杉並区 15 (04/11/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧田端村 (3) 関口
旧杉並町 (杉並村) 旧田端村
小名 関口
- 天桂寺
- 山門
- 地蔵菩薩像 (143番)、聖観音庚申供養塔 (144番)
- 本堂
- 道了堂
- 岡部家墓所
- 馬頭観音
- 貴ノ花利彰の墓
- 海雲寺
- 山門
- 本堂、六地蔵 (147番)
- 木食上人像 (146番)、伝馬頭観音 (145番)
- 関口地蔵尊 (148番)
- 天祖神社 (東田町内社) [未訪問]
小名 関口
小名関口は田端村の飛地になっているが、飛び地になった理由については「昔、成宗村と田端村が戦い、成宗村が負けたため、関口を田端村に取られた」という伝承があるが、確かでは無い。定説は、この地が、江戸初期の慶安から寛文の初めにかけて (1650 ~ 60年)、田端村の村民によって新田開発が行われたことによる。新田開発開発後の1664年 (寛文4年 - 辰年) に検地がおこなわれ、田端村の村高は77石増加して300石に改定されている。この石高増加分は辰年新田高と呼ばれ、田端新田と記され、検地後、小名関口となっている。この時期には他の地域でも盛んに新田開発がされている。江戸初期の杉並区内の新田開発に従事し、土着した人々の多くは失業武士、いわゆる浪人でした。関ヶ原の戦、大阪の陣、お家改易などで主家を失った多くの浪人たちは、江戸で仕官の口を求めたが、徳川幕府の基礎が固まり、天下が太平になり、召抱えてくれる大名はなく、江戸の街作りの労働者となったが、江戸の街作りが一段落すると、働き口がなくなり、職を求める浪人の不平不満が増大し、江戸市中に不安な気配が拡がった。治安維持の為、幕府は浪人抱え置き禁止令を出して、江戸市中より浪人を追い出し、帰農をすすめた。浪人は新田開発に従事し、その地に定着して行った。
1889年 (明治22年) の町村制施行で江戸時代の小名関口は二つの小字 (関口、中通) に分割されている。小字中通りは、五日市街道がこの地区のまん中を通っているので、中通りとなった。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、小字関口は東田町二丁目に、小字中道が東田町一丁目になっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、東田町一丁目 (旧小字関口)、二丁目 (旧小字中道)、旧小字日性寺ともに成田西に変更されている。
明治・大正時代の地図では、この小名関口には他の小名に比べて、既に民家は多い方二見える。江戸時代に新田が開発されたことで、江戸からあふれた浪人が帰農したことによるのだろう。昭和に入り、戦前までには、地域広範囲に民家が建ち、1960年代には全域が風鐸買い戸なっている。
天桂寺
山門
山門から境内に入る。境内は広くはないが、こぎれいに整備されている。
地蔵菩薩像 (143番)、聖観音庚申供養塔 (144番)
山門から境内に入ったすぐ右側に三体の仏像がある。
- 水子地蔵: 右端は昭和50年代に建てられた水子地蔵。
- 地蔵菩薩像 (143番): 中央には丸彫の地蔵菩薩像が置かれている。1795年 (寛政7年) 10月に造立されたもので、台石正面には「奉造立地蔵大菩薩」とあり、側面には「武列多摩郡田端村之内 関口講中貮拾件 馬橋村講中三軒 阿佐ヶ谷村講中三軒」とある。裏面には「江戸本材木町八丁目」の石工名が記されている。
- 聖観音庚申供養塔 (144番): 左端が庚申講中により1664年 (寛文4年) 7月に造立された安山岩の高さ177センチの丸彫り聖観音像で、杉並区内では8番目に古く、石造の観音像としては杉並区内最古のものになる。聖観音像には光背が無く、造立の趣旨「奉供養庚申講中所願成就之所」、造立組織「武州多東郡田端村」「念仏講男女廿一人」、造立年月日などが直接尊像に刻まれている。蓮弁には講中の人の名が記されている。また、三猿が台座の蓮の花の内に大きく浮彫りされている。このような方法で三猿 を表す例はあまり見られない。庚申塔は青面金剛像が一般的になる以前には、地蔵菩薩像や観音菩薩像などが庚申塔として造立されており、この聖観音もその時代のものにあたる。
本堂
1856年 (安政3年) の大暴風により建物はすべて倒壊し、記録什宝類も失われてしまった。これ以降本堂が再建されるまでは、庫裡が仮本堂として使われていた。明治期になって再建が進められ、1923年 (大正12年) に本堂の再建が成った。現本堂はそれから約60年後に建てられたもの。1713年 (正徳3年) 造立の木造地蔵菩薩坐像も安置されている。本堂の前には青銅製の防火用寺紋入天水桶があり岡部家の紋が浮き彫りされている。(以前は石造り天水桶だった) 岡部家の紋は当初は⊕だったが、薩摩藩島津家の⊕の紋と同じで混同される為、十の下を跳ねて、この紋にしたという。手水鉢には天狗のうちわが浮き彫りされている。この天狗のうちわの由来については後述。
道了堂
本堂の左手前に御堂がある。(昭和8年) に建てられ、道了を祀っている。道了は、小田原最乗寺の第二世住職で、最乗寺縁起書には 「大力無双にして、渓を填め、嶺を開き、大木巨岩を運搬して、大殿、法堂、山門、庫裡の建立に尽し、東海第一の禅林たらしめた。没後、天狗となり、当山の鎮護に当たったと伝えられ、道了大薩垂と称せらる」 と記されている。天狗は道了の化身という事で、仏像を納めている厨子の両側には天狗像が置かれ、台座には天狗のうちわや、堂前にある手水鉢にも天狗のうちわが彫られている。
岡部家墓所
墓地には天桂寺を建立した岡部家墓所があり、岡部氏歴代の当主とその一族を葬っている。五輪塔12 基、宝篋印塔5基、隅丸方形塔11基など合計43基が置かれており、杉並区の有形文化財に指定されている。岡部氏は1625年 (寛永2年) 頃から1698年 (元禄11年) にかけて旧成宗・旧田端両村を支配した旗本で、その始祖は一の谷の合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄で、武蔵国榛沢郡岡部 (埼玉県深谷市) をルーツとした武蔵七党の一つである猪俣党の一支族とも言われている。
馬頭観音
岡部家墓所の近くに駒型の馬頭観音が立っている。1927年 (昭和2年) に造立された比較的新しい駒型の角柱の石塔で正面に馬頭観音と文字が刻まれている。
貴ノ花利彰の墓
墓地には貴ノ花利彰 (1950 - 2005年) の墓所があった。初代貴ノ花は第45代元横綱で初代若乃花の弟で、大関まで登り、角界のプリンスと呼ばれ、人気の高い力士だった。息子の若乃花と貴乃花は横綱となっている。どの様な経緯でこの天桂寺に墓があるのかはわからないが、寺の南には兄の第45代横綱の初代若乃花が開いた二子山部屋(1962 ~ 1983年)が移転する迄、置かれていた。
海雲寺
天桂寺から道を挟んだ南側にはもう一つ寺がある。本尊を木造釈迦如来坐像としている曹洞宗慧超派 (えちょうは、または海雲寺派) の江月山海雲寺で、1611年 (慶長16年) に上野国甘楽郡菅原村陽雲寺の天徳寛隆によって開山、1613年 (慶長18年) に当時の豊前小倉三十六万石、細川越中守忠興の嫡男忠利が、江戸で亡くなった子供の菩提と、先祖の供養のため、江戸八丁堀に開基されたと伝わる。1635年 (寛永12年) に日本橋川と京橋川を結ぶ運河が掘られた際に敷地が八丁堀同心の屋敷地となったため、浅草八軒寺町に移転し、1705年 (宝永2年) には、高柳藩藩丹羽家 (一色丹羽氏) の菩提寺となっている。その後、1910年 (明治43年) に区画整理により、現在地に移転し現在に至っている。
山門
山門は瓦葺総欅造りで、江戸城内の紅葉山の徳川家霊廟山門の一つだった。明治維新の際に将軍慶喜の御供をして勝海舟に信頼され江戸城出入りを許された新門五郎が、明治天皇御入城前に、運び出し、海雲寺へ移築し、更にこの地にも移設されている。
山門を入ると境内になる。それほど広い境内ではない。明治時代に移ってきたので、広い敷地を確保できなかったのだろう。
本堂、六地蔵 (147番)
境内の奥には本尊を江戸時代に造立された釈迦如来座像とする本堂が置かれている。この建物は幕末の火災後、焼け残った柱などを使用して、1887年 (明治20年) に建立されたものがこの地に移設されている。
本堂の手前には浅草から移された燈籠型の石塔が置かれている。燈籠の上部には六地蔵が浮き彫りされ、竿の部分には1703年 (元禄16年) の造立年が刻まれている。この様な六地蔵は初めて見た。
木食上人像 (146番)、伝馬頭観音 (145番)
本堂の左手には堂宇があり、堂内には1780年 (安永9年) に作られた丸彫石座像の木食上人像 (146番) が安置され、像には「日本回国木食天無僊春比丘肖像行年百貮歳死」と刻まれている。木食上人は甲斐国西八代郡古関村に生まれ、21歳で仏門に入り、45歳のときに木食観海上人の弟子となって、木食修業を修め、1773年 (安永2年) に、北海道から九州まで日本回国を行い、各地で仏像を刻んで安置している。日本回国の途中、この海雲寺にも立ち寄っている。檀家曹洞宗の海雲寺が真言宗系海雲寺に木食上人像が祀られているのは、海雲寺檀家が深く帰依し、上人の徳を慕って石像を建立したと思われる。
その隣にはここから150mほど南のあった小さな櫛型角柱型の石塔 (145番 写真右下) が移設されている。「武州多摩郡田はた村内せき口」「大場源左衛門」と造立者のその所属村が刻まれており、馬頭観音と推測されている。
関口地蔵尊 (148番)
海雲寺の西、梅里中央公園西の道 (鎌倉街道の一つ) 沿いの民家の塀に堂宇がはめ込まれている。堂宇内には、1737年 (元文2年) 10月に造立された舟型光背型の石塔があり、地蔵尊立像 (148番) が浮き彫りされている。石塔右側には「武刕多摩郡野方領田端村之内関口講中廿六人」と造立者の銘が刻まれている。説明書きによれば、当時関口の女念仏講中26人 (当時の小名関口の戸数にあたる) が毎日の食事から少しずつ削った稗や粟を願主堤平右衛門に預けてお金に換えて貯め、5~6年かかって地元の子供たちの守り本尊として地蔵を建立したとある。
天祖神社 (東田町内社) [未訪問]
海雲寺の東南に天祖神社(旧神明宮)がある。創建年代は定かではないが、約600年前の創建と推測され、旧関口の鎮守で天照大神を祀っている。1909年 (明治42年) に一村一社政策により、田端天神社へ合祀された。その後、関口で疫病が流行、旧家不祥事などよくないことがつづき、これは関口に神様が不在になった事によると考え、1925年 (大正14年) に田端神社の分社として、神明宮の神体を奉還してこの地に再度、祀った。それ以来、悪疫の流行はやみ、平和な時代となったという。もとはここより少し東にあったが、1927年 (昭和2年) に、神殿を流造に新築、この地に移設されている。以来、東田町内社と呼ばれ、現在でも地域で大切にされているそうだ。
これで旧田端村の全部の小名巡りは終了。この後、旧阿佐ヶ谷村に移動し史跡巡りを続ける。今日訪問できなかったスポットもあり、明日、今回の東京滞在の最終日で残りを訪問予定。旧阿佐ヶ谷村の訪問レポートは別途。
参考文献
- すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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