Okinawa 沖縄 #2 Day 260 (09/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (01) 北谷・北谷之前屋取
北谷町 北谷集落 (チャタン)
北前区 (北谷之前屋取 [チャタンヌメーヤードゥイ]、字北前 / 石平屋取 [イシンダヤードゥイ])
- 北前区公民館
- 普天間川、ニライ橋
- テツドーミチ、軽便橋
- 安良波ヌ岩 (アラファヌシー)
- 安良波公園、アラハビーチ
- インディアンオーク救助記念碑
字北谷 (チャタン)
- マタジ (マタジウカー、マタジ竜宮)
- 北谷ノロ殿内
- 綱のカヌチ根軸碑、北谷馬場 (チャタンウマィー) 跡
- キャンプ端慶覧
- 北谷番所跡、旧北玉小学校跡
- 北谷古島
字北谷 (チャタン)
琉球王国時代から現在に至る北谷の行政区の変遷を地図で示すと下記の様になる。
北谷町の米軍基地の変遷は下記の通りだが、北谷三箇地域では2020年に伝道の倉庫地区が返還されている。この場所は北谷グスクがあった場所でに国史跡に指定されており、現在でも発掘調査が行われている。白比川沿岸は開発の可能性はあるように思えるが、ここでも発掘調査が行われており、跡地利用計画はその発掘調査の結果次第となるのではないかと思う。個人的には先に返還された西普天間地位と同じような、史跡公園と住宅地、公共施設のなどになればよいのにと思っている。
2013年にはインダストリアルコリドー地区の返還が日米で合意されれている。2024年以降の返還とされていた。北谷町のマスタープランにも、返還跡地利用についてはほとんど具体性のある記述はなく、これからといった状況の様に思える。2018年に跡地利用計画立案スケジュールが発表されている。2024年には跡地利用計画が決定される予定だった。
2023年に発行されたスケジュールが下記の通りだが、2018年のスケジュールが全く機能していなかったことが判る。何をしていたのだろう? これは北谷町として反省すべき点だろう。諸要因で全く手が付けられていなかったのであれば町民に早い時期に説明すべきだろう。当初スケジュールでは2024年には計画決定が行われることになっているが、改訂スケジュールでは、今から勉強会を行い、計画決定は2031年頃になっている。おかしな点は依然として返還を2024年末と想定している。返還時期の想定は難しいことはわかるが、非現実的な想定だろう。西普天間住宅地では1995年に返還が合意されてから、跡地利用計画が決定されたのは25年後の2019年だった。西普天間住宅跡地では現在は琉大病院建設中で開院は2025年を予定している。西普天間住宅地では公園や住宅地整備もあり、更に年月を要するのが実態。返還跡地の活用計画決定と実施には幾つもの課題がある、地権者との合意、遺跡調査、不発弾処理などスムーズにいくケースはない。インダストリアルコリドー地区の事業完了は現在の計画は楽観的と思える。心配なのは計画を返還後としている点で、返還が遅れれば計画もそれに引きずれれ送れる点だ。現在まで5年間計画検討を放棄していた町の姿勢から見るとこの跡地計画のプライオリティーが低いのではとの疑いもある。うまくいけば2035年~2040年に計画実施となるのではとも思える。
わかる範囲で北谷、北前の史跡等を地図上にプロットしたのだが、重要な史跡はほとんどが基地内にあり、残念ながら訪問はかなわない。
北前区 (北谷之前屋取 [チャタンヌメーヤードゥイ]、字北前 / 石平屋取 [イシンダヤードゥイ])
北谷ヌ前集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: なし
- 拝所: 安良波ヌ岩 (アラファヌシー)、クワディーサービジュル (キャンプ端慶覧内 消滅)
- 井泉: なし
北谷ヌ前集落で行なわれた祭祀行事
- ニングワチャー (旧暦2月1~2日):ナーカヌシーを拝む。
- エイサー (旧暦7月): エイサー
石平屋取 (イシンダヤードゥイ)
石平屋取集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: なし
- 拝所: アラファヌシー (火ヌ神、ビジュル)
- 井泉: 石平樋川 (イシンダヒージャー キャンプ端慶覧内)、フシクブ (キャンプ端慶覧内)、前ヌ井 (メーヌカー キャンプ端慶覧内)、普天間樋川 (フテンマヒージャー 消滅)
石平屋取 (イシンダヤードゥイ) 集落で行なわれた祭祀行事
- クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日: 前屋取/西屋取/後屋取と東屋取の2か所に分かれて行なわれていた。
- エイサー (旧暦7月): エイサーの練習は墓の庭でしていた。当日は各家を回り、酒や寄附をもらっていた。
北前区公民館
普天間川、ニライ橋
テツドーミチ、軽便橋
安良波ヌ岩 (アラファヌシー)
安良波公園、アラハビーチ
インディアンオーク救助記念碑
字北谷 (チャタン)
北谷集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: なし
- 拝所: マタジ、クゥーディーサービジュル、長老山 (米軍基地内)、土帝君 (米軍基地内)
- 井泉: ウスクガー (米軍基地内合祀)、カンタヌカー (米軍基地内合祀)、イハガー、チブガー、塩川 (スーガ-)、ヰーグチ
北谷集落で行なわれた祭祀行事
- 北谷綱引 (ウーンナ 旧暦6月): 寅年には北谷三箇合同でウーンナが行なわれていた。
マタジ (マタジウカー、マタジ竜宮)
北谷ノロ殿内
綱のカヌチ根軸碑、北谷馬場 (チャタンウマィー) 跡
米軍キャンプ瑞慶覧のフェンス沿いに綱のカヌチ根軸碑が設置されている。この石碑は1988年 (昭和63年) にノ口殿内と郷友会によって建立されたもの。このー帯はウククヌメーヌモーグヮーと呼ばれる広場で、字北谷の人々が稲干しや、ウージンガラ (サトウキビの搾りガラ) を干す場所として利用したり、戦前には北谷三箇の大綱引きが行われていた。旧暦6月25日の綱引きには、このウククヌメーヌモーグヮーに設置されていたカヌチ根軸の石のところで両組の雌雄の綱をカヌチ棒を貫き連結させていた。綱引きの前にはカヌチ根軸で綱引きの御願を行っていた。かつてのカヌチ根軸はキャンプ端慶覧内になっているのでフェンス脇に石碑が設けられている。以前はフェンス前 (写真下) に置かれ、フェンス沿いを歩いて拝んでいたが、今は国道沿いに移されて御願がしやすくなっている。
キャンプ端慶覧
- 1945年 (昭和20年) 沖縄戦で軍事占領し、その後も現在でも継続使用されている。
- 1949年 (昭和24年) 普天満宮の地所を返還
- 1955年 (昭和30年) 宜野湾村の伊佐浜を銃剣とブルドーザーで強制接収。
- 1972年 (昭和47年) キャンプ瑞慶覧 (陸軍) とキャンプフォスター (海兵隊) が統合。
- 1975年 (昭和50年) 機構再編に伴い、陸軍から海兵隊に移管される。名称はキャンプ・フォスターに統一。
- 1976年 (昭和51年) にハンビー飛行場 (写真右上) 全面返還
- 2015年 (平成27年) 西普天間住宅地区約51ヘクタールが返還。
- 2020年 (令和2年) 北谷城のある施設技術部地区内の倉庫地区の一部約11ヘクタールが返還
- 2015年 (平成27年) 宜野湾市西普天間住宅地区 (51ヘクタール) 返還
- 2023年以降 北谷町インダストリアル・コリドー地区 (62ヘクタール)、北中城村ロウワー・プラザ地区 (23ヘクタール) 返還予定
- 2024年以降に喜舎場住宅地区 (5ヘクタール) の一部返還予定。
北谷番所跡、旧北玉小学校跡
北谷古島
参考資料
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
- 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
- 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
- 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
- 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
- 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
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