Okinawa 沖縄 #2 Day 181 (13/05/22) 旧真和志村 (14) Yogi Hamlet 与儀集落

旧真和志村 与儀集落 (よぎ、ユージ)

  • 東ヌ御嶽(アガリノウタキ)
  • 東ヌ井泉 (アガリヌカー)
  • 与儀ヌ村井戸 (ユージヌムラガー)
  • 与儀ヌ大川 (ユージヌウブガー)
  • タンク跡の拝所
  • 与儀公民館
  • ヨリノ御嶽(ヨリノウタキ)
  • 根屋ヌ御殿
  • 根家ヌ井 (ニーヤヌカー)
  • 合祀拝所
  • 竹葺 (ダキブチ) ヌ神屋
  • 骨神ヌ御嶽
  • 唐・今帰仁・先樋川ヌ通し拝所
  • ウラン毛下の井戸(ウランモーシチャヌカー)
  • 地頭火ヌ神
  • 与儀橋
  • 那覇日本政府南方連絡事務所跡
  • わら墓
  • トックリキワタ通り

沖縄は梅雨が始まり連日雨が降っており、外出を控えていたが、いつまで雨が続くか分からず、痺れを切らして、比較的雨足が弱い今日は、雨の中、近場の集落を徒歩にてめぐる事にした。今住んでいる国場の隣の集落の与儀を訪問する。



旧真和志村 与儀集落 (よぎ、ユージ)

与儀村については、琉球国由来記及び旧記、球陽、その他の文献にも記録されたものがないので、今のところ不明だが、古くから与儀の発祥については、国場の焼瓦の祖、唐大主と、渡嘉敷真三郎と関係があったのではないかと考えられる。与儀の旧家である宮里の先祖は渡嘉敷真三郎の子孫だと伝えられているので、与儀の部落が、渡嘉敷真三郎の子孫に依って作られたのではないかとも考えられている。現在でも、壺屋の旧家である壺屋与儀小、島袋、高江洲、城間一門も与儀の大獄を祭祀している。地理的にも与儀と壺屋は隣接し、壺屋村ができる以前は、壺屋も与儀に属していたのではないかと考えられる。
現在の県庁付近から城岳小学校 (側に古波蔵馬場) 側を抜け坂道を下り330号線(元鉄道路線)を横切ったあたりの集落が与儀だった。
与儀集落には七村元 (ナナムートゥ) と呼ばれる以下の宗家が七軒存在しており、現在も続いている。上位 (イー、与儀巫殿内)、竹葺 (ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)、大東 (ウフアガリ、宮城)、大西 (ウフイリ、城間)、御殿屋 (ウドゥンヤー、城間で大東の分家)、大嶺 (ウフンミ、大嶺)、勢理 (シリー、城間)、下仲 (シチャナーカ、島袋) の七つの門中にあたる。
琉球王統時代の与儀は今よりもっと広範囲に広がっており、現在の樋川、寄宮、壺屋もその管轄内にあった。1919年 (大正8年) の地図には、まだ樋川と寄宮には民家は見当たらない。
その名残りなのだろうか、国場には与儀げんき公園と与儀おもしろ公園があり、「与儀」の名が残っている。

与儀おもしろ公園

与儀げんき公園

樋川は1928年 (昭和3年)、寄宮は1946年 (昭和21年)、壺屋は1979年 (昭和54年) に与儀から独立行政区となっている。

与儀の人口は戦前に比べると10倍以上に増えているのだが、与儀地区土地区画整理事業が実行されたが、その効果は与儀では見られない。近年は人口が徐々に減少している。これは旧真和志村全体についても共通の傾向だ。

元々の集落の地域は戦前までそれ程は拡張していない。戦後は、集落は米軍の接収対象外であったことで、以前の集落に人が戻っている。与儀の南側には小波蔵にまたがってタンクファームが見られる。このタンクファームが返還された1972年までは、その北側に民家が見終始、返還後、跡地は儀地区土地区画整理事業にて住宅地へ開発されている。現在は地期のほぼ全土に民家が密集している。

与儀の自治会 (八三会) で行われている祭祀は以下の通りで、かつて行われていた祭祀の主要な行事が続けられていることが判る。


かつてこの与儀村、国場村、小波蔵村の祭祀は楚辺ノロによって執り行われていた。


与儀集落訪問ログ



東ヌ御嶽(アガリノウタキ)

与儀集落の南には東ヌ御嶽(アガリノウタキ)がある。集落の南側、そして東にある。かって、与儀部落は、與儀邑 (ユージムラ) の與儀原 (ゆんじょうばる) にあり、一番低い所村の真ん中から、西側の小高い杜を西村渠 (イリンダカリ)、東側の小高い杜を東村渠 (アガリンダカリ) と分けて屋号をつけていた。この拝所にはこの東村渠 (アガリンダカリ) にある。これ以上の情報は見当たらず。

東ヌ井泉 (アガリヌカー)

東ヌ御嶽(アガリノウタキ)のすぐ近くに東ヌ井泉 (アガリヌカー) がある。集落東側の東村渠 (アガリンダカリ) の上の方にある井戸の為、東側に住む人は、上の方の井 (ウイヌカー) と言った。東ヌ井泉 (アガリヌカー) は村井 (ムラガー) では、村の行事の時は、ここの水を使っていた。

与儀ヌ村井戸 (ユージヌムラガー)

東ヌ井泉 (アガリヌカー) のすぐ側の十字路付近に与儀ヌ村井戸 (ユージヌムラガー) がある。与儀集落の村井戸という事で、村の共同井戸として使われていたのだろう。

与儀ヌ大川 (ユージヌウブガー)

この地域にはもう一つ井戸跡があった。与儀ヌ大川 (ユージヌウブガー) で、東村渠 (アガリンダカリ) の産井 (ウブガー) だった。若水 (ワカミジ)、産水 (ウブミジ) として使用されていた。

タンク跡の拝所

与儀集落の南側に拝所があった。タンク跡の拝所と書かれていた。この辺りから、古波蔵の熊本鎮台分営所跡あたりまでには、戦後、1952年に造られた米軍の燃料基地があり、与儀タンクファームと呼ばれ、那覇港から燃料を汲み上げてここで貯蔵し、パイプラインで嘉手納基地に供給していた。与儀タンク地が、永年の撤去運動の結果、1972年に沖縄返還の前日に開放され、1973年~1997年にかけて返還跡地に与儀地区土地区画整理事業が行われて住宅地として開発された。

この区画整理の時に道路となり、拝所がここに移された。その後、地域が開発され、2020年に沖銀与儀支店の移転に伴い、駐車場の中央近くにあった拝所を、更に綺麗にして移築している。


与儀公民館

与儀集落の北側に公民館がある。与儀八三会会館という。登記法が実施された当時、与儀の世帯数が83戸であったのでという説と、与儀の共有地の名義人が83名であった。または、登記名義人(有力者名)外83名であったとの説があるが、いずれにせよ83という数字が基本になり八三会となったそうだ。この公民館の敷地内に幾つかの拝所がある。

ヨリノ御嶽(ヨリノウタキ)

公民館の中にヨリノ御嶽 (ヨリノウタキ) と石碑が建てられた御嶽がある。この公民館の敷地全体が御嶽だったそうだ。昔から、与儀又は與儀 (ユージ) と呼ばれていたので、いかなる経緯でこのヨリの名前になったのかは不明。祠の中には根家 (ニーヤ) の火ヌ神、村の根家先祖のイビ (憑依、霊石)、以前使われていた香炉が取り外さず置かれている。

根屋ヌ御殿

ヨリノ御嶽の隣にある祠は与儀集落発生の地、国元 (クニムトゥー) の元家 (ムゥートゥヤー) があった場所で根所 (ニードクゥル) と伝わっている。戦後に造られているのだが、戦前にあったかは不明だそうだ。上位 (ウィー)、勢理 (シリー)、下仲 (シチャナーカ) の三門中が祀られている。村の出来事の報告や村の人々の繁栄、土地からの恵みに感謝し御願している。

根家ヌ井 (ニーヤヌカー)

根屋ヌ御殿の隣にはグサイにあたる井戸跡があり、井戸の上に祠が造られている。

合祀拝所

看護大学建設に際に、その予定地にあった拝所をこの場所に移して合祀している。合祀されているのは、殿小 (トングヮー、糸満出身者の糸満の殿への通し) と、世聖神 (ユンシージ)で、旧1日と15日に拝んでいる。
公民館敷地内に三線を演奏している銅像が置かれている。那覇市与儀で生まれ育った城間徳太郎が、平成十七年に国指定無形文化財「組踊音楽歌三線」保持者として認定された事を記念して造られたそうだ。今もなお、沖縄の古典音楽部門を代表する1人として活躍している。

竹葺 (ダキブチ) ヌ神屋

公民館の上に与儀の根家である上位 (イイ) の子孫が代々管理している神屋がある。与儀集落で御願している。門中は、上位 (イイ) ダキブチと呼ばれている。屋敷まわりには、いくつかの御拝所 (ウガンジュ) がある

骨神ヌ御嶽

竹葺 (ダキブチ) ヌ神屋の奥には骨神ヌ御嶽と呼ばれる拝所がある。上位門中 (イイモンチユウ) 中心の拝所だそうだ。井戸跡 (写真右中) もあった。多分これが資料にあった上位ヌ泉 (イイヌセン) だろう。

唐・今帰仁・先樋川ヌ通し拝所

骨神ヌ御嶽への道の途中にも拝所がある。これは唐、今帰仁、先樋川への遥拝所となっている。

ウラン毛下の井戸(ウランモーシチャヌカー)

与儀集落の北側は西村渠 (イリンダカリ) にあたり、この辺りはウラン毛と呼ばれていた。そのウラン毛にウラン毛下の井戸(ウランモーシチャヌカー)という井戸があり、ウフガーとも呼ばれている。

地頭火ヌ神

ウラン毛下の井戸の近くに、火ヌ神を祀った拝所がある。嘉手納から赴任した地頭が住んでいた所と伝わる。


与儀土帝君堂

与儀小学校南側の門の近くはアカムヤー毛いう地域にあたる。与儀小学校建設にともなって、敷地内にあった拝所をここに移し祀っている。与儀土帝君堂 (トゥンティクゥンドウ) と呼ばれている。祠の中にイビ石があり、土地の神として、ウムマチーヌ神や火の神が祀られている。右側には、与儀小学校敷地内にあった2つの井戸を移し形式保存し祀っている。

与儀橋

与儀集落の北側の外れには与儀公園がありその交差点は長い間工事中だったがやっと終わった。この工事の際に、かつて存在していたアーチ型の古い与儀橋の石積みが発掘された。大正時代の初め頃に架けられたそうだ。この辺りは船増原と呼ばれていた。与儀橋は与儀の与武門原に発し、美栄橋に至る久茂地川に架かっていた。昔はここまで那覇港の入江が食い込んでいたので、この辺りには山原船の繋留地があったと推測されている。

那覇日本政府南方連絡事務所跡

1952年、GHQから「琉球諸島における日本政府連絡事務所の設置に関する件」と題する覚書が発出され、現地連絡機関の設置が認められ、この与儀交差点の那覇警察署がある場所に那覇日本政府南方連絡事務所が置かれていた。(奄美群島に名瀬日本政府南方連絡事務所出張所があった)
当初は、渡航事務 (パスポート発行で当時は沖縄と本土の行き来にはパスポートが必要だった。) や文化交流など在外公館的な業務が主だった。
1968年に米国民政府との協議が可能になるなど次第に権限を拡大していった。沖縄・北方対策庁沖縄事務局を経て、本土復帰後は沖縄開発庁沖縄総合事務局に改組、現在の沖縄総合事務局にいたる。(現在はおもろまちに移転)警察署の敷地の一画に記念碑が建てられている。

わら墓

那覇日本政府南方連絡事務所がある那覇警察署の隣が赤十字病院で、その裏側に、与儀集落の門中の元屋 (ムートゥーヤー 本家の意味) の古墳群がある。ここでは門中の祖先の霊を祀る神御清明 (カミウシーミー) が行われている。

トックリキワタ通り

与儀には10月に祭が開催されている。トックリキワタまつりで、与儀の中に通るトックリキワタ通りで催されている。名の通り、木の幹が徳利の様に膨らんだトックリキワタが植っている並木通りだ。
トックリキワタは南米から1960年代に輸入され、県全土に広がっていった。幹が徳利の様になっており、思いっきり肥満体型のものも良く見かける。10月から綺麗な花が咲き、その後、綿状になって実をつける。色々な公園で見られる。

このトックリキワタの花を見たくて11月27日に再訪した。トックリキワタまつりは先週に終ってしまったのだが、通りには花を咲かせたトックリキワタが並んでいる。花が散ってしまったものもあって満開時は既に過ぎてしまったようだ。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)

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