Ride in Kyushu Day 68 (21/2/19) Usuki Castle Ruins 臼杵城跡

Yoshino Plum Garden 吉野梅園
Usuki Stone Buddha 臼杵石仏
Usuki Castle Ruins 臼杵城跡
今日は大分から少し後戻りをして臼杵までの往復の走行をする。ここはどうしても訪れたかった所だ。豊後(大分)は大友宗麟が九州に勢力を伸ばす拠点で、政治の中心は昨日訪れた府内(大分市)であったが、宗麟のキリスト教の布教を許可し、宣教師を保護したことが、家臣団との不和を生み出すことになった。家督を継いでから6年目までは相次ぐ家臣の謀反がなどに苦しんだ。これが原因で居城を府内から今日訪れる臼杵城(丹生島城)に移した。この地でこれ以降政務を行うことになった。

Yoshino Plum Garden 吉野梅園

臼杵に向かう途中に吉野梅園の看板を見つけた。見ると多くの観光客が来ている。さぞかし綺麗な梅園かと思い立ち寄る事にした。2月17日からここで梅祭りが月末まで開かれており、屋台も出ていた。もう梅の盛りは過ぎているのか、まだ満開までは間があるのか、一面梅の花が咲き乱れると言った感じではなく、地味に落ち着いた感じで花が咲いている。桜とは雰囲気が違う。
ちなみにインターネットで掲載されていた写真は満開時のもの。やはり満開時は綺麗だ。

Usuki Stone Buddha 臼杵石仏

臼杵市に後数キロのところに有名な臼杵石仏がある。時間に余裕がありそうなのでここにも立ち寄ることにした。昨日、大分市内を周った特にも石仏が目についた。ここは国宝に指定されている。国宝だけあってスケールが昨日見た石仏とは違う。迫力がある。保存が大変で、温度管理の為に覆う為の鞘堂のようなものを建てている最中で、そこのところは見れなかった。石仏は村を取り囲む小山の中腹に彫られており、今は公園になっている村からは石仏がありがたく拝めただろう。石仏を見学した後に、小山を降りて村を一周してみた。小さな村で村の中心は限られたスペースの田んぼになってその周りに小山の麓に、農家がポツンポツンとある。静かな里山だった。心が和むところだったのでついつい長居をしてしまった。今日は大分市に戻るのは夜になるのだろう。
川沿いを走り臼杵市街地を目指す。

Usuki Castle Ruins 臼杵城跡

臼杵の街には2時過ぎに入った。城はまだ先の海岸にある。街並みを見ながら走る。10キロどころ昔の街並みを保存しており、風情がある。城下町の雰囲気が伝わってくる。この町の目玉だそうだ。
宿場/商店
武家屋敷
寺院
臼杵では町並み保存に努めており、古風な作りの建物がある。
銀行
スーパー マルショク
図書館
豊後を治めていた大友氏は府内(大分市)を居城にしていた。大友義鎮(よししげ 宗麟)も後継問題のごたごたの末に家督を継いだ当初は府内を統治の中心にしていたが、度重なる家臣の謀反や反発で居城をこの臼杵に移した。代々奉公している大友家の家臣は発言力がかなり強かったようだ。宗麟の家督問題も宗麟を押す家臣が父の義鑑(よしあき)を武力でねじ伏せ死に至らせた結果(二階崩れの変)。20歳で21代当主になった宗麟には老骨の家臣は煙たかったはず。宗麟は死ぬまでここを居城とした。島津との戦いは死ぬまで続いた。死の前年にはこの臼杵城が島津に攻められたが、西洋から買い入れたフランキ砲で島津を撃退した。
臼杵城は宗麟が移ってきた時は丹生島城と呼ばれ丹生島に城を築いていた。島であるにで天然の要害となり西側が干潟で繋がる。今は埋め立てられて、当時の要害の雰囲気は失われている。
大友氏改易そして関ヶ原以降は稲葉氏が臼杵藩として運営を行った。大友宗麟が造った城下町は稲葉氏の元で発展し、今でも名残が観れるというわけだ。写真は稲葉家下屋敷。
稲葉家は質素倹約を藩政の一つに据えていた。この季節家庭に飾られる雛人形にも厳しくおふれを出していた。ここには豪華な雛人形ではなく紙の雛人形しか許されなかった。
ここは西南戦争でも舞台となった。1877年(明治10年) 6月1日、野村忍介指揮する薩摩軍奇兵隊が篭城する臼杵城を攻め落とし占領。6月7日、新政府軍から4個大隊と軍艦3隻の援軍が送られて、6月9日臼杵城を奪還。薩摩軍は熊田に撤退した。このときに政府軍が拠点とした大橋寺が残っている。
臼杵を見終わったのは4時を過ぎていた。これから3時間かけて大分に戻る。到着は7時から8時で真っ暗だろう。


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