Okinawa 沖縄 #2 Day 296 (17/02/26) 石垣市 旧石垣間切 (2) Arakawa Village 新川村
石垣間切 新川村 (アラカー、あらかわ)
小字 喜田盛 (キダムリィ)
- 石垣氏庭園
- 新川会所跡
- 新川公民館
- 宮良長包生誕地の碑
小字 明用登 (ミユトゥ)
- 本宮良ヌ主ヌ御嶽 (ムトゥメーラヌシュヌオン)、八重山キリシタン事件殉教の地
- 真乙姥御嶽 (マイツバーオン)
- 真乙姥井戸(マイツバカー)
小字 竹西 (タキニシィ)
- マージィ屋ヌ井戸
- 間久田屋井戸 (マクタヤーヌカー)
- 大嵩屋ヌ御嶽 (フータキヤヌオン)
- 新川番所跡
- 後ヌ御嶽 (シーヌオン)
- 鍛冶屋ヌ井戸 (カジィヤヌカー)
- 東 (アリィ) チンマーセー
- 西 (イーリィ) チンマーセー
- ビロースク遺跡
小字 作原 (サクバル)
- 長崎御嶽 (ナースクオン)
- 新生井戸 (アラマリナー)
- 井戸跡
- 具志堅用高記念館
- 唐屋ヌ御嶽 (トーヤヌオン)
- 新川公園
小字 船倉 (フナグラ)
- 舟蔵公園
- 真喜良井戸
小字 大道 (フードー)
- 尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑
- 慶来慶田城用緒頌徳碑
小字 奈良佐 (ナーラサ)
- 石垣永将頌徳碑
- 嘉善姓門中墓
小字 富崎 (フサギィ)
- 冨崎観音堂
- 唐人墓、六角亭
- 平和祈念碑
- 姉妹締結五周年記念碑
- 平和祈願之碑
- 米軍飛行士慰霊碑
- 喜舎場永珣顕彰碑
- 観音崎、琉球観音崎灯台
小字 皆野宿 (ミナヌスク)
- 火番盛
小字 野呂水原 (ヌルミジィバル)
- シィサシィスク盛
小字 多原 (タバル)
- ハンナーカーラ
小字 真喜良 (マキラ)
- 真喜良井戸 (マキラカー)
- 牛馬之碑
- 名立井戸 (ナータジーカー)
石垣間切 新川村 (アラカー、あらかわ)
新川村 (字 新川 アラカー、あらかわ)は四箇村 (四カ字 しいか ) の一つで、北部、西部、南部は海に面し、北東部は前勢岳(マイシ一 97.4m) で石垣村 (字 石垣) に隣接している。
1757年に石垣村から分離独立して新川村が誕生している。それ以前から、この地は新河 (アラカー) と呼ばれており、その地にあった長崎御嶽西方の新生井戸 (アラマリナー) に由来し、新川村と名付けられたと言われている。
古くは、集落は東からウラバルパカ、ターブナーパカ、キダムリィパカ、タキニシィミユトゥパカ、タキニシィウフパカ、アラカーフウパカ、ンナティーマスイパカの七つのハカに区画されていた。新川村が独立する際に、ウラバルハカ以西は新川村として分離することとになったが、そのハカ居住者の反対があって紆余曲折の末、結局、ウラバルパカ、ターブナーパカ、キダムリィパカを南と北に折半し、北半分を従来通り石垣村として残し、南半分を新川村に分離することになった経緯がある。
新川の現在の人口は登野城に次いで2番目に多く2023年末では8,604人となっている。石垣市の中では戦後の人口増加率は高く、本土復帰前後の円高不況やオイ ルショックにより不況となり、本土への出稼ぎや移住等で、人口が大きく減少したが、1980年頃に小字 真喜良に県営・市営の公営団地が建設され人口増加に転じている。その後も、同じ地域に公営団地を建設し、人口は維持されている。石垣市の住宅は沖縄本島に比べ割高で、物価も本島よりも高く、本当に比べ賃金は低く地元の一般住民の生活は楽ではなさそうだ。
この新川でも1771年の明和の大津波では住民の約20%が亡くなっている。他の石垣四箇村や東海岸の村に比べて低い率だが、それでもやはり大きな被害だった。これ以降数年の人口データは見つからなかったが、田畑が流失し、島民の生産基盤が破壊され再生には時間がかかっている。明和の大津波の後、翌年の1772年には疫病が発生し飢饉となり、1973年には風干害による凶作が起こり大飢饉となる。1976年にも大飢饉と疫病が発生、1802年にも疫病が発生1834年から38年までにも疫病、麻疹が流行して石垣島で2500人程が死亡したという。1852年にも麻疹で約1,850人が死亡している。生活は困窮し、堕胎や間引きも横行していたといわれている。明和の大津波前の石垣島の人口は17,349人 (八重山全体では28,896人) で大津波で8,910人 (八重山全体では19,583人) だったので1980年前半までは人口は減少が続いている。
石垣島でのもう一つの大きな悲劇が沖縄戦での戦争マラリアで、旧日本軍による命令で、マラリア有病地域のウガドーに強制疎開で、湿気の高い地域で避難後、数日にしてマラリアが発生し、またたく間に広まっている。新川住民の36.2%が罹患している。マラリアの特効薬であるキニーネは旧日本軍上級兵士にのみ支給されず、疎開住民には行け渡らず、食糧不足と相まって罹患者の26.8%の373人 (新川人口の9.7%) が亡くなっている。元々、新川住民はマラリア無病地域に住んでいたことや、石垣島では米軍は上陸せず地上戦はなかった事を考えると当時の住民はさぞかし無念だったと思える。
- 御嶽 (琉球国由来記): 長崎御嶽
- 主要御嶽: 真乙姥御嶽
- その他御嶽: 本宮良ヌ主ヌ御嶽、大嵩屋ヌ御嶽、後ヌ御嶽、唐屋ヌ御嶽
- 寺院: 観音堂
- 井戸: 真乙姥井戸、マージィ屋ヌ井戸、鍛冶屋ヌ井戸、新生井戸、真喜良井戸、名立井戸、ブードーカー
小字 喜田盛 (キダムリィ)
字 新川の東の端は小字 喜田盛 (キダムリィ) で字 石垣に接している。かつての四箇村のハカの一つのキドゥムリィハカの南半分の一部に相当しており、ハカ名がそのまま小字名になっている。「キダ」は黒木 (ヤエヤマコクタン) や槇 (キャーンギ)などの事で、「ムリィ」は岡の意味。
石垣氏庭園
字 石垣から西に隣接する字 新川に入った所に1983年に国の名勝に指定された石垣氏庭園がある。非公開なので、庭園を見ることはできなかったので、外観と隙間から少しだけ見える所を撮影した。肝心の庭園は外からは見れないので、インターネットでアップされている写真も含めて載せておく。
この庭園は石垣家の祖先の大浜親雲上長演が1800年頃に八重山の最高の役職の大浜間切頭職だった当時に首里の庭園師城間親雲上の構図設計監督により日本石山様式で創建したもの。 先日訪れた宮良殿内も城間親雲上の設計で、この二つは八重山の二大名園とされ、枯山水の日本庭園の様式を取り入れつつ、地元の琉球石灰岩を使用して築山、石段、石橋、枯れ滝や岩島を配し、庭園の背後にはフクギ、築山にはソテツを植え込んで八重山独自の様式になっている。
新川会所跡
石垣氏庭園の道を西に少し進んだ場所には琉球国時代に新川会所が置かれていた。会所は琉球国時代、行政・租税管理を行う機関で主要な村に置かれていた。現在は住宅地でその痕跡はない。
新川公民館
石垣氏庭園の北近く、横4号線沿いには新川公民館が置かれている。入口に「ショウニンヨイ合同祝賀祭」 と立て看板が置かれている。旧暦の正月の行事で、今日は2月17日で旧暦ではちょうど1月1日にあたる。沖縄本島ではトゥシビーと呼ばれている行事で八重山ではショウニンヨイという。旧暦正月 (1月2日 ~ 13日) に沖縄本島ではトゥシビー、八重山ではショウニンヨイという。その年の干支の生まれの人の厄落し (沖縄では12年ごとに巡ってくる生まれた干支の年が厄年とされている) を行い、安全、長寿や健康を祈願をしている。この公民館では合同で85歳、97歳、108歳の人を祝っている。
宮良長包生誕地の碑
沖縄民謡の代表曲の安里屋ユンタやえんどうの花を作曲した宮良長包は県道79号線の新川東交差点近くの場所に誕生している。もう当時の生家は無いのだが、宮良長包生誕地の碑が2003年 (平成15年) に建てられている。
小字 明用登 (ミユトゥ)
小字 喜田盛 (キダムリィ) の西に隣接しているのが小字 明用登 (ミユトゥ) で、小字が区画される以前のハカのタキニシィミユトゥハカの東地域に相当し、小字名はそのハカ名に由来する。語義は未詳。
本宮良ヌ主ヌ御嶽 (ムトゥメーラヌシュヌオン) 、八重山キリシタン事件殉教の地
県道79号線の新川東交差点前のすぐ西側に小さな広場があり、そこに祠が置かれている。この場所は埋立 (新栄町) 前には海岸に面していた所だった。本宮良ヌ主ヌ御嶽 (ムトゥメーラヌシュヌオン) で、オンナー (小さな御嶽という意味) とも呼ばれている。この御嶽には1624年のキリシタン事件で火あぶりの極刑にされた元宮良頭の石垣永将が祀られている。祠正面には十字架を形どった四つ巴が付けられ、祠内には石垣永将と弟の永定のものと伝わる霊石二つが安置されている。
石垣島でのキリシタン事件とは
1624年にスペイン船が石垣島富崎に漂着し、船に乗っていたドミニコ会神父のファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ初め遭難者たちを石垣永将が牛数十頭を与え、自宅に数日間泊めて保護していた。ルエダ神父は石垣島で保護されている間にキリシタン信仰を広めたとされている。この事で琉球国府によるキリシタン弾圧が行われ、その首謀者とされた石垣永将はの渡名喜島に流罪となり、その後、家財没収の上焚刑に処されたという。1629年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟の宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行され、永弘は渡名喜島へ流刑となり、1635年に焚刑に処されている。更に、1638年の宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとしてこの地で焚刑に処せされている。日本本国でも1637年から1638年に島原の乱が起こり、これ以降、キリシタンの取り締まりが一層強化され、それに伴い薩摩藩・徳川幕府による琉藩支配が一段と厳しくなっていく。
真乙姥御嶽 (マイツバーオン)
新川公民館の前の横4号線を西に進み、小字 明用登 (ミユトゥ)に入った所、かつてのキドムリィパカに真乙姥御嶽 (マイツバーオン) がある。この御嶽 (オン) では遠弥計赤蜂 (オヤケアカハチ) と戦った長田大主の妹の真乙姥 (マイツバ) を祀っている。1500年 (弘治13年) のオヤケアカハチの乱で首里から遠征してきた首里王府軍二隊のうち一隊はこの新河 (新川) から攻め入り、真乙姥は首里王府軍側の兄の長田大主に従っていた。オヤケアカハチの乱鎮定後、王府軍が首里まで無事帰還できるよう、美崎山へこもって祈願し成就したことから永良比金 (イランビンガニ) の神職を授けられている。真乙姥は人々の尊敬を集め、没後はこの地に墓が作られ、後に真乙姥御嶽となった。戦前まではこの真乙姥御嶽の境内の隅に真乙姥の妹で兄の長田大主により遠弥計赤蜂に政略結婚させられた古乙姥 (クイツバ) の遺骨が衆人に踏みつけられる様に埋められており、チィダミ墓 (かたつむり墓) と呼ばれていた。古乙姥は遠弥計赤蜂への輿入れの際には兄の長田大主から遠弥計赤蜂の殺害の指示を受けていたが、婚姻後夫婦仲は良く長田大主の計略は失敗したという言い伝えもある。これは長田大主にとっては裏切り行為で、古乙姥は死後、この様に粗略に扱われていた。戦後、遠弥計赤蜂夫婦が生活していた大浜村住民により、古乙姥の墓は大浜の塩崎公園に移され、丁重に扱われている。
真乙姥御嶽は他の御嶽と同じ様に鳥居を入った境内には拝殿が置かれ、その奥に石垣いのイビを祀るイビ殿 (本殿 写真 左下) が鎮座している。また、境内にはオオバアコウの大木(樹齢200 ~ 300年と推定されるオオバアコウの大木 (写真 右下) が残っている
この真乙姥御嶽では、毎年旧暦の6月に四箇字 (石垣、登野城、大川、新川) の豊年祭 (ムラプール) が執り行われている。
真乙姥井戸(マイツバカー)
真乙姥御嶽の東側の道路に真乙姥井戸 (マイツバカー) がある。都市計画の基幹道路整備の際にここに道が造られたが、真乙姥御嶽に深く関わる井戸だった事で、残すことになり、この様に道路の真ん中になっている。この井戸は真乙姥御嶽を信仰していた宇根通事 (ウーニトゥージ) が御嶽の角に神井戸として掘り、神水を汲んでいた。この事から宇根井戸 (ウーニカー) とも呼ばれている。都市計画の基幹道路整備により、道路中央に取り残されるようになりましたが、由緒ある井戸で、今も神事にはこの井戸水を使用していることから保存されました。
小字 竹西 (タキニシィ)
小字 明用登の西方に続く一帯が称。小字 竹西 (タキニシィ) で、小字が区画される以前のハカのタキニシィミユトゥハカとタキニシィフーパカ等の一部に相当し、小字名の由来となっている。語義は未詳だが、「タキ」は竹または高い所の意味、「ニシィ」は北との意味とされている。
マージィ屋ヌ井戸
真乙姥井戸(マイツバカー)から真乙姥御嶽 (マイツバーオン) の北側の道を西に進み、小字 竹西 (タキニシィ) に入った所にマージィ屋ヌ井戸がある。今でも使用されているようだ。井戸の前には香炉が置かれ、この井戸の部分は屋敷から独立して石垣で囲まれ、一般の人も入って御願ができるようになっている。個人宅の井戸なのだが、村人に開放され、有難い井戸だったのではないかと思う。それで拝井となっているのだろう。
間久田屋井戸 (マクタヤーヌカー)
マージィ屋ヌ井戸の西側にも井戸跡がある。真久田家宅地内にあるので、この様に呼ばれているという。
大嵩屋ヌ御嶽 (フータキヤヌオン)
マージィ屋ヌ井戸の5ブロック南側の木々の中に大嵩屋ヌ御嶽 (フータキヤヌオン) が置かれている。名の如く大嵩家一族の氏御嶽 (ウジオン) で、大木の根元に香炉が置かれ、大嵩家で一族の繁栄と健康、豊作祈願などが行なわれているそうだ。大嵩家に伝わっている話では二百数十年前に大嵩家の兄弟が唐に旅をした際に、この地で妹が兄弟の旅の安全を祈願し、無事に帰島することができたので、それ以降、大嵩家一族の氏御嶽として拝む様になったという。
新川番所跡
大嵩屋ヌ御嶽の少し東の小字 明用登との境界線近くの場所には琉球国時代の行政・警察機能を有した新川番所が置かれていた。
後ヌ御嶽 (シーヌオン)
大嵩屋ヌ御嶽 (フータキヤヌオン) の北側の住宅地の裏の福木の林の中に大嵩家一族の御嶽 (オン) がある。後ヌ御嶽 (シーヌオン) と呼ばれている。大嵩屋ヌ御嶽の北後方にあるのでこの様に呼ばれたのだろう。大嵩家の兄弟が唐旅をしたときに、この場所でも
妹がこの地でも無事を祈願したといい、その妹をプナリィンガン (妹神) として祀り祈願所になったと伝わっている。ここの住民の方 と話すと、この方は大嵩家の人ではないので拝むことはないので、何の拝所なのかは知らないのだが、時々人が来て拝んでいると言っていた。
鍛冶屋ヌ井戸 (カジィヤヌカー)
後ヌ御嶽 (シーヌオン) の北西、横4号線南の住宅街の小道に鍛冶屋ヌ井戸 (カジィヤヌカー)が残されている。昔、近くに鍛冶屋があり、錬鉄の用水として使用していたことからこの様に呼ばれている。石垣市のまちなか親水広場整備事業で再現整備された五つの井戸のなかの一つです。
東 (アリィ) チンマーセー
小字 竹西の西部、県道79号線沿いに二つチンマーセーがあり、東側のものは東 (アリィ) チンマーセーという。
沖縄本島でもチンマーサーは良く見かける。石垣島では同じ様なものが多くはY字路にあり、Y字路を石垣方言ではチンマーセーと呼んでいる。チィンマーセーの語源については、「積み回す」という説と「鋭く尖った場所をいう」という説があり、石垣島では後者の説に当てはまる。沖縄本島のものは前者の説が当てはまり、土や石を積みめぐらせて円形に盛り上げ赤木やガジマルを植えてあり、一里塚のように里程標としたもので、旅人の休憩所でもあったと考えられている。また、石垣島のチンマーセーには、村の外からの厄などを払う魔除けの働きがあったのではないかとの見解もある。
西 (イーリィ) チンマーセー
県道79号線を西に進むともう一つ、西 (イーリィ) チンマーセーがある。
ビロースク遺跡
小字 竹西 (タキニシィ) の北部、石垣中学校の北には琉球石灰岩の丘陵があり、そこで、13 ~ 15世紀にかけてのビロースク遺跡が発見されている。ビロースク遺跡は石灰岩丘陵を中心に広がり、その周囲では貝塚も確認されている。遺跡では円形や方形など時期によって形が違う住居跡、炉跡、石垣遺構、埋葬人骨、ビロースク式土器 (口縁部が「く」の字に曲がっていうのが特徴)、石器、貝製品、陶磁器や食糧残滓としての動植物遺存体など多数が見つかっており、炭化米・炭化麦も出土し、この頃には稲作が行なわれていたことが分かる。現在では住宅が建ち並び、貝塚部はほとんどなくなり、丘陵部だけが残っている。
小字 作原 (サクバル)
小字 竹西 (タキニシィ) に南と西に隣接しているのが小字 作原 (サクバル) で、小字が区画される以前のハカのサクバルパカとンナティーマスイパカを含んでいる事から小字名が付けられている。サクバルパカとンナティーマスイパカには明治時代中期まではそれぞれ僅か3戸、7戸しか民家はなく寂しい地域だったが、それ以降大正年代にかけて人口が増えていった。
長崎御嶽 (ナースクオン)
大嵩屋ヌ御嶽 (フータキヤヌオン) から道を北西に進み、小字 作原 (サクバル) の中心部に八重山御嶽七山 (美崎御嶽、宮鳥御嶽、長崎御嶽、天川御嶽、糸数御嶽、名蔵御嶽、崎枝御嶽) の一つの長崎御嶽 (ナースクオン) がある。石垣島四ヶ字の豊年祭 (オンプール) で新川集落の会場となり、豊作感謝が祈願されている。昔、長崎家 (ナーシィキィヤー) の祖先が漁猟の行き帰りで、ここにあった森で火の明滅を見つけ、訪ねてみると夫婦石があった。神が降臨する寄りまし (依り代) の霊石と考え、それ以来、御願する様になったという。その後、凶作の年でも長崎家では豊作に恵まれていた事で、新川村の人々はここの拝所は御利益があるということです、社を建て信仰する様になったと伝わっている。今日は旧暦正月1日で女性の神司 (チィカサ) がイビの前で祈願を行なっていた。祈願が終わった後に、暫く話をして、御殿 (オン) について教えてもらう。現在では長崎家は絶えてしまい、神司 (チィカサ) が不在だった。この方は沖縄市で昔h代々ノロを務めていた家に生まれ、霊感があったそうで、石垣島に住み始め、神より長崎御嶽の神司 (チィカサ) をする様にと啓示があり、昨年から神司として仕えているそうだ。八重山の神事などを学び、週に何回かはこの御嶽に来て掃除を行い御願を行なっている。先ずは三つの霊石が置かれているイビ殿に行き、中央の氏神のイビ、両脇の山の神 (於茂登岳の大本照らすの神 [天照大神 ウムトゥティラスヌカン])、水元の神/海之神竜宮を拝み、その後、拝殿から幾つかの拝所へ遥拝を行うという。八重山の主要な御嶽 (オン) はほぼ同じ様な御願の方式という。毎月15日や週に何度かはここに来るので、聞きたい事などがあればいつでも来てくださいと言ってくれた。
この三つのイビについては、故郷の小豆島と類似している。小豆島の各集落には氏神 (八幡神社 誉田別尊 [応神天皇])、山の神 (大山津見神)、海の神 (玉姫神社など) が祀られている。双方とも昔からの信仰が続き、本土では古来信仰が日本神話の中に取り込まれて体系化され、国家神道として全国規模で広まった。一方琉球国や八重山では、昔のままで、体系化されず、その地域の限られた氏子 (ヤマニンズ) により拝まれている。
新生井戸 (アラマリナー)
長崎御嶽の少し西側には新生井戸 (アラマリナー) と呼ばれる井戸がある。むkっし、この地には湧き水があり、そこを村人たちが降り井戸 (ウリガー) として掘り、新しく生まれた井戸として新生井戸 (アラマリナー) と名付けた。この井戸水は神の手水として長崎御嶽に捧げられていたという。1757年 (宝暦7年) に石垣村から新川村が分村した際にはこの井戸の名から新川村と命名されたとも言われている。井戸は綺麗に保存されており、井戸への降り口は直径は約4mで3段に石で囲まれ、そこから40 ~50度の勾配の8段の階段で井戸に降りる構造になっている。この井戸が掘られた際の言い伝えが残っている。
昔、長崎御嶽へ神が降臨した後に、西方に突然美しい霊泉の涌出があった。人々はまさに神のみわざだと喜びこれを掘り下げ井戸を築き神に手向ける浄水を汲む井とし新生井戸 (アラマリナー) と称した。
井戸跡
新生井戸 (アラマリナー) から南の国道390号線 (市役所通り) へ出る途中にも井戸があった。資料には出ておらず、個人宅の井戸と思われれるが、わざわざ保管し残しているのには何か背景があるのだろう。
具志堅用高記念館
国道390号線に出ると、道沿いに具志堅用高記念館が建っている。元WBA世界ライトフライ級チャンピオンの具志堅用高はこの石垣島出身で、地元では英雄だ。彼の父親がここの記念館を建てて、トロフィーやチャンピオンベルトなどを展示して具志堅用高の足跡を紹介している。
唐屋ヌ御嶽 (トーヤヌオン)
小字 作原 (サクバル)の北側の県道79号線に移動する。新川公園の手前、県道沿いに唐屋ヌ御嶽 (トーヤヌオン) がある。新川の唐真家 (トーヤー) 一族の祖先を祀る氏御嶽 (ウジオン) になる。小さな祠が置かれ、その中に唐真家報祖之碑が置かれている。
昔、唐により流刑処分を受けた二人の兄弟が石垣島に漂着し、住民に助けられ、新川村に住み着いた。棒術の名人で村人に棒術を伝授し、これが後の新川伝統芸能のパイヌシマカンター棒になったと言われている。
新川 (あらかわ) 公園
唐屋ヌ御嶽の西には新川公園が整備されている。1948 ~ 1949年 (昭和23 ~ 24年) 頃に新川川 (アラカーガーラ) の埋め立てて造成された公園で、野球場、野外ステージ、遊具場などがある。公園に西隅には立派な亀甲墓が残っている。
小字 船倉 (フナグラ)
新川川から観音堂線を境界線として西の海岸線に沿った長細い地域が小字 船倉 (フナグラ)で、それ以前から船倉 (フナグラ) と呼ばれていたので、それが小字名になっている。明治末期頃、新川川の荒引橋 (一の橋)の西方の舟蔵海岸一帯には、八重山に新天地を求めて沖縄本島の屋慶名などから鰹漁業者の寄留民が海岸に仮小屋を建てて移り住み、次第に本部やヤンバルからの寄留民が増えて小集落の屋慶名 (ヤキナ) 集落ができていた。大正末期にはここでの寄留民は109人程となり、石垣村では村有地を団地として貸与し、産業の発達を図ると共に救済を行ったという。
船倉公園
新川川を渡り海岸沿いを北西に進むと船倉公園 (旧児童公園) が整備されている。この辺りには舟蔵貝塚が発見され、土器、石器、石斧や貝斧が出土している。古い時代から、500年ほど前まで、何らかの形で人びとが生活していたことが分かっている。
宮良長包顕彰碑
船倉公園には、えんどうの花など数多くの名曲を作曲し沖縄を代表する音楽家の宮良長包の生誕百周年を記念して、1983年 (昭和58年) に八重山青年会議所が中心となり、野外ステージとともに顕彰碑が建てられている。今朝には、この宮良長包の生家跡を見ている。碑文には宮良長包の生い立ちと功績が書かれている。
宮良長包は1883年 (明治16年) に、ここ新川で生まれ、師範学校卒業後、教鞭をとりながら郷土色豊かな作曲活動を行い、沖縄の教育音楽の基礎づくりと発展のために生涯を捧げている。多くの優れた人材を育成するとともに当時郷土文化に対する蔑視と差別的風潮の中にあっていち早く伝統的郷土音楽の優秀性を確認してその神髄を極め、郷土の情緒と旋律を基調とした格調高い個性豊かな宮良音楽を生みだした彼の創作した幾多の名曲は広く大衆の中に普及浸透し、郷土への限りない愛着を人びとの魂に深く刻み込んだ。暖かい愛情と感性豊かな教育者、沖縄の教育音楽の先覚的指導者、沖縄の心を発掘昇華した愛郷の芸術家
小字 大道 (フードー)
小字 年若 (ソーバカ) と船倉 (フナグラ) の西側は大道 (フードー) と呼ばれ、それが小字名となっている。「フー」は大きい、「ドー」は低地、窪地の意味。
舟蔵公園から海岸の防波堤の遊歩道を北に進んでいく。
尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑
遊歩道を進み、細い川を渡った所、林の中に2002年 (平成14年) に尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑が死没者名80名を弔い建てられている。碑文には
太平洋戦争末期の1944年7月、日本軍は台湾航路の制海空権が米英車に掌握されていたにもかかわらず、石垣町民に台湾疎開を命じた。1945年6月30日、最後の疎開船の第一千早丸と第五千早丸は老人婦女子180名余を乗せて午後9時過ぎ石垣港を出港し、西表船浮港を経由して台湾へ向かう。7月3日午後2時頃、尖閣列島近海を航行中に米軍機に発見されて機銃掃射を浴び、船上は阿鼻叫喚のるつぼと化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た。第五千早丸は炎上沈没、第一千早丸は機関故障で航行不能となったが乗組員の必死の修理で魚釣島に漂着することができ、九死に一生を得た。約1か月近くの集団生活で食糧も底をつき、餓死者も出るなど極限状態となった。頼みの千早丸も流失して連絡手段を失った人々は小舟をつくり、決死隊を編成し8月12日午後5時過ぎ石垣島へ向けて出発し、同14日午後7時頃、川平の底地湾に到着した。この救助要請によって生存者が救助され、同19日石垣港へ到着した。
魚釣島は無人島で遠隔地であることから、現地での慰霊を行うのは困難な為、この地に慰霊牌を建立し、御霊を慰め、併せてこの悲惨な戦時遭難事件を後世へ伝え、人類の恒久平和を祈念する。
とある。
慶来慶田城用緒頌徳碑
尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑の奥の林の中にも石碑がある。頌徳碑と刻まれている。石碑裏側にまわりると、碑文があり、錦芳姓大宗慶来慶田城用緒頌徳碑とある。
慶来慶田城用緒 (ケライケダグスクヨウチョ) は15世紀後半の西表島祖納を統治した豪族で、遠弥計赤蜂の乱では義兄弟の長田大主と共に琉球国王府軍側で参戦し、平定後、琉球王府より西表首里大屋子の官職を与えられた。西表島に稲作や伝統行事を広めた人物として知られ、八重山全体の発展に寄与した島の恩人として崇敬されている。子孫は錦芳氏慶田城家を名乗り、その多くは石垣島に移住し、特にこの新川周辺に多く居住しており、この地に一門の繁栄と先祖の徳を称えるために建立されている。
遠弥計赤蜂の乱の経緯については大浜村訪問記に簡単に記している。
小字 奈良佐 (ナーラサ)
小字 大道の西方一帯は奈良佐(ナーラサ) と呼ばれており、それが小字名になっている。
海岸の遊歩道からは竹富島が見えている。
石垣永将頌徳碑
海岸線の遊歩道から観音堂線に出て石垣永将頌徳碑を見学する。先に訪れた本宮良ヌ主ヌ御嶽に祀られている石垣永将の頌徳碑になる。嘉善姓第五世石垣永将は新川村の生まれで、役人の最高官である親雲上の役職につき、南蛮貿易や八重山の政治経済に貢献したが、キリシタン事件で処刑されている。1624年にイエズス会のルエダ神父が乗船していたスペイン船が石垣島に漂着し、石垣永将が牛数十頭を贈るなど手厚く保護していた。この事で首里王府は永将がキリシタンに改宗したとの疑惑をもち、首里に連行し取り調べを行った。永将 は有罪となり、渡名喜島に流罪となり、1635年に渡名喜島で焚刑となっている。別の伝承では、本宮良ヌ主ヌ御嶽 (オンナー) の場所で処刑されたとも言われている。
ここにある頌徳碑は、1968年 (昭和43年) に嘉善姓一門が永将の遺徳を称えて建立したもの。
嘉善姓門中墓
石垣永将頌徳碑の奥には石垣永将の嘉善姓門中墓が造られている。この門中墓の場所で、当時禁教となっていたキリスト教の洗礼を受け、嘉善姓一門も多くがキリスト教に帰依したと言われている。 (洗礼はこの東側の舟路石の場所としている資料もあった)
小字 冨崎 (フサギィ)
小字 奈良佐(ナーラサ) の西側が小字 小字 冨崎 (フサギィ) で、この一帯はかつては原野で冨崎野 (フサギィヌー) と呼ばれ、一帯の田地は冨崎田 (フサギィダー) と呼ばれていた。その地域名が小字名になっている。この小字の西の端にある岬の冨崎 (フサギィ) は幸運を意味し、航海の安全をもたらす岬の名ともいわれている。
この冨崎野の仲田原には、1771年の明和の大津波の後に竹富島から523人を寄百姓として移住させ冨崎村 (喜舎場永珣著の八重山歴史 では宇良村と記載されている) が創設され、1774年には故郷の幸本御嶽 (コントゥオン) を奉還したが、この冨崎野の仲田原の土地はやせ地で耕作物も不出来で上納も滞っている状態で、僅か14年の期間しか存在せず、村人は1785年に盛山の地へと再移住を余儀なくされている。盛山村では風土病やマラリヤや伝染病などに苦しみ、1873年 (明治6年) には人口17人 (戸数9戸) にまで減少し、1877年 (明治10年) には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し村の維持を図るも、人口減少は止まず、1917年 (大正6年) に廃村となってしまった。冨崎村が何処に存在していたかは確かでは無いが、観音堂の東南と推定されている。
冨崎観音堂
観音堂は順天氏第四世西表直香が1742年に、大浜村のカヤンニ (茅嶺)で創建により創建された事に始まる。その後間も無く、新川川近く西側のフックンニ (フック嶺) に移転し、更に桃林寺の義翁長老が海上安穏祈願のために経塚を建ててあった現在地に再移転している。その後、1781年、六世直達により瓦葺きに改築され、1837年には在番知念親雲上政行により本堂が造営されている。その後、明治から昭和にかけて改築や再建がくり返され、多くの群島民により信仰され、海上交通安全と無病息災の祈願所となっている。現在でも初詣の際には、多くの参拝者が訪れ賑わっている。観音堂の創建に関わる伝承がある。
順天氏第四世西表直香が宰領役に隋って首里王府へ赴き、公務を終えて石垣島へ戻る途中、大風にあい、船が中国福州まで流され漂着した際に、先年に八重山へ漂着し救助した中国人と再会し、直香が無事に島に戻れる様にと観音像二体を守護仏として贈られた。一方、夫の無事を案じていた妻の真鶴が美崎御嶽や権現堂に日参しているのを知った桃林寺住持は、観音像一体を真鶴に与えた。まもなく表直は無事帰島し、観音像三体を自宅に安置し篤く信仰した。その後、大浜村「かやんに」に小堂を建て観音像を移したが、のち託宣があったとして新川村「ふっこんに」へ、さらに経塚のある冨崎原へと移転した。
観音堂へは観音堂通りから、両脇に寄進された幾つもの燈籠が並ぶ参道を登っていく。
参道を登った所の境内正面に堂宇があり、その奥に本堂が建てられている。
本堂内には上部に三つの仏像が鎮座している。伝承にある三つの観音像を表しているのだろう。
御誕生記念造林の碑
冨崎観音堂の石参詣石階段脇に石碑が建てられていた。御誕生記念造林の碑とある。
碑正面には
「奉祝 今上天皇陛下 第一子 照宮成子内親王殿下 帝國在郷軍人会八重山郡聯合分会」とある。昭和天皇に長女の成子内親王が誕生した事を祝い建てられた。
石碑裏面には「皇室の御慶事を記念して在郷軍人会八重山郡聯合分会は此の霊地観音堂境内に三カ年継続事業として松造林を計画し昭和二年一月三日第一回植樹、昭和四年一月之を完成す」と記され、慶事記念事業として植林が行われたとある。
唐人墓
冨崎観音堂から観音堂通りを冨崎灯台に向けての途中に唐人墓がある。
この極彩色の唐人墓には1852年から1853年にこの地で保護されていた380人の唐人の内、亡くなった128人の霊が祀られている。この唐人墓は各所に埋葬されていた唐人を1971年 (昭和46年) に、団体や個人から寄付金を募り、この場所に合祀し造られている。碑文には
中国人労働者 (苦力) は、16世紀以降世界各地に多数送り出されていた。1852年2月 厦門で集められた四百余人の苦力たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次、辮髪を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等7人を打殺した。船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁、380人が下船した。八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した。しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え、武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った。中国人等は山中に逃亡したが銃撃、逮捕され、あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった。琉球王朝と蔵元は人道的に対応、中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し、島民も深く同情、密かに食糧などを運び給した。しかし疫癘による病死者も続出した。死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた。この間、関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌1853年9月 琉球の護送船二隻で生存者172人を福州に送還して終結した。中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた。ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が戦後まで数多く点在していた。1970年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため唐人墓建立委員会を結成、当市よりの補助とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援および琉球住民、在琉華僑諸賢のご芳志をもって1971年これを完成した。茲に唐人墓の来歴を記すに当り、関係各面のご協力に対し、謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である。
と記されており、同じ内容がガイドブックなどで紹介されている。これに対して、この碑文は誤解を招くとし、琉球国役人、捕えられた唐人、船員等の報告書などを時系列に検証し、事件の真相を明らかにしようとした書籍がある。田島信洋氏著の 「石垣島唐人墓の研究」 では碑文の誤りを指摘し、この事件の本質が見えてくる。この書によれば、「厦門で集められた四百余人の苦力」については詐欺による奴隷とされている資料もあるが、実際にはアメリカに新天地を求め労働契約をした唐人で金も払われていたという。船は座礁したのでなく、停泊し、石垣島崎枝に上陸している。その後、米英の船が唐人の逮捕の為に来ているが、砲撃などはなく、逃走した唐人3名が射殺されている。米英兵による射殺はこの三人のみで、残りの死亡者は、疫病での病死と自殺だった。「琉球王朝と蔵元は人道的に対応」 とあるが、これは当時の清国との摩擦を避ける為で、清国が唐人を引き取るまでは、琉球国が進んで清国へ送り届ける意思はなく、米英による唐人逮捕を望んでいた。また、「島民も深く同情、密かに食糧などを運び給した」 とあるが、確かに当初は村民も同情し親切に接していたが、1年半に及び食料や衣類の提供、病人の介護などは番所の命令で強制されていた。村民はただでさえ苦しい生活にこの賦役は、更に生活を苦しくしていっただろう。碑文から受ける印象では残虐な英米人が唐人を奴隷として米国に送り込もうとし、その横暴な振る舞いに反乱を起こし悲劇が起こったと感じられるが、弁髪を切った事や病人を海に投げ捨てた事に対しての怒りは理解できるが、7人もの船員を殺して事はやはり犯罪と言えるだろう。その犯罪者の英米が逮捕をするのも当然と思える。実際に逮捕された唐人は裁判にかけられたが有罪となったのは反乱を扇動し、殺人を行った一人のみで、残りは釈放されている。公正に裁いているので、米英の非道を強調する事には違和感がある。この事件での本当の被害者は、その意思もなく反乱に巻き込まれ、この地で無念にも無くなった唐人と役人に1年半もの過酷な賦役を課せられた新川村の住民だろう。
六角亭
唐人墓の前には、ここを訪れる人の休憩所として六角亭が建てられている。
石垣宮媽祖廟
唐人墓の隣には、華僑や台湾関係者による平和と交流を願い、航海・安全の女神の媽祖を祀る石垣宮媽祖廟の建設が行われている。今年末には完成予定だそうだ。
この唐人墓がある公園には幾つかの碑も置かれている。
平和祈念碑
建設中の石垣宮媽祖廟の前には沖縄復帰前年の1971年 (昭和46年) に、当時の琉球政府行政主席の屋良朝苗が人間の差別や憎悪の悲劇を繰り返さないという誓いが込められた平和記念碑を建立している。碑文には
人間が人間を差別し
憎悪と殺戮がくりかえされることのない
人類社会の平和を希い
この地に眠る異国の
人々の霊に敬虔な祈りを捧げる
とある。
姉妹締結五周年記念碑
石垣市と台湾国蘇澳鎮が姉妹都市締結して五周年の1985年 (昭和60年) に、第三回児童作品交換展開催も併せて記念碑が建てられている。戦時中には八重山からは住民が台湾に疎開し、終戦後、蘇澳港から八重山への引き揚げが行われ、その際に蘇澳住民の世話になった縁があり、新型コロナウイルス蔓延の際には蘇澳鎮から石垣市へマスクや防護服が寄贈されている。正式の姉妹都市締結は漁業利益の増進及び海上における相互扶助を理念として1995年 (平成7年) に行われ、更に2025年 (令和7年) には災害応変国際協力協定が締結されている。
平和祈願之碑
姉妹締結五周年記念碑の隣にも、十周年を記念した蘇澳鎮による平和祈願之碑が1991年に建てられている。
人類の歴史上、いまほど世界平和が叫ばれ、そしてそれが現実のものとなりつつある時代はないでしょう。それは東西の政治的な接近がもたらしたものですが、根源には交通手段、経済活動、情報網の地球的な広がりがあるのは周知のとおりであります。そして我々地球市民がこの次に乗り越えなければならない壁は異なる文化をもつ民族間の真の融和であり、それには国家を越えた民間交流が重要な役割を果たすのです。今十周年を迎えた八重山青年会議所と蘇澳国際青年商会との姉妹締結は正にその第一歩であることは間違いありません。願わくはこの交流を通して両国のそして世界の恒久平和を希求し、ここに平和祈願の碑を建立致します。
米軍飛行士慰霊碑
1945年4月、石垣島に来襲し撃墜・捕虜となり殺害された米軍機 (グラマン) の搭乗員3名 (ティボ中尉、タグル兵曹、ロイド兵曹) を追悼し、2001年 (平成13年) に慰霊碑が建立され、毎年4月15日の命日に慰霊祭が行われている。
当時、日本軍は捕虜は沖縄本島に送致していたが、戦闘の激化に伴い台湾へ送致に変更していた。これにも拘らず、台湾への送致が困難になったという理由や部隊の士気向上のために、バンナ岳の警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地で100人以上の将兵を召集し、ディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は集団で殴打され、40人もの兵により銃剣で刺殺されたといわれている。敗戦後、捕虜殺害の戦争犯罪の発覚を恐れ、3名の米兵遺体を掘り起こし、火葬し遺灰を海に流し、十字架を建立し、隠蔽工作をしている。戦後、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、 1948年 (昭和23年) に、この事件に関わったとされる日本海軍警備隊の41人が、アメリカ軍横浜裁判で、絞首刑を宣告され、その内7人に絞首刑が執行されている。
碑文には
太平洋戦争末期の昭和20年4月15日の朝、石垣島に来襲した米空母マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、日本海軍警備隊の地上砲火で撃墜された。パラシュートで大浜沖合に落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され、捕虜となり、警備隊本部のあるバンナ岳麓で瀕死の暴行を受け、同日夜処刑された。捕虜の虐待は「捕虜の待遇に関する条約」(通称「ジュネーブ条約」昭和4年)で禁止されていた。ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で斬首、ロイド兵曹は多数の兵士達の銃剣による刺突で無残にも殺害された。これは戦争がもたらした非常に悲しい事件であった。
バーノン・L・ディボー中尉 (28歳、操縦士)
ウォーレン・エイチ・ロイド兵曹(通信手、カンザス州出身、24歳)
ロバート・タグル・ジュニア兵曹(砲手、テキサス州出身、20歳)
人道上から日米が協力して、無念のを死遂げた米兵士の御霊を慰めるため、ここ石垣島に慰霊碑を建立する。碑が日米の平和、友好の発展に寄与し、かつ人間として持つべき平和を希求する心と、決して戦争があってはならないという固い誓いを後世に正しく伝え、世界の恒久平和の実現に寄与することを祈る。
平成13年8月15日
米軍飛行士慰霊碑建立期成会
喜舎場永珣顕彰碑
公園の南端には喜舎場永珣 (写真左下) の生誕百年を記念して、1985年 (昭和60年)、この地に喜舎場永珣顕彰碑が建てられている。喜舎場永珣は1885年 (明治18年) に生まれ、沖縄県師範学校簡易科を卒業後、27年間教職に就いていた。沖縄学の伊波普猷 (写真右下 伊波と喜舎場) や民俗学者の柳田國男との出会いで刺激を受け、郷土研究へ向う事になった。教職を退いた後は郷土の歴史、民俗、文化等の調査研究、資料収集、記録等に専心努力し幾多の著述を世に送っている。沖縄学の形成に寄与し、南島研究の先導的役割を果たし、郷土史の教育、八重山の伝統文化芸能の育成発展に功績を残し、八重山研究の父と仰がれた。
八重山諸島の歴史や史跡を調べる際には、喜舎場永珣著の 「八重山歴史 (1954年) 」 の復刻版を参考にしている。
観音崎、琉球観音崎灯台
唐人墓から観音堂通りを北西に進み岬に出る。この岬は冨崎なのだが、近くに観音堂があるので、観音崎と呼ばれている。岬の先端には東屋が作られている。
東屋からは西の海の向こうに平な地形の竹富島 (写真上)、北側には崎枝の半島 (写真下) が見えている。晴れていれば、竹富島の奥に西表島も見えるそうだが、今日は生憎、雲も多く見えなかった。
東屋の下には洞窟があり海岸に抜けている。
岬の上には1953年 (昭和28年) に米軍により建設された真っ白な灯台が設置されている。1972年 (昭和47年) の本土復帰で海上保安庁に引き継がれている。
小字 皆野宿 (ミナヌスク)
小字 冨崎の北方にはミナヌスクムリィ (皆野宿岡) と呼ばれる小高い丘古があり、その西方一帯が皆野宿 (ミナヌスク) と呼ばれていた。小字名はその地域名に由来する。
海岸線に沿って字 新川の北部に進む。
火番盛
冨崎ビーチに冨崎ビーチリゾート&ヴィラというホテルがあり、その敷地内に、琉球王朝時代の遠見番所の火番盛 (ヒバンムイ) のレプリカが造られている。レプリカとは思えないほど上手く作っている。琉球国時代の火番盛 (ヒバンムイ) のイメージがよくわかる。案内板が置かれ、火番盛を説明している。
火番盛とは、先島諸島 (宮古諸島及び八重山諸島) の十三の島の十八箇所に点在する遠見番所群です。この火番盛は琉球王府が1644年頃、進貢船や異国船の到来など海上交通の監視・通報機能として各地に配置されたもので、このうち八重山では石垣市二箇所、竹富町七箇所、与那国町一箇所の計十箇所に設置されました。
元々、火を焚く丘という意味を持つものですが、ここで烽火のための火を燃やし監視にあたったことから、先島諸島では火番盛と呼ばれています。周辺海域、異国船の到来を監視し、烽火を上げて各地の火番盛伝いから番所や蔵元に通報し、琉球王府へ知らせました。
このように火番盛は、先島諸島の歴史的な位置付けを今日に伝える史跡として、2007年3月23日に国の史跡に指定されました。
とある。
道を更に進んで小字 冨和底 (フワスク) を抜けて小字野呂水原 (ヌルミジィ) に入る。三叉路となり、今度は県道79号線を石垣市中心部へ戻る方向に進む。
小字 野呂水原 (ヌルミジィバル)
前勢岳の西麓一帯は。一帯の地名は野呂水 (ヌルミジィ) と呼ばれて域内には水田地帯の野呂水田 (ヌルミジィダー) がある。小字名はこの地域名から来ている。
シィサシィスク盛
県道79号線は上り坂になり、それを登ってあたりが雑木林となっている。ここは標高65mの岩山で、調査では調査で、頂上付近で海石、陶器片、シャコ貝、イモ貝などが見つかっており、シィサシィとは神のお告げと解釈される事から、昔は拝所だったと考えられている。また、頂上付近には、小さな広場もあり、張り所として利用されていたとも推測される。
県道79号線を更に進み、小字 大原座 (ウーザバル) を通り、小字 多原 (タバル) に入る。
小字 多原 (タバル)
小字名・真喜良の北方に続く一帯の称。一帯の地名はタバルと呼ばれ、小字名「多原」は、その方音に由来する。「タバル」とは(田原)との意がある。県道79号線を地域境界線として東側は小字の安高原 (ヤシィタカバル) と平田原 (ピキサダバル) に接している。
ハンナーカーラ
小字 多原 (タバル) の中程、県道79号線沿いに案内板があり、ここにはハンナーカーラとよばれた湧泉からの小川があるとなっていた。戦前までは通行人の水のみ場であり、いこいの場所だった。この辺り一帯は田原と呼ばれている。また、17世紀には石垣頭職を何代も排出した名門ハンナー家に因みハンナー原ともよばれていた。付近には稲作や雨乞い神事の祭場、集団苗代、牛の御嶽、川平への一黒塚などがあり、新川村の重要な農牧地だったという。
小川は流れているようなのだが、木々が小川を覆っており、よく見えない。草も生い茂って、足元もよく見えず、足を滑らす危険もあるので小川に降りるのは断念。
小字 真喜良 (マキラ)
名立橋の西方域、新川団地、真喜良団地を含む一帯の称。一帯の地名はマキラと呼ばれ、小字名「真喜良」は、その方音に由来する。
県道79号線を進み小字  多原 (タバル) から小字 真喜良 (マキラ) に入る。
真喜良井戸 (マキラカー)
小字 真喜良 (マキラ) の南は小字 舟蔵 (フナグラ) に接しており、今日前半に舟蔵を訪れた際に、真喜良第2団地内にある真喜良井戸 (マキラカー) を訪れている。かつては良質な水の井戸だったという。
先に触れたが、舟蔵には明治時代には屋慶名 (ヤキナ) 集落ができ、その後の人口増加に対処するために、村有地を団地として貸与し出したとあった。この真喜良団地あたりだったのではないだろうか?
この地域には新川団地 (R3 80戸)、新川第2団地 (H3 88戸)、真喜良団地 (S56 108戸)、真喜良第2団地 (S58 168戸)、真喜良第三団地 (H2 80戸) が集まっている。
牛馬之碑
県道79号線沿いの丘がある。この丘はフツクンニ(フック嶺)と呼ばれ、冨崎観音堂が現在地に移る前には大浜村のカヤンニ(茅嶺) から移転してきた場所という。丘の上には牛馬之碑が建てられている。新川字会はこの場所で毎年「牛馬祭」を行い、牛馬の安全祈願をしている。ここに牛馬之碑が建てられた由来については言い伝えがある。
昔、疫病で新川の牛馬が次々と死んでいったのだが、大嵩屋 (フータキヤー) の牛馬は健康で無事だった。村人がその訳を尋ねると、大嵩屋は牛馬の安全と繁盛を祈願しているからだろうと答えた。それ以来、村人も同じ様に牛馬の安全と繁盛を祈願するようになったという。
元々は、ジィーダカと呼ばれていた地で野呂水原の霊山のシィサシィスクムリィから運んできた霊石を神体としていたという。
名立井戸 (ナータジーカー)
県道79号線を南に進み新川川を渡り、なたつ橋の手前ににを渡って、川平方面に少し行くと左手側に名立井戸 (ナータジーカー) がある。石垣市のまちなか親水広場整備事業で綺麗に整備されている。
この名立井戸 (ナータジーカー) は、200年ほど前に大工家の祖先が住民のために掘削したもので、新川集落の西方にあったので西の井戸 (インヌカー) とも呼ばれていた。石垣市に水道が敷設された1953年 (昭和28年) 迄は新川村の村民だけでなく、冨崎、名蔵などに向う通行人の飲み水としても利用されていた。井戸の脇にはこの井戸を掘った大工家の祖先の功績を讃えた頌徳碑が1978年 (昭和53年) に建てられている。
名立井戸 (ナータジーカー) が今日の最後の訪問地で、この後、石垣市中心部に移動し、図書館で残り二日間で訪れる予定の地域について下調べを閉館の19時まで行って、本日の長い一日が終了。本レポート編集時に、今回訪問したスポット以外にも見てみたい場所が出て来たので、次回石垣島を再訪する際に巡る予定。
参考資料
- 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
- 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
- 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
- 八重山を学ぶ (2024『八重山を学ぶ』刊行委員会)
- 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
- 喜舎場永珣と資料 (2022 石垣市立八重山博物館)
- 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
- 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
- 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
- 石垣市史巡見 Vol.7 村むら探訪 新川村の移り変わり (2002 石垣市総務部)
- 石垣島唐人墓の研究 (2011 田島 信洋)
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