神奈川奉行を兼帯していた新見正興と村垣範正が正使と副使、目付には小栗忠順が任命され、77名から成る使節団が米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米、護衛を名目に咸臨丸も同行し、勝海舟、福沢諭吉、通訳として中浜万次郎などが渡航している。ワシントンで批准書は交換された後、北大西洋を横断して喜望峰を回ってインド洋、東南アジアを経て品川沖に帰着している。
新見正興墓
墓地には、新見家の墓がある。万延元年遣米使節団正使となった外国奉行の新見豊前守正興 (1822 ~ 1869 写真左下) とその父親の新見正路 (大阪町奉行 右下) が葬られている。
新見豊前守は万延元年にアメリカ軍艦に乗って日米修好通商条約の批准書交換のため渡米した。1918年 (大正7年) に駐日米国大使ローランド・モリス、1959年 (昭和35年) には駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世が日米修好の大役を果した新見正興の墓を詣でている。
月岬山神足寺 (真宗大谷派)
願正寺の北には真宗大谷派の月岬山神足寺がある。足寺は、1607年 (慶長12年) に江戸木挽町に土地を拝領し、行心和上を開基として江戸木挽町 (現 東京都中央区銀座)創設された。
行心和上は、出家前は伊東氏出身の武士で石山合戦 (1570 ~ 1580年) では織田軍の一員として本願寺一向一揆勢と戦っていたが、織田軍陣中に矢に結ばれて射こまれた本願寺12 世教如の手紙を読んで、考えを改めて戦線を離脱し本願寺側についた。合戦終結後は本願寺の僧侶になったと伝えられている。行心和上は走るのが早く、「神のごとき足」 という意味で神足寺と名付けられたという。
創建直後には江戸城の外堀の開削や城下町の整備の拡張工事で寺町や武家地の再配置が行われ、八丁堀に移転している。
更に寛永年間 (1624 ~ 1644) 以降、幕府は江戸城下の中央部を町人地や武家地としての活用とこの時期に発生した大火対策の火除地を確保、江戸城周辺の寺院が、江戸城を攻めてくる敵の陣地として利用される事を避けるという背景で、寺社の郊外への移転を加速させ、神足寺も西久保赤羽に移転している。
神足寺が移転した西久保赤羽も開発が進み、この地域でも火除地の確保が必要になった事と西から敵が攻めてきた際の防衛の為に主要な街道沿いや高台に寺院を集約させ、有事の際に防衛陣地と活用する方針となり、神足寺は東海道沿いの三田村の伊皿子坂の高台へと移されている。
明治時代に入ると、急速な近代化によって三田周辺の人口は過密化し、道路拡張や都市計画が進められた。これに伴い、寺院に対し、農村地帯の郊外への移転を促す政策をとり、神足寺もこの流れを受け、1910年 (明治43年) に上高田の現在地へ本堂と庫裏を移築し、移転している。
山門
神足寺の山門は1910年 (明治43年) にこの地に移転してきた際に、移築された。薬医門形式で屋根は切妻造となっており、2本の鏡柱の右手側には通用門として潜り戸が設けられている。門柱の上部には、神足寺の山号の月岬山と刻まれた扁額が掲げられている。
本堂、庫裏
山門を入るとすぐに本堂がある。境内は広くないが、すっきりと整備されている。本堂に隣接して庫裏がある。本堂と庫裏 (写真右下) もこの地に移転してきた際に移築されていたが、本堂は 1958年 (昭和33年) に改築、2017年 (平成29年) に内陣修復が行われ、内陣には本尊の阿弥陀如来が祀られている。
永代供養墓/納骨堂、無縁塔
本堂の裏手が墓地となって入りその中に、永代供養墓/納骨堂 (写真左下)が、さらに墓地奥には無縁塔 (写真右下) がありその周りには無縁となった石仏が積み上げられている。
自證院墓地、上野国吉井藩主松平家墓所
宝泉寺墓地の北に隣接している場所は新宿富久にある天台宗の鎮護山自證院圓融寺の墓地となっている。江戸時代の自證院は、徳川将軍家ゆかりの寺として1万坪を超える広大な境内と朱印領200石を持つ格式高い寺院だった。1871年 (明治4年) に明治政府が寺社の土地を取り上げる社寺上地令を発令した事で、それまでの主たる財源だった土地の大半を失い、更に徳川家からの経済的援助も途絶え、寺の経営が困窮した。深刻な経営難に陥った自證院は、明治末期に残された広大な境内地一部を売却や貸付けを行っていた。その為に敷地内の広大な墓地別の場所へ移築を余儀なくされ、この上高田寺町に墓地だけを移設している。現在でも本堂など寺自体は元々の新宿富久に残っている。
この上高田寺町の墓地にはその時に移設された上野国吉井藩主松平家墓所がある。鷹司松平家は五摂家鷹司家の庶流で、江戸時代に公家から武家 (大名) に転身した唯一 の家。鷹司松平家は定府 (じょうふ) と呼ばれる特別な大名で、参勤交代の義務はなく、一年中、一生涯を江戸の屋敷で暮らすことが義務付けられており、領地の吉井には吉井陣屋を設け、代官が統治を行っていた。藩主もその家族も、一度も群馬の吉井に赴くことなく江戸で生涯を終えたため、江戸の菩提寺の自証院に埋葬された。そのため、吉井には歴代藩主の墓は存在しない。
鷹司松平家は、明治以降、松平を藩名から吉井と改名している。
新宿富久にあった墓地には歴代藩主やその正室は一人一基ずつ五輪塔などの墓に埋葬されていたが、それをそのままこの地に移すにはスペースと費用の問題があり、初代当主から12代当主 (10代藩主) までが、吉井家先祖代々之墓と吉井家之墓に合葬という形になったそうだ。
安禅寺墓地
自證院墓地の北側に四谷にある天台宗の円通山正受院安禅寺の墓地になっている。安禅寺は小さな寺院で、生き残りをかけて、近くにあった大きな寺院の自證院の末寺になった。この安禅寺と自證院は元々は日蓮宗だったが、江戸幕府の不受不施派弾圧の際に、天台宗へと改宗している。
1923年 (大正12年) の関東大震災の後、東京のの都市計画(区画整理)に伴い、都心部にあった多くの寺院が墓地を郊外へ移転させられている。この安禅寺と自證院も同様に歩調を合わせて、それぞれの墓地をこの地に移している。
小字 道中
1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村が野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 北原は北から小字 北原、氷川前 (西の道北に氷川神社があった)、山下 (小名 上の山から見て西の妙正寺川流域の低地)となった。1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村が野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 上の原は北から小字 道北、道中、道南、新井前 (新井薬師の南東地域) となった。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の道中は道南、薬師前と共に上高田一丁目となり、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 道中は大部分が上高田三丁目、一部は上高田五丁目となり、現在に至っている。
たきびのうた発祥の地
上高田氷川神社から上高田中通りを西に渡って進んだ住宅の入口にたきびのうた発祥の地の案内板が置かれている。年配の人はほとんどが知っているこの童謡は上高田に住んでいた作詞家の巽聖歌 (1905 ~ 1973) が、このあたりを毎日散歩している際に、この場所にあったけやき屋敷を通っていた。竹垣で囲まれたけやき屋敷には樹齢300年を超える大きな欅が何本もそびえ立ち、その落ち葉を集めて、垣根の曲がり角で頻繁にたきびをしていたそうだ。この情景が巽聖歌に詩情をわかせたという。見た情景をそのまま詩に表している。
垣根の垣根の 曲がりかど
たき火だ たき火だ 落ち葉たき
あたろうよ あたろうよ
北風ぴいぷう 吹いてくる
さざんかさざんか 咲いた道
たき火だ たき火だ 落ち葉たき
あたろうよ あたろうよ
しもやけお手手が もうかゆい
木枯らし木枯らし 寒い道たき火だ たき火だ 落ち葉たき
あたろうよ あたろうよ
相談しながら 歩いてる
歌詞を見ると、当時情景が再現されてくる。
当時はこの周辺の道沿いにサザンカの生垣があり、屋敷を囲む長い竹垣の曲がり角で落ち葉を集めてたきびをしている。この武蔵野は冬には遮るもののないこの上高田では木枯しが吹き付けて寒い。たきびを見つけた子供が、友達とたきびにあたろうかどうしようと相談している。たきびに近づき手を温める。あったまるにつれてしもやけが痒くなってくる。多分、この屋敷の人は少し離れて子供達を微笑みながら見ていたのだろう。
小字 道南
小字 道南 (上高田一丁目) は北側は上高田本通りで小字 道中 (上高田三丁目) と、上高田中通りで小字 道北 (上高田四丁目) と接している。1889年 (明治22年) の町村制施行により江古田村が野方村大字江古田となり、江戸時代の小名 上の原は北から小字 道北、道中、道南、新井前 (新井薬師の南東地域) となった。1932年 (昭和7年)に中野区が誕生した際に小字の道南は道中、薬師前と共に上高田一丁目となり、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 道南は上高田一丁目となり、現在に至っている。
百番供養塔 (11番)、馬頭観音
小字 道南の北、小字 道中との境界線の上高田本通り (鎌倉街道中道、薬師道) の道沿いに堂宇があり、その中に石塔が二つ置かれている。元々は道端にあったのだが、1970年 (昭和45年) 頃に地域住民が堂宇を建ててその中に安置したそうだ。
堂宇内右側には1832年 (天保3年) に造立された角柱石塔 (11番) に上部に観音菩薩坐像が浮き彫りされ、その下に「西国百ヶ所供養為二世安楽 羽黒山行者 久兵衛 坂東湯殿山月山」と刻まれている。台石は道標になっており、「左 やくし道 左 中野打越」とある。この上高田本通り は昔からあった道で鎌倉街道中道、後に薬師道だった。左側には、1901年 (明治34年) 造立の角柱型石塔に馬頭観世音と刻まれている。明治時代までこの一帯は畑地帯で農耕馬や運搬馬が日常的に使われており、こので命を落とした大切な馬の供養や、旅の安全を祈って建てられたもの。
上高田村には多くの寺院があり、この日に見落としたものは、2026年1月、6月に訪問して追加記述している。これで江戸時代旧野方村域にあった七つの村を巡り終わった。次は2026年10月から旧中野村の史跡巡りを予定している。
参考文献
- 中野区史 上巻 (1943 中野区)
- 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
- 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
- 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
- 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
- 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
- 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
- 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
- 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
- たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
- 中野の神社をたずねて 南部編 (2010 中野区立中央図書館)
- 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
- 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
- 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
- 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
- なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
- なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)
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