Okinawa 沖縄 #2 Day 279 (14/01/25) 旧中城間切 中城村 (19) Noborimata Hamlet 登又集落

旧中城間切 中城村 登又集落 (のぼりまた、ノボリマタ)

  • ケンドー (現県道29号線)
  • 野嵩への道
  • ハンタヌ毛 (モー)
  • 登橋、ウマアミサー
  • 米軍大砲陣地跡
  • スディバナバシ (袖離橋)
  • 普天間川 (スディバナガーラ)
  • スディバナビラ (袖離坂)

旧字伊舎堂に属していた地域

  • ブルミーグスク
  • アカモーグゥー (赤毛小)
  • 中城公園
  • バンジュ (番所) 道
  • モーヌチヂ (毛ヌ頂上)
  • ナガザンヤ
  • ヒージャー (樋川)
  • ニッタビラ
  • ウフクビリ
  • 節森原陣地跡
  • ハンタ道
  • シジムイ、シージマージ
  • マージヒージャー
  • 喜石原 (キイシヴァル) 古墓群
  • バンジュ (番所) 道

旧字添石に属していた地域

  • 大毛 (ウフモー)
  • ジーマー
  • 稲干し場 (ンヌフスー) 跡
  • 登又公民館 (村屋跡 ムラヤー)

旧字屋宜に属していた地域

  • 四号道
  • 新垣への道
  • ワクガー
  • 屋森 (ヤームイ)
  • 4号 (班) のカー、ウマアミシグムイ


中城村の集落巡りは、2022年8月から2024年1月まで、16回にわたって訪問してきた。まだ訪問していないのが登又集落だった。2024年2月に膝が痛み出し、なかなか痛みはひかず、歩行に支障が出るくらい悪化したので、病院に行き、ヒアルロン酸注射で治療、ジム通いで足に筋肉トレーニングをして、随分よくなったころから、足に負担が多くかかる地域は避けて、沖縄集落巡りを再開していた。今日訪れる登又は、丘陵に挟まれた谷間にあり、見学にはアップダウンを多いので後回しにしていた。ようやく膝も問題ないぐらいになったので、今日は中城村の最後の字の登又を訪問することにした。


旧中城間切 中城村 登又集落 (のぼりまた、ノボリマタ)

登又は、中城村の北西部に位置し、小高い山々に囲まれ、南東側の丘陵斜面部から北西に向け傾斜が続く地形になっている。北は北中城村、東は屋宜・添石・伊舎堂・泊、南は字新垣、西 は宜野湾市に接している。

字登又は明治時代末頃に行政区として独立している。伊舎堂や添石から登又に行く際に山を登り、村道のウフクビリで二又に分かれていたことから、登又と呼ばれるようになったと推測されている。
字登又は琉球王国時代は帰農士族が屋宜、添石、伊舎堂に移住し、荒蕪地を所有する人々に小作料を納めて、土地の開墾耕作を行ない生活を営んでいた屋取集落だった。登又が行政区として独立して誕生したのは1903 (明治36年) 以降で、地籍の変更は1945年 (昭和20年) に行われた。
現在の11の原名はそれぞれが以下の様に他の字より移管されている。
  • 字屋宜から: 屋宜後原 (やぎくしばる)
  • 字添石から: 添石袖花原 (そえしすでいばなばる)、大田原 (おおたばる)、添石登原 (そえしのぼりばる)、大瀬原 (おおせばる)、三田原 (みたばる)、節森原 (しじむいばる)
  • 字伊舎堂から: 喜石原 (きいしばる)、永田原 (ながたばる)、平田原 (ひらたばる)、犬野武原 (いんぬんばる)
家屋は、主に屋宜後原、添石袖花原、大田原、永田原、平田原に点在していた。

登又の屋取集落の始まり時期については、はっきりとしないのだが、明治期には27戸の家 があり、廃藩置県以前 (1879年) にはすでに屋取が存在していたようだ。明治、大正期にあった屋取集落として袖花屋取 (スディバナヤードゥィ) 屋取、屋良小屋取 (ヤラグヮーヤードゥイ) と記載が見られ、戦前まで登又全体を袖花屋取 (スディバナヤードゥィ) 屋取と呼んでいた。屋号比嘉、我謝、知名が比較的早い時期から移住してきたといわれている。登又の人々は、帰農したとはいえ、士族なので、恰好や習慣にも士族意識が表れており、着物の柄は大きくて派手なものを着用し、着物や襟の整え方にこだわりがあったという。

登又は家屋が点在しているため、 共同作業などは村屋 (ムラヤー 現在の登又公民館) の南を前方 (メーヒン) と北を後方 (クシヒン) に分かれて行っていた。さらに、現在の班にあたる「号」 と呼ばれる社会組織を下図の様に形成していた。
明治時代末頃に行政区として独立した後、1919年 (大正8年) の人口は、429人 (81戸) で中城村の中では比較的人口の少ない地域だった。明治期には27戸というので、この短期間で3倍近くも戸数が増えている。その後は、中城村の中の字では人口増加率は3番目に大きく、2023年末現在では761人と村では中堅の地域となっている。

沖縄戦で登又集落の47%もの戦没者を出したことで、人口は激減したのだが、その後次第の人口が増え、1989年に戦前レベルの人口に戻っている。それ以降2000年までは順調にj人口は増えていき750人程度まで達している。そこからは人口は増減を繰り返し、近年では減少傾向になっている。

沖縄戦での戦没者は中城村全体の48%に対して、47%とわずかに下回っているが、中城村之戦没者率は他の地域に比べ突出している。登又の戦没者率はは中城村では大きくないのだが、47%は二人に一人が亡くなったということで、ここでも悲劇が起きていたことが判る。4月1日に北谷、読谷の海岸に上陸した米軍は、3日にはこの登又にも侵攻している。登又集落は、日本軍が陣を敷いていた、野嵩、中城グスク、新垣グスクに囲まれた地点にあり、米軍は登又に大砲を設置していた。この様な状況で、登又集落は戦場となり、大きな損害を受けている。



ケンドー (現県道29号線)

国道330号線を通り、宜野湾市字上原で那覇市泊と北中城村安谷屋を結ぶ県道29号線 (那覇北中城線) にはいり、登又集落に向かう。県道29号線は戦前、1930年 (昭和5年) 頃に開通し、ケンドーと呼ばれていた。宜野湾や新垣に行くときに利用した道で、戦前の登又では一番大きな道だった。この道が開通する以前は、製糖時期になると野嵩の中心部まで運ぶ光景が見られたが、ケンドーが開通すると登又から他集落まで荷馬車の往来が可能になり、負担が少なくなり生産性が高まったという。


野嵩への道

ケンドー開通以前に野嵩への道は何本かある。野嵩は登又の西側の丘陵の上にあり、野嵩への道はきつい登坂だった。ケンドー開通で、野嵩へはケンドーを利用していたので、以前の野嵩への道は使われなくなった。現在では道は途中で消滅している。


ハンタヌ毛 (モー)

野嵩へは登又の西側の丘陵の崖を登るのだが、この丘陵斜面にハンタヌ毛と呼ばれた広場があり、野嵩の人と一緒にモーアシビー(毛遊び)をしていたという。


登橋、ウマアミサー

ハンタヌ毛から県道を北に進み、道から東に外れた普天間川に登橋が架かっている。かつては石橋だった。四号 (班) があったことから、四号橋とも呼ばれていた。メーヒンの人々が協力して、ウフクビリから切り出した石を背に担いで運こび、石橋を支えるイシジリヤー (土台) を川の中に沈め、丸太を紐でくびってイシジリヤーの上に吊り下げ、対岸側から紐を引っ張って丸太を落とし、土台を固定し、1929年 (昭和4年) に完成させた。登又から野嵩や新垣に行く時にはここを通っていた。それまでは、普天間川のこの辺りには橋はなく、川に石を並べて通っていた。橋を架けたことにより道の整備が進み、生活の質が向上している。この登橋の下にはクムイがあり、橋のそばから川に下りることができた。このクムイでは馬や牛を洗うウマアミサーとして使われていた。


米軍大砲陣地跡

ケンドーと登橋の間には、沖縄戦では米軍が大砲を据え付け、日本軍を攻撃していたそうだ。この場所からは、日本軍陣地があった新垣グスクが良く見えるので、多分そこに布陣していた日本軍を砲撃していたのだろう。1945年 (昭和20年) 4月3日夜、中城城跡にいた独立歩兵第12大隊第3中隊は新垣グスクへ撤退し、4日には、米軍の激しい攻撃を受け、多くの死傷者を出している。


スディバナバシ (袖離橋)

県道を更に北に進み、途中道を東に外れ、登又集落方面に進むと、普天間川に我謝橋が架かっている。ちょうど、かつては字伊舎堂に属していた永田原と平田原の境界線上にある。この橋は以前は、袖離橋 (スディバナバシ) と呼ばれていた。この地域は袖離 (スディバナ) と呼ばれていたのでは橋に名となっていた。屋号我謝の家が近くにあったので、我謝橋と呼ぶようになったともいわれる。戦前はこの橋の下の川で馬に水浴び (ウマアミサー) をさせ洗っていたそうだ。この場所以外にも、スディバナガーラは所々窪みがあり、その窪みを利用して馬や牛に水浴びをさせたり、子ども達の遊び場として利用されていた。

スディバナ (袖離) の由来は諸説ある。

第一尚氏時代六大尚泰久王により中城城の護佐丸が討たれ、乳母が護佐丸の息子の盛親を抱いて逃げていると、追手に袖を掴まれた。乳母はその袖をちぎって逃げ延びたことから、その地域一帯を「スディバナ (神離)」と呼ぶようになったという。また、護佐丸を撃った阿麻和利が次には首里王府を攻める準備をしていた。これを知った阿麻和利の妻百度踏揚は首里王府に通報し、鬼大城が首里から勝蓮城に使わされ、百度踏揚を背負い救出して首里へ向かった。逃げる途中に追手に袖を掴まれ、それをちぎって逃げたという伝承もある。盛親の乳母が百度踏揚に変わっている。この袖ををちぎって逃げた伝承の地は、現在宜野湾市野嵩にあるスディバナビラ (野嵩の石畳道) ともスディバナガーラ (普天間川) とも言われている。野嵩に伝わるスディバナ伝承は少し異なっており、追っ手が射かけた矢でより百度踏揚彼の着物の袖がちぎれてしまったという。

普天間川 (スディバナガーラ)

ここを流れる川は、登又集落の西側を字新垣から北中城村を通っている普天間川だが、登又集落ではスディパナガーラ (袖離川) と呼ばれていた。

1700年代後半に作成された『間切図』では、中城間切の西側を横断する川の様子が確認できる。スディバナガーラには、昭和初期頃まで橋が架けられておらず、川底に平たい石を敷いてその上を渡 り歩いたという。


スディバナビラ (袖離坂)

登又集落からスディバナ橋を渡り、現県道29 号線へ出る坂道はスディバナビラ (袖離坂) と呼ばれる。この坂は東側はバンジュ道につながり、中城城跡へ続く。所在は宜野湾市野嵩となっている。ここは、首里王府からの情報を各間切に周知徹底させるために整備された宿道の一部で、少なくとも1700年代後半には利用されて いたと考えられる。現県道29号線の西側からスディバナ橋まで石畳道で、その全長は約120メートルだった。登又では、主にクシヒンの人が野嵩へ向かう際 に利用していた。スディバナビラは県道29号で分断されているが、県道から野嵩へ向かう坂は現座では復元工事 (写真下) が続いている。


旧字伊舎堂に属していた地域

ここからかつては字伊舎堂に属していた地域を散策する。


ブルミーグスク

スディバナビラからスディバナ橋をとおり北に向かうとブルミーグスクと呼ばれた山がある。この山の由来は諸説あり、集団の埋葬地であったことから、ムル (皆) ウミ (埋める) が訛ってブルミーと呼ばれるようになったという伝承や、中城城跡から派遣された見張り番が住み、周りを全て見渡せる諸見 (モロミ) の場所であることから、そう呼ばれるようになったという伝承が残され ている。現在は、家が立ち並んでいる。

アカモーグゥー (赤毛小)

ブルミーグスクの南側にはアカモーグゥー (赤毛小) と呼ばれた山がある。戦前は松の木がまばらに生え、カヤモーが生い茂っていた。山の頂上が赤土であったため、アカモーグゥー (赤毛小)と呼ばれていた。沖縄戦の前までには旧日本軍の射撃演習場として使われていた。中城公園西駐車場付近では匍匐前進や駆け足の訓練もしていたという。


中城公園

アカモーグゥー (赤毛小) の北側は中城村と北中城村にまたがった中城公園が整備されている。

中城公園は1950年 (昭和25年) に中城城跡の一帯を整備して開園している。軍政府はレクリエーション施設の候補として中城城跡として1946年 (昭和21年) の軍民連絡会議で決定、1948年 (昭和23年) に中城村が公園の管理経営申請を沖縄民政府に提出して認可された。1950年 (昭和25年) に中城村と北中城村で公園経営を行う中城公園組合を設立したが、中城公園組合は、1955年 (昭和30年) に経営難に陥り、実業家の高良一にホテルの建設込みの条件で営業権を譲渡し、高良は、動物園の整備や軽便鉄道の敷設など、さまざまなアイデアで来園者を集めた。中城高原ホテルはこの地域一帯が文化財指定にされたことにより、営業2ヶ月で営業中止に追い込まれた事は伊舎堂集落を巡った際に触れている。その後もこの中城公園は何回か拡張整備がされている。


バンジュ (番所) 道

琉球王国時代、スディバナビラからスディバナ橋を通り、坂道を進んで中城城跡の正面門へ続く道があった。この道は、1671年に宜野湾間切が新設された際に、首里王府からの情報を各間切に周知徹底させるために整備され、中頭方東海道の宿道の一部だった。中頭方東海道は、首里王府から各間切番所 (西原、宜野湾) を経由してスディバナビラを通り、中城城跡内に設けられた中城間切番所を通って越来、具志川間切番所へ北上する道で、番所間を結ぶ道であることから 登又ではバンジュ (番所) 道と呼んでいた。戦前は、石畳の坂道だったが中城公園建設で道は分断され、道は草木が生い茂り、一部は消滅している。残っている部分を探そうと中城グスクに向かって道を登っていったのだが、かつての道付近は工事中でそれ以上進めなかった。

中城村と北中城村では中城公園の整備工事が続いており、この工事中の場所は中城グスク西駐車場のようだ。


モーヌチヂ (毛ヌ頂上)

登又公民館から北側にあったモー(毛)のこと。 戦前は今よりも高い山で、松の木がまばらに生え、 カヤモーや畑があったことから、モー (毛) の チヂ (頂上) と呼ばれるようになったのではな いかと言われている。現在は一部に家屋が建てら れている。


ナガザンヤ

バンジュ道の途中にあり、中城城跡から西側にあった山のこと。ここは木々が生い茂っており、 南北に細長い地形であったことから、そう呼ばれ るようになったのではないかと言われている。

ヒージャー (樋川)

バンジュ道を進むと、その南東側は山になっており、その中に岩の間から水がチョロチョロと流れ、日照りが続いた時も涸れることはなかったという。現在では消滅してしまったようだ。

バンジュ (番所) 道が途切れていたので、別ルートで中城グスク側に行き、その辺りにバンジュ (番所) 道の痕跡があるかを探すことにした。中城公園の西駐車場まで戻り、オーシャン キャッスルカントリークラブを突っ切る道を登っていく。


ニッタビラ

ウフクビリに向かっていく道をしばらく行くと坂道になり、この坂はニッタビラと呼ばれていた。この坂道には、滑り止めとして石が敷かれていたという。名称の由来は不明。戦後はウフクビリ線として整備され、登又と添石を結ぶの主要道路となっている。


ウフクビリ

ニッタビラを登り切った山の頂上はウフクビリと呼ばれている。道は細く、両端が高く盛り上がっている様子から、ウ (大きい)、クビリ(くびり) と呼ばれるよう になったと伝えられている。戦前、ここは中城城跡に向かう中城ハンタ道、登又集落の北西側への道、登又村屋 (ムラヤー) へ向かう道、添石へ向かう道の合流地点だった。 沖縄戦ではこのウフクビリ付近に独立歩兵第12大隊歩兵砲中隊の1個小隊 (50人程度) が配置され、ここには大砲などが設置されていた。部隊は沖縄戦が始まる前、1945年 (昭和20年) 2月に越来村へ配置変更となったが、4 月に米軍上陸後に再び中城村へ戻り、戦闘に参加している。


節森原陣地跡

小字節森原 (シジムイバル) のウフクビリのすぐ北側、ゴルフ場内に、先に触れた歩兵第12大隊歩兵砲中隊の1個小隊の機関銃陣地があったそうだ。


ハンタ道

ウフクビリに歩道橋がかかっており、ゴルフ場造成で分断されたハンタ道が再開し、中城グスクまで続いている。このハンタ道は何度も歩いている。今回は喜石原 (キイシヴァル) 古墓群の見学と、バンジュ (番所) 道を目指して歩く。

ハンタ道の中城グスクに近い部分は以前訪れた際はまだ復元工事中だったが、今日来てみると、工事は終わり、綺麗に石畳と石垣が復元されていた。

ハンタ道を進むと道が分岐している。この分岐している道が喜石原 (キイシヴァル) 古墓群への道になる。


シジムイ、シージマージ

オーシャンキャッスル カントリークラブの中にはシジムイと呼ばれる丘が残っている。由来は定かではないが、シジ高い (霊力が高く神聖である) 場所であったと伝えられている。ここには松の木とシバクサ (芝) が生い茂り、鬱蒼としていたという。登又の子ども達は、ここで山羊のエサとなるシバクサを刈り取った後に、傾斜地にあった大きな岩石に登って遊んだという。シジムイの北側の丘陵はシージマージと呼ばれている。土質が弱酸性~弱アルカリ性の琉球石灰岩を母材とする土壌の島尻マージであったため、シーシ(添石)マージ(島尻マージ)と呼ばれるようになったと伝えられている。島尻マージは透水性があり、この周辺には井戸が数か所掘られていた。


マージヒージャー

道はオーシャンキャッスル カントリークラブ沿いに通っており、樹々の途切れから、シジムイが見える、シジムイとシージマージの間ゴルフ場内にはマージヒージャーと呼ばれる滾々と湧き水が溢れていた井戸がある。現在はオーシャンキャッスルカントリークラブ (ゴルフ場) の池の一部となっている。


喜石原 (キイシヴァル) 古墓群

この付近には集落東側には約300基におよぶ古墓群がある。その古墓の種類は、風葬墓、掘り込み墓、破風墓、亀甲墓など多種にわたっている。

ペリー提督が来琉した際に大琉球奥地踏査隊が中城グスクに立ち寄っているが、この喜石原古墓群と思われる墓群の記載が日本遠征記にみられる。


バンジュ (番所) 道

喜石原古墓群の道を進むと細い道が中城公園方向に伸びている。これが、途中消滅しているバンジュ (番所) 道だろうか?



旧字添石に属していた地域

ウフクビリに戻り、そこから登又集落の北西側への大瀬道を降りていく、この道とニッタビラの道の間の地域は、かつては字添石に属していた。


大毛 (ウフモー)

オーシャンキャッスルカントリークラブの事務所の北側の山を大毛 (ウフモー) と呼んでいた。添石や伊舎堂の人のカヤモー (茅毛) があり、山全体は松の木で覆われていたという。また、山が高く急斜面であったため、ウフモーの頂上ではよく地滑りが発生したことから、クウリ (崩れる、壊れる) と呼ばれることもあった。野嵩側からウ フモーを見ると、頂上は度重なる地滑りで地肌 がむき出しになってお り、まるでカンパチ (頭の傷やできものが治った後にできるつるつるした部分) のように見えるこ とから、ウフモーの頂上をウフモーのカンパチ と呼んでいた。沖縄戦では、このウフモーに旧日本軍独立歩兵第12大隊第3中隊が陣地を構築をしていた。現在では大毛 (ウフモー) の上の部分はゴルフ場造成で削られ、昔の面影は無くなっている。


ジーマー

オーシャンキャッスルカントリークラブの駐車場南西側の山をジーマーと呼んでいた。ここ は、字屋宜と登又の境界であることから、ジー (屋宜地との) マー (間) と呼ばれるようになっ たのではないかと言われている。メーヒンの子ども達はジーマーを通る道を利用して登校していたが、あまりにも急斜面なため、道端に生えている グシチ (ススキ) を必死に掴みながら屋宜に下りたという。


稲干し場 (ンヌフスー) 跡

現在のオーシャン キャッスルカントリークラブのゴルフ場は、戦前には添石や伊舎堂の人の田んぼが多くあった。現在はゴルフ場として整地され地形が変わってしまったのだが、その北側は高台になっており、古い時代には添石や伊舎堂の人々が稲を干していた場所で、「ンヌ(稲) フスー (干し場)」と呼ばれていた。また、高台斜面には数ヶ所の防空壕が掘られ、沖縄戦では住民の避難場所となっていた。

登又公民館 (村屋跡 ムラヤー)

琉球王国時代には添石に属していた太田原、永田原、三田原の境界に登又公民館が建っている。このすぐ北に、戦前には茅葺屋 (カヤブチヤー) の村屋 (ムラヤー) が置かれていた。村屋 (ムラヤー) では、学事奨励会などが行われたという。戦時中は女性を集めて竹槍訓練を行うこともあった。1944年頃には集落内の未就学児はム ラヤーに集められ、一高女の学生が2、3人で首里から通い、子ども達の面倒を見ていたという。 学生の食事は婦人会が用意して提供したという。


旧字屋宜に属していた地域

大瀬道の南側は小字屋宜後原で、登又が独立行政区になる前は字屋宜に属していた。次はこの地域を見ていく。


四号道

大瀬道を降りていくと、集落南東側にあった屋取集落がある。この屋取集落は4号 (班) とされ、その班の集落を通っていることから、四号道と呼ばれていた。現在の大瀬道とほぼ同じルートだったようだ、この道は北西側の森小 (ムイグヮ) までの道で、森小の西にある登橋が完成する以前はこの道を主に利用して野嵩や宜野湾に行っていた。

新垣への道

四号道の両側は屋宜後原の4号 (班) の住宅地になる。かつては屋取集落で数軒しか民家はなかった。ここから新垣のサンヒルズタウンの北側を通る道がある。ケンドー (県道29号線から35号線) ができる前は、新垣に行くときにはこの道を利用していたそうだ。現在は道は消滅してしまった。

ワクガー

4号 (班) にはワクガーという井泉があったという。岩の間から水が流れて、下の窪みに溜まるようになっており、日照りの時も水が涸れるこ とがなく、他の号 (班) からも水を汲みに来てい たという。この近くの畑におじいがいたので、このワクガ-の場所を尋ねた。昔はこの近くに井戸があったのだが、現在も残っているかは分からないとのこと。教えられた所に行くが、井戸は見あたらない。ただ、水路らしき先に石が敷き詰められた場所があった。ここがかつてのワクガ-だったのだろうか?


屋森 (ヤームイ)

サンヒルズタウンとオーシャンキャッスルカントリークラブの間に山がある。家の 屋根に見えることから、屋森 (ヤームイ)と呼ばれ、戦前は松の木が生い茂っていた。サンヒルズタウンの端から屋森への階段があったが、道は途中で消滅していた。


4号 (班) のカー、ウマアミシグムイ

1993年 (平成5年) に字新垣の北の端の下川原と岡武座原と字登又にまたがって造られた中城サンヒルズタウンの中にさくら公園がある。この公園付近にはウマアミシグムイとその隣には井戸 (カー) があったそうだ。このカーには周辺に住む女性が集まり、 洗濯や洗い物をする光景がよく見られたという。


これで登又集落の散策は終了。気になったのは、散策中に頻繁に米軍飛行機やヘリコプターがかなりの爆音を発しながら、村の上を通過し、登又集落の西側には米軍普天間飛行場で離発着をしている。スマホでもはっきりと写るぐらいの低空飛行だ。


今日は出発が遅かったせいもあり、帰路に着いたのは5時を超えていた。家近くになると、あたりは暗くなっていた。


参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ14 登又 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村の屋取 中城村の文化財 第7集 (2004 中城村教育委員会)_compressed
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

Kazu Bike Journey

0コメント

  • 1000 / 1000