Okinawa 沖縄 #2 Day 297 (18/02/26) 石垣市 旧大浜間切 (4) Maezato Village 真栄里村

大浜間切 真栄里村 (マイザトゥ、マジャドゥ、マジドゥ、まえざと)

小字 屋鋪 (ヤスキィ)

  • 真栄里公民館、番所 (オーセ) 跡
  • 東ヌ井戸(アーンヌカー)
  • 真栄里節歌碑

小字 西原 (イーバル)

  • 安居御嶽 (アングンオン)
  • 高橋洋介氏顕彰碑、種籾緊急増殖事業記念碑
  • ウンヌヤーイシ (4月5日訪問)

小字 前原 (マイバル)

  • ウリカー (?) (4月5日訪問)

小字 撫原 (ナディバル)

  • 蔵原御嶽 (クラバルオン)
  • 多田御嶽 (ターダオン)

小字 宮鳥 (メートゥーレー)

  • ANA インターコンチネンタル 石垣リゾート (沖縄日成総業跡)

小字 慶田山 (キデーマ)

  • 忠魂碑

小字 東原 (アーバル)

  • 旧石垣空港跡、海軍平得飛行場跡
  • 石垣市市役所
  • 石垣市消防本部
  • 八重山病院

小字 田原 (タバル)

  • 掩体壕 (海軍平得飛行場の格納庫跡)

小字 上原 (ウイバル)

  • 八重山家畜市場、オウシマダニ撲滅之碑、忠魂碑

小字 真栄里山 (マイザトゥヤマ)

  • 於茂登集落、於茂登開拓之碑 (4月2日訪問)

小字 川良原 (カーラバル) 

  • 海軍平喜名 (ヘーギナ) 飛行場跡 (4月2日訪問)


大浜間切 真栄里村 (マイザトゥ、マジャドゥ、マジドゥ、まえざと)

真栄里村 (マイトゥ、まえざと) は南北に細長いJ字状の地域で、琉球国時代には大浜間切に属していた。真栄里村は北に平得村、東は大浜村、西は登野城村に隣接している。北は於茂登岳南の山地にまで及び、桴海村と接している。昔、真栄里村は、平得の地城御嶽 (ギシュクオン) の南方の嘉謝内原 (カジャウチバル) に集落を形成した事に始まり、その後、南の上原に移動し、更に現在地に移り、平得村と合併している。1750年 (第二尚氏13代尚敬王) に平得村の人口が増加し諸事支障をきたし、平得村の885人の南部地域を分村し真栄里村の設立を申請したが許可されなかったが、1765年 (第二尚氏14代尚穆王) に再申請が認められ分村し、真栄里村が誕生している。

小字 真栄里山の於茂登岳の南麓には1957年 (昭和32年) に政府計画移民により於茂登集落が創建されている。

字 真栄里の人口を見ると、1972年 (昭和47年) 当時は真栄里集落地 (小字 屋敷) を除き、全面農地で、373人と石垣市では少ない方から3番目とだったが、それ以降の人口増加は著しく、2023年末では5,991人と3番目に多い字となっている。石垣空港が開港し、国道が整備されて、集落の東側の小字 撫原は商業化し、小字 宮鳥には大型ホテルとゴルフ場が建設され、総合病院もあり、生活環境は他地域に比べ良く、急速に発展していることから、多くの人がこの真栄里に移り住んでいる。

1771年の明和大津波で村は跡形もなく波に洗われ、当時の人口1,173人の内908人が溺死、家屋176軒、牛4頭、馬22頭が流され、畑182町余のうち162町は表土が流出してしばらくは耕作不能となった。この災害に対して、八重山蔵元は黒島から、293人を寄百姓として強制移住させて、生存者265人と合わせ、558人で、昔の真栄里集落があった嘉謝内原で村を再建させている。村を再建してから100年後の1872年の人口は156人にまで減少している。この期間に何かあったのだろうが、理由分からず。

沖縄戦では、旧日本軍による命令で、マラリア有病地域の武名田原に強制疎開させられ、その湿気の高い地域で避難後、数日にしてマラリアが発生し、またたく間に感染が広まっている。真栄里住民の89%が罹患している。マラリアの特効薬であるキニーネは旧日本軍上級兵士にのみ支給されず、疎開住民には行け渡らず、食糧不足と相まって罹患者の37%の88人 (真栄里人口の33%) が亡くなっている。

  • 御嶽 (琉球国由来記): なし
  • 主要御嶽: 安居御嶽、糸数御嶽 (所在地記載なし)
  • その他御嶽: 蔵原御嶽、多田御嶽 (平得村の御嶽)
  • 井戸: 東ヌ井戸、(蔵原御嶽の井戸)、(西の井戸)、(大嶺屋の井戸)

昔、真栄里集落は平得の地城御嶽 (ギシュクオン) の南方の嘉謝内原 (カジャウチバル) に住んでいた事から地城御嶽 (ギシュクオン) を村御嶽として信仰していたが、現在地に移動し、平得村と合併した際に、両集落の話し合いで、地城御嶽 (ギシュクオン) は平得村、平得村にあった糸数御嶽 (イトゥカズオン) を真栄里集落の管轄となっている。(糸数御嶽の所在地や詳細を期した資料は見つからず)



登野城から国道390号線を東に進むと、字登野城小字仲道原 (ナカドー) に先日訪れた三番アコウの大木がある所で道が三叉路になっている。国道390号線から外れ、真栄里村への道になる。この道の先が、真栄里集落の場所。


小字 屋鋪 (ヤスキィ)

字 真栄里の小字 屋鋪 (ヤスキィ) は西は字 登野城、北は字 平得に隣接した地域で、琉球国から戦前まで、真栄里村があった地域になる。この小字 屋鋪以外の地域には殆ど民家はななった。


真栄里公民館、番所 (オーセ) 跡

三番アコウから真栄里村方面に行く道は仲道道 (ナカドーミチ) と呼ばれ、この道を東に進んでいくと真栄里公民館が道沿いに建てられている。ここには、琉球国時代に番所 (オーセ) が置かれていた場所で、その敷地の東半分に真栄里公民館が建てられている。当時の番所は広い敷地だった。現在の公民館は2010年 (平成22年) に建て替えられたもの。


東ヌ井戸(アーンヌカー)

番所 (オーセ 現在の真栄里公民館) のすぐ南側には東ヌ井戸 (アーンヌカー) と呼ばれた村の共同井戸があり、300年ほど前に最初に掘られたともいわれ、水質はナカミジィ(中水)で、主に生活用水として使われていた。産井 (ウブガー) としても使われ、この場所にあった首里王府番所直営製糖家 (シートーヤ、本島ではサーターヤー) の水源としても利用されたという。当時は円形の石積みの堀井戸で直径2.5mと大きく、深さ9mだったが、沖縄戦で日本軍駐屯兵が井戸の半分を埋めて、そこから横穴を掘り、防空壕に利用していた。戦後は井戸は復旧されず利用されないまま、危険という事で埋められた。戦前迄は真栄里地域には幾つかの井戸があったが水道の普及により使用されなくなり、危険という事で、そのほとんどが埋められて消失している。2010年 (平成22年) に公民館が改築された際、昔の東ヌ井戸 (アーンヌカー) をイメージしてモニュメントとして再現している。


真栄里節歌碑

東ヌ井戸 (アーンヌカー) の上には真栄里節の歌碑が1993年 (平成5年) に建てられている。東ヌ井戸 (アーンヌカー) 再現モニュメントより17年も前なので、東ヌ井戸 (アーンヌカー) モニュメントを作った際に移設されて一緒にアレンジされたのだろう。真栄里節は真栄里村を象徴する歌で、1893年 (明治26年) に八重山最後の役人で、宮良殿内の三男の宮良当意が、真栄里首里大屋子職に拝命された時に、真栄里の美しい情景や人々の様子を描写し作詞・作曲したものと言い伝えられている。真栄里では豊年祭などの地域行事で愛唱されている。

だんぢゅ豊まりる (まことに評判の高い)
真栄里ぬ村や (真栄里村は)
中村ゆくさでぃ (中村を腰当て [クサティ] にして、)
作物前なし (田畑を前にして)
うや子あ睦ましく (親子の仲も良く)
夫婦たちじゅらさ (夫婦は一心同体で美しい)
村中肝揃るてぃ (村民も心を一つにして)
情ばかい (純情だ)
(歌詞に出てくる中村は真栄里と平得の間の地名)


小字 西原 (イーバル)

小字 屋鋪 (ヤスキィ) の南に隣接して、海岸までの地域が小字 西原 (イーバル) で、文字通り真栄里村の西の端の小字になる。


安居御嶽 (アングンオン)

小字 西原 (イーバル) が小字 屋鋪 (ヤスキィ) に接する場所に安居御嶽 (アングンオン) がある。御嶽周辺は2019年に整備された公園となっている。

拝殿は何度か改築されており、以前1950年に建てられたものを、2023年に73年ぶりにコンクリート造りだが、日本の伝統的な屋根の形状の入母屋形式に建て替えられている。

拝殿裏側には、安居嶽と刻まれた拝所がある。これが本殿としてのイビだろう。他の御嶽の伝統的な石垣で囲まれた霊石とは異なっているが、どの様な経緯でこの様なイビ殿としたのかは気になる。

この安居御嶽 (アングンオン) では、来夏世の豊穣と住民の無病息災を祈願する豊年祭のプーリィ等の地域行事が行われている。豊年祭のプーリィでは、一日目は祭事関係者だけのオン (御嶽) プールを行い、二日目は兄弟村の平得と真栄里が合同で、村人が参加するムラ (村) プールが行われている。

この御嶽には、平家の落人伝説が伝わっている。

昔、平家の落人がこの地に住みつき、浜端端家の女を嫁にしていた。亡くなった後、現在の御嶽の場所は屋敷の弓場で、そこに墓を造り葬られた。その後、真栄里村では人喰い鬼が現われた。それは村出身の男であるが、子供をさらって海岸の洞窟のウシヌヤー石で、殺して食べていたという。このことがあって村では、大騒動となった。
そこで妹に当る女が石の餅を作り、子供をつれて人喰兄の処を訪ね、餅をやったところそれをガリガリ食べたので、やはり鬼になっていると驚き、子供を泣かして外へ出ようとすると、兄は妹の足を縄でしばって逃さないようにした。妹はしばられたまま外に出たが、縄を外して木にしばりつけ、子供をつれて一目散に逃げ出した。兄は気がついて「待て、待て」と追いかけてきた。妹が平家の落武者の墓の処までくると、そこの大きなデイゴの木がポッカリと二つに割れて、二人を中の空洞に入れて包み、護って助けてくれた。
この事件があって、世人は妹を助けたのは、ここに葬られている人の霊であるとし、その墓を御嶽として崇敬するようになったという。その鬼は、琉球国王の命をうけてきた人によって退治されたという。
平家の落武者の墓は、海石による四角の形の石積みであった。御嶽は当初は浜端家で拝んでいたが、後、村人も一緒に拝むことになり、安居御嶽として信仰される様になり、真栄里では「ヤマトゥバカ」とよばれたという。

この伝説は、沖縄本島や先島諸島各地にある鬼餅 (ムーチー) 伝説に酷似している。今まで巡った所では、首里金城町 内金城小嶽 (ウチカナグシクコタキ)旧大里村 西原集落 マティ井泉旧大里村 南風原集落 大里鬼 (ウフザトウナー) 鬼の洞窟で鬼餅 (ムーチー) 伝説が伝わっている。

また、平家伝説については事実であったという確証は未だ見つかっていないのだが、可能性は高いだろう。壇ノ浦で敗れた平家は南九州に逃れ、更に島づたいに南下しようとした事は想像でき、実際に可能だった。そうすると、先島諸島の平家伝説は根拠なく作られた物語ではない様に思える。


高橋洋介氏顕彰碑、種籾緊急増殖事業記念碑

小字 西原 (イーバル) の海岸沿いには真栄里公園が整備されており、その一画に二つの石碑が建てられている。向かって左側のものは高橋洋介氏顕彰碑で、1993年 (平成5年) の歴史的な大冷害で岩手県の岩手の稲作が大打撃を受け、稲の種子確保のため二期作ができる石垣島での緊急増殖を決断し、石垣島の農民の協力で成功に導いた元岩手県副知事・高橋洋介氏の功績を称えたもので、2013年 (平成25年) にこの地に建立されている。碑文には

岩手と石垣島の交流は今年20年の節目を迎えました。
交流のきっかけとなった平成5年、岩手が大冷害に襲われた際に石垣島において種籾増殖事業の指揮を執ったのが当時、岩手県農政部長の高橋洋介さんでした。盛岡農業改良普及所の菅原那典上席普及員を石垣島に派遣し事業を成功に導きました。新品種は「かけはし」「ゆめさんさ」と名付けられ、岩手と石垣の交流の象徴となりました。
岩手・沖縄かけはし交流は、今や沖縄県の農業技術向上をはじめ石垣島マラソンや高橋さんの古里の北上マラソン、岩手県立盛岡第四高校と沖縄県立八重山高校の姉妹校提携等、幅広い民間交流に結実しています。平成23年3月11日の東日本大震災は三陸海岸に未曽有の被害をもたらしました。沖縄・石垣島の方々には物心両面にわたって多大な支援を頂きました。高橋さんは感謝の意を示しながら同年8月9日に他界しました。岩手と石垣島の交流発展に尽力した高橋洋介さんの功績をしのび、ここに顕彰碑を建立します。
平成25年1月26日 岩手・石垣 高橋洋介顕彰碑建立期成会

とある。

高橋洋介氏顕彰碑の隣には種籾緊急増殖事業を事業責任者として岩手県から石垣島に赴き常駐して成功させた菅原那典を讃えた記念碑も置かれている。元はJAライスセンターに2009年 (平成21年) に建てられたが、その後真栄里運動公園の現在地に移設され高橋洋介氏顕彰碑と一体化されている。

碑文には

平成5年、岩手県の水稲作況指数は僅か30という未曽有の大冷害に襲われました。(注: 90以下は著しい不良)このため、岩手では翌年度の種籾の確保が困難になりました。そこで、当時開発中のオリジナル品種 かけはしを石垣島で栽培し、収穫したお米を種籾として使う緊急増殖事業が計画されたのです。幸い、この事業は、石垣島の農家の皆さんをはじめ、沖縄県や石垣市などの関係する方々の暖かいご協力により、見事に成功いたしました。その間現地に常駐し、かけはしの栽培指導に当ったのが菅原邦典君でした。事業の成功の陰には、菅原夫妻の遠隔の地での並大抵でない苦労があったのです。その努力が現在もかけはし交流となって、岩手と沖縄の交流に実を結んでいます。私達は15年を経た今、両県の交流が末永く続くことを願い、さらに平成20年6月に他界した菅原君の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立し、かけはし交流の証とします。岩手・沖縄かけはし交流会 会長 高橋 洋介、石垣支部長 大濱長照

とある。


ウンヌヤーイシ (4月5日訪問)

小字 西原の海岸には先に述べた安居御嶽 (アングンオン)に伝わる平家の落武者の話に出てくるウンヌヤーイシがあると後で分かり、第二回目の石垣島訪問の4月5日に探して見た。昔真栄里村に人喰い鬼が現われ、村の子供をさらって海岸のウシヌヤー石の洞窟で、殺して食べていたという。確かに岩には洞窟があった。(洞窟があったから、この岩が昔話のウシヌヤー石とされたのかも知れない)



小字 前原 (マイバル)

真栄里集落の南方から海岸へと続く一帯は前原 (マイバル) と呼ばれ、小字名となっている。


ウリカー (? 4月5日訪問)

資料の民俗地図ではこのあたりにウリカーと呼ばれた井戸があったとされていたので来て、ウリカーとは降り井戸と思うのでそれらしき跡を周囲を歩探すも見つからず。地図上の場所には水栓板があった。井戸は消滅してこの様に変わったのかも知れない。



小字 撫原 (ナディバル)

小字 屋鋪 (ヤスキィ) と小字 西原 (イーバル) の東は撫原 (ナディバル) と呼ばれて地域で、その地称が小字名となっている。戦前迄は民家は少ない地域だったが、北側に旧石垣空港が建設され、国道390号線も整備された事で、今では石垣島では屈指の商業地域になっている。


蔵原御嶽 (クラバルオン)

国道390号線沿いにはショッピングモールがあり、有名店舗が数多く出店している。そのすぐ近くには蔵原御嶽 (クラバルオン) が置かれている。蔵原御嶽 (クラバルオン) が建立された経緯についての言い伝えがある。

平得村の蔵盛、浜元、高嶺の三家の先祖が一緒に多田浜の海で潮干狩りをしていたところ、そこに海から不思議な石が流れてきた。その石は神が宿る霊石であると思い運んできたところ、その地で重くなり動かなくなったことからそこに石を置き御嶽として拝むようになった。

この話は、石垣村のビッチンヤマ (美鎮山、美鎮御嶽) に伝わる話と全く同じ内容だ。


多田御嶽 (ターダオン)

蔵原御嶽 (クラバルオン) の東の道を海岸まで進むと多田浜に出る。

砂浜に大岩があり、そこに多田御嶽 (ターダオン) という拝所が置かれている。多田浜御嶽 (ターダハマオン) とも呼ばれている。平得の多田屋遠那理 (タダヤブナリ) を祀っている。

遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) の乱が平定され、首里王府軍が本島に凱旋する際に、長田大主の妹の真乙姥 (マイツバ) が王府軍が首里まで無事帰還できるようにと美崎山へこもって断食祈願していたが衰弱してしまい、平得の多田屋遠那理 (タダヤブナリ) が真乙姥 (マイツバ) を救い祈祷を助けた。首里王府軍は無事首里に帰還できた功績で、真乙姥に大阿母 (オオアム) の神職を与えようとしたが、真乙姥はこれを辞退し、大阿母には多田屋遠那理がなった。真乙姥には永良比金 (イランビンガニ) の神職が与えられている。大阿母 (オオアム) は聞得大君の直下の最高位のノロで、本島に三名おり、この多田屋遠那理が四人目で八重山の初代大阿母となっている。

この多田屋遠那理 (タダヤブナリ) が、首里への上国 (首里からの帰島?) の際に遭難し、安南 (現在のベトナム) に漂着、その安南から稲の種子や穀物の種子をもって上陸したとされる場所がこの多田浜で、多田御嶽のある大岩は種子を一時置き、そこに作物の神が宿ったとされている。(別に説では安南から作物栽培の指導のために同行した人を神として祀ったという)

平得村では毎年種子取祭をこの多田御嶽でユーニガイ(世願い)を行い、その年の豊作を祈願ししている。大岩の前に小さな祠があるが、これは1938年 (昭和13年) に建立されている。


小字 宮鳥 (メートゥーレー)

小字 撫原の東方に続く一帯は宮鳥 (メートゥーレー) と呼ばれ、それが小字名となっている。


ANA インターコンチネンタル 石垣リゾート (沖縄日成総業跡)

小字 宮鳥の皆半分はANA インターコンチネンタル 石垣リゾートがある。1984年 (昭和59年) に石垣全日空ホテル&リゾートとして開業し、2009年(平成21年) にANAインターコンチネンタル石垣リゾートへと名称変更が行われ、2020年 (令和2年) にはベイウィングとクラブインターコンチネンタルの2棟が増築されている。ホテルの海岸は人工の真栄里ビーチも造られ、石垣島を代表するリゾート地となっている。全日空がホテルを建設する前の土地利用については情報は見つからなかったが、この周辺でゴルフ練習場やその他のレジャー関連施設の運営を地元企業の沖縄日成総業が行っていたという。ホテル敷地を含め、この真栄里周辺に広大な土地を所有しており、石垣全日空ホテル&リゾートの建設には開発用地の提供や整備に関与していたそうだ。現在ではこの沖縄日成総業は見当たらず廃業したと思われる。

この真栄里の海岸地区では近年でも大型ホテル建設が続いている。



小字 慶田山 (キデーマ)

小字 撫原 (ナディバル) と宮鳥 (メートゥレー) の北側は慶田山 (キデーマ) と呼ばれ、小字名となっている。


忠魂碑

沖縄県八重山合同庁舎の敷地東に忠魂碑は残っている。支那事変以降の軍国主義真っ只中で第二次世界大戦に向かう1938年 (昭和13年) に建立されている。詳細は不明だが、この時代には、日清、日露戦争、支那事変で亡くなった兵士を祀り、忠君愛国の精神を高める目的で戦前各地に建立されている。


小字 東原 (アーバル)

小字 慶田山 (キデーマ) の北に隣接しているのが小字 東原 (アーバル) で、この地域が東原 (アーバル) と呼ばれていた事から小字名となっている。


旧石垣空港跡、海軍平得飛行場跡

小字 慶田山 (キデーマ) から小字 東原 (アーバル)、大浜村の田原にかけては、旧石垣空港があった。元々は戦時中の1943年 (昭和18年) に建設された海軍平得飛行場 (海軍石垣島南飛行場) で、この用地を半ば強制収用で代金は殆どが強制的に預金させられた。飛行場工事でも、住民は徴用され、小さなおにぎりで牛馬のように使われたという。翌年の1944年 (昭和19年) の十・十空襲以降、激しい空爆で壊滅的な被害を受け使用不能となり、ほとんど利用されなかった。

戦後、米軍統治下に置かれ、戦後、海軍平得飛行場の滑走路を整備して石垣空港が建設され、1956年 (昭和31年) から民間航空会社の運航が開始、1968 年 (昭和43年) には滑走路の延長と共にYS-11型機が就航、本土復帰後の1973年 (昭和48年) には第三種空港として指定された。

その後、航空需要が増大し、ジェット化が課題となったが、それに対応するための滑走路延長が困難で、1979年 (昭和54年) から暫定的に小型ジェット機 B737型機が就航していた。貨物量や旅客数の増加で将来の八重山地域の振興を考えると、中型ジェット機の就航可能な2,000mの滑走路の新空港建設が持ち上がっていた。その最中、1982年 (昭和57年) に南西航空石垣空港オーバーラン事故が発生し、危険性が顕在化したことから、中型機が離着陸できる2,000メートル級の滑走路を有する新空港の移転建設が決定され、その後紆余曲折を経て、2013年 (平成25年) に現在の石垣空港が就航している。その当時の経緯については白保村訪問記に載せている。

旧石垣空港の碑が旧石垣空港ターミナルへの進入道路沿いに設置されている。昔の進入道路を進むと道は途切れるて草が生い茂っていた。この地域は当初計画では流通系施設用地 (商業)  となっていたが、数年前にはゲート空間施設用地と名称だけ変更している。当初はショッピングセンターや会社事務所の地域と考えていたのだろうが、うまくいっていないようで、よくわからない名称に変更している。

跡地には石垣市市役所、石垣市消防本部、八重山病院などが移転してきているが、当初の跡地利用計画は上手く行っていない様だ。2017年 (平成29年) に跡地利用計画が公表され、2025年 (令和7年) 完了となっていたが、その進捗状況は公表されているものは見当たらず不透明に思える。計画書も2017年 (平成29年) に発行されたままで、修正もなく、もう少し詳しいマスタープランも作成されていない様だ。ただ道路だけは着工し、工事中。

2024年 (令和6年) にスケジュールが変更され、開発ゾーンの名称がより抽象的になっている。現在の段階でどこまで実施されたのかは不透明。議会でもあまり議題になっていない様で、公表されているものだけを見ると真剣度はかなり低い様に思える。恐らく、計画縮小と大幅な計画変更となっていくのだろう。


石垣市市役所

旧石垣空港跡地には2021年 (令和3年) に石垣市市役所庁舎がこの地に移転しているが、建設請負契約が当初契約から設計変更などを理由に、最終的に約9億円増額され、総額が約50億円となり、市議会で疑義が持たれ、百条委員会 が設置され、2022年の最終報告では違法性は認められずとなったが、工期は一年以上の遅れが生じている。

市役所敷地内に蘇澳鎮石垣市婦妹都市提携10周年記念 友好親善之碑 (写真左) が2005年に建てられている。昨日、新川の唐人墓を訪れた際にも同様の碑が置かれていたのを思い出した。

その隣には上板町・石垣市ゆかりのまち提携20周年の記念モニュメント 「繋ぐ」 (写真右) が置かれている。彫刻家松永勉氏の制作で台座の赤影石は、石垣市の特産品である黒糖、支柱はさとうきびをイメージし、支柱の上部のオフジーは人が繋がって無限の形の輪をつくり、過去・現在・未来へと続くとを意図している。上部のオブジェは、見る角度により輪の形や∞(無限)の形に見える様になっている。石垣市と徳島県上板町の縁は、1893年 (明治26年) に上板町出身の中川虎之助が石垣島の開墾、製糖産業を導入をした事から始まっている。当時外国砂糖の輸入によって、内地の糖業が非常な圧迫を受けていた時代に八重山糖業株式会社を創立し経営していた事は国の糖業史に大きな意義があった。この様な背景があり、2000年 (平成12年) にゆかりのまち提携の調印が行われた。


石垣市消防本部

石垣市市役所の東隣には石垣市消防本部が置かれている。以前は美崎町にあったが、沿岸部に近いことや庁舎位置が津波浸水地域であること、建物の老朽化もあり、2014年 (平成26年) に移転してきている。ここには石垣市の消防事務を統括・管理する本部と、災害現場で消火・救助・救急活動を行う消防署機能が置かれている。石垣市の防災は東地区と西地区に分けて、伊原間出張所、川平出張所、新川の西出張と共に運用している。


八重山病院

石垣市市役所の東隣は沖縄県立八重山病院が建てられている。八重山医療圏の地域中核病院であり、沖縄県災害拠点病院でもある。1949年 (昭和24年) に八重山民政府立慈善病院として大川の現在の八重山郵便局にある場所で創設された。その後、登野城に移転、1960年 (昭和35年) に真栄里へ新築移転で琉球政府立八重山病院となり、1972年 (昭和47年) の沖縄返還で沖縄県立八重山病院となった。1980年 (昭和55年) には大川に移転したが、2013年 (平成25年) の台風で建物の一部が損壊し、新病院の建設計画が出され、旧石垣空港跡地への移転が決定。新病院は2016年 (平成28年) に着工したが、不発弾が相次いで発見され当初予定から遅れ、2018年 (平成30年) に開院している。近年では慢性的な医師看護師不足が深刻で、専門医の不在や離職による診療体制の縮小 (脳神経外科は休診中、内科の初診外来が紹介状必須、小児科、泌尿器科の減員・退職が慢性化、新規人工透析患者の受け入れ困難など)が起きている。人口10万人あたりの医師数は県平均を大幅に下回り、離島特有の過酷な勤務環境が人材確保の難しさに繋がっている。 また、地域医療を支える現場への負担が大きく、病院長や幹部が人材確保の対応不足を理由に辞職が相次ぐなど深刻さは更に加速している。病院と県は、医師の報酬上積みや奨学金返済免除などの対策を講じているが、根本的な解消には至っていない。



小字 田原 (タバル)

小字 東原 (アーバル) の北側に隣接しているのが小字 田原 (タバル) で、大浜村の小字 田原 (タバル) を含めて、この地域は田原 (タバル) と呼ばれていた。


掩体壕 (海軍平得飛行場の格納庫跡)

旧海軍平得飛行場には戦闘機を空襲から守り格納する掩体壕が幾つか設けられていた。石垣空港線沿いに、コンクリート製の屋根付きの有蓋掩体壕の一つが残っている。



小字 上原 (ウイバル)

小字 田原 (タバル) の北側に隣接しているのが小字 上原 (ウイバル) で真栄里村で北 (上) にあった地域で、上原 (ウイバル) と呼ばれていた。


八重山家畜市場、オウシマダニ撲滅之碑、忠魂碑

小字 上原 (ウイバル) の中程に、八重山家畜市場がある。JAおきなわ 八重山地区畜産振興センターが運営しており、ここでセリが行われて、年間約8千頭の子牛を出荷している。(一頭約60万円)

その入口にオウシマダニ撲滅之碑が置かれている。八重山家畜市場入口の左手にオウシマダニ撲滅之碑が置かれている。沖縄県では復帰後、マラリア、ミバエ、最後がオウシマダニの三大撲滅事業が進められていた。マラリアは人の生命、ミバエは果実、オウシマダニは家畜への害が深刻な問題だった。オウシマダニは牛一匹で3程の牛の血を吸い血液のたん白質を摂取し成長する。その際に法定伝染病のバベシア原虫を病原体とするピロプラズマ病を伝染し赤血球を破壊する事で、子牛は貧血や黄疸症状、栄養失調となり、2割が死亡、2割は発育不良で商品価値がなくなり、まともに育つのは6割程度だった。また、県外への牛の移動制限がとられ、地域畜産振興の大きな阻害要因となっていた。1971年 (昭和46年) から国庫補助による沖縄牧野ダニ対策として、草地のダニには薬剤散布、牛体に付着したダニには牧場などに薬浴施設を設け、根気よく駆除が進められた。28年間で約14億円を投入し、延べ306万頭に及ぶ薬浴プアオン法によつてオウシマダニとピロプラズマ病を完全に撲滅を達成し、牛の移動制限が解除されている。この撲滅を記念して、撲滅達成の翌年の2000年 (平成12年) に碑が建てられている。

八重山家畜市場の敷地内にもう一つ石碑があった。忠魂碑 (写真右下) と刻まれている。この忠魂碑の詳細は見つからなかったが、八重山家畜市場の周辺には、沖縄戦で軍事施設が多くあった事で、兵士の戦意高揚の為に作られたのかもしれない。

字 真栄里でも畜産は盛んだったが、他地域と比較するとそれ程ではなかった。戦前までは隣接する宮良や白保は広大な牧場があり、その地域からの牛が集約されて、ここでセリが行われていた。


字真栄里は北に細長く伸びており、北の地域にあるスポットも見てみたいのだが、そこは石垣島で最も高い山の於茂登岳を登るときに見ることにしている。この後は、真栄里の北に隣接する平得村の史跡巡りを続ける。平得村訪問記は別途。


字真栄里の北部については4月2日に訪れている。


小字 真栄里山 (マイザトゥヤマ)

字 真栄里の北端部で南北に長細い地域で、於茂登岳の南麓を真栄里山 (マイザトゥヤマ) と呼んでいた事が小字名となっている。


於茂登集落、於茂登開拓之碑 (4月2日訪問)

第二回目の石垣島訪問で桴海から登野城への移動の途中、於茂登トンネルを抜け、底原ダムを過ぎた県道87号線沿いに開拓之碑と刻まれた石碑が立っている。この石碑の南側に於茂登集落があり、戦後の開拓集落になる。1957年(昭和32年) に米軍基地で土地を奪われた本島北谷村、玉城村、与那国島出身の先発団20人が政府計画移民として、この地に入植し、開拓が開始されている。その後家族を呼び寄せ、総勢115人で集落を生成し、小字 真栄里山にあったので真栄里山集落と呼んでいた。この石碑は1957年 (昭和32年) に開拓25周年記念事業として建立されたもの。

入植当初は、於茂登岳からパイプを敷設して農地に水を送り、芋、水稲、陸稲、落花生、茶、砂糖きび、パインなどを生産していた。 1962年 (昭和37年) に集落民の投票で於茂登集落と変更した。1964年 (昭和39年) には140人 (25戸) 程に人口は増えたが、その後は少子化の影響もあり、戸数は増えたが人口は減少し、2023年末では65人 (35戸) になっている。2023年 (令和5年) に陸上自衛隊 石垣駐屯地が開設されている。この開設には賛成はと反対派で議論がなされていたが、賛成派は自衛隊家族が於茂登集落に居住し、その子どもが廃校の危機にある大本小学校に通う事を期待していた。石垣市の字別人口データは2023年までしか公開されていないので自衛隊石垣駐屯地の設置で人口がどうなったのかは不明。ただ、基地していた大本小学校の児童数は改善されず、2026年4月で僅か3人となっている



小字 川良原 (カーラバル)

小字 シイ原と真栄里山に挟まれた細長い地域で、この一帯は川良原 (カーラバル)と呼ばれていた事に小字名が由来する。


海軍平喜名 (ヘーギナ) 飛行場跡  (4月2日訪問)

川良原 (カーラバル) 内を流れる宮良川の南、平喜名 (ヘーギナ) と呼ばれる地域に、第二次世界大戦以前の1933年 (昭和8年) に計画が始まり、戦争真っ只中の1943年 (昭和18年) に地元の住民を徴収し、朝鮮人軍夫100人を使って日本海軍小型飛行機用滑走路として平喜名 (ヘーギナ) 飛行場 (第一石垣飛行場) が造られた。500m×550mのほぼ正方形の飛行場区域に対角線を利用した滑走路で離着陸するという簡易な小型機用の飛行場だった。終戦後、ヘーギナ飛行場跡地は農地として利用され、本土復帰後は国有地となり、1970年に農林省熱帯農業研究センターが置かれ、1993年に農林水産省国際農林水産業研究センターとなり現在に至っている。



参考資料

  • 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
  • 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
  • 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
  • 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
  • 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
  • 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
  • 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
  • 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
  • 石垣市史巡検 Vol.8 村むら探訪 平得村・真栄里村の移り変わり (2004 石垣市総務部)
  • 真栄里の民話 ( 石垣市史研究資料 9 ) (2019 石垣市教育委員会)

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