Okinawa 沖縄 #2 Day 55 (14/11/20) 旧具志頭 (6) Asato Hamlet 安里集落

安里集落 (あさと、アサトゥ)

  • 安里古島、安里之殿 (アサトゥヌトゥン)
  • 喜納村、真嘉之殿 (マーガヌトゥン)
  • 安里村
  • 座嘉比村 (ザカンムラ、座嘉武原遺跡、座嘉武井公園)
  • 座嘉武井 (ザカンガー)
  • 上江門家 (ウィージョウケ)
  • 孝神堂
  • 殿武林 (ディンブリ)
  • 巫女殿内 (ヌルドゥンチ)
  • 新殿内 (ミードゥンチ、根屋、安里のお宮)、具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン)
  • ウスデーク (臼太鼓)
  • 安里公民館
  • 安里の獅子
  • 独立高射砲第二十七大隊英霊の碑
  • 安里馬場 (アサトウンマイー) 跡
  • 世持井 (ユムチガ-)
  • 慶座屋取 (ギーザヤードウィ) 集落
  • 慶座地下ダム
  • 慶座井 (キーザガ-)
  • 慶座バンタ・慶座の滝


安里集落 (あさと、アサトゥ)

安里集落、前回訪れた玻名城にある安里古島に13世紀から14世紀に中城間切安里村落の大城大主を主とする血縁集団が移住し、その後、同じく中城間切熱田村落の、血縁集団喜納一族が移住合流し村落を形成したことから始まっている。写真上は北から移した集落のある丘陵で、この丘陵を登ったところに安里集落が広がる。写真下は南から見た集落で、丘陵の南斜面に村が広がっている。

字安里之人口はここ10年は微減となっている。旧具志頭村では字具志頭が突出して発展し、公共機関や商店が集中していたのが現在もつづいており、生活は字具志頭が便利だ。それが人口減少の理由なのか、字安里はよりも字具志頭に生活の場を求める人の方が多いのだろう。これは字具志頭との間にある字玻名城と同じ傾向にあるように思える。

旧具志頭村の中でも昭和初期から、あまり人口が増えていないグループに入っている。

具志頭村史に掲載されている安里の拝所

  • 御嶽: 安里之御嶽 (アサトゥヌウタキ 自然消滅)
  • 殿: 安里之殿 (アサトゥヌトゥン)座嘉比之殿 (ザカンヌトゥン)新殿内 (ミードゥンチ、根屋、安里のお宮)具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン)巫女殿内 (ヌルドゥンチ)
  • 泉井座嘉式井 (ザカンガー)、慶座井 (キーザガ-)世持井 (ユムチガ-)
  • その他: 孝神堂殿武林 (ディンブリ)


この安里集落の変遷に沿って、村に残る文化財を見ていく。


安里古島、安里之殿 (アサトゥヌトゥン)

前回 (11月11日) に玻名城を訪問した際にも書いたのだが、この安里古島は現在の字玻名城にあり、玻名城古島 (ハナグスクフルジマ) のすぐ西に位置している。この地には、13世紀から14世紀に中城間切安里村落の大城大主を主とする血縁集団が移住し、その後、同じく中城間切熱田村落の、血縁集団喜納一族が移住合流して安里村を形成した。中城間切安里村からこの安里古島へは直線距離で20㎞、海岸沿いを通ると35kmにもなる。これほど遠い土地から移住してきた理由は何だったのだろう。具志頭村史では書かれていない。

他の集落と同じように、集落を形成した時には、その村を守護してくれる御嶽を建立することになり、集落の中に安里之御嶽を造り、更に同じ場所に安里之殿 (アサトゥヌトゥン) を造った。村民はもっぱら安里之殿 (アサトゥヌトゥン) を中心に祭祀を行っていたので、いつしか安里之御嶽は忘れられてしまい、自然消滅したと考えられている。

安里之殿の近くに龕屋ではないかと思われる建物があった。同じ様な造りの龕屋が他の集落であったのでそうだと思う。建物の前には玻名城の役場の立入禁止の看板がある。個人ではなく役場が建てているので文化財だろう。


安里古島村からの強制移住と分村

この安里古島村から別の地に移動することになるのだが、それは首里王府の農業政策による強制移住であった。当時、薩摩藩の琉球侵攻の直後、首里王府の経済状況は疲弊しており、農民からの租税収入を増加させるために、農業の生産性の向上が必要とされていた。そこで、農民を丘陵地斜面のような低生産性の土地から、肥沃な土地で耕作させる為、移住を強制したのだ。安里古島村落が現在地への移動したことや、分村してのマーガジョウの地に喜納村を創建したのも、当時の首里王府の農村政策によるもので、安里古島村落住民の自主的意志による移動や分村ではなかった。



喜納村、真嘉之殿 (マーガヌトゥン)

安里古島村落住民の残りの中城間切熱田村落系列の人々は、分村して、多々名グスクの南方丘陵台地のマーガジョウ地域に移動し、以前よりこの地に住んでいた真嘉村小 (マーガムラグワー) 集落の (多々名城前衛守備をしていた安里村落の真嘉大屋子一門) と合流して喜納村を形成する。この喜納村を形成された時期については安里古島村落の現在地への移動した時とほぼ同じと考えられている。喜納村の人々は、村の周辺を開墾するが、ここの土地は保水力に乏しく、ちょっとした干魃でも不作となった。それに加え、この地には自然井戸がなく、かなり距離のある花城村のんぢゃ井から水を運搬していた。この様な苦しい生活環境から、この喜納村の人々は18世紀後半から19世紀初頭にかけて現在の安里村に移住したと考えられる。喜納村跡はゴルフ場になっており、その敷地内に真嘉之殿 (マーガヌトゥン) が残っている。


安里村

下の写真は現在の安里村から、以前住んでいた安里古島方面を撮ったものだが、古島は写真左端の体育館の右側にあった。直線距離で1.4km程離れている。

古琉球時代からの安里古島村落は、その後発達し、近世琉球時代になると現在の村屋敷原への移動し新村落の建設を行う。現在の地に移動してきたのは安里古島村落住民の大部分を占める中城間切安里村落系列の人々だった。諸文献には具志頭間切村落変遷があり、この移住が行われたのは、1713年 (正徳3年) から1719年 (享保4年) にかけてと考えられている。新しい安里村は現在の集落の北の部分から始まり、次第に南に村を拡大させていった。この集落の地層は他の集落とは異なり、表面を覆う琉球石灰岩層は薄く、浅く掘っても、下層の泥灰岩層との境目から、湧水が取水できる地域だった。そこで、各家で井戸 (チンガ-) を掘り生活用水は各家庭が自前で確保していた。そのために、この安里集落には集落共同の村井 (ムラガー) が存在しなかった。集落を巡った際に、幾つかの民家には当時の井戸跡が残っている。

集落にはいくつかの神屋がある。写真には3つ収めたが、まだまだあるのだろう。

沖縄瓦の民家がいくつも残っている。あるものは新しく建てたものもある。できれば伝統的な沖縄瓦を使った家にしたいのだろうが、それは少し値が張るので、だんだんと伝統的な沖縄民家は失われつつあるようだ。


座嘉比村 (ザカンムラ、座嘉武原遺跡、座嘉武井公園)

安里古島村落から移住してきた時には、現在の安里村のすぐ北の地域に座嘉武井 (ザカンガー) と呼ばれる場所に既に小さな集落が存在していた。座嘉比村と呼ばれていた。この座嘉比村の人々は、安里古島村落住民が安里村に移ってきて際に、彼らと安里村へ移動合流し、残りの一部の人々は、玻名城村落と安里村落の中間の地に移動し、新たに座嘉比村を新設し、元々の座嘉比村は消滅した。もともとの座嘉比村があった座嘉武井 (ザカンガー) の集落跡が発見され、そこは座嘉武原遺跡と呼ばれ、その一部が現在は座嘉武井公園となっている。

公園の池には紫色のハスの花が咲いており、その周りを蝶が飛びまわっていた。久しぶりのツマベニチョウだ。この蝶は九州、沖縄でしか生息していないので、本州ではお目にかかれない。大きさはアゲハチョウぐらいあり、常にひらひらと飛び回って、写真を撮るのが難しい。


座嘉武井 (ザカンガー)

公園には、かつて座嘉比村で使用されていた座嘉武井 (ザカンガー) が残っている。安里村で始まった時に、座嘉比村の人々が、合流や他の地域に移動し、座嘉比村が消滅し。以降、安里部落の人々が使用していたそうだ。


座嘉比之殿 (ザカンヌトゥン)

かつての座嘉比村には殿 (トゥン) があった。座嘉比之殿 (ザカンヌトゥン)で、座嘉武之殿とも言われる。座嘉比の「比」が「武」に転訛してそのように発音されたそうだ。この地には座嘉比大屋子という村のリーダーが存在したところから名がつけられている。

座嘉比之殿 (ザカンヌトゥン) の横に、緩やかに下っている道がある。この付近に座嘉比村 (ザカンムラ) があった。


上江門家 (ウィージョウケ)

旧具志頭村を代表する豪農の旧家で、1700年代に安里古島から移動してきた門中で多々名按司の子孫といわれている。私見だが、多々名按司は花城集落のリーダーから按司になったと考えられるので、上江門家 (ウィージョウケ) は元々は花城集落が起源だろう。多々名グスクが南山に滅ぼされた際に、安里古島に逃れたのかもしれない。

屋敷は典型的な琉球の屋敷の造りになっている。屋敷は石垣で囲まれ、石畳の入り口から、魔よけの石造りのヒンプン (屏風) を通ると、母屋とその隣にフールが残っている。母屋の造りは、多々名按司の末裔ということで、配置が反対になっている。築170年以上といわれる。上江門家から上に家は造ってはいけないとされていた。確かにこの家の上には、今でもあまり民家はない。かつては拝所しかなかったのだろう。


[入り口、ヒンプン]


[母屋]


[豚フール、前ヌ屋]

この屋敷は数年前までは、ボランティア団体などが、いろいろなイベントに使われていたようだが、最近はコロナの影響かもしれないが、あまり活用されていないようだ。このボランティアによる文化財保存活動には限界がある。何を目的に文化財を保存するのか?文化財を活用しての村おこしというのもあるが、ほとんどの場合、はじめだけで続かず、自然消滅のケースがほとんど。文化財保護のための資金集め。これも始めだけだ。文化財の保護はメンテナンス費用も掛かり、はじめに整備するだけでは済まず、金がかかり続かない。個人的な意見だが、これは行政が予算を組んでやるべきだろう。文化財はその地域のアイデンティティーで、それを自分たちの財産と思うか?子供たちに残したいと思うか?そのために金をかける価値があると思うか?そこがキィーになるだろう。ちょっとした共感を持ったボランティアでできるものではない。そう思わない行政は、それが方針であれば仕方がないだろう。今まで八重瀬町にある文化財を見てきたが、八重瀬町はこの点では関心が低い行政と感じた。文化財の保存などは各字に任せているように感じる。各字ごとにかなりの温度差がある。集落の住民でできることを工夫してやっているところもある反面、無関心な字もある。この温度差は文化財に対しての八重瀬町の低い意識にあるだろう。とはいっても八重瀬町も東風平、具志頭の合併でできた行政で、合併の目的は、なかなかうまくいかなかった住民サービスを合併で改善し、現在の住民の経済的生活の向上が何よりも優先される。難しいところだ。



孝神堂

孝神堂は安里部落の北の端、上門家北方近くの雑木林の中にある。

親孝行の成就大願、家族安泰、部落安泰の祈所として、伝承によると18世紀終わり頃に造られ、安里部落の住民から御願されている。御神体は、浜川大主の一人娘の乙鶴。かつては、ここには、男性は入ってはいけないとされていた。その乙鶴の伝承が以下のようなものだ。「昔、北山按司の頭役であった平敷屋大主の二男に虎千代という者がいた。虎千代は智勇に優れていたか腕白剛気で父親の言うことに従わないで、常に親子は大猿の仲であった。そして、ついに虎千代は父親から勘当された。虎千代は家を出てあてどもなく歩き廻り、やがて玉城間切の浜川大主を訪ねて武勇の伝授を乞うた。ところが、浜川大主は老身であったので教えることができず、南山王を頼って武技を受けるがよかろうと教えた。虎千代は、浜川大主の言に従って南山に向った。南山に行く道は山道が続きその上木が生い繁て山は奥かった。虎千代はついに道に迷い日は暮れたので山の中で仮宿することにした。すると、夜半に神が現れて武技を稽古するなら教えてやると言った。千代は喜んで神から武技を習うことになった。虎千代はこの地に滞留して武技のけいこに励み、りつばな武術者となった。ある日、浜川大主の一人娘である乙鶴が父の命を受けて虎千代を養子にもらいたいと探しに来た。しかし、山が深いので虎千代を探すことは出来なかった。乙鶴はいろいろと考え、座嘉武井の近くにかくれて虎千代が水汲みにやって来るのを待っていた。ところが、不幸にも山賊に捕らえられ、大きな悲鳴をあげた。その時、虎千代はただならぬ只今の女の叫び声を聞き、これを救わんと駆けつけて来たが、乙鶴はすでに虫の息でとうとうこの地で死んでしまった。そして、父親の使者の孝行娘はここに葬られた。」

少しわかった様でわからない伝承だが、似たような話があったのだろう。この伝承がこの孝神堂の建立の由来になったには、この集落の当時の状況といった背景があった。資料の解説から判断すると、この安里村にはいくつかの派閥があり、村としての協力体制が欠けて、村としての統一がなかった。中城間切安里村落出身者が一番威張っていたのだろう、中城間切熱田村落出身者は、中城間切安里村落出身者とはそれまではいつも異なる行動をとっていたが、最後に同じ集落に落ち着いた。この二つは常に対立関係だったそうだ。更に、先住であった座嘉比村出身者、多分、上江門家のように花城集落からの人々もいただろう。このような状態で、村落運営には支障があり、全村民の共通の拝所を造り一体感を作ろうとした。その由来とするものが、この地に古くから、親孝行の手本として語り継がれている乙鶴の話だった。現在は、両村出身者のわだかまりはなく、うまくいっているのだろうか?


殿武林 (ディンブリ)

孝神堂の近く、座嘉比之殿 (ザカンヌトゥン) の横にの坂道を下った所ににある殿武林は、前述の北山按司の重臣 平敷屋大主の次男 虎千代を祀った拝所。孝神堂では虎千代と結ばれるはずだった乙鶴が祀られていたが、ここはその虎千代を祀っている。以前は、この殿武林には孝神堂とは違って、女性は入ってはいけないとされていた。何ともロマンチックな話だ。資料には開かれていないのだが、この殿武林の拝所は孝神堂の後に造られていると思う。これで、村の共同意識プロジェクトの仕上げとしたのだろう。安里集落の一番の祭りは綱引きで旧暦8月15日の十五夜祭りの行われるのだが、綱引きの前に公民館から道行列 (ミチジュネー) を行い、その終点の殿武林 (ディンブリ) に御願を行う。虎千代が武芸者であったからか、ここで棒術を奉納し、公民館にもどり、いよいよ綱引きとなる。安里集落の人々にとって非常に重要な殿だ。これを見ると村の共同意識プロジェクトは成功したように思える。


巫女殿内 (ヌルドゥンチ)

上江門家 (ウィージョウケ) のある隣のブロックにこの巫女殿内 (ヌルドゥンチ) がある。この巫殿内に住んでいた安里巫は、元来は具志頭巫と称されていた。年代はわからないのだが、具志頭村に住んでいた具志頭巫は、そこで火事を起こし、具志頭村に住めなくなり、巫の妹が嫁いだ安里村に移り、そこで、巫職を続け、代々その子孫が安里村に住みながら具志頭巫を務めた。いつしか、安里巫と呼ばれるようになった。ここに祀っていた火神 (ヒヌカン) は、具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン) と言う。火神は、自然石を三個置き祀っているので御三物 (ウミチムン) とも言われている。具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン) は巫女殿内 (ヌルドゥンチ) の隣にある新殿内 (ミードゥンチ) に祀られている。


新殿内 (ミードゥンチ、根屋、安里のお宮)、具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン)

巫女殿内 (ヌルドゥンチ) の隣に新殿内 (ミードゥンチ) がある。具志頭巫火神 (グシチャンヌルヒヌカン) が祀られている。この新殿内 (ミードゥンチ) は集落の根屋で、祭祀の際には最も重要な拝所となる。この安里集落では年に4回の重要な祭祀があった。4つのウマチーで、麦穂祭 (旧暦二月のニングァッチウマチー、豊穣祈願)、麦大祭 (旧暦三月のサングァッチウマチー、収穫祭)、稲穂祭 (旧暦五月のグングァッチウマチー、豊穣祈願)、稲大祭 (旧暦六月のルクグァッチウマチー、収穫祭) だ。この祭りの際に、具志頭巫女と、その管轄の、具志頭村、世名城村、安里村、与座村の根神たちが、当日の三日前から、この根屋に設けた仮屋に断食をしてこもり (ものごもり)、水で身を清め (水撫で)、祭祀の前日に踊りやおもろを謡い神が憑く状態に持っていく (神降り)。これで当日の祭祀に臨める状態になるという。このしきたりが、近年まで続けられていたそうだ。

明治の後期から、国家神道普及の為、各村落に対し、あちこちに点在するお嶽や殿や種々の拝所を一カ所にまとめ、それと神道の神を合祀する神社の建立を指導していた。安里村落では、1935年 (昭和10年) に、この根屋の敷地に、鳥居と社殿を設け神社を建立し、安里のお宮と命名。(グーグルマップでは安里神社となっている。なおかつ場所も間違っており、座嘉比之殿の場所になっている。)  鳥居は、台風で消滅、社殿は沖縄戦で消滅し、現存する社殿は、沖縄戦後に建てられたもの。


ウスデーク (臼太鼓)

安里村では、ウスデーク (臼太鼓) と呼ばれる民族舞踊が続いている。安里集落ができたときから、旧暦6月15日の稲大祭 (ルクグワチウマチー) の日に、祭祀の行事が終ると、村の婦女子がウチハレの遊びとして、サウスミャ (安里村の根屋でミードウンチ) の庭でウスデークを踊ったそうだ。孝神堂が建立されてからは、乙鶴の霊を供養のため、旧暦7月17日に変更され、根屋の新殿内、巫女殿内、孝神堂で踊るようになった。


以上が安里村ができたころの北の地域に残っている文化財だ。次は集落が拡張していった丘陵の斜面から麓にある文化財を見ていく。



安里公民館

集落がある傾斜地の中間に公民館がある。公民館の前の道はほかの道と異なりかなり広くなっている。この道が前 (メー) ミチだったのだろう。ここは村屋 (ムラヤー) だったのだろうか?


安里の獅子

村の西の端に石獅子が残っている。西を向いているのだが、どこに向いているのだろう。自然石でできている。向かいに砂糖屋があった。もともとは二体の石獅子があったそうだが、現在は一体だけが残りもう一体は破損し、公民館近くに埋められたと伝わっている。この場所で地元の叔父さんに声をかけられて、世間話、その中でこの石獅子は4回も盗まれたそうだが、4回とも戻ってきている。村では大切にしているそうだ。他の村の石獅子も盗まれたものがいくつかあるが、戻ってきているものもかなりある。盗んだ人はなぜ元に戻すのだろう?後で怖くなったのか?

石獅子のすぐそばにアダンの実がなった木があり、その前にベンチが置かれていた。アダンの木は海岸線の防風や防潮のために植えられていた。今では食べないのだが、昔は実は食料でもあった。葉は沖縄に産業にもなっていたアダン葉帽子の原料だった。アダンにまつわる伝承も多く残っており、アダンは、昔から沖縄県民にとって特別な存在。ここで村の老人たちが集まっておしゃべりをしているのだろう。沖縄らしい情景だ。


独立高射砲第二十七大隊英霊の碑

集落がある場所より更に丘陵を登った場所に独立高射砲第二十七大隊英霊の碑がある。集落からはかなり距離がある。この場所には陸上自衛隊 南与座分屯地 第4高射中隊の基地がある。この丘陵地には3つも自衛隊基地がある。

基地前にこの慰霊碑がある。もともとは独立高射砲第二十七大隊が玉砕した糸満にあったのだが、ここに移設されている。沖縄戦終盤に組織された独立高射砲第二十七大隊の574名の内464名が犠牲になった。大隊は3つの中隊に分割されて、この近くには第二中隊が配属されていたそうだ。第一中隊は具志頭、第三隊は小禄にいたが、昭和二十年5月には糸満の小渡に集結し最後の戦いとなった。この時点では高射砲は一基しか残っておらず、戦闘は切込みとなった。これが玉砕へとなってしまった。戦後、戦死した兵士の遺骨を拾い集め、残った高射砲とともに慰霊碑が建てられた。


安里馬場 (アサトウンマイー) 跡

安里村落の竸馬は、安里古島の地から現在地へ移動した当初は、享保年間 (1716-1735) に設置された当山門の馬場で行なわれていたが、座嘉比村の一部の移動合流、喜納村の移動合併で安里村落は拡大され、当山門は手狭となり、新たに、村落前方のこの地 (現在は保育園) に安里馬場 (アサトウンマイー) を造った。安里馬場は、明治の終わり頃まで続いたが、その後、黒糖製造のサーターヤーが建てられ、1939年 (昭和14年) には、安里共同製糖工場に建て替えられた。


世持井 (ユムチガ-)

安里集落から外れ南の丘陵の麓の松尾原に世持井 (ユムチガ-) と称する水量豊富な村井 (ムラガ-) がある。この世持井は字安里ないにあるのだが、村井 (ムラガ-) といっても安里集落の村井 (ムラガ-) ではない。安里集落では各家が井戸を持っていたので、共同井戸の村井 (ムラガ-) は不要だった。この村井 (ムラガ-) とは与座村落と仲座村落の共同井戸だった。1914年 (大正3年)、字仲座 (当時字与座は仲座に合併していた) による世持井の大改造の際し、字安里と字仲座との間に、世持井の水利権争いが起こる。字安里は世持井は字安里の地籍内なので水利権は字安里にあるとし、字仲座が独自で世持井の大改造を行うのは妥当ではないと主張。字仲座は世持井は昔から字仲座字与座の村井故、字安里が水利権を主張するのは妥当ではないと反論。結局、この水利権争いは字安里が譲歩し、字仲座は独自で大改造を行なうことになった。今でも水は澄んで魚などが泳いでいた。帰りには子供たちがこの井戸で遊んでいた。

この世持井 (ユムチガ-) は、以前には、アハガーとも呼ばれていた。意味は「おいしくない水」だ。この名についての伝承がある。「古琉球時代、この井の南西近くの丘陵上に、上原按司によって築かれた上城は、やがて、花城按司に滅ぼされ、花城按司の支配する城となり、花城の前衛拠点となる。そこで、城中の人々の飲料水、生活用水は、すべてこの井に頼っていた。水の確保は城の運命を左右する大問題である。そこで、他人がこの井を使用しないために、そして、敵の目をくらますためアハ井と呼ぶようにした。花城按司の策略的な命名であった。」この話は具志頭の「んじゃ井」の話と同様だ。話の真偽は別としても、水に困っていたこの地域の人々の水に対する想いはよく表しているだろう。


慶座屋取 (ギーザヤードウィ) 集落

安里集落とは関係がないのだが、字安里の域内には屋取集落があった。安里集落からはかなり離れた慶座 (ギーザ) 海岸の近くにあった。この地には文化年間 (1804~1817) に、俸禄だけでは生活が困難となった首里、那覇の士族の帰農や、具志頭間切周辺の屋取の帰農士族の分家対策としてこの地に移住が行われ、慶座屋取 (ギーザヤードウィ) 集落が形成された。この時期は第二次屋取 (1795-1875) であった。当時、慶座原一帯に広大な未墾の土地が多く、慶座屋取の帰農士族達は、その土地を開墾し、多くの農地を取得した。しかし、慶座原一帯は、琉球石灰岩丘陵台地で、厚い琉球石灰岩で覆われ、水利の便が悪く、安里村にはかなりの距離があり、日常生活には不便であった。そこで、集落の人々は、その後次第に、首里王府が各地で行った屋取募集で、新たにできた屋取集落に移住していった。安里村の北にある大頓屋取などはその一つである。1941年 (昭和18年) には、集落は3世帯までに減り、1945年 (昭和20年) には慶座屋取集落は消滅する。現在でもほとんど民家はなく、一面サトウキビ畑だ。東側はゴルフ場となっている。慶座屋取があった場所には、平成になってから土地改良が完了した記念碑が建っている。この近くには沖縄でも屈指の名勝の慶座ハンダがある。去年も来たのだが、もう一度見てみたくなり再訪となった。


慶座地下ダム

この地の地質は雨水の40%が下に浸透してしまう。水を通さない壁 (止水壁) を地下に造って、今まで利用されずに海に流れ出ていた地下水をせき止め農業用水として利用を目的で、琉球石灰岩の小さな空隙を利用して地下水を貯める施設が造られている。地下ダムは堤も貯留域も地下にあるので、地上ダムと比べ、農地の一部を犠牲にせず耕地を確保できる事や、地下水の流動が比較的遅く、干ばつ時でも多雨時に地下浸透した地下水が徐々に貯留域に涵養され、長時間にわたって安定した取水ができるという利点があるそうだ。この地下ダムは國場組によって2001年に造られた。この後、この慶座地区の土地改良事業が2014年まで続けられた。


慶座井 (キーザガ-)

この地にできた慶座屋取集落が未墾の慶座原一帯を開拓できるように、村人の飲料水、生活用水の確保の目的で、文化年間 (1804~1817) に、具志頭間切によって建設された積井 (チンガー) の慶座井 (キーザガ-) がある。近くの慶座バンタに断崖の中腹に水量豊富な泉があり、滝となって海に流れ落ちていた。この泉の水脈を掘り当てようとして造られた井戸であったのだが、慶座原一帯は、琉球石灰岩の固い岩盤のため難工事となり、首里王府の援助もあったが、工事は失敗に終わってしまった。これが慶座屋取集落の人々が、ここの開墾をあきらめ、大頓屋取集落などの他の屋取集落へ移っていった理由だった。


慶座バンタ・慶座の滝

この慶座バンタをもう一度見たくなり、再訪した。慶座バンタは海からほぼ垂直にそびえる標高40mの断崖だ。観光地なのだが、あまり紹介されておらず穴場。観光として訪れる人よりは、釣り人やサーファーの方が多いかもしれない。今日もここであった人は数名のみだった。断崖の上には先ほど訪れた地下ダムからの水が流れてきている。そこから断崖を流れ落ち慶座の滝になっている。琉球王朝時代にはこの地下ダムはなく、自然の地下水の湧水だけが流れ落ちていたので、今見える滝の風景とは違っていたのだろう。

海の波は荒い。崖を降りて海面近くまで行ったのだが、水しぶきが降り注いでくるくらいだ。海の色がきれいだ。沖縄独特のイノーと呼ばれる礁池とその外で色が異なる。写真ではうまく捉えられていないいないのだが、本当にきれいだ。

この滝は時期によって見れるときと見れないときがある。今日は引き潮で70㎝ほどの海水位で、滝が見える岩場まで降りれたのだが、時期によっては200㎝以上になる日もある。イノーが水面に現れるのは3月4月で数cmの水位の時。その時は絵画に降りて、全景が見ることができる。来年3月4月で引き潮の時期を調べて、もう一度来てみよう。

これで今日は終了として、帰路につく。今日はまた夏に戻ったかのように気温が高くなった。一週間ごとに気候がかわる。アパートの近くまで来たときには空が夕焼け、もう少しで日没。沖縄では今の時期は6時でまっくらになる。


質問事項

  • 中城間切安里村からこの安里古島へ移住してきた理由は?
  • 安里公民館は村屋?

参考文献

  • 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
  • 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
  • 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)

0コメント

  • 1000 / 1000