Okinawa 沖縄 #2 Day 127 (23/08/21) 旧喜屋武 (2) Kyan Hamlet 喜屋武集落

旧喜屋武 喜屋武集落 (きゃん、チャン)

  • 喜屋武古島
  • 喜屋武公民館
  • 公民館裏の拝所
  • 喜屋武公園
  • トンヌマー壕
  • 中の殿 (ナカヌトゥン) ④
  • 仲間ウフグル ⑤
  • 志礼の殿 (シリーヌトゥン) ⑦
  • 奥間の殿 (ウクマヌトゥン) ③
  • ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) ①
  • 仲間 (ナカマ) の神屋 ②
  • 本部屋 (ムトゥブヤー) の神屋 / 村屋跡 ⑥
  • 喜屋武国民学校跡 (現 喜屋武小学校)
  • 喜屋武小学校前の拝所 ⑭
  • 喜屋武間切番所跡 / ヘーランメー 1⃣
  • ナカジン ⑪
  • 南ン徳嶺 (ヘーントゥクンニ) と新東玉井 (ミーアガイダマイ) の間の拝所 ⑫
  • 大前原 (ウーメーバル) の神屋 ⑮
  • スンドゥンチ ⑩
  • ヒジャングワー ⑬
  • ンニグチ井泉 (ガー) ❸
  • 火立て (ヒータティー) ⑴
  • 並里の殿 (ナンザトゥヌトゥン) ⑧
  • 並里井泉 (ナンザトゥガー) ❹
  • クバ殿 (クバドゥン) ⑨
  • マールグヮー / マーチューグヮー 2⃣
  • 喜屋武馬場 (チャンンマバ) 3⃣
  • 喜屋武古グスク
  • 喜屋武漁港
  • 喜屋武の浜
  • チクグ井泉 (ガー) ❷
  • 喜屋武井泉 (チャンガー) ❶
  • ジルーメーの拝所 ⑯
  • 具志川グスク跡
  • トーチカ跡 [未訪問]
  • 喜屋武岬/平和の塔
  • 喜屋埼灯台
  • カタハラグスク


旧喜屋武 喜屋武集落 (きゃん、チャン)

喜屋武集落は糸満市の南西部に位置する集落。旧喜屋武村の中心の存在で、村の中でも最も人口も多く集落も広がり、喜屋武間切番所 (明治後半からは村役場) があった。喜屋武地域はで、サトウキヒの他、野菜、花き等の栽培が盛んで、人参の一大産地にもなっている。戦前から引き継がれる地域の様々な伝統文化や行事が今でも継承されている。喜屋武ハーリー、喜屋武工イサー、アプシバレー、ピーリンポーリン、カマサーウグヮン等、他地域と比べると地域特有の伝統芸能や行事が多い地区で、伝統文化の継承等を通した「ふるさとづくり」に取り組み、「沖縄ふるさと百選」の集落部門に認定されている。
沖縄戦前夜では人口は1,126人だったが、戦争で住民の約25%が犠牲となり、戦後880人で村の再建が始まる。沖縄本土復帰以降、人口は増え、1986年には1500人を超えるまでになった。しかしそれ以降は人口減少となり、現在では1085人と沖縄戦前の人口をも下回ることになっている。この喜屋武集落も、過疎化が大きな課題となっている。喜屋武漁港で出会った漁師さん (70才ぐらいの人) の話では子供の頃は小学校は書く学年で2クラスあったが今は1クラスになってしまった。この地域の小学校は喜屋武小学校だが、児童数は78人で各学年10-15名で、沖縄南部では最も小さい小学校だ。 

集落内には多くの空き地が目立っていた。これまで多くの集落を巡ったが、かなり過疎化が進んでいる集落の一つに思える。ここは那覇からは僅か15km-17km程なのだが、那覇から離れるに従い、この過疎化傾向は顕著になっている。特にこの島尻の南部は危機的状況にある様に思える。

民家の分布の変遷の地図を見ても、1919年と比べてもそれほど広がっていない。糸満市の中でも、行政政策の大規模公営住宅建設は北側に集中しており、旧喜屋武村には建設されておらず、行政にとって優先度が低いのかも知れない。
昔からの祭祀の殆どが現在でも継続されている。これは他の集落と比較しても珍しい。伝統文化を守る傾向にある事が分かる。反面、保守的な地域とも言えるかも知れない。
糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会) を参考に文化財をめぐる。

喜屋武集落訪問ログ


8月19日に福地集落訪問の後、時間があったので、隣村の喜屋武集落にある文化財の一部を巡る事にした。



喜屋武古島

福地集落から東に向かうと、南側が長い丘陵になっている。この丘陵の麓には喜屋武集落が現在の場所に定住する前に古島があった場所だ。
北斜面には多くの墓が並んでいる。
この中でひときわ目立っていたのは仲間門中の現在使用している当世墓 (トーシーバカ) で、立派な亀甲羅が白く塗装されている。周りには数カ所の古墓もあった。仲間門中は国頭間切奥間村からこの地に移り住み、喜屋武集落の嶽元 (タキムトゥ) で、喜屋武集落の門中の中では最も古いとされている。この後、集落内を巡った際に神屋や古墓を見かける有力門中の一つ。

喜屋武公民館

喜屋武集落内に入った所で雨が降って来た。本降りになる前に、公民館まで走り、雨宿りができる所を探す。公民館はかつての村屋跡では無く、民家が何軒かあったところに新しく建てられている。

公民館裏の拝所

公民館の裏に拝所がある。この拝所に関しての情報は見つからなかった。

喜屋武公園

公民館を囲む様に喜屋武公園が広がっている。この地域は喜屋武集落の東の端にあたり、ここから東側には民家は少なく殆どが畑になっている。公園はかなり広く、この中には幾つもの拝所が存在しており、かつては聖域だったのだろう。公園の木に酸素ボンベの鐘が縛り付けられている。この場所の聖域としての性格を考えると、酸素ボンベの鐘が昔からここにあったとは思えないので、移設されたのだろう。この公園内に東屋が二つあり、その一つに自転車を停めて雨宿りをする。暫くすると雨が止み、集落散策を再開。
公園の入り口には案内板があり、拝所などの位置が示されている。これ以降、この案内図に従って見学。

トンヌマー壕

公民館の裏の公園の中、先程見た拝所の奥に沖縄戦当時に造られた防空壕がある。三つの入り口があるそうで、その一つが目に留まった。入り口は金網で塞がれている。全長約20mの自然壕を利用して、壕内部に五つの小部屋が造られていたそうだ。ここは民家壕なのだが、日本兵も入り込み、住民の食料を強奪したとの証言が残っている。

中の殿 (ナカヌトゥン) ④

トンヌマー壕の側に、ムラの中心的な拝所のひとつの中の殿 (ナカヌトゥン) がある。祠の入口には金満之御嶽 (カニマンヌウタキ) と記され、祠中に石が祀られている。この一帯は殿の庭 (トゥンヌマー) と呼ばれ、ウマチーなどのムラ行事が行われていた。この殿の庭 (トゥンヌマー) が琉球国由来記の「喜屋武庭之殿」だと考えられ、 中の殿 (ナカヌトゥン) も 「喜屋武之殿」の可能性があるとされている。仲間門中が管理をしている。
祭祀でヌルが馬に乗る際に踏み台にした石も残っており、行事の参加者が片足をのせてから帰るならわしがあるそうだ。

仲間ウフグル ⑤

殿の庭 (トゥンヌマー) の一角、中の殿 (ナカヌトゥン) と道を挟んで仲間ウフグルと呼ばれる拝所がある。 ウフグル (大ごろう) とはムラの長 (おさ) のことで、根屋 (ニーヤ) にあたる。 屋号 仲間では根人 (ニーッチュ) をウフグルと呼び、長男がこの神役についていた。

志礼の殿 (シリーヌトゥン) ⑦

公民館の東側、喜屋武公園内の南のいのりのゾーンに志礼の殿 (シリーヌトゥン) の石の祠が置かれている。束辺名のビンタルチーの子孫だという志礼 (シリー) 門中が管理する殿 (トゥン) と伝わる。また、志礼門中の元祖は尚巴志の流れを汲むともされ、第一尚氏が終わるときに喜屋武に逃れてきたとも伝わっている。8月11日にムラの拝所を巡拝し、豊作や大漁などを祈願するカマサーウグワンは村の重要な行事だが、これは志礼門中の先祖が、自分を育ててくれた仲間門中とムラの人々を志礼の殿の庭に招き、感謝の酒宴を開いたことが起源だとされている。その時の肴がカマサー (カマス) であったため、この呼び名が付いたという。

ビンタルチーの民話/伝承については、今まで訪れた集落でも似たような聞いた話なのだが、どの集落だったのかと思い記憶を辿る。与那原町板良敷集落を訪れた際の内原子 (ウチバルシー) のヒートゥヤー (煙草盆) の伝承だった。内容は少し異なるが、ここでの民話の内容は、

  • この喜屋武村の隣村の束辺名集落に保栄茂太郎 (ビンタルチー) という力持ちが住んでおり、その噂を聞きつけた武士が力比べをしようと、訪ねてきた。ビンタルチーは不在で、その妹が対応をした。煙草でもどうぞと、大きな石の煙草盆を差し出した。とても一人では持ち上がら無い程の重い煙草盆だ。妹がこれを軽々と持ち上げるなら、兄のビンタルチーはこれ以上の怪力と思い、萎縮して早々に帰って行った。ビンタルチーが帰宅して、妹から武士が訪ねて来たことを知り、武士を追いかけ見つけると、折角来たのだから、力比べをしようというと、武士は自分の2倍の力のある愛犬を飼っているので、その犬と力比べをしてくれと言う。それで武士の愛犬を連れて来て、力比べをするが、ビンタルチーは簡単に犬を二つに裂いて捨ててしまった。という愉快、痛快な話
似た話は宜保にもあり、ビンタルチーでは無くチマシーとなっており、妹ではなく弟となっている。前半の筋は同じだが、後半は「逃げて帰る途中に宜保チマシーをやっつけたと嘘で豪語したそうだ。これを聞いたチマシーは怒って追いつき、 武士の馬の脚を折って捨てた。」となっている。この石の煙草盆の民話は色々なバージョンで福地、糸満町端、米須、名城、伊原、上里、束辺名、宇江城、小波蔵にも残っている。本土にも似た話があるそうだ。佐敷ではビンタルチーは尚巴志に変わり、尚巴志の逸話として伝わっている。
志礼の殿 (シリーヌトゥン) の後方にはムラの遙拝所と言われるコンクリートで固められた三つの拝所があった。

奥間の殿 (ウクマヌトゥン) ③

喜屋武公園の広場の北側いやしのゾーンの林の中にも幾つかの拝所がある。その一つが奥間の殿 (ウクマヌトゥン) で、この場所には、三山時代に尚巴志に敗れ、首里城から敗走した中山の武寧王がこの地に逃げのび、屋号 仲間の娘を娶って住んだ屋敷だとされている。この屋敷跡にある拝所は、琉球国由来記の奥間之殿だとされている。 子孫と伝わる大幸地 (ウーゴーチ) 門中などが拝んでいる。
奥間の殿 (ウクマヌトゥン) の更に奥の林の中にもう一つ拝所があった。この拝所の情報は見つからなかった。村の火ヌ神とも考えられているそうだ。

ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) ①

奥間の殿 (ウクマヌトゥン) の北側の道を渡るともう一ついのりのゾーンがある。ここはかつてはヌン殿内 (ヌンドゥンチ) の屋敷跡があった場所。広大な屋敷跡は空き地となっているが、かつての屋敷の屏風 (ヒンプン)、フール (豚便所)、礎石が保存されていた。
屋敷跡から一段高い広場への階段を登ると、ムラの祭祀の中心となる拝所がある。ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) の神屋で、 その中の祭壇には多くの香炉が並び、更に琉球国由来記の喜屋武巫火神とされるヒヌカンがある。

仲間 (ナカマ) の神屋 ②

ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) のある喜屋武公園から抜けた北には屋号 仲間の屋敷跡がある。仲間門中は喜屋武集落の村立ちの旧家で、祭祀を司る嶽元 (タキムトゥ) といわれている。敷地内に二つの神屋が建てられている。この神谷はヌン殿内 (ヌンドゥンチ) と同様に、 ムラの重要な拝所とされている。
仲間門中屋敷の奥にコンクリートの塀で囲まれた場所があり、そこに二つ円形に石を敷き詰めた物がある。これは仲間の祖先の墓と思う。この様な形式の墓は糸満集落でも残っていた。
墓の隣の空き地にはコンクリート造りの祠があった。この拝所の情報はないのだが、仲間門中に関わる物なのだろうか?

次に村の中心地に向かう。

本部屋 (ムトゥブヤー) の神屋 / 村屋跡 ⑥

南北に走る県道3号線沿いに戦前まで村屋 (ムラヤー) だった場所があり、その一画に祠がある。ここに住んでいた屋号 本部屋 (ムトゥブヤー) の夫婦には子のなく、ムラに財産を寄進する代わりに、自分たちの祖先 (グヮンス) を祀ってほしいと頼んだため造られた神屋だそうだ。

喜屋武国民学校跡 (現 喜屋武小学校)

本部屋 (ムトゥブヤー) の神屋 / 村屋跡のすぐ北側に喜屋武小学校が建っている。明治13年に開校し、喜屋武、福地、山城、束辺名、上里の5集落から生徒数20余人が学び始める。その後、喜屋武尋常小学校、文喜尋常小学校、喜屋武尋常高等小学校、喜屋武国民学校と名を変え沖縄戦となる。戦後、糸満南部地区真壁初等学校として再開し、昭和27年に今の喜屋武小学校となる。とても長い歴史を持った小学校だ。ここでは日々の授業に平和学習を取り入れている沖縄でも数少ない小学校だ。沖縄でも殆どの小学校は、沖縄戦が終わった6月23日前後に集会で戦争学習を行うのみで、この小学校の様に日常授業に平和学習を入れている所は真壁小学校と米須小学校ぐらいだそうだ。これは他の小学校が平和学習に関心が無いわけでは無く、日常の授業に関連つけて平和学習を盛り込む事は、センシティブな課題でもあり、そのストーリー作り、教材選び、制作には苦労する事は想像出来る。平和学習をしながら、教育委員会が決めた授業をこなすのも大変だ。本来であれば行政、教育委員会が平和教育のカリキュラムを日常授業の中に組み込んで作るべきだろう。誰しも沖縄戦を後世に伝えるべきと大義名分を掲げてはいるが、まだまだボランティアへの依存度が高い。行政がリードしマスタープランを作り実行すべきと思う。

喜屋武小学校前の拝所 ⑭

県道3号線沿い、喜屋武小学校の前の林の中に拝所がある。歩道の横にコンクリートで周囲を囲んだ拝所がある。ここには何本もの平御香が置かれている。
更に奥にカジュマルの大木へ道があり、そこを登ると、幹の周りに幾つもの香炉が置かれている。この拝所はムラ行事でも拝まれている。
県道3号線を渡った所にも拝所がある。先程の拝所と関係があるのだろうか?

喜屋武間切番所跡 / ヘーランメー 1⃣

県道3号線を南に進んだ所には広場がある。へーランメーと呼ばれていた広場で、バスターミナルや駐車場になっている様だ。長年喜屋武青年会による旧盆のエイサー演舞の舞台にもなっていた。この東側には琉球王統時代に喜屋武間切の番所が置かれていた。戦後は農協となっていたが今は空き地になっている。

ナカジン ⑪

喜屋武間切番所跡 (農協跡地) のバス停の横にナカジンと呼ばれた拝所がある。昔は石囲いの盛土に80cmほどの黒い石が立てられていたが、現在は形跡もなくなり、小さな祠が置かれて番所跡として拝まれている。

南ン徳嶺 (ヘーントゥクンニ) と新東玉井 (ミーアガイダマイ) の間の拝所 ⑫

喜屋武間切番所跡 (農協跡地) の北側の民家に挟まれた細い路地の突き当たりに祠がある。名称は不明だが、地頭火神 (ジトゥーヒヌカン) だといわれている。また首里への遙拝所や神道 (カミミチ) ではないかという説もある。

大前原 (ウーメーバル) の神屋 ⑮

県道3号線の西側の住宅街の中に前原門中の屋号 大前原の神屋がある。コンクリート造りでは無く、伝統的な沖縄赤瓦葺きの神屋だった。ムラ行事でも拝まれている。

スンドゥンチ ⑩

喜屋武間切番所跡の南東にヌン殿内門中に属する屋号 伊元 (イームトゥ) の神屋があるとなっていた。ヌン殿内よりも古いということで、 御先ヌン殿内 (ウサチヌンドゥンチ) とも呼ばれている。地図の場所に行くと空き地になっていて、二つ神屋が建っている。資料には写真は掲載されてい無いので、どちらなのかは分からなかった。

ヒジャングワー ⑬

スンドゥンチから3ブロック程南にヒジャングワーと呼ばれる拝所がある。拝所は二つあった。別称ヒザングヮー、ヒザンとも呼ばれ、古い時代の按司と関わりがある拝所、または地頭火神だといわれている。

次は集落の外、東側の文化財を見る。

ンニグチ井泉 (ガー) ❸

喜屋武集落の東の外れの丘の森にンニグチ井泉 (ガー) がある。階段があり、底には石積で円形に造られた井戸がある。入り口には大幸地門中拝所と書かれている。この井泉は奥間井泉 (ウクマガー) とも呼ばれ、 大幸地門中ゆかりの井泉 (カー) だと伝わっている。喜屋武集落の産井 (ンブガー) のひとつで正月の若水にも使われた。戦前は屋号 仲間が正月に豚の肝を供えて拝んだという。

火立て (ヒータティー) ⑴

ンニグチ井泉 (ガー) のある丘の上には、尚賢王 (1625年 - 1647年) の時代に船の出入りを見張る為、沖縄本島や離島の各要所に設けられた烽火台 (狼煙台) があり、喜屋武では、ここに造られていたという。 目当ての船が見えたら、 遠見番が直ちに狼煙を上げて首里に知らせたため火立て (ヒータティー) という名で呼ばれた。ここ丘の森の中を歩いたがう火立ての跡らしきものは見当たらない。資料には写真も載っていないので、跡があるのかも分からない。
丘には幾つもの墓が造られている。その多くは大幸地門中、松下・高江洲門中と書かれている。集落内でもこの門中の墓を多く見かけた。

並里の殿 (ナンザトゥヌトゥン) ⑧

更に丘の東側の道を進むと右手に林があり、その中に東琉球国由来記の並里之殿と考えられている殿(トゥン) がある。 林の中に三か所の拝所があり、島当 (シマタイ)、仲間 (ナカマ)、 前原 (メーバル) などの門中が拝んでいる。

並里井泉 (ナンザトゥガー) ❹

並里の殿 (ナンザトゥヌトゥン) の東にある林の中の大木の下に並里井泉 (ナンザトゥガー) があり、大きな穴があり、かつては井泉として使われていた。現在は使われておらず、木々で覆われ、微かに井戸の石積みが確認できるだけ。

クバ殿 (クバドゥン) ⑨

並里井泉 (ナンザトゥガー) から道を挟んだ反対側の丘の雑木林のなかにクバ殿 (クバドゥン) 又はクバオーとも呼ばれるウタキ(御嶽)があり、琉球国由来記の並里ノ嶽といわれている。 大きな岩の周囲に各門中の碑が並んでおり、ここから奥の岩にある13の門中の古墓が拝んでいる。この一帯は並里原遺跡で、古い集落があったとも伝わっている。


道端の拝所

集落内には多くの神屋があるが、それ以外にも道端に幾つかの拝所が目に付いた。


ここまでは8月19日に巡り終えた文化財で、これ以降は、台風12号が通り過ぎた8月23日に訪れた文化財。当初は22日に来る予定だったが、昨日は雨予報 (結局、雨は降らなかった) で強風なので1日延期して今日にした。今日は前日の続きで、喜屋武集落の西側と南の海岸線を巡る。



マールグヮー

喜屋武間切番所跡/へーランメーの広場から喜屋武漁港に向かう道の途中には二つの広場がある。まずはマールグヮーという広場がある。

マールグヮーの前には大きな屋敷跡がある。立派な石垣で囲まれている。よく見ると石垣に所々穴が開いている。琉球石灰岩はよく穴が開いているのだが、それとは違う。おそらく沖縄戦での弾痕跡ではないだろうか?


マーチューグヮー 2⃣

道を進むとマチューグヮーに出る。マチューグヮーは今は泉の広場とも呼ばれていて、公園になっている。 3月と9月の厄払いの行事マークサラーウグヮンでは、 集落の四隅に吊るす牛骨を取るため、この広場で牛を屠殺して肉や血を人々に配ったそうだ。


喜屋武馬場 (チャンンマバ) 3⃣

マーチューグヮーの東は、かつて競馬が行われた馬場 (ンマバ) とも呼ばれるムラの馬場だった。 後山 (クシヤマ) に向かって直線の延びる馬場だったという。戦後になり市道となった。

喜屋武古グスク

喜屋武集落は北の丘陵の麓を西に伸びて海岸まで続いている。海岸には喜屋武漁港があり、そのすぐ上が丘陵の先端部にあたり、そこの森に喜屋武古グスクがある。ここには2019年10月11日に訪れた。もう少し詳しく見たいと思い再訪。ところが、今回はグスクへの入り口が深い木々で覆われて、中に入るのが躊躇われた。前回もやはり木々におおわれていたが、強引に中に入ったのだが、一面草だらけだった記憶がある。今回は五っても多分同じだろう。この後、喜屋武漁港の漁師さんと世間話をした際に、「一年で数回しか掃除しないさぁ、その時だったら見れたさぁ、今は、草むらにハブがいるよ。入らないほうがいいさぁ」と言っていた。(どの時期の御願に合わせて掃除するのかを聞くのを忘れた。残念。) ここに漁港が築港される以前は、この辺の海浜は砂浜が広がっており、船などをあげる空間として最適な場所だった。 漁港の建設に伴い、そこへ降りるコンクリート舗装路が造られ周辺の地形が改変されてしまい城の遺構は残っていない。このグスクは、かつての砂浜を眼下にしていることから、漁業資源の管理と、交易船などの出入りを監視の目的で造られた城と推測されている。グスク跡に入る道があり、その先に古墓があった。グスク時代にものかは不明だが石積み跡が残っているそうだ。沖縄戦当時は、この場所の洞窟が住民の避難に使われていたが、日本兵が住民を壕から追い出し、食料までも強奪したという証言が残っている。

喜屋武漁港

喜屋武漁港は本島最南端に位置する漁港で訪れる人も少なく静かな港で、水の綺麗な漁港だ。

堤防の基礎部分は昔からの琉球石灰岩の石垣が残っている。その石垣の上にコンクリートで堤防を高くしている。このように石垣が残っているので、昔の堤防の形を見る事ができる。
漁港には海に向けて小さな祠が建っている。漁師さんに聞くと、漁の安全や大漁を祈願する竜宮神だそうだ。
一帯は砂浜で遠浅の海岸なのだが、港から沖へは深さ3-5mの船道が通っている。ここに交易船が来ていたとすると、この舟道はもともとあった自然なものなのだろうか? 漁師さんによると昔も今も大きな船は寄港する事はできず。中規模の船で漁をしているそうだ。
堤防からは北側に名城ビーチが見える。建設中のホテルがある。名城ビーチはこのホテル建設で立ち入りが出来ず見れなかったが、ここからやっと見る事ができた。喜屋武の住民は当初はこのホテル建設が地域に好影響を期待していたが、現状ではその期待は薄れ、ホテルが完成しても、ホテル自体の運営は問題が山積していると考えているそうだ。
この喜屋武漁港は喜屋武ハーリー (爬竜船競漕) の会場。1300年代から続いている。旧暦5月4日の直近の日曜日に、北支部、中支部、南支部の3チームに分かれ、御願ハーリー、青年ハーリー、勝負ハーリー、二人乗りハーリー、上がいハーリーの5種目の総合得点で競い合う。この中で、二人乗りハーリー (タイグヮーヌイ) は喜屋武集落独特のものだそうだ。2020年、2021年と二年連続で、コロナ感染対策で中止になり、ジルーメーへの御願のみ行われている。


喜屋武の浜

沖縄にはウミガメの産卵場所が幾つかある。八重山諸島、座間味、本島では国頭村や大宜味村など北部の海岸に多くあり、中部の読谷村、恩納村、南部糸満の大度が産卵場所として知られている。産卵は5月から9月の間に見られるそうだ。この喜屋武の浜でもウミガメが海から上がってきて産卵をするそうだ。


チクグ井泉 (ガー) ❷

喜屋武の浜の雑木林の中にチクグ井泉 (ガー) がある。資料ではグスク内の井泉と書かれていたので、ここもグスクの敷地だったとすると、かなり大きな広いグスクだった。漁師さん達は、古グスクがどこかははっきりしないと言いながら、やはりここもグスクと伝わっていると教えてくれた。この井泉はカミガー (神井泉?)、アジガー (按司井泉?)、ムトゥガー (元井泉?) などとも呼ばれ、ムラの産井 (ンブガー) でもあった。産井としては喜屋武集落中心地からかなり外れているので、この一帯には独立した集落があり、その産井だったのでは無いだろうか?漁師さんはここが独立した集落だったとは聞いていないと言っていた。 祭祀では神人 (カミンチュ) がここで水撫で (ウビナディ、額に水を付けて清めること) をしてから、 殿 (トゥン) へ向かったという。ここでいう殿とはどの殿なのだろう?この近くには殿は記載されていない。

喜屋武井泉 (チャンガー) ❶

喜屋武漁港のすぐ南は砂浜の喜屋武ビーチがある。そこに向かう道の途中に今は喜びの泉と呼ばれている喜屋武井泉 (チャンガー) がある。大きな溜池の上にある。そこに向かう坂を下ったのだが、拝所は金網の内側にあり、入口は施錠されて入れない。金網の内側には拝所のコンクリートの屋根部分だけが見える。溜池方面から、拝所を見たが、木々で覆われて全く見えない。村の御願の際には、伐採されるのだが、今日はその時期では無いようだ。資料に載っていた右下の写真では拝所と井泉跡が見えている。この井泉は昔は水量豊富な井泉で一帯には飲料水用、 野菜洗い用、 男女別の共同浴場、洗濯用など、さまざまに利用できる水場が造られていたそうだ。 貯水池建設のため1970年代に埋められ、現在はウカーヌカミという拝所と形跡だけが残っている。
喜屋武井泉 (チャンガー) への入り口には拝所があった。墓跡なのか、遥拝所かは不明。

ジルーメーの拝所 ⑯

喜屋武の浜の南側に久高島の漁師ジルーが遭難して流れ着いたと伝わる浜がありジルーメー浜と呼ばれている。そこに海に向いた拝所が造られている。 ハーリーの朝一番に拝むほか、ピーリンポーリンでも拝んでいる。ピーリンポーリンは旧暦3月3日に行われるのだが、沖縄ではこの日は一般的に「浜下り」の日で女性の節句にあたるり、家族連れで潮干狩りなどが行われている。ここ喜屋武は少し異なり、ピーリンポーリンという祭祀が行われ、男性がここジルーメーで航海安全や大漁、集落の繁栄を祈願し、酒を飲みながら歌い踊る。
ジルーメーの拝所の前には砂浜が広がり、北は先程訪れた喜屋武漁港 (写真右上) まで、南はこれから向かう具志川グスクの方面 (写真左上) まで続いている。干潮時にここにきたので、海岸にはイノー (礁池) が姿を現している。

具志川グスク跡

具志川グスクは太平洋に突出した海岸断崖の上にある。城全体の規模は、長さ東西82m、南北の幅はニの廓で33m、一の廓で16~17mとなっている。伝承では、久米島の具志川城主真金声 (マカネゴ、マカネクイ) 按司が同じ久米島の伊敷索城 (イシキナワグスク) の按司の二男真仁古樽 (マニクタル) に攻められて落城した際に島を脱出してこの地に逃れ、 故郷と同じ名の具志川グスクを築い たといわれている。久米島の具志川グスクと同じような立地と構造になっているので、この伝承の信憑性は高いと思われる。城内から採集された貿易陶磁器の年代から、14世紀 ~ 15世紀半ば頃まで使用されていたと見られることも伝承を裏付けている。(ただ、久米島の具志川グスクの築城時期は15世紀と考えられているので、少し時代がずれている。) このグスクは久米島の具志川グスクと同じく海上に突出し、当時、海洋貿易の為の中国貿易船を引き込むには絶好の場所に立地し、海洋貿易の中継拠点として直接交易権の確保を狙って築造されたと考えられる。以上が調べて得た情報だが、少し疑問が沸くのが、ここに具志川城主真金声 (マカネゴ、マカネクイ) 按司が逃げてきて、これほどのグスクを築き貿易をしていたとするならば、その貿易港はどこだったのか、ここが居城だとすると近くに集落ができてもおかしくないのだが、そのような集落も見当たらない。単に行き来する貿易船の監視ならばこれほど之グスクを築く必要もないはずだ。何か推測できていないことがあるのではないかと思う。

一の廓のある東と西と南は絶壁となって海に臨み、ニの廓のある北側は内陸に接し平坦部になり、そこを囲む野面積みの石垣は5-6mと高く、虎口の切石積の城門の両脇には馬面 (ばめん) を置いて兵士がそこに待機し厳重な防備が可能となっている。

虎口を入るとニの廓になる。ここは兵士達の詰所的な性格ではなかっただろうか?

ニの廓の中央、城門正面寄りには幅1.5m、長さ3mほどの潮吹き穴 (スーフチミー) と呼ばれる穴が開いている。城内の案内板では火吹き穴 (ヒーフチミー) となっている。そこから縄梯子などを使い、海に降りていたと考えられている。

グスクの崖下には、火吹き穴 (ヒーフチミー) からの抜け穴の洞窟があり海への通路が見受けられている。これがグスク築城当時からあったのかどうかは書かれていないが、ここから小舟で海に向かったのかも知れない。
二の廓西側には石垣が途切れるところがあって搦手となる虎口と思われ、かつてこの周囲には海におりる路があったと考えられている。発掘調査では、この虎口はある時代に埋められ、その上に物見台の基壇の石積みが築かれ、以前の物見台を拡張した事が分かる。この虎口から海に下る道があり、その途中にはこのグスクの始祖の末裔とされる喜屋武に在住する久米門中の拝所が祀られ、現在で拝まれている。
ニの廓と一の廓の間は一段高くなり、基壇の跡と推測されている。ここには何が建てられていたのだろう。物見台ではなかろうか?ここから一の廓への木の通路の横には実際の通路であった石の階段が残っている。
この場所には二つの拝所が設けられている。一つには久米門中の拝所と書かれている。
琉球国由来記によれば、具志川城跡内に具志川ノ御イベが存在し、ナカリューグシンとも呼ばれていたのだが、現在グスク内のどこにあたるかは特定できていないそうだ。
木の階段を下ると一の廓になる。ここが本丸跡だとすると城主の住居が置かれていたのだろうか?ここにも一つ拝所が置かれていた。
グスクを囲んでいる城壁には武者走りが見受けられて、兵士の移動が容易になっており所々は広くなっている。専門家によるとこの石垣は外側、つまり、崖側から積まれているそうだ。ほぼ垂直の崖からどのように積んだのだろう。
グスクからは東側に喜屋武岬 (写真左) が臨める。写真右は西側の風景。
グスクへの入り口広場から崖下に降りる道があり、海岸に出る。
海岸は先程見た喜屋武の浜の砂浜とは全く様相が変わり、岩だらけだ。イノーの鋭い岩肌が一面に広がっているので、裸足で歩くのも危険だし、海水浴は出来ない。この海岸は遊泳禁止地区。島尻の西側海岸は砂浜ビーチが多くあるのだが、ここから南城市の玉城付近までは、このような切り立った崖でイノーが続く。


トーチカ跡 [未訪問]

沖縄戦当時、具志川城跡の真下にあたる海岸の岩穴にトーチカ跡が構築されていた。米軍上陸前後、喜屋武岬に歩兵第32連隊第2大隊が配備され、米軍の上陸に備えて陣地を構築し、使用していた。このトーチカ跡を探したのだが、干潮から時間が少したっているので海面が上がり、崖下の西側には移動できず、崖下全てを見る事が出来なかった。資料にこのトーチカ跡の写真が掲載されていた。帰宅後、もう一度インターネットで調べてみると、どうも、このトーチカ跡はコンクリートで埋められれしまったようだ。


喜屋武岬/平和の塔

具志川グスクから見えていた喜屋武岬に向かう。海岸沿いの道は無く。一度内陸部の畑まで戻り、西に向かい、農道が喜屋武岬に通じている。岬は喜屋武岬園地となり、ここも切り立った崖になっている。ここには、日露戦争の時代から、日本海軍が海を行きかう船舶の監視の為、望楼が設けられていた。今は、喜屋武岬園地の駐車場になっており、遺構などは残っていない。沖縄戦終盤には米軍の南への侵攻で避難民はこの喜屋武地区、摩文仁地区に追い詰められた。この喜屋武岬まで逃げてきた住民は、もうこれ以上逃げる場所がない。海上には米艦隊が迫り砲撃を続けている。人々は絶望の中、最後にはこの崖から飛び降りる事しか出来なかったと言う、とても悲しい歴史を秘めた場所だ。岬には戦没者の慰霊碑の平和の塔が建っている。説明板には「糸満市喜屋武岬にあった第62師団管下の部隊は、侵攻を続ける米軍に対して最後の迎撃を仕掛けたが、昭和20年6月20日 [日本軍の組織的戦闘は6月23日摩文仁で牛島司令官自決により終結]、喜屋武集落周辺で全滅した。昭和27年10月、地元住民は集落や周辺海岸に散在する兵士や住民の遺骨1万柱余りを収集し、名城ビーチの西海岸に納め「平和の塔」を建立。昭和44年3月、沖縄協会の助成を得て現在の場所に移転・改修した。」とある。崖の上には拝所もあった。

沖縄戦では喜屋武集落住民の28%の246名が犠牲になっている。糸満市にある各集落の戦没者の状況は以下の通りだが、一番戦没者の比率が少ない集落でも20%、5人に一人は犠牲になっている。他の集落では40%から60%までの犠牲が出ている。

上のグラフは集落住民の戦没者を表しているのだが、戦没地を表しているのが下の表で、沖縄戦が終結する昭和20年6月にはこの旧喜屋武村、旧摩文仁村が激戦地となり、多くの死者を出している。もう一つ特筆すべきことは、沖縄戦は6月23日に集結したのではなく、捕虜収容所があった玉城村、知念村ややんばるで収容された捕虜となった住民が7月以降も病気で多く犠牲者が出ているということだ、

喜屋武集落から、喜屋武岬までは2km足らず。この地を自転車で走ると喜屋武集落の南側はほとんどがサトウキビ畑と森だ。この狭い範囲を住民や学徒たちはサトウキビ畑に隠れながら逃げまわった。先ほどの平和の塔に慰霊されている1万柱がこの地で命を失ったと思うと心が痛む。


喜屋埼灯台

喜屋武岬の展望台の奥には喜屋埼灯台が建っている。以前はここから見える荒崎岬に米国が建てた灯台があったが、光力が弱く遠方から見えづらかった。それで海上保安庁が本土復帰後の昭和47年にここに県内初の大型灯台を設置された。2019年にこの灯台が造られたところは国有地ではなく鹿児島に本社を置く岩崎産業がゴルフ場建設目的で購入した私有地であったことが判り、海上保安庁と地主で解決案を話し合っているそうだが、その後どうなったのやら.... この様なことはよくある話だが、個々沖縄では、沖縄戦で地籍などが焼失したことや米軍による土地接収といった沖縄特有の事情があったと思われる。

カタハラグスク

喜屋武岬の崖下東にカタハラグスクがあった。カタハラグスクとされているのは海岸縁にある大岩で、久米門中では具志川グスクの倉庫の役割をもっていたグスクと伝えられているそうだ。この大岩がグスクといわれても、ただの岩にしか見えない。調べると、このグスクは、現在地滑りなどによって陸地から分離して海岸に独立した形で屹立してしまったそうで、かつては崖の陸地側につながっていたそうだ。これで合点がいった。築上年代や築上者は不明。具志川グスクは12世紀後半~15世紀中頃まで使用されていたと考えられているので、倉庫として使用していたのであれば、その時代に存在していたのだろう。他の伝承では和冦が財宝を隠していたともある。このカタハラグスクの向こう側に見えているのが沖縄本島最南端の荒崎岬だ。近日中に訪れる予定。



これで喜屋武集落巡りが終わった。木陰で休憩をして帰路に着こうとしたのだが、めまいがして、息苦しい。一度自転車で出発しようとしたが、苦しくもう一度木陰に戻り体を横たえて、落ち着くまで休む。多分、軽い熱中症の症状の様だ。水分補給には気を付け、いつも2リットルの麦茶を持ってきているのだが、今日はいつもと違う。ここから自宅までは17kmあり、通常であれば1時間半の距離。少し、落ち着いたので自転車で出発。緩やかな坂もきつい。坂道の少ないルートを選び、何度も休みながら、何とか自宅に戻ってきた。2時間以上かかっただろう。着いた時には7時半だった。炎天下一日中外で活動をしているので、今後はもう少し気を付けなければト思う。 (帰宅後は特に問題なく、いつもの体調に戻った) 


参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
  • 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 具志川城跡保存修理事業調査概報 No.1 (2004 糸満市教育委員会)
  • 具志川城跡保存修理事業調査概報 No.2 (2007 糸満市教育委員会)

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