Okinawa 沖縄 #2 Day 304 (05/04/26) 石垣市 埋立地域 (1) Misaki / Yahima 美崎町、八島町

美崎町 (みさきちょう)

  • 730記念碑、ぱいーぐる
  • 石垣港離島ターミナル
  • 具志堅用高記念像
  • 美崎町公園
  • 竹富町役場

八島町 (やしまちょう)

  • 登野城漁港
  • 八島緑地公園、古賀辰四郎 尖閣諸島開拓記念碑、感謝の碑


今日の沖縄那覇へのフライトは夕方なので、午前中は時間があるので、石垣市の埋め立てでできた新しい町を散策する。


美崎町 (みさきちょう)

大川の海岸を1960年 (昭和35年) から1965年 (昭和40年) にかけて埋め立て造成した地域で、1966年 (昭和41年) に、独立行政区となり、かつての浜の名の美崎浜 (ミシャギパマ) に因み 「美崎町」 と命名されている。

埋め立てが完了し、美崎町創立当時は世帯当たりの人数は4人と家族向けの住宅が建設されていたようだが、この美崎町は商業地域として発展しており、一般向け住宅は増えていない。近年は世帯数、人口共に減少傾向にある。


730記念碑、ぱいーぐる

国道390号線の海岸側が埋め立てによってできた美崎町でこの国道がかつての海岸線だった。国道390号線に730記念碑交差点がある。名の如く、交差点には730記念碑が置かれている。730 (ナナ・サン・マル) とは、沖縄が本土に復帰して6年後の1978年 (昭和53年) 7月30日に行われた道路交通方法変更の日の事で指している。この日の午前6時で、車両右側通行が一斉に本土と同じ車両左側通行に変わった。変更前日の29日午後10時から県内は特別交通規制に入り、わずか8時間の間に県内すべての道路標識や表示の切り替え作業が行われた。沖縄本島ではこの変更で車の接触事故、渋滞や逆走などが多発したが、石垣島では警察や地域の交通安全団体が切り替えのポスターやパンフレット配布、学校での児童への指導などの努力により大きな混乱や大事故もなく切り替えは無事成功した。 


6年前の1972年に本土復帰はしていたが、米軍統治の名残りが続いていたが、道路交通方法変更で本土復帰が完了した実感が確認された日でもあり、1978年 (昭和53年) 9月にこの730記念碑が設置された。その日からちょうど30年後の2008年 (平成20年) 7月30日に交通安全を祈念して獅子を置き、碑の周辺は小公園として整備されている。交差点の向かい側には石垣島のマスコットのぱいーぐるも2019年 (平成31年) 八重山地区交通安全協会創立65周年記念で設置されている。


石垣港離島ターミナル

石垣港には八重山の離島を結ぶ定期船の船着場がある。以前は離島桟橋から船が出ていたが混雑がひどくなり、新たな離島ターミナル を2007年 (平成9年) に竣工し翌年から運用が開始された。現在では桟橋が4基あり、2社が竹富島、小浜島、黒島、西表島、波照間島、鳩間島への定期船を運行している。


具志堅用高記念像

離島ターミナル桟橋付近に金色で塗装された具志堅用高の記念碑が設置されている。具志堅用高は石垣島では英雄だ。


美崎町公園

離島ターミナルの側には美崎町公園が整備され、公園中心には石垣島のシンボルのカンムリワシ像が花壇の中に建てられている。


竹富町役場

美崎町の中に竹富町役場が建てられている。竹富島ではなく石垣島にあるのか気になった。竹富島は幾つかのの離島で構成されているが、離島間の定期船は限られており、竹富島に役場を置いたとしても離島からは石垣港経由になる。そこで、離島間交通の拠点となる石垣市に役場が置かれたという背景がある。

大正時代の竹富村役場は竹富島に置かれていたが、当時から離島間移動は不便だった。1925年 (大正14年) に石垣村に村役場出張所が設置され、1938年 (昭和13年) には、村役場自体が竹富島から石垣町字登野城へ移転している。1945年 (昭和20年) の沖縄戦当時は一時的に仮役場を小浜島へ設置していたが、第二次世界大戦の終結とともに石垣島へ戻している。1962年 (昭和37年)には、大川の現在の八重山郵便局駐車場に移転、1977年 (昭和52年) に現在地に移転している。西表島と波照間には出張所があり、それ以外の離島では一部業務は郵便局が代行している。

この石垣市に役場が存在する事には竹富町の中でも賛成派と反対派で長く論議が行われ、石垣市、与那国町の合併の議案もあったが廃案となり、2002年 (平成14年) の町会議で役場の町内早期移転が決議されている。現在の計画では西表島の大原に新庁舎建設し、石垣島の役場は支所との方針になっている。



八島町 (やしまちょう)

美崎町の東に隣接し、かつての海岸線だった国道390号線の海岸側が八島町になる。

石垣港の港湾機能拡大や土地需要への対応のため 1980年代に海を埋立てて誕生した地域で、1990年(平成2年)に新しく八島町となっている。

八島町の西側は登野城漁港関連施設で、町内の半分以上を占めている、東側の海岸線には八島小学校が建てられその北側が住宅街となっている。市街地に近いことから、住宅建設が行われ人気の地域で人口は急増した。近年、八島小学校は地震津波発生時に児童の避難には問題があることが指摘され、転校者が相次いでいる。その安全性への不安からか、人口と世帯数とも減少に転じている。


登野城漁港

国道390号線から登野城漁港への入口があり、入口にあるにはマンタ像が置かれている。登野城漁港は昔からあった漁港で、埋め立てにより整備され、与那国島への定期便ターミナルがあり、公園も造られている。


八島緑地公園、古賀辰四郎 尖閣諸島開拓記念碑、感謝の碑

八島町の石垣港側にある八島緑地公園内に石碑二基が置かれている。向かって左には古賀辰四郎 尖閣諸島開拓記念碑で、明治初期に尖閣列島に渡り、絶海の孤島に私財を投資して開拓した古賀辰四郎氏の親子二代の業績を称えた記念碑になる。

古賀辰四郎は福岡県出身で1879年 (明治12年) に那覇に寄留商人として進出して、この石碑近くに古賀商店を開設、1882年 (明治15年) に石垣島大川に支店を開設、1884年には尖閣諸島に人を派遣している。

1895年 (明治28年) には古賀氏自ら久場島に上陸し、1896年 (明治29年) に同島の開拓を開始して、漁夫等35名を使い、夜光貝の採取、羽毛の採取の為海鳥の捕獲、鰹漁・鰹節製造など種々の事業を展開した。事業は魚釣島・久場島・北小島・南小島において展開され、移民総数が一時期には248名 (99戸) にもなっていた。収穫した魚介類産物は海外にも輸出 され、沖縄経済に大いに貢献したという。1932年 (昭和7年) には魚釣島・久場島・北小島・南小島を国から払い下げを受けている。

1995年 (平成7年) にこの碑が建立され、碑の前では、毎年、尖閣諸島を守る会主催の尖閣諸島開拓を祝う宴が行われている。

右側には感謝の碑が置かれている。沖縄県祖国復帰50周年記念事業の一環として建てられたもの。裏面の碑文には国家や国民、市民・郡民、自衛隊の活動に感謝し、沖縄県および八重山地域のさらなる振興発展を祈念する旨が記されている。

公園の東屋で休憩、食べ物目当てなのかカラスが数匹よってきた。警戒心が無いのか逃げず一定の距離を保って、食べ物を待っている。生憎、何もあげる物はなかったのだが、いつまでも待っていた。まるで鳩の様だ。石垣島のカラスは少し小ぶりで、オサハシブトカラスという種だそうだ。

休憩を終えて石垣空港に向かう。これで第二回目の石垣島訪問は終了。次回は5月半ばのフライトを抑えている。次回は石垣島の残りの川平と竹富町離島に行く予定。


参考資料

  • 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
  • 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
  • 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室) 

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