Ride in Kyushu Day 54 (7/2/19) Kagoshima Prefectural Museum of Culture Reimi-Kan 鹿児島県歴史資料センター黎明館

Kagoshima Prefectural Museum of Culture Reimi-Kan 鹿児島県歴史資料センター黎明館
今日は熊本から土肥さんが会いにきてくれることになっている。お昼ぐらいには到着予定。それまでは歩きで昨日見落としていたところを回り、土肥さんを待つことにする。午後からは雨なので、今日は自転車は休みとし、徒歩での移動になる。鹿児島の中心部の天文館地域はそれ程広くなく、十分歩いて見て回れる。
土肥さんが昼過ぎに到着して、一緒に昼食をとり、喫茶店で色々な話をする。土肥さんも、1月末で仕事を切り上げ、長年温めてきた事業を進めることになった。会社勤めより大変だと思うが、頑張っている。彼の最も良いところは諦めないところだ。不思議なのは、誰が見ても、だめだと思うことを、諦めず実現してしまう。やっている事が理解できないところがあるが、不思議と功を奏する。凄い男なので、きっと切り抜けて何かを成し遂げると思う。という事で、あまり心配はしていないのだが、陰ながら、応援するつもりだ。頑張れ!
喫茶店にいる間に雨が強くなった。土肥さんも明日の為に熊本に戻らなければならないので、雨の中車まで移動。こちらは車で資料館まで送って貰った。閉館時間までじっくりと見学をする。そのうちに雨が上がるだろう。

Kagoshima Prefectural Museum of Culture Reimi-Kan 鹿児島県歴史資料センター黎明館

展示は時代別に紹介している。ごく一般的な展示方法だ。あまり凝った展示方法ではなく、また詳しくも無い。さらっと流している感じだ。初心者には良いかもしれないが、ある程度知っている人には突っ込んだ展示ではないので、少し物足りないかもしれない。

原始-古代の鹿児島

古墳時代までを紹介している。本州と少し違っている所がハイライトされていた。これは良い。
- 縄文土器でなく貝殻文土器と呼んでいた。縄の代わりに貝で模様をつけているからだ。
- 縄文時代の建物は棟持柱建物で切妻造の建物の棟木を屋外の柱で支える方式。これも初めて知った。
- 古墳も本州と内部の造りや副葬品が異なると言うが、具体的にどう違うのかが十分説明されていなかった。
隼人の楯 独特の模様。儀式に用いた。当時は薩摩の人を隼人と呼んでいた。今でも薩摩隼人と呼んでいるのを耳にする。

中世の鹿児島

荘園時代では、地域の有力者が乱立していたが、鎌倉時代になると幕府から関東武士を派遣任命しこの地に赴かせた。島津氏もその一人であった。
島津氏は地域の豪族を次々と打ち破り 三洲統一 (薩摩、日向、大隅)をする。更に九州統の夢を抱き、 島津義久が大友宗麟 を耳川の戦いで破り、府内を占領、龍造寺隆信を島原の戦い (沖田畷の戦い、島原で訪問済)で退ける、肥後の相良義陽も破り、九州制覇もあともう少しの所まで来るが、大友宗麟が豊臣秀吉に泣きつき九州征伐にとりかかり、夢潰える。
鹿児島は当時琉球を除けば日本の最南端なので異国の文化が一番最初にに入ってくる所だった。その代表が鉄砲とキリスト教の伝来である。
秀吉の朝鮮への出兵の文禄慶長の役では小倉藩や福岡藩と同様に、旧百済の職人を大量に連れ帰り、薩摩焼と呼ばれる陶磁器を生み出した。

近世の鹿児島

近世を関ヶ原以降、つまり江戸時代からとしている。
関ヶ原敗戦では西軍に味方したが、島津家久が敗戦処理や徳川との関係修復し、本領安堵までこぎつけている。どのような外交をやったのかは触れていなかった。女性の解説員がいるのだが、あまり知らない様子だった。ただ薩摩は反骨精神が旺盛なのか、薩摩内で独自の軍事行政制度を確立していた。外城制度(113の外城)と門割制度 (数戸を門に割り当て耕作地を与える)だ。外城制度が一国一城令でどうくぐり抜けたのか疑問があるので、別途調べてみる。(後日、別の資料館に行った時にボランティアガイドさんに聞いた。幕府からは指摘を受けたが、潰すと国が成り立たないとか色々な理由をつけ乗りきったと説明を受けたが、まだすっきりしない。)

鶴丸城は島津家久が江戸時代初期に築城。屋形形式で天守閣は無かった。他藩は防衛の為に堅牢な城を作っていたのに、なぜ島津はこのような城を作ったのだろうか?石垣などは、それ程高くなく、複雑な構造でも無い。これも疑問点の一つ。 外城制度で国自体を要塞化しており、出水がその防衛線だった。鹿児島で防衛は考えていなかった事が理由かもしれない。幕末の人口が58000人というので、それ程大きな国では無かった。人口の1/4が戦闘要員になる仕組みだった。これはかなり高い比率だ。
ただ、幕末維新に多くの人材を抱えていたのは驚きだ。確かに国は人なり、城は人なりとの精神が現れている様に思える。
その他に紹介しているのは、
− 平田靱負の木曽川治水工事
− 調所笑左衛門の天保の財政改革 
− 島津重豪が主導で進めた藩校 (薩摩の教育は郷中教育と呼ばれ、異年齢集団による自主相互教育方式をとる。西郷隆盛が始めた私学校などはその流れをくむものだ、これは薩摩の特徴)
- 薩英戦争から西欧文化への目覚めとなり英国留学生に続く
この内容については別途、述べたいと思う。

近現代の鹿児島

特に興味を引く展示は無い。ここで鹿児島の発展が止まった様な印象だ。福岡、熊本は八幡や三池が明治以降産業を発展させて行ったが、鹿児島には日本を代表するの産業や工業が残っていない。集成館が明治日本の産業革命遺産となっているが、これは江戸末期から明治にかけてで、この世界遺産では一番古い。ここから明治の産業革命が始まった事で選ばれているが、明治以降の目立つ発展は無い。鹿児島の偉人達は東京に行き、鹿児島二の次になった事も影響していると思う。また西南戦争が明治政府が鹿児島を警戒し、鹿児島の独自の発展を望まなかったのではとも思う。展示はありきたりの、明治、大正、昭和の庶民生活の変遷で、レトロ感が感じられるのみだった。少し残念だが、鹿児島の現状が表れている。

民族文化

大好きな民族芸能に関しての展示があった。見ているだけで楽しい。特に鹿児島には沖縄含めた南洋の島々があり、その文化は特色がある。
鹿児島の4つの方言の会話の紹介があった。大隅、薩摩、奄美大島、もう一つはどこかの島だったと思う。大隅、薩摩は所々わかる程度。島の方言は皆目理解できない。解説員の人に今でもこんな言葉を喋っているのかと。この会話は35年以上前のもので、今は随分と変わってきている。係員さんは鹿児島出身で40才くらい。大隅は50%薩摩は70%ぐらいわかる。島の方言はわからないと言う。若い子は昔の薩摩弁はわからない。残っているのは、イントネーション、鹿児島特有の物の名前、言葉の最後の言い回しで、だんだんと失われている。ドラマの薩摩弁は実際とは違い、「ソフトな薩摩弁」と言っていた。方言は文化なので、出来るだけ残って欲しい。
野外展示もあるのだが、夕方になり暗くてよく見えなかった。(翌日、鶴丸城の裏の城山に登った時、この野外展示が見えた。どうも自由に入れる様なので、行ってみると入れた。)ここからは屋内の博物館にも行ける。正面玄関から入館料を払わなくても入れてしまう。おおらかなのか.... 細かいことは気にしないのか....
展示は特別なものはない。田の神という、滑稽な田んぼの神の像が展示してあった。これは面白い。各地でその形は様々。これをたどる旅など面白そうだ。

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