Okinawa 沖縄 #2 Day 305 (15/05/26) 石垣市 埋立地域 (2) Shinei-cho / Hamasaki- cho 新栄町/浜崎町
新栄町 (しんえいちょう)
- 新栄公園
- 世界平和の鐘
- ほほえみの鐘
- 憲法九条の碑
- 弾痕の残る壁
- 日本方言研究の先駆者 宮良當壮顕彰碑
- 蘇澳鎮姉妹都市提携20周年記念碑、ひたちなか市・石垣市 友好市民交流の碑
- 岡崎親善庭園、親善之碑
- 八重山平和祈念館
- 石垣漁港
浜崎町 (はまさきちょう)
- 石垣市民会館
- 宮良長包生誕百二十年記念事業期成会の記念像、えんどうの花の歌碑、ふるさとの風にのせて
- 大濱安伴生誕百年顕彰碑
石垣島訪問は今回で3回目になり、5月7日から18日までを石垣島の未訪問地域と竹富町の離島を巡る予定をしていた。7日に石垣空港に到着し、登野城の宿に向かう途中、魚垣がある入江を通った。以前も来たのだが、満潮でよく見えなかった。今回は干潮で魚垣が水上に出て良く見えるのではと思い、海岸の岩場に降りて近づいて行った際に、つまずき転倒、膝を岩で強打した。暫くは痛みで起き上がれなかったが、ようやく痛みが和らぎ、自転車で宿に向かう。膝、肘、手や脇腹は血だらけで、途中にスーパーマーケットで傷口を洗い、オキシドールや包帯を買って応急処置をした。その日はなんとか歩けたが、翌日は痛みが増し、歩けない。宿のオーナーの河合さんに自動車で八重山病院まで連れて行ってもらい、診察の結果、膝の脛骨の骨折 (ひびが入っていた) だった。固定し、石垣島で経過を見て、那覇に帰ってから本格的な治療をする事になった。初日にこんな事になったので、竹富町の離島への船と宿をキャンセルして、登野城の宿で那覇に帰る18日まで様子を見る事にした。数日後には痛みは治ったがギブスをはめての松葉杖生活となった。ギブスに松葉杖生活に慣れてきた5月15日には八重山博物館、17日には平和祈念館を見学した。前回 (4月) に新栄町と浜崎町を訪問しているので、その時に訪れたスポットもこのレポートに含めている。
新栄町 (しんえいちょう)
新栄町は美崎町に引き続き埋め立てられた地区で、かつては新川の地先の海だった。埋め立ては1967年 (昭和42年) に始まり、の翌年の1968年 (昭和43年)に完成。1969年 (昭和44年)に
独立行制区域となり、町名は公募によって新栄町と命名された。
新栄町が誕生した1969年 (昭和44年)には74人 (13戸) が住み始め、その後、住宅地が開発され、急速に人口が増加し、1989年 (平成元年) には2,706人 (852戸) に達している。その後は、戸数は増加が続いたが、人口は横ばいになっていた。近年は人口、戸数とも減少傾向になっており、2023年 (令和5年) 末では2,401人 (1,295戸) になっている。
新栄町民俗地図
新栄公園
美崎町と東に隣接している場所には新栄公園がある。この公園は1990年 (平成2年) に造成され、敷地約21,000㎡ には芝生広場を、遊具エリア、モニュメントエリアが設けられている。この新栄公園ではオリオンビアフェストやとぅばらーま大会など石垣島のイベントが数多く開催され、市民の憩いの場となっている。
世界平和の鐘
いつも図書館に行った後に休憩する東屋の側に世界平和の鐘が置かれている。この世界平和の鐘運動は、この鐘は元愛媛県宇和島市市長の中川千代治氏が、国を越え宗教の違いを越えて平和を願いをこめ、1954年 (昭和29年) に戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、65ヵ国のコインやメダルなどで鋳造した世界平和の鐘を米国ニューヨークの国連本部に寄贈した時から世界各国に活動が広まって行き、現在では世界平和の鐘は国内で5つ、海外で21個が設置されている。この石垣島には北海道の稚内市への鐘の寄贈に次いで、1988年 (昭和63年) にこの新栄公園に設置されている。
終戦の日や沖縄戦が終結した慰霊の日、東日本大震災が起こった日などに、戦争や災害の悲惨さや平和を再認識するためにも鳴らされている。
ほほえみの鐘
世界平和の鐘の側にもう一つ鐘がある。世界平和の鐘と共に1988年 (昭和63年) 設置されたほほえみの鐘で非核平和都市宣言をした石垣市民の善意によって設置され、未来を担う子ども達の幸せとすこやかな成長・世界の永遠の平和の祈りが込められている。
憲法九条の碑
世界平和の鐘から少し離れた所には憲法九条の碑が置かれている。2004年に新栄公園に憲法九条の碑をつくる会によって市民が寄付金を募って設置され、石垣市に譲渡されたもの。沖縄県内には7カ所に憲法九条の碑があり、ここに石碑は4番目として建立された。
かつて日本の侵略を受けた中国大陸の黒御影石に、平和の誓いである九条を刻んでおり、平和のシンボルの鳩をデザインした平和の石を憲法9条を刻んだ巨石が支えるデザインになっており、戦争の放棄、平和のメッセージを伝えている。
弾痕の残る壁
憲法九条の碑の奥には、米軍による機銃掃射の跡が残るコンクリート壁が保存されている。石垣島地方気象台の壁だが、石垣島地方気象台の壁の改修に伴い、2007年 (平成19年) に、この地に移設されている。
日本方言研究の先駆者 宮良當壮 顕彰碑
公園内には隣町の美崎町コミュニティセンターが置かれており、その前に宮良當壮顕彰碑が置かれている。宮良當壯は、1893年 (明治26年) に石垣市字大川で生まれ、1964年 (昭和39年) に70歳で亡くなっている。1919年 (大正8年) に國学院大学に進学し、前田太郎、金田一京助、折口信夫に師事し方言学や民俗学を学んだ。卒業後は柳田國男の推挙で宮内省図書寮に勤務、1925年 (大正14年) から1946年 (昭和21年) まで帝国学士院より研究費補助を受け、国際音声記号を用いて前人未踏の全国方言調査研究に従事した。
1938年 (昭和18年) には図書寮編修官を辞し、日本方言研究所を創設して方言の調査研究を行い、生涯を方言研究にに打ち込んだ。生誕百年に当たる1993年 (平成5年) に宮良當壮博士の偉業を讃えこの碑が建立されている。
蘇澳鎮姉妹都市提携20周年記念碑、ひたちなか市・石垣市 友好市民交流の碑
新栄公園の東側道路沿いにも三つの石碑が置かれている。向かって左側には石垣市の位置を示す碑、中央には台湾の蘇澳鎮との姉妹都市提携20周年を記念する石碑が置かれている。5周年と10周年記念碑は新川の船倉公園に、15周年記念碑は崎枝の御神崎にある。両地域の強固な絆がわかる。右側には茨城県のひたちなか市との交流20周年を記念した「ひたちなか市・石垣市 友好市民交流の碑」 が置かれている。2003年に石垣市で開催された「市民憲章全国大会」に参加したひたちなか市の関係者が、石垣島の音楽グループ「鳩間ファミリー」の八重山民謡に感銘を受けたことがきっかけで、ひたちなか市の夏祭りに鳩間ファミリーを招待し、市民レベルでの交流が始まり、20年以上にわたり続いている。
岡崎親善庭園、親善之碑
新栄公園の北西には石垣市と愛知県岡崎市の友好親善都市提携を記念した石碑が幾つも置かれている。ここには石垣市と愛知県岡崎市が親善都市として提携した当時、岡崎会館が建築されていた。しました。その後、老朽化のために取り壊されることになり、その跡地に岡崎親善庭園が整備されている。庭園には岡崎市から贈られた石碑や石像が設置されている。
その中には1968年 (昭和43年) に建立された親善之碑 (写真左上) が置かれている。戦時中、大浜に駐屯していた岡崎市の将兵が戦後に「八重桜会」を結成し、1964年 (昭和39年) に大浜小学校に図書を贈ったのが友好の始まりで、その後、岡崎市の奥殿小学校と石垣市の大浜小学校、平真小学校、明石小学校が姉妹校の縁を結び、1969年 (昭和44年) に両市の親善都市提携へと発展している。その他、親善都市友好記念碑 (1964年 昭和39年、写真中上)、
徳川家康六十歲像 (親善都市提携四十周年記念、2009年 平成21年、写真右上)、仲よしの像 (1987年 昭和62年、写真中下)、雪見灯 (親善都市提携二十周年記念、岡崎市制七十周年記念、1989年 平成元年、写真右下) も置かれている。
八重山平和祈念館
新栄町の北西の端、市役所通り沿いに八重山平和祈念館が建てられている。膝の骨折の痛みもかなり取れて来たので、以前から見学したいと思っていた八重山平和祈念館を5月17日に訪れた。
この八重山平和祈念館が設立された背景は、戦後40年以上を経て、1980年代末に八重山の戦争マラリアで亡くなった人達の遺族が国に補償を求めて立ち上ったが、国の厚い壁に阻まれ補償は1995年 (平成8年) に以下の様な限定的なもので実施されている。
- 国は、遺族に対する個人補償等の個人給付は行わない。
- 遺族の慰籍をする場合は、沖縄県において措置する。
- 上記を沖縄県が了承することを前提に、沖縄開発庁分「マラリア犠牲者慰藉事業」3億円を実施 (慰霊碑建立等事業 (46百万円)、② 八重山平和祈念館建設等事業 (154百万)、③ マラリア慰藉のための死没者資料収集・編纂事業 (80百万)、④ マラリア犠牲者のためのマラリア死没者追悼事業 (20百万)
というもので、個人補償をやらない代わりに八重山平和祈念館建設を行うという事で遺族と合意した。この4つの事業内容と当該金額を見ると、この金額ではいったい何ができるのだろうと思える。
また、八重山平和祈念館設立時と1999年に当初の展示内容が事前合意なしに改竄・削除されたという問題が提起された。沖縄戦における住民の被害実態や証言、戦争マラリアの悲惨さを伝える展示が、「国策批判につながる」「反日的である」との理由で県当局によって不当に変更されたとして、戦争体験者や研究者から強い反発が出ていた。日本軍の過酷な実態や戦争マラリアの犠牲に関する証言が削除、事実をぼかすような表現に修正されたとして大きな批判を浴びた。 強制疎開によって日本軍が知りながらマラリア有病地域に追いやられた住民の苦難や軍の責任を問う視点が薄れた事、開館当初から常駐する専門学芸員が配置されていない事、展示スペースが狭く、マラリア事件の悲惨さが十分に伝わらない展示内容になっている事などが継続的に指摘されていた。実際に八重山平和祈念館を見学すると、指摘されている批判はもっともかと思えた。なぜか展示室では全て写真撮影禁止となっていた。展示内容についての非難されている事が影響しているのだろう。インターネットで公開されているものがあったのでその写真を借用した。
糸数町のひめゆり平和祈念資料館と比べると現在の展示内容では八重山で起きた戦争マラリアの惨事の背景、実態、その後の影響などは伝わらないと思えた。開館当時からほとんど展示内容が変わっていない事については、国と沖縄県は3億円を拠出した時点で国は責任を果たしたと考え、この八重山平和祈念館の積極的活用には興味がなかったと思われる。
同館と糸満の平和祈念資料館で、専門家や県民の意見を反映させるため2025年1月に 「沖縄県平和祈念資料館及び八重山平和祈念館
展示更新基本構想」 が発行されて、検討作業が進められている。今後、リニューアルが行われる様なので (時期については発表されていない)、その際に再度訪れてみたい。
石垣漁港
八重山平和祈念館の海岸には石垣漁港が整備されている。石垣漁港は、八重山随一のマグロ水揚げ量を誇る石垣島内最大の漁港になる。近くには魚屋も幾つかあり、石垣島滞在中には魚屋で水揚げしたマグロの大トロ、中トロ、赤身のミックスセットパックが780円という超格安で販売していた。東京に比べて8分の1の価格だ。冷凍ものでないマグロが食べられる。石垣島の人達もマグロの水揚げは楽しみにしているそうだ。
浜崎町 (はまさきちょう)
浜崎町は美崎町と新栄町の西側に隣接した地域で、海岸が埋め立てられ、1978年 (昭和53年) に誕生している。浜崎町の南側は石垣港に面し海上保安庁専用バースが造られ、北側には石垣漁港に面し小型船だまりとなっている。浜崎町は市街地に近く、地域内はオーシャンビューのマンションなど住宅が建ち並んでいる。
浜崎町が誕生した1978年 (昭和53年) 以降、住宅地が開発され、1990年代まで急速に人口が増加し、その後は増加率は鈍化したものの、2016年 (平成28年) には1,190人 (610戸) に達している。この年をピークとして、その後は人口、戸数とも減少傾向になっており、2023年 (令和5年) 末では1,107人 (594戸) になっている。
浜崎町民俗地図
石垣市民会館
新栄公園のすぐ西側には1986年 (昭和61年) に開館した石垣市民会館が建っている。大ホール (1,010席)、中ホール (300席)、展示室、会議室等が整備されている。
宮良長包生誕百二十年記念事業期成会の記念像、えんどうの花の歌碑、ふるさとの風にのせて
石垣市民会館の前庭には宮良長包生誕百二十年記念事業期成会の記念像が置かれている。宮良長包に関わるスポットはこの他に新川に宮良長包生誕地の碑、宮良長包顕彰碑が置かれており、石垣市名誉市民でもあり、石垣島の人達からは尊敬されている人物である事がわかる。
宮良長包 (1883 明治16年 - 1939 昭和14年) は石垣島新川出身の学校教諭で音楽家でもあった。代表曲としては 「南国の花」、「えんどうの花」、「新安里屋ユンタ」、「なんた浜」があり、沖縄音楽界の父として親しまれいた。宮良長包の偉業と遺徳を称えて2003年 (平成15年) に記念像が作られている。記念像の前には宮良長包作曲の代表作のえんどうの花の歌碑も置かれている。
えんどうの花の さくころはおさない時を 思い出すうちののきばに すをくってくれ方帰った あのつばめ えんどうの花の さくころは冷たい風が ふきました妹おぶって くれ方にいちごを取りに 行った山けさは 冷たい風がふきつばめが一羽 飛んでいるえんどうの畑は 寒けれどわたしゃ一人で 帰りましょう
宮良長包生誕百二十年記念事業期成会の記念像の隣には沖縄彫刻会の第一人者の西村貞雄作 (1942年生まれ、佐敷村新里) の風に吹かれて立つ女性と犬のブロンズ像が設置されている。
大濱安伴生誕百年顕彰碑
宮良長包記念像の奥の広場には2024年に石垣島出身の大濱安伴 (1912 - 2001年) の生誕百年を記念した顕彰碑が建立されている。大濱安伴は八重山古典民謡において実演家、工工四編纂者、指導者としてその発展に多大な功績を残している。
あたら島歌
たんでぃ磨きつぃけ
我がけーら肝ゆ
すらし給り大濱安伴
転倒事故当日の夜には左ひざは二倍もに膨れ上がり (写真左)、痛みで寝れなかったが、八重山病院で内出血の血を抜き痛みは緩和された。その後はギブスと松葉杖での生活となった。5月18日の那覇に帰る際には、石垣空港までは宿で知り合った並木さんが同行してくれて、自転車の積み下ろしを手伝ってくれた、那覇空港では、同日東京から仕事で到着した土肥さんと合流し、那覇空港で夕食を共にし、自転車の積み下ろしを手伝ってくれた。翌日から南部徳洲病院で検査、診察を受け、靭帯損傷はなく、膝脛骨の骨折 (ひび) だけと判り、手術は不要でギブスでの保存治療の継続となった。骨折箇所の経過観察とリハビリが予定され、元に戻るまでは数か月かかるとのこと。この期間は残念だが沖縄の集落巡りは中断することなる。
骨の再生までは膝に負荷をかけない様に、買い物などは自転車で負傷した左足のペダルを外し、右足の片足走行でなんとか凌いでいる。(写真中/右)
参考資料
- 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
- 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
- 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
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