杉並区 31 (19/05/25) 旧高井戸町 (高井戸村) 旧上高井戸村
上高井戸村
小名 正用
小字 北裏
- 柏邑山松林寺 (曹洞宗)
- 山門
- 六地蔵 (242番、243番)、庚申塔 (240番)、地蔵菩薩立像 (241番)、招魂碑
- 庚申塔 (238番、登録番号なし)、四國八十八番供養塔 (239番)、馬頭観音
- 鐘楼
- 本堂、庫裡
- 地蔵菩薩立像 (246番)
- 萬霊塔、地蔵菩薩 (244番)、聖観音 (245番)、千手観音塔
小字 正用
- 冨智稲荷神社
小字 正用下
- 高井戸駅
- 杉並清掃工場
- 高井戸東遺跡
小字 堂ノ下
- 堂ノ下橋
小字 堂ノ上
- 柏の宮公園、林丘亭
- 柏の宮稲荷神社
- 三井の森公園
- 高井戸中学校、アンネのバラ
小名 池袋 (小字 池袋)
- 用水路跡
- 山草園 (三泉淵緑地)
小名 東原 (ひがしっぱら 、小字 東原)
- 本山大明王院身代り不動尊東京別院 (真言宗醍醐派)
- 福富稲荷
小名 打越
小字 正用西 (下高井戸村小名正用小字大飛地)
- 交通地蔵尊
- 丸太緑地
小字 打越
- 内藤本家地蔵菩薩坐像
小名 鍛治屋敷
小名 山中
小字 御伊勢
- 山中公園
- 象頭山吉祥院 (天台宗)
- 山門
- 御嶽神社
- 手水舎、矜羯羅 (こんがら) 童子、制吒迦 (せいたか) 童子
- 本堂
- 築山
- 地蔵堂
- 築山
- 庫裏、築山
小字 中袋
- 第六天神社
- 鳥居、手水舎
- 国旗掲揚台
- 狛犬、常夜燈
- 社殿
- 神楽殿
- 末社殿
- 日露戦役記念碑、神輿庫
- 浴風会
小名 児谷戸 (こやと)
小字 中久保
- 庚申塔 (275番)
- 庚申塔 (271-3番)
小字 五ツ割
- 医王寺閻魔堂墓地
小字 西原
- 庚申塔、如意輪観音
小字 児谷戸
- 庚申塔 (274番)
小名 宿
小字 町裏
- 明星山遍照院医王寺 (真言宗智山派)
- 山門、地蔵菩薩 (266番)、妙典六十六部供養塔 (268番)、百番観音供養塔 (269番)
- 納骨堂、ふれ愛観音像
- 大師堂
- 本堂
- 六地蔵 (267番)、水子地蔵菩薩 (270番)
- 板碑 (いたび)
- 片目の魚の池 (消滅)
- 上高井戸宿公園
- 上高井戸宿
- 旧甲州街道
- 井之頭辯財天道標
小字 屋敷裏
- 萬年山長泉寺 (曹洞宗)
- 参道
- 阿弥陀供養碑、文殊菩薩坐像、釈迦如来坐像、普賢菩薩坐像
- 観音堂、西国巡礼図
- 鐘楼、地蔵菩薩
- 花園観音 (255番)、庚申塔、馬頭観音
- 本堂
- 十六羅漢
- 墓地、地蔵菩薩 (263番)、庚申塔、阿弥陀如来
- 庚申塔 (262番)、阿弥陀如来 (264番)
- 有縁無縁供養塔 観音菩薩立
- 武蔵屋並木家墓
- 稲荷神社
- 八幡山駅
- 稲荷神社
昨日は合宿の高井戸宿が置かれた東の下高井戸村を巡ったが、今日は高井戸宿の西側の上高井戸村の史跡等を巡る。
上高井戸村
江戸時代、上高井戸村に上高井戸宿の設置の為に烏山村の甲州街道沿いの地域が移管され、村内には九つもの小名があった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され他の5ケ村と統合され高井戸村が誕生した際に、旧上高井戸村は大字上高井戸となり、大字上高井戸内は24の小字に分かれている。(北裏、小飛地、正用裏、正用、正用下、堂ノ上、堂ノ下、東原、池袋、佃、御伊勢、中袋、小山、前山、大飛地(正用西)、北原、打越、屋敷、屋敷下、西原、五ツ割、中久保、児谷戸、町裏、屋敷裏)
その後、1932年 (昭和7年)、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で下図の様に行政区が変遷している。
1896年 (明治29年) ~ 1909年 (明治42年) の地図を見ると、民家は北の久我山街道沿い、南の甲州街道沿い 、小字の御伊勢に集中しており、それ以外の地域では民家はほとんど見られない。この状況は戦前まではそれ程の変化はみられない、民家が増加し始めるのは戦後で、1960年代には、旧上高井戸村全土に広がり、1990年代には公共施設を除き民家が密集している。
上高井戸村の史跡、スポット
旧上高井戸村の中心部、南北に東京都道311号 (環状八号線) が通り、まずはこの環状八号線の東にあった小名から巡る。
小名 正用
旧上高井戸村の北端が小名 正用だった。新編武蔵風土記稿 (1828年 文政11年) によれば小名 正用には50軒ほどの民家があったと記載されている。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、上高井戸村が大字 上高井戸となり、それまでの小名が廃止され、旧小名 正用は北裏、正用、正用下、正用裏、堂ノ上、堂ノ下の6つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。
小字 北裏
小名 正用の6つの小字の内の一つで最も北に位置している。北裏の地名の由来は不明だが、南に隣接するのが、小名 正用の本村とも言える小字 正用なので、本村の裏側北にある地域という事なのだろう。1889年 (明治22年) に町村制が施行され誕生した高井戸村大字上高井戸小字北裏は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北裏も含め6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 北裏は高井戸東三丁目と高井戸東四丁目に分かれ現在に至っている。
柏邑山松林寺 (曹洞宗)
旧小名 正用、小字 北裏にある柏邑山松林寺は、曹洞宗の寺院で、木造千手観音菩薩坐像を本尊として祀っている。1593年 (文禄2年)に中野成願寺五世葉山宗によって、小字 堂の上、 現在の堂ノ下橋北側に開山され、当初は開基正林寿庵主の名にちなんで 「正林寺」 と称していた。正確な場所は不明だが、柏ノ宮園 (現在の柏の宮公園) を造成したとき、板碑が30枚程出土した事から、その付近ではないかと推定されている。創建当初は小さな庵だったので、堂ノ上、堂ノ下の地名の由来となった。創建後、程なく、旧小字正用の現在地 (旧小字 正用) に移ったと伝えられている。 1713年 (正徳3年) に、正林寺の周辺に松が多かったことにちなみ、寺名を 「松林寺」 と改めている。1914年 (大正3年) に田端村小字日性寺 (現 成田西3-15) にあった同宗の全福寺 (旧日性寺) を合併している。
山門
中野から堀ノ内、下・上高井戸、久我山、牟礼、上・下連雀を経て府中に至る道の久我山街道 (人見街道と重なる) に松林寺の山門がある。
六地蔵 (242番、243番)、庚申塔 (240番)、地蔵菩薩立像 (241番)、招魂碑
山門を入ったすぐ左側には、村人の浄財によって村内各地の辻に造立されていた石仏が集められている。
- 六地蔵 (243番): 死後の世の六道 (地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道) で死者を導く六地蔵は1764年 (明和元年) から1803年 (享和3年) までの間に次々と建てられ、門前の久我山街道に面して置かれ、街道を通る人々から 「松林寺のお地蔵様」 と親しまれていた。 向かって右から見ていくと、宝珠の地蔵菩薩 (造立年不詳)、幢幡 (1764年 明和元年)、合掌 (1793年 寛政5年)、柄香炉 (1803年 亨和3年)、鈴杖/宝珠 (1763年 宝暦13年)、念珠 (1783年 天明3年) で各地蔵菩薩立像の台座には 「右五日市道 左府中裏道」と刻まれ、道標を兼ねていた。
- 庚申塔 (240番): 1674年 (延宝2年) 造立 の傘付角柱の上部に梵字種字の हूं (ウン) とその両脇に日月が線刻され、その下に邪鬼を踏みつけた合掌二臂の青面金剛立像、更にその下に二鶏と三猿が浮き彫りされている。石塔には 「奉造立青面金剛尊庚申供養道行十六人」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩立像 (241番): 1783年 (天明3年) 造立の舟型石塔に数珠と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。石塔には 「天下 大平 奉納大乘妙典六十六部供養塔」 と刻まれている。
- 庚申塔 (242番): 1683年 (天和3年) 造立の傘付角柱の上部に卍と日月が線刻され、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、更にその下に二鶏と三猿が浮き彫りされている。石塔には 「奉造立青面金剛尊 申庚供養道行廿三人」 と刻まれている。
- 招魂碑: 高井戸村から日清戦争 (1894年 明治27年 ~ 1895年 明治28年) に出兵した青年の慰霊碑が自然石に招魂碑と刻まれ、兵士の従軍履歴が記されている。
庚申塔 (238番、登録番号なし)、四國八十八番供養塔 (239番)、馬頭観音
山門側には4基の石仏が置かれている。
- 庚申塔 (238番): 1796年 (寛政8年) に村内講中により造立された傘付角柱の庚申塔だが、欠損が激しい。日月、ショケラをぶら下げ、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、更にその下に三猿が浮き彫りされている。石塔側面には 「東江戸道 南高井戸道 西府中道 北◼️ ◼️」 と刻まれ、道標を兼ねていた。
- 四國八十八番供養塔 (239番): 1839年 (天保10年) 造立の山状角柱正面に 「天下泰平 四國八十八番供養塔 國家安全」、側面に 「坂東 天下泰平 秩父 百番供養塔 西国 五穀成就」 と刻まれている。
- 馬頭観音: 1820年 (文政3年) 造立の舟型石塔に合掌の馬頭音立像が浮き彫りされている。
- 庚申塔: 1892年 (明治25年) 造立の隅丸角柱正面に「庚申塚 正用村 西向テ なが新田みち」、側面に「右 あわしま道」 「左 なかのミち」 と刻まれている。正用村とあり、小名 正用は江戸時代のある時期に上高井戸に吸収までは一つの村だったが、住民は明治時代に入っても正用村と記している。
鐘楼
山門を入った右手に鐘楼が建てられている。
本堂、庫裡
境内はそれほど広くないが、石畳で覆われ、境内の周りに地蔵像や燈籠が置かれている。境内正面には本堂が建建てられ、その右手奥に庫裡 (写真 中右) が隣接している。本堂内陣には、本尊の千手観音坐像が厨子の中に祀られている。本尊は20cm程の小さな観音だが、江戸時代にはもっと大きな千手観音が本尊だったというので、いつの時代にか、変わったのだろう。本堂裏霊牌堂には1832年 (天保3年) と記された閻魔大王像 (写真右下) が鎮座しているそうだ。
地蔵菩薩立像 (246番)
墓地への入口には1741年 (寛保元年) に上高井戸村と久我山村住民により造立された丸彫りの錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像 (246番 写真 左上) が置かれている。元々は松林寺から久我山街道を少し東に行き現在の浜田山三丁目に入ったところに置かれていたものをこの地に移設している。台座には 「四国八拾八所 西国三拾三所 坂東三拾三所 秩父三拾四所 奉供養」 とある。また、台座即面には 「右は大見や前新田道」 「左ハふちうみち全心息慈」 とあり、道標を兼ねている。地蔵菩薩立像の両脇には小さな石仏、石塔も置かれている。本堂裏の墓地への道沿いにも日清戦争で戦死した上高井戸村出身兵士の招魂碑 (右下) もあった。
萬霊塔、地蔵菩薩 (244番)、聖観音 (245番)、千手観音塔
本堂裏が墓地になっており、そこに全ての生命の霊を供養する萬霊塔がある。
- 三界萬霊塔 (写真中上): 1763年 (宝暦13年) に建立
- 聖観音菩薩 (245番): 三界萬霊塔の左に1731年 (享保16年) に上高井戸村の11人により造立された傘付角柱が置かれ、上部に聖観音の梵字種字のस (サ)が刻まれ、その下に蓮華に乗った聖観音菩薩 (左上) が浮き彫りされている。元々は松林寺から久我山街道を少し東に行き現在の浜田山三丁目に入ったところに置かれていたものをこの地に移設している。
- 地蔵菩薩立像 (244番): 三界萬霊塔の右には1713年 (正徳3年) に講中21人により造立された鈴杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像 (右上) が置かれている。
- 千手観音: 「南無千手観音」と文字だけが刻まれた自然石の石塔が三基置かれている。入口左のもの (左下) は1895年(明治28年)、右側手前のもの(右下) は1910年(明治43年) あり、その後のもの (中下) は1908年 (明治41年) に建立されている。
墓地の北塀の外側に松林寺と刻まれた石塔の足元に地蔵菩薩像が三基、供養塔が一基が置かれていた。
小字 正用
小字 北裏の南が小字 正用で久我山街道 (人見街道) がこの二つの小字の境界線だった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され誕生した高井戸村大字上高井戸小字正用は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 正用も含め6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 正用は高井戸東三丁目に含まれる事になり現在に至っている。
冨智稲荷神社
小字 正用の南東、小字 堂ノ上との境界あたりに、ゴルフ練習場があり、そのの駐車場の奥に稲荷神社がある。冨智 (ふじ) 稲荷社だが、創建年代等の詳細は見つからず。
小字 正用下
小字 正用の南が小字 正用下になる。神田川が小字 正用下の南の境界になっており、小名 築田 (小字 佃) に隣接していた。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され誕生した高井戸村大字上高井戸小字正用下は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 正用下も含め6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 正用下は高井戸東三丁目に含まれる事になり現在に至っている。
高井戸駅
小字 北裏の松林寺から小字 正用を通り、小字 正用下に入る。旧小名 鍛治屋鋪との境、神田川に架かる佃橋の場所に高井戸駅がある。1933年 (昭和8年) に帝都電鉄の駅として始まり、1940年 (昭和15年) に帝都電鉄は小田原急行鉄道と合併し小田原急行鉄道帝都線の駅となった。1942年 (昭和17年) には小田原急行鉄道が東京急行電鉄に吸収され、1948年 (昭和23年) に東京急行電鉄から京王帝都電鉄が分離され、京王帝都電鉄井の頭線の駅となり現在に至っている。写真にある様に、昔は神田川の堤の上に造られていたが、現在では高架駅になっている。
杉並清掃工場
高井戸駅から空に伸びた白い煙突が見える。清掃工場は1978年 (昭和53年) に着工し、1982年 (昭和57年) に竣工している。現在の工場は2017年 (平成29年) に建て替えられたもの。
この清掃工場は1950年代後半から1970年代にかけて、杉並区と江東区との間で起こった 「ゴミ戦争」 の舞台となった。江東区は江戸時代から、大半は埋め立て地で1655年 (明暦元年) から一貫して江戸・東京のごみを埋め立てる最終処分場だった。1950年代半からの高度経済成長期には廃棄物の増大化となり、最終処分場の逼迫や煤煙、悪臭、ごみ火災、交通渋滞、ハエの大量発生などが顕著となり問題が深刻化していた。東京都は江東区からの要望で全ての特別区に清掃工場の建設を決め、1956年 (昭和31年) に 「清掃工場建設10ヵ年計画」 を策定、大田区、世田谷区、練馬区、板橋区、杉並区などで新しく清掃工場が建設されることになった。1966年 (昭和41年) に高井戸地区が清掃工場として選定されたが、高井戸地区住民は「地域選定理由が不透明で事前に地域住民に対する協議がなかった」との理由で反発し、杉並区の清掃工場建設計画は中断。計画膠着により、1972年(昭和47年)12月に年末年始のゴミ増加に対応するため都内8か所に一時的なゴミ集積所を設置を開始したが、この一つとなった和田堀公園周辺の住民が工事を実力阻止事件が起きた。杉並区の住民がゴミ問題の解決に積極的ではないと見た江東区は、杉並区のゴミ搬入を拒否、その後も杉並区では清掃工場建設反対運動が激しくなり、工事推進の東京都とも緊張状態が続いた。
ようやく、1974年 (昭和49年) に全面的な和解が成立した。その条件は ① 清掃工場の計画、建設、運営への住民の参加、② 地下工場、清掃車専用地下道、媒煙完全浄化装置、除脱臭換気装置を設置した無公害工場とする。③ 区民センター、老人福祉センター、温水プールなどの地域住民の利便施設の建設 (下の写真)、④土地代金以外に迷惑料の支払いだった。
高井戸東遺跡
東京都と杉並区の間で清掃工場建設に和解が成立し、工場建設開始前、1976年 (昭和51年) に発掘調査が行われ、この清掃工場用地中心に神田川北岸の台地上に東西に広がりをもつ旧石器時代から縄文時代、古墳時代、江戸時代に至る複合遺跡が見つかっている。西側は区立高井戸小学校付近から東側は清掃工場東端付近までの地域で縄文時代早期 (約8000年前) の屋外炉穴(炉)、後期 (約3,000年前) のフラスコ状ピット (墓)、古墳時代 7世紀頃の住居跡、室町時代頃の地下式横穴墓、近世では井戸跡等が発見されている。都区内部では最大級の旧石器時代遺跡で高井戸東遺跡と命名された。遺跡の関東ローム層第9層中からは28,000年前の局部磨製石斧、ナイフ形石器・スクレイパー(掻器)などが出土し、出土石器類の一部は区立郷土博物館に展示されている。
小字 堂ノ下
小字 堂ノ下は神田川に沿って、その北側に細長く伸びていた。堂ノ下は堂の南側にある土地を意味しており、北に隣接していた小字 堂ノ上にかつて存在していた辻堂 の南、下側の地域を表していた。この辻堂とは先に訪れた松林寺が現在地に移る前に創建された時 (正林寺と呼んでいた)に造られた庵とされている。1889年 (明治22年) に町村制が施行され誕生した高井戸村大字上高井戸小字堂ノ下は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 堂ノ下も含め6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 堂ノ下は堂ノ上と共に高井戸東一丁目と浜田山二丁目に分かれ現在に至っている。
堂ノ下橋
高井戸駅から神田川沿いの遊歩道を下流に向かい進むと、小字 堂ノ下に入り、更に遊歩道を進むと堂ノ下橋が架かっている。この地域は昔から堂ノ下と呼ばれ、その名が橋の名に残されている。この橋の北側、小字 堂ノ上に地名の由来となった松林寺の庵があったとされる。
小字 堂ノ上
小字堂ノ下に隣接していた小字 堂ノ上の由来については1820年 (文政3年) の武蔵野名勝図会に触れられている。
高井戸旧跡、村内小名堂の下というところあり。古えこの辺りに辻堂あり。ここは僅かなる丘地にして、辻堂の傍らに清泉ありければ、小高き地の冷泉なるを以って、衆人呼びて高井戸と称せし起こりなりと云。いまは清水も涸れて、その跡さえも定かならず、按ずるに天正以前まではその伝えの如くなるにやありし」と記されている。
このかつての辻堂から見て、北の高台にあたる地域だった事からこの様に呼ばれていた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され誕生した高井戸村大字上高井戸小字堂ノ上は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 堂ノ上も含め6つの小字に分かれていた旧小名 正用は上高井戸四丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 堂ノ上は堂ノ下と共に高井戸東一丁目と浜田山二丁目に分かれ現在に至っている。
柏の宮公園、林丘亭
小字 堂ノ上内の南、浜田山二丁目の神田川の北側の丘陵地に柏の宮公園が整備されている。先日訪れた旧下高井戸村小字鎌倉橋にある八幡神社が柏木之宮と呼ばれ、江戸時代には、神社のある地域一帯も柏の宮と呼ばれていた。大正期に高井戸村の実業家の横倉善兵衛氏が、この地を整備して数寄屋を建て 「柏ノ宮園」 と名づけ、文人墨客を招き、歌会、観月会などが催されていた。戦後、周辺地域は大企業や官庁のグラウンドとして整備され、この場所も日本興業銀行の 「柏の宮総合グランド」 として利用されていたが、平成に入ってのバブル崩壊で銀行業界の再編成が行われ、日本興業銀行がみずほ銀行との統合した際に杉並区に売却され、跡地を整備して2004年に防災機能を備えた公園が開園された。杉並区立の公園としてはもっとも大きい。
公園の南側、神田川への丘陵斜面の一角に小規模な日本庭園がある。この日本庭園内には茶室 「林丘亭」 が建てられている。若狭小浜藩主酒井家の江戸下屋敷より伝来すると伝える。林丘亭は、江戸初期の寛永年間 (1624-1645年) に若狭小浜藩主酒井忠勝が、新宿区にあった江戸下屋敷に、小堀遠州に造営させた書院造の 「峰の茶屋」 と伝わっており、日本興業銀行が1959年 (昭和34年) にこの地に移築して林丘亭と命名している。
柏の宮公園内には約300㎡の田んぼがある。この田んぼは公園の計画の際に区民有志の提案で実現したもの。
柏の宮稲荷神社
柏の宮公園の西の端に小さな祠が置かれている。この祠は明治から大正期の商人で、柏ノ宮園を造園した横倉善次郎氏が柏ノ宮園の中心部に建てられた邸内社 (写真中右) だった。柏の宮公園の整備に伴い、現在地に移されている。手水鉢と神狐には幕末の1857年 (安政4年) と刻まれている。
三井の森公園
柏の宮公園から小字堂ノ上を北に進みと、神田川の北側に公園がある。昭和初期ごろに造られた三井グループの福利厚生施設だった三井上高井戸運動場 (三井グラウンド) で、その跡地に三井の森公園が造られ2010年 (平成22年) に開園している。杉並区内では最も大きな樹林地の1つだそうだ。三井グラウンドだった時代にもイヌシデ、コナラ、クヌギ、エゴノキなどが生息していた雑木林はほとんど人の手が入らず保存され、当時は「三井の森」と呼ばれており、公園整備されてもその名を残し、三井の森公園と命名された。
高井戸中学校、アンネのバラ
三井の森公園の北に隣接して高井戸中学校が建っている。東の正門の入口から校内の道沿いに何種類ものバラが200株も植えられている。1975年 (昭和50年) に高井戸中学校の生徒が「アンネの日記」の感想文をアンネ・フランクの父親であるオットー氏に送ったところ、オットー氏から薔薇が3株が届けられた。それ以来、「アンネのバラ」 と呼んで、生徒、教職員、保護者や地域の方が協力しながら大切に守り育てている。
小名池袋 (小字 池袋)
小字 堂ノ下から神田川を挟んで南側は小名 池袋で、先日訪れた鎌倉橋、塚山公園から、神田川に沿って北に、高井戸駅まで細長く伸びていた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際には小名 池袋は大字上高井戸小字池袋となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 池袋 (旧小名 池袋) は旧小名 東原、築田、山中と共に上高井戸三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字池袋は高井戸東一丁目と下高井戸五丁目に分かれ現在に至っている。
用水路跡
かつては、小字 池袋内には高井戸駅と塚山公園の間に用水路が造られていた。現在では暗渠化されて遊歩道になっている。遊歩道は高井戸駅から北側は住宅地内、南側の塚山公園までは公園沿いや公園内を通っている。
山草園 (三泉淵緑地)
下ノ堂橋から神田川沿いを北に進むとに山草園と書かれた看板が目に留まった。1974年 (昭和49年) に少し小高い丘に櫟や欅、いぬしでなどが生い茂っている三泉淵緑地が開園しの遊歩道が整備されている。この三泉淵緑地の北東斜面に山草園がある。山草園は、1942年 (昭和17年) に荻窪の桃井第二小学校の教諭の西澤二郎氏が、理科教育のため武蔵野の野草を集めて校庭に野草園を作ったのがはじまりで、その後、活動は万葉植物の収集へと幅を広げ、環境学習の場も教諭が転任されるごとにさまざまな学校へと移り、最後の落着先がこの三泉淵緑地だった。現在では220余種の野草が見られるという。この山草園は三泉淵の野草を育てる会が維持管理をしている。
小名 東原 (ひがしっぱら 、小字 東原)
江戸時代から明治時代には小字 池袋の南には小名 東原 (小字 東原) があった。上高井戸村の東の端で下高井戸村に隣接していた地域という事で、東原と呼ばれたのだろう。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際には小名 東原は大字上高井戸小字東原となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 東原 (旧小名 東原) は旧小名 池袋、築田、山中と共に上高井戸三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字東原は高井戸東一丁目、高井戸東二丁目、下高井戸五丁目に分かれ現在に至っている。
本山大明王院身代り不動尊東京別院 (真言宗醍醐派)
小名 東原の南の境界線は現在の都道14号線バイパスの放射第5号線になる。昔からあった道ではなく2019年 (令和元年) に玉川上水路跡に作られている。この放射第5号線沿いに川崎高津にある真言宗醍醐派の大明王院身代り不動尊の東京別院がある。新しく建てられた寺院で、2001年 (平成14年) に建立されている。入口を入ると広大な駐車場がある。今日は平日だからなのか、一台も停まっていない。立派な本堂に入ると正面に本尊の不動明王とその両側に脇侍の矜羯羅 (こんがら) 童子と制吒迦 (せいたか) 童子が祀られている。身代り不動明王と呼ばれ、厄難払いの加護があるという。
本堂には僧侶の坐像も置かれているが、これは祐天上人だろう。祐天上人は諸国を行脚し、その途中で疫病が流行していた。祐天上人が人々に不動明王を信仰するよう教えたところ、疫病がおさまったという。各地で、感謝の印として堂宇が建立されている。これが「身代わり不動明王」信仰の始まりとされている。この祐天上人と不動尊の成田山新勝寺での逸話は有名で、歌舞伎や落語の題材にもなっている。
祐天は幼い頃、学問が苦手で悩み、投身自殺未遂の後、夢で成田山新勝寺の不動明王に知恵を授かる様にとお告げがあった。成田山で断食をし祈願していると、不動明王が現れ、剣を呑めば知恵が授かると言われ、剣を呑み死んでしまった。翌日、寺の住職が血だらけになって死んだ祐天を見つけ、生き返る様に祈ると、祐天が蘇生した。それ以降、祐天は浄土宗大本山増上寺36世法主まで上り詰め高僧となっている。
この逸話は身代わり不動明王信仰が広まった後に創作されたものだが、身代わり不動明王信仰の広まりを表している。特に歌舞伎では、二代目市川團十郎が1697年 (元禄10 年) に不動尊を演じたのが大ヒットし、それ以降市川團十郎は屋号を成田屋としている。
福富稲荷
本堂の奥、敷地内の少し離れた所に福富稲荷と書かれた稲荷神社が置かれていた。詳細は見つからず。
次は環状8号線の西側にあった小名を北から巡っていく。
小名 打越
江戸時代には上高井戸村の北、小名 正用の西側には打越という小名が存在していた。小名 打越は明治には正用西、北原、打越の三つの小字に分割されている。
小字 正用西 (下高井戸村小名正用小字大飛地)
小名 打越の西側は小字 正用西だった。正用西は小名 正用の小字 北裏に、西側は小字 北原、南は小字 打越、北は田端村の小字 日性寺に隣接していた。小字 正用西となったのは大正時代で、それまでは小字 大飛地で、下高井戸村に属していた。更に時代を遡ると小名 正用の一部だった。江戸時代のいつかは書かれていないのだが、下高井戸村は租税収入が少なかったので、税収を補う為に小名 正用の一部分を下高井戸村へ移管した。この経緯で上高井戸村内に下高井戸村の飛地ができたという。上高井戸村内にはもう一つ小字 小飛地があったのだが、これがどの場所だったのかを記載した資料は見つからず。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際に、小名打越のこの地域は高井戸村大字上高井戸小字正用西となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 正用西は旧小名 打越内の残りの小字と鍛治屋鋪と共に上高井戸五丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字正用西は高井戸西二丁目、高井戸西三丁目、高井戸東三丁目、高井戸東四丁目に分散されて現在に至っている。
交通地蔵尊
小字 正用西の南端、小字 打越との境界線の道路沿いに 台座に「交通地蔵尊」 と書かれた丸彫りの鈴杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が置かれている。元々はこの南にあるスーパーオオゼキ脇の環状8号線沿い (小字 打越) に昭和時代に造立されて置かれていた。造立や移設の背景については見つからなかったが、戦後環状8号線が造られて交通量が多くなり、事故があり、その供養としてか? 交通事故が起こらない様に祈願の為か?また移設は、オオゼキ (旧東急ストア?) の都合か?環状8号線の整備で移設されたのかも知れない。この環状8号線沿いには幾つかの交通地蔵があり、その一部は移設されている。
丸太緑地
交通地蔵尊の道を少し西に行くと高層マンションの前に丸太緑地という小さな公園が整備されている。
江戸時代から高井戸は「高井戸丸太」 または 「四谷丸太」 と呼ばれた上質の杉丸太の生産地として知られていた。古くから植林が行われ、幕末から明治時代には杉丸太の生産が盛んだったが、大正時代初期に病虫害が発生し若木が立ち枯れが広がり生産に大打撃があった事で植林が下火になり、1923年 (大正12年) の関東大震災で、移住者が増えてこの地域は郊外の住宅地として発展が予想され土地の高値売却を見越し、植林は途絶えてしまい、戦後は残った杉林も宅地開発で伐採され、現在では杉林が殆んど無くなっている。この公園に名産だった丸太の名が残されている。
丸太緑地のすぐ南には材木商を営んでいた内藤本家屋敷がある。内藤家は江戸時代から続く大地主だった。内藤本家の祖先の庄右衛門は高井戸宿の年寄を勤め、幕府から、1804年 (文化元年) に内藤の苗字を名乗ることを許された。代々、内藤庄右衛門と名乗り、先に訪れた杉並清掃工場の土地の半分は内藤家の土地で、第13代内藤庄右衛門は反対同盟の地主団長で反対活動を主導していた。
小字 打越
丸太緑地の西と南は小字 打越になる。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際に、小名打越の中心部の地域は高井戸村大字上高井戸小字打越となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 打越は旧小名 打越内の残りの小字と鍛治屋鋪と共に上高井戸五丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字打越は高井戸西二丁目の一部となり現在に至っている。
内藤本家地蔵菩薩坐像
丸太緑地の道の南側は栗畑になっている。この栗林は昔は内藤本家の杉林だったが、杉丸太の商売が下火になり、1980年 (昭和55年) に、杉林を開墾して栗林にして栗栽培を始めたという。この栗園の中に地蔵菩薩坐像を祀る祠がある。ここには昔は内藤家の墓地があったそうだ。
小名 鍛治屋敷
小名 打越の南は小名 鍛治屋鋪で、神田川を村境として、小名 山中に接していた。
小名 山中
小名 鍛治屋鋪の南は小名 山中だった。小名 山中は1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際に御伊勢、小山、中袋、前山の四つの小字に分割されている。
小字 御伊勢
小名 山中内の西は小字 御伊勢だった。小字 御伊勢の南側、現在の環状8号線の東は御伊勢山と呼ばれた地域で、この辺りに伊勢神明宮の分霊を祀った小社があったのではないかと推測されている。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際に、この地域は高井戸村大字上高井戸小字御伊勢となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 御伊勢は旧小名 山中の残りの小字と旧小名 池袋、東原、築田と共に上高井戸三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字御伊勢は高井戸東二丁目と高井戸西一丁目にまたがり現在に至っている。
山中公園
高井戸駅から環状8号線を少し南に進み、西への道に入った所に山中公園がある。ここから旧小名 山中だった地域が始まっていた。この公園に 「山中」 の地名が残っている。公園入口にはゴリラ像が置かれていた。子供達の遊び場という事で作られたのだろう。
象頭山吉祥院 (天台宗)
山中公園から少し南に進んだ所に木造不動明王坐像を本尊として祀る天台宗の象頭山吉祥院がある。
成田山新勝寺 (真言宗) の不動明王を信仰する上高井戸村の行者の並木卓善が1875年 (明治8年) に新省講を結成して、講中の寺院を創設を計画したが、当時は寺院新設が禁止されていた。上野寛永寺一山寺院にて出家していた実子の榎本鬼恭が大政奉還で寺禄が消滅し、廃寺同様になっていた谷中の天台宗の象頭山遍照寺吉祥院 (江戸初期 1645年 正保二年に霊岸島に羽黒山修験の未派として開創され、1765年 明和2年に東叡山寛永寺の末寺となり、1792年 寛政2年に谷中の感応寺境内に移転している) の住職に就任し、寺を再興するため檀徒協議の上、1883年 (明治16年) に現在地に移転し、木造不動明王坐像を本尊として祀り中興し、父が創立した新省講の祈願寺となっている。
山門
寺へは環八通り沿いにある赤い門柱をくぐり、長い参道を進み、山門から境内に入る。
御嶽神社
山門を入ったすぐ左に祠がある。鳥居に御嶽山の扁額が掲げられ、祠前に神狼像が置かれ、祠内には大口真神符のお札が祀られていた。
手水舎、矜羯羅 (こんがら) 童子、制吒迦 (せいたか) 童子
境内に入ると、手水舎が置かれている。
その奥、本堂前に不動明王の脇侍の矜羯羅 (こんがら) 童子 (写真下) と制吒迦 (せいたか) 童子 (写真上) が祀られている。
本堂
本堂は、江戸時代に谷中の象頭山遍照寺吉祥院が上野寛永寺より拝領した慈眼堂を、この地に移ってきた際に移築し、本堂としている。本堂内には本尊の不動明王 (写真右中) が祀られている。また、慈眼堂から移された谷中時代の本尊の大日如来と唐破風の位牌厨子の中に不動明王も祀られている。
築山
境内には成田山を模して富士火山岩の築山が造られ、新省講信徒から寄進された五大明王、三十六童子、八大童子、身代わり不動、大日如来、くりから不動等が築山に所狭しと配置している。明治時代から、この寺の繁栄ぶりがわかる。
地蔵堂
本堂前右手には地蔵堂があり、その傍らにも小さな堂宇が建てられて仏像が鎮座している。
築山
地蔵堂の奥にも築山が造られて、大日如来、不動明王、矜羯羅童子、制吒迦童子等が置かれている。
庫裏、築山
本堂の左手には庫裏が隣接しており、その前にも築山があり、多くの仏像が寄進されている。
小字 中袋
小字 御伊勢の西隣りが小字 中袋になる。「袋」とは、水の巻いている所とか。川などの出口がない所という意味。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際に、この地域は高井戸村大字上高井戸小字中袋となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 中袋は旧小名 山中の残りの小字と旧小名 池袋、東原、築田と共に上高井戸三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字中袋は高井戸西一丁目の一部になり現在に至っている。
第六天神社
小字 御伊勢から都道14号線バイパスの放射第5号線沿いを西に進み小字 中袋に入った所に第六天神社がある。第六天神社は旧上高井戸村の鎮守で、面足命 (おもたるのみこと)、惶根命 (かしこねのみこと) を祭神として祀っている。鎌倉時代の頃に創建されたと伝わっている。明治時代以前には第六天神と呼ばれていた。第六天神は神仏習合の時代には第六天魔王波旬(はじゅん、天魔、他化自在天)を祀っていたが、明治の神仏分離の際に、別当寺の医王寺から分離され、神世七代における第六代の面足命、惶根命に祭神を変更された。資料に大正時代の第六天神社の写真が載っていた。玉川上水に架かる天神橋を渡った所に鳥居があり境内に入っていく。当時の長閑な田園の中に鎮座しており、現在では大きく様変わりしている。
鳥居、手水舎
道路沿いの1966年 (昭和41年) に造られた石鳥居を入ると社殿へ参道が伸びており、参道脇に手水舎が置かれている。
国旗掲揚台
手水舎から参道を進むと、参道両脇に国旗掲揚台があり、右には登り龍、左には降り龍が彫刻されている。
狛犬、常夜燈
国旗掲揚台の玉垣から参道を社殿に向かうと参道に狛犬が鎮座している。1917年 (大正6年) に造立寄進され、右の阿形狛犬の台座には坂田の金時、左の吽形狛犬には牛若丸の図が彫られている。金太郎は戦後昭和30年代頃までは大人気だった。杉並区の水路跡遊歩道の車止めも金太郎が描かれているのを思い出した。
更に参道を進むと常夜燈があり、奥の社殿前にも狛犬が置かれている。この狛犬は杉並区内で一番古いもので1771年 (明和8年) に造立されている。
社殿
天保年間 (1830年~1843年) に社殿が焼失し、暫くは仮殿が置かれていたが、1856年 (安政3年) に本殿が再建された。1881年 (明治14年) には千鳥破風の銅板茸、総欅造り、唐破風の向拝付の立派な拝殿が再建され、拝殿正面の向拝には10年の歳月をかけて作られた見事な彫刻が見られる。
1972年 (昭和47年) には、玉川上水の上に中央高速道路を通す工事で、社殿を後方に曳家し、鉄筋コンクリート製の本殿の鞘堂の覆殿と幣殿が新築されている。1856年 (安政3年) に造られた本殿は鞘堂の中にあるので見てないのだが、資料に神興宮殿型総白木造りの本殿の写真が掲載されていた。この本殿にも立派な彫刻が施されている。
本殿には神仏分離令以降、面足命 (於母蛇流神、おもだるのみこと 男神) と惶根命 (阿夜詞志古泥神、かしこねのみこと 女神) が祀られている。古事記と日本書紀には天と地が初めて別れた時に高天原に最初に生まれた別天神 (ことあまつかみ) 五柱の次に現れた七代の神々を神代七代 (かみよななよ) と呼び、この二つの神は六代目になり、この代で男女の形が形成され、次の七代で夫婦の形となり、国産み・神産みを行った伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、伊弉冉尊 (いざなみのみこと) が登場する。
神楽殿
境内には昭和の初め頃まで「雨乞い神楽」が行われ、神楽を奉納していた神楽殿が新しく造られている。
末社殿
境内の社殿の右側に長い祠があり、境内末社が七社祀られている。この祠への参道脇に常夜燈が置かれている。1848年 (嘉永元年) に天神、阿夫利 (大山)、秋葉三神の常夜燈として甲州街道北側に建設され、安政の激震に倒壊し、修繕再建、大正八年) に第六天神社に移された。台石の三面には、仙人と龍、唐獅子、牡丹と唐獅子の彫刻が施されている。
末社の祠は1972年 (昭和47年) に本殿の覆殿と幣殿が新築された際に鉄筋コンクリート造銅板葺造りで建立されている。祠に祀られている七社は、向かって右から、秋葉神社、白山神社、浅間神社 (小名中山字前山にあった浅間社を1897年 明治30年に遷座合祀)、天祖神社 (小名中山小字御伊勢にあった神明社を1897年 明治30年に遷座合祀)、氷川神社、稲荷神社 (二社) になる。
日露戦役記念碑、神輿庫
社殿の左奥に、906年 (明治39年) に作られた日露戦役記念碑があり、裏面に村から従軍した兵士41名の氏名が刻まれている。日露戦争 (1904 ~ 1905年) に勝利した記念碑で、当時は日本中に同じ様な記念碑が作られている。その奥には神輿庫が置かれている。毎年9月に行われる例大祭では神輿庫から三地区の神輿が宮出されて巡行している。
浴風会
第六天神社から都道14号線バイパスの放射第5号線を西に進むと広大な敷地に老人福祉施設の浴風会がある。1923年 (大正12年) の関東大震災で罹災し、自活能力がなく、扶養者のいない老廃者を保護する為、政府、皇室主導で資金が拠出され、1925年 (大正14年) に現在地の土地を買収し建築に着工、1926年 (昭和2年)より収容保護を開始している。翌年には鉄筋二階建の本館、礼拝堂、木造の集団寮、家庭寮、夫婦寮をはじめ病棟、職員宿舎などが完成している。太平洋戦争中は、建物の一部が軍に徴用され、運営は縮小されていたが、戦後、1951年 (昭和26年)社会福祉事業法により民間施設になり、民間からの援助で全国初の有料ホーム黒光園を開設している。1959年 (昭和35年) に浴風会の医療施設が独立し、浴風会病院となっている。それ以降も、軽費老人ホーム松風園、特別養護老人ホームの南陽園、第二南陽園、松風園など事業拡大を行なった。
小名 児谷戸 (こやと)
江戸時代から明治時代には玉川上水路 (現在の都道14号線バイパスの放射第5号線) の南側には上水路沿い長細い小名 児谷戸 (こやと) が存在していた。小名 児谷戸は1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際には中久保、五ツ割、西原、児谷戸の四つの小字に分割されている。
小字 中久保
小名 児谷戸の東は小字 中久保だった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字中久保となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 中久保は旧小名 児谷戸の残りの小字と共に上高井戸二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字中久保は高井戸東二丁目と高井戸東三丁目にまたがり現在に至っている。
庚申塔 (275番)
道路沿い南に小さな堂宇があり、その中には1735年 (享保20年) に上高井戸村の講中34人 (東原10人、中橋8人、下町8人、下川8人) により造立された笠付角柱塔に上部に日月、その下にショケラをぶら下げ、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、下部には三猿が浮き彫りされている。台座には庚申供養と刻まれている。元々はここから少し東の玉川上水に架かっていた庚申橋 (明治時代中頃までは堂之下橋、現在は消滅、庚申橋歩道橋として名が残っている)の袂ににあったものが移設されている。
庚申塔 (271-3番)
道を更に西に進み、環八中ノ橋交差点を過ぎ、南に入った所に空き地がある。ここは江戸時代、上高井戸村の名主で上高井戸宿の問屋も勤めていた細淵家の土地で、そこを囲んでいるフェンスの場所にトタン板の堂宇がある。中には三基の庚申塔が置かれている。この三基の庚申塔は、かつては上高井戸村の庚申講によって上高井戸天神社の参道に置かれていたが、数回の移転を経て、この地に落ち着いている。
向かって右から見ていくと
- 庚申塔 (271番 右下): 右側の庚申塔は1673年 (延宝元年) 造立の安山岩板碑型石塔で、下部には三猿が浮き彫りされているが、その上部は削り取られた様な跡がある。青面金剛像が浮き彫りされていたのだろう。
- 庚申塔 (272番 中下): 中央には1716年 (正徳6年) に庚申講10名により造立され舟型石塔で、上部に胎蔵界大日如来の種子のआः (アーンク) が刻まれ、その下に日天、月天、瑞雲、中央には鎌、矢、宝輪、弓を携えた合掌六臂の青面金剛像、下部には三猿が浮き彫りされている。右側には「庚申供養導師尊海」と刻まれている。
- 庚申塔 (273番 左下): 左には凝灰岩の笠付角柱が置かれている。1728年 (享保13年) に造立され、上部に日天、月天、瑞雲、中央には三叉戟、矢、宝輪、弓を携え、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、下部には三猿が浮き彫りされている。
庚申塔の後ろ、空き地の中の二つの祠がある。一つの祠の中には狐像があるので稲荷神社だが、もう一つは不明。資料でも出ておらずわからないが、細淵家の屋敷神だったのだろう。
小字 五ツ割
小字 中久保の西隣りが小字 五ツ割になる。五ツ割はこの地が五つの谷で分かれていた地形だった事からこの様に呼ばれたという説がある。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字五ツ割となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 五ツ割は旧小名 児谷戸の残りの小字と共に上高井戸二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字五ツ割は高井戸東一丁目と高井戸東二丁目にまたがり現在に至っている。
医王寺閻魔堂墓地
小字 五ツ割の南端に、この後に訪れる医王寺の墓地の医王寺閻魔堂墓地がある。閻魔堂とあるので、堂宇があるかと思っていたが、それらしきものはない。昔はここに閻魔堂が置かれていたのだろう。
入口には1700年 (元禄13年) に造立された錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩立像が置かれている。側面に地蔵菩薩の梵字種字のह (カ) 奉造立地蔵石佛府中明神◼️浅草観音と刻まれている。
入口を入ると墓地への通路に多くの石仏が並べられている。六地蔵が二つ置かれているのだが、手前のものは六体とも全て頭部が欠損している。明治時代に入っての廃仏毀釈で多くの地域で仏像の破壊が起こったのだが、これらもそうなのだろうか?
小字 西原
小字 五ツ割の西に隣接していたのが小字 西原になる。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字西原となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 西原は旧小名 児谷戸の残りの小字と共に上高井戸二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字西原は高井戸東二丁目と久我山一丁目にまたがり現在に至っている。
庚申塔、如意輪観音
玉川上水跡のバイパス道路を西に進み、下本宿通りに入り、暫く行くとマンションの前、道沿いに堂宇が置かれている中には三つの石仏が祀られている。中央は、1776年 (安永5年) に造立され角柱の庚申塔で、日月、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされ、下半分には寄進者の名が刻まれている。右隣には衆生の欲望と万苦を救済する菩薩とされる如意輪観音で1730年 (享保15年) に造られたもので、舟型石塔に如意輪観音が浮き彫りされている。この二つの石仏は元々はここより少し西側にあったが、この場所に移設されている。左側の観音石仏の説明はないが、新しく造られたものの様だ。
小字 児谷戸
小字 五ツ割の南が小字 児谷戸で、南側は小名 宿に接していた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字児谷戸となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 児谷戸は旧小名 児谷戸の残りの小字と共に上高井戸二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字児谷戸は高井戸東一丁目の一部となって現在に至っている。
庚申塔 (274番)
小字 児谷戸の中心地辺りの井之頭辯財天に向かう参詣道 (写真左上の左側の道) 沿い、畑の隅に小祠があり、その中に1754年 (宝暦4年) に16人により造立された駒形石塔の庚申塔が置かれている。石塔上部に日月、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、両側に二鶏、下部に三猿が浮き彫りされている。
庚申塔の北側の道に石塔が置かれている。文字などは見当たらない。これはこのあたりの有力者が広大な敷地を所有していた時に敷地境界として置かれた石塔だそうだ。
小名 宿
上高井戸村の南端は小名 宿で江戸時代に上高井戸宿が置かれていた地域になる。小名 宿は現在の上高井戸一丁目にあたるのだが、旧上高井戸村の地図を見ると少し歪な位置関係になっている。江戸幕府が開府された際に甲州道中を造り、高井戸宿を開設した際に、下高井戸宿との合宿としての上高井戸宿を設置する為、烏山村 (世田谷区) の甲州道中に面した一部の地域を上高井戸村に移管した事に拠る。小名 宿は1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生した際には旧甲州道中を境に小字 町裏と小字 屋敷裏に分割されている。
小字 町裏
小名 宿の北側が小字 町裏になる。甲州道中 (旧甲州街道) で南に小字 屋敷裏に接している。医王寺や上高井戸宿公園がある辺りから東側を下宿 (しもじく) とも呼ばれていた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字町裏となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 町裏は小字 屋敷裏と共に上高井戸一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字町裏は高井戸東一丁目の一部となって現在に至っている。
明星山遍照院医王寺 (真言宗智山派)
小名 児谷戸から小名 宿の小字 町裏に入った所に真言宗智山派の明星山遍照院 (みょうじょうざんへんじょういん) 医王寺がある。834年 (承和元年) に弘法大師が東国を巡行した際に箱根山で彫った薬師如来像を、海星 (かいじょう) 和尚が室町時代末期に、この地に安置し草庵を建てたのが寺の始まりと伝わっている。江戸時代、慶長年間 (1596 ~ 1615年) に甲州街道が整備され、高井戸に宿場が置かれて、大勢の人が住み、寺が必要になったので、尊応和尚が本格的な寺院を建て、本堂に本尊の大日如来を祀り、薬師堂に薬師如来を祀った。この薬師如来は薬師堂に祀られて、眼病に効くとされ、「おめだま薬師」の名前で親しまれていた。明治の初めに廃仏毀釈で薬師堂を除いて練馬区石神井台の三宝寺に吸収合併され廃寺となり、本堂は高井戸村では最初の公立の高泉学校 (後の高井戸学校) の仮校舎として半年程使用されていた。
現在地より南側の甲州街道に面したところに近隣住民の強い要望で残っていた薬師堂は1923年 (大正12年) の関東大震災で倒壊したが、薬師如来像 (弘法大師が彫った薬師如来像とは別物とされている) は無事だったことから、医王寺再興の動きが活発になったが、当時は寺院新設が禁止されていたので、東京府北多摩郡大和村にあった成就院をこの地に移転するという体裁で、1925年 (大正14年) に成就院の寺名で再興し、戦火を逃れた薬師如来を本尊として、1942年 (昭和17年) に医王寺に改名している。
山門、地蔵菩薩 (266番)、妙典六十六部供養塔 (268番)、百番観音供養塔 (269番)
医王寺敷地の南に1966年 (昭和41年) に改築された山門が置かれている。山門前向かって左には1708年 (宝永5年) 造立の駒型石柱の妙典六十六部供養塔 (268番)、右側には1719年 (享保4年) に上高井戸村の念仏講中12人により造立された丸彫りの錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像 (266番)、1736年 (元文元年) 造立の百番観音供養塔 (269番)、小さな地蔵菩薩立像が置かれている。
納骨堂、ふれ愛観音像
山門から境内に入ると、右手に納骨堂が置かれ、堂内には金のふれ愛観音像が鎮座している。ふれ愛観音は1991年に作られたもので、不自由な人も含め全ての参拝者がこの観音像に触れて、菩薩と通じ合うる事がことができる様に、また子供達の為に低い位置に安置されている。納骨堂の脇には弘法大師像も置かれている。
大師堂
納骨堂の後ろには、大師堂が置かれ、弘法大師が祀られている。この大師堂は1984年 (昭和59年) に新しく建立されたもの。
本堂
境内奥に1964年 (昭和39年) に改築された本堂がある、本堂は西に向いているので、西向茅野薬師 (西向薬師) ともいわれている。本堂内陣には南北朝時代に作られたと伝わる薬師如来が本尊として、その脇に脇侍の日光菩薩と月光菩薩が祀られている。この薬師如来は眼病平癒に良く効くとされ、「おめだま薬師」と呼ばれ、毎年10月12日の 「おめだま薬師大護摩供」 には多くの参詣者で賑わっている。
境内には多宝塔などの石塔も置かれている。写真左下の籠が一対あり、左側の石燈籠は平林寺型座禅燈籠で、1713年(正徳3年) に造られ上野寛永寺の徳川家御霊屋に置かれていたもので、1955年 (昭和30年) 頃に御霊屋整理の際に譲り受けている。
六地蔵 (267番)、水子地蔵菩薩 (270番)
本堂の裏側は墓地になっており、その入口には堂宇内に六地蔵 (267番) が並んでいる。1764 ~ 70年 (明和元年 ~ 7年) 頃に造られたとされている。元々は甲州街道に面して置かれていたものをこの地に移設している。堂宇の横には、1850年 (嘉永3年) 造立の月輪を背に錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩立像 (270番 写真右下) も置かれている。足元には幼児を抱いた水子地蔵菩薩が浮き彫りされている。
板碑 (いたび)
墓地からは秩父・長瀞産の緑色片岩を加工して造られた武蔵型板碑 (青石塔婆) が9基出土している。1356年 (文和5年)、1400年 (応永7年)、1413年 (応永20年) 、1428年 (正長元年) 二基、1453年 (享徳2年) の銘が刻まれいる。板碑は武士の信仰に強く関連する事から、室町時代にはこの地域に武士集団が存在していたのだろう。
片目の魚の池 (消滅)
医王寺から南に150m程の場所は、関東大震災で寺が被害を受けるまで、医王寺があった場所で、そこには池があったそうだ。薬師様には眼の悪い人が平癒祈願で参詣に来た際にえ、一尾の川魚を持参して、堂の前の池に放したという。そうすると、目の病気は治るのだが、その代わりに放った魚は片目をなくし一眼になるという伝説がある。
近年までは以前より小さくはなったが池は残っていたが、その後埋め立てられ、宅地となり、消滅してしまった様だ。まだ池があった時の写真があったので載せておく。
上高井戸宿公園
片目の魚の池があった場所から道を南に進むと甲州街道 (都道20号線) に出る。この甲州街道が小字 町裏の南の境界線にあたる。この場所に上高井戸宿公園という小さな公園がある。
上高井戸宿
1601年 (慶長6年) に、徳川幕府は、江戸城が敵に攻められた際の将軍家の甲府城への避難路を確保する為に甲州道中 (明治時代以降は甲州街道) を造り、約30の宿場を設置した。
この時に上高井戸村に、江戸城からの最初の宿が置かれた。これが高井戸宿だったが、下高井戸村名主からの申し出で、高井戸宿を下高井戸村と上高井戸村の二ケ村で半月毎の交替制の合宿での運用することになった。上高井戸村は甲州街道が通っていなかったので、烏山村内 (現 世田谷区) の街道六丁(600m) の両側の土地 (現 上高井戸一丁目) を上高井戸村へ組入れ強引に高井戸宿が作られたという。甲州道中は将軍の緊急避難路で、道を利用する大名は公衆道中の先に領地を持つ信州高遠藩内藤氏、飯田藩堀氏、高島藩諏訪氏の三大名のみで、甲州と信州行きの旅人も少なく、五街道の内で最も通行人が少なかった。とはいえ、甲州道中開設当初は高井戸宿は江戸から最初の宿場だっ たので、24軒の旅籠屋や酒屋など商家が営まれ、大いに繁昌していた。高井戸宿開設から約100年後の1698年 (元禄11年) に日本橋と高井戸宿との中間の内藤新宿に、岡場所 (遊廓) 付きの宿場を建設以降は、旅人は高井戸宿を素通りして、岡場所のある内藤新宿に泊まるようになり、高井戸宿は寂れ、天明年間 (1781 ~ 89年)には、旅籠屋は当初の24軒から6軒になり、宿問屋収入も激減し赤字が累積していた。一方、江戸で商業が盛んになるにつれて、甲州道中を通過する荷物が増え、周辺の助郷の村々から無償での人馬徴発の頻発し農村疲弊が深刻となっていった。この賦役の増加で農作業が満足に出来ずに作物が減収し年貢が納められず、田畑を売り小作人になったり、他所へ流れ行くなどの潰れ百姓が多く発生した。これに対して幕府は有効な対策は取れず、相変わらず高井戸宿の赤字は増加し、借金をした宿場関係者は、返済の為に田畑を手放す人もあり、宿場全体が大きな痛手を受けた。
上高井戸宿は小さな宿で現在の上高井戸一丁目交差点付近の旧甲州街道沿いにあった。甲州街道と環八通りが交差する地点に本陣の武蔵屋があったそうだ。
旧甲州街道
現在の甲州街道の上高井戸一丁目交差点を過ぎてすぐに斜め左に向かう道が伸びている。この道が元々の甲州街道 (甲州道中) だった。
井之頭辯財天道標
旧甲州街道 (甲州道中) に入り、最初の四角を南北に通る道はかつて江戸時代には甲州道中を歩いてきた人が、ここから北への道へ入り、人見街道を通り井之頭辯財天に向かう参詣道だった。この場所に1843年 (天保14年) に作られた道標が残っている。正面上部には辨財天の蛇、その下に 「井之頭辨財天道是ョㇼ一里半」、側面には 「別當所大盛寺迄 一里」 と刻まれている。
小字 屋敷裏
甲州街道と旧甲州街道の南側が小名 宿の小字 屋敷裏になる。小字 屋敷裏の現在の環状8号線より西側は上宿 (かいじく) とも呼ばれていた。江戸時代には小字 屋敷裏の南は烏山村に接していた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され高井戸村が誕生し、この地域は高井戸村大字上高井戸小字屋敷裏となり、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 屋敷裏は小字 町裏と共に上高井戸一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字屋敷裏は高井戸東一丁目の一部となって現在に至っている。
萬年山長泉寺 (曹洞宗)
旧甲州道中に面して曹洞宗の萬年山長泉寺への入口がある。長泉寺は1648年 (慶安元年) に武蔵国多摩郡和泉村 (現 狛江市) の雲松山泉龍寺二世欗室関牛大和尚が開基として世田谷区烏山の御伊勢の森で開創、1651年 (慶安3年)に火災に罹り、1655年 (明暦元年) に現在地に移ってきて、高井戸宿の町寺として盛えていた。
参道
甲州道中に面した参道入口には 「甲州道中一里塚 日本橋依利四里 高井戸宿」 と刻まれてた自然石の道標が置かれている。一里塚は下高井戸村にあったのでどうも、昔からあったものではない様に思える。参道の両脇には石仏が幾つも並べられている。無縁となった供養塔をこの場所に集めているのだろう。
阿弥陀供養碑、文殊菩薩坐像、釈迦如来坐像、普賢菩薩坐像
長泉寺には山門は見当たらず (以前は石門があったが撤去されている)、参道の先が境内となっている。境内に入った所に1817年 (文化14年) に高井戸宿の講中により造立された阿弥陀供養碑が置かれている。正面には徳本行者真筆の「南無阿弥陀仏徳本」 と刻まれ、台座には講中の数十名の名が記されている。石塔の前には三基の石仏が置かれている。何も1840年 (天保11年)に造立されたもので、向かって右から、文殊菩薩坐像、釈迦如来坐像、普賢菩薩坐像になる。
観音堂、西国巡礼図
参道の突き当たりに観音堂が建てられている。円通閣 と呼ばれ、1728年 (享保13年) に建立されたもので、堂内には西国三十三カ所の観音菩薩が祀っている。左右の壁面に、狩野派の絵師の中田小左衛門筆の 「西国巡礼図」 の板額二枚が掲げてあり、一枚には上高井戸講中が「武易多摩郡上高井戸村 道行 五拾九人」と書かれたの幟を先頭に、網笠をかぶり米俵を担いでいる人など、巡礼姿の善男善女の行列の西国巡礼の様子が描かれ、もう一枚には西国三十三番霊場の詠歌が書かれている。
鐘楼、地蔵菩薩
観音堂の前には鐘楼があり、その横に小堂もあり、中には丸彫りの1758年 (宝暦8年) 造立の錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像が置かれている。
花園観音 (255番)、庚申塔、馬頭観音
地蔵菩薩の小堂の後ろにも、小堂があり、中には造立年は不詳だが花園観音と呼ばれていた丸彫りの如意輪観音菩薩座像 (255番 写真右下) が置かれている。小堂の脇には、かつての中ノ橋畔より移転された 1784年 (天明4年) 造立の駒型石塔の庚申塔が置かれ、石塔上部に日月が刻まれ、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、下部に三猿が浮き彫りされている。その隣には駒形石塔に馬頭観世音と文字が刻まれた馬頭観音 (造立年不詳) も置かれている。
本堂
観音堂の前で参道は右に折れ、本堂に向かっている。2011年 (平成23年) に整備された本堂には宝永5年) に作られた木造大日如来坐像を本尊として祀っている。
十六羅漢
本堂の前、階段を挟んで左右に釈迦様が亡くなった時に遺言を託された十六人の弟子を表した十六羅漢石像が並べられている。
向かって左から見ていくと
第16番 注荼半託迦尊者 (ちゅうだはんたかそんじゃ)、第14番 伐那婆斯尊者 (ばなばしそんじゃ)、第12番 那伽犀那尊者 (なかさいなそんじゃ)、第10番 半諾迦尊者 (はんたかそんじゃ)、第8番 弗多羅尊者 (ほったらそんじゃ)、第6番 跋陀羅尊者 (ばだらそんじゃ)、第3番 諾迦跋釐堕尊者 (なかばりだそんじゃ)、第2番 迦諾迦伐蹉尊者 (かなかばっさそんじゃ)、第1番 跋羅堕闍尊者 (ばらだじゃそんじゃ)、第4番 蘇頻陀尊者 (そひんだそんじゃ)、第5番 諾矩羅尊者 (なくらそんじゃ)、第7番 迦哩尊者 (かりそんじゃ)、第9番 戎博迦尊者 (じゅはくかそんじゃ)、第11番 羅怙羅尊者 (らごらそんじゃ)、第13番 因掲羅尊者 (いんかだそんじゃ)、第15番 阿氏多尊者 (あしたそんじゃ)
境内の庭は綺麗に手が入っており、その中には、近年に寄贈された石仏 (供養塔ではない) が並べられている。
墓地、地蔵菩薩 (263番)、庚申塔、阿弥陀如来
墓地入口には、石塔、石仏が集められ、その中には、1684年 (貞享元年) 造立の地蔵菩薩立像 (263番 写真中下) が舟型石塔に浮彫りされている。
庚申塔 (262番)、阿弥陀如来 (264番)
その近くにも石仏群があり、中には、1716年 (享保元年)造立の駒型石塔に日月、合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされた庚申塔 (262番 写真中下) や、その隣には1759年 (宝暦9年)造立の隅丸角柱の上部に浮き彫りされた阿弥陀如来坐像 (264番 左下) などが安置されている。
有縁無縁供養塔 観音菩薩立
観音堂の裏手には有縁無縁供養塔があり、その上には1715年 (正徳5年) 造立の丸彫りの聖観音菩薩立像が蓮華の上に立っている。聖観音の背面に 「西国坂東秩父巡礼口也、奉造立観音霊像諸願成就所、正徳五乙未年十月吉祥日」 と刻まれている。
武蔵屋並木家墓
基地には、高井戸宿の本陣が置かれた武蔵屋の並木伊兵衛家の墓がある。右側の大きい方の墓には9代から12代の墓で、隣の小さな墓は7代の妻と8代夫妻の墓になる。並木家は江戸時代から甲州道中上高井戸宿で「武蔵屋」という旅籠を営んでいた家柄で、上高井戸宿の本陣であったと伝わっている。
稲荷神社
環状8号線を南に進み、京王線高架を過ぎた所、駐車場の奥に赤鳥居があり、そこに小さな祠が置かれている。稲荷神社だが、創建年代や由緒等の詳細は見つからず。屋敷神なのだろうか?
八幡山駅
線路沿いを少し東に進んだ所に、京王電鉄京王線の八幡山駅がある。この駅は1918年 (大正7年) に現在の位置よりも少し新宿側に京王電気軌道の松沢駅として開設されている。
1937年 (昭和12年) に八幡山駅に改称、1944年 (昭和19年) に東京急行電鉄が京王電気軌道を吸収合併し八幡山駅は東京急行電鉄京王線の駅となっている。更に、1948年 (昭和23年) に東急から京王帝都電鉄が分離し、八幡山駅は京王帝都電鉄の駅となり、現在に至っている。現在の駅舎は1968年 (昭和43年) に環状八号線道路新設に伴い、1970年 (昭和45年) に高架化が完成している。
稲荷神社
八幡山駅前の繁華街の中にも稲荷神社があった。こちらも詳細は見つからなかった。これも屋敷神だろうか?
上高井戸村 訪問ログ
参考文献
- すぎなみの地域史 2 高井戸 平成30年度企画展 (2018 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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