杉並区 32 (20/05/25) 旧高井戸町 (高井戸村) 旧大宮前新田、松庵村、中高井戸村

新田開墾

大宮前新田

小名 野田 小字 宮下

  • 宮前公園

小名 野田、小字 富士見浦、大下

  • 庚申塔、庚申の藤

小名 本村、小字 北中宿、南中宿

  • 春日神社
    • 石鳥居、石燈籠
    • 力石
    • 手水舎
    • 神鹿像
    • 境内末社 (稲荷神社、第六天社/御嶽神社、三峯神社)
    • 社殿、石燈籠
    • 神楽殿、神輿庫
  • 井ロ山慈宏寺 (日蓮宗)
    • 立正安国長寿石
    • 庚申円筒型手水鉢
    • 本堂
    • 写経堂
    • 墓地、久遠塔、萬霊供養塔、当村開起慈宏寺大檀那供養碑
    • 祖師堂
  • 大宮前公園

小名 本村 小字 北本村、小字 南本村

  • 寳鏡山久我寺 (単立)
  • 広徳寺 (浄土真宗系単立)
  • 延命地蔵

中高井戸村

  • 佛心山西教寺 (浄土真宗本願寺派)
  • 幸せ地蔵
  • 釘抜き地蔵

松庵村

  • 松庵稲荷神社
    • 鳥居、手水舎
    • お狐様ミイラ
    • 庚申塔 (250番、251番)
    • 社殿
    • 神楽殿、神輿庫
    • 円光寺歴住墓地 (未訪問)
  • 夢見地蔵


江戸時代に開墾された高井戸村の三つの新田を散策する。一部の史跡は1年前に訪れているのだが、今日はその残りを見ていく。昨年の訪問地もこのレポートに含めている。


新田開墾

地元の伝承によれば、江戸時代初期には、この一帯の地は、茅が一面に生えた原野で、幕府の建物の屋根茸きに用いる幕府御用の茅刈り場で、許可なく濫りに茅の刈り取りを禁止するとの制札が所々に建ててあったので、御札茅場千町野、略して札野、又は千町野と呼ばれたと言う。1657年 (明暦3年) の明暦の大火で、江戸住民107,000余人が焼死、江戸城本丸天主閣は焼失、翌1658年 (万治元年)、同二年、同三年と四年間続けて大火が起こり、幕府は道路を拡げ、各所に火防せ地を配置した区画整理を行い、幕府及び市街地の建物の茅華屋根を禁止した。この事で、幕府御用茅刈り場が不用となり、1661年 (寛文年間) 以後、火事の罹災者や区画整理で住む家を失った町人、及び農家の二、三男等に御札茅場千町野をはじめ武蔵野各地を開墾させた。豊島郡関村の名主だった井口八郎右衛門等が、幕府から高井戸境から関前まで二里に及ぶ地域の「高井戸札野新田」の開発を請負い、大宮前新田、無礼前、連雀新田、関前新田を開発した。直線状の道路が作られ、短冊形に地割りし (一区間はーのぼり)、道路沿いを宅地に、その奥を耕地、更に一番奥を新山とした。平百姓、寺社には一のぼり、名主には二のぼりが与えられた。大宮前新田は60のぼりで58戸、高井戸新田 (中高井戸村) は8のぼりで7戸、松庵新田 (松庵村) は14のぼりで13戸が入植した。この様にして、1670年 (寛文10年) に大宮前新田が開かれ、当初は高井戸札野新田と呼ばれていた。

大宮前新田、高井戸新田、松庵新田の民家の分布は下の地図でわかるように戦前までは、ほぼ変化がなかった。戦後、北側の中央本線の南に住宅地ガ広がり、1960年代には南地域にも民家が拡大し、1990年代にはほぼ全土が住宅地に変貌している。


大宮前新田、松庵村、中高井戸村の訪問史跡、スポット



大宮前新田

この地域で開墾された土地の最大なものは高井戸札野新田だった。その後、大宮八幡宮の手前に位置しているので、大宮 (の手) 前新田と名付けられたと伝わっている。もう一つ別の名の由来があり、村の鎮守の春日神社を大宮と称していた事によると言う。江戸時代、大宮前新田には本村と野田の二つの小名があった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、大宮前新田は、上高井戸、下高井戸、松庵村、中高井戸、久ケ山と共に合併して高井戸村となり、大宮前新田は大字 大宮前となっている。この時に、大字 大宮前は大下 (おおしも)、富士見浦、宮下、南中宿、北中宿、南本村、北本村の七つの小字に区分けされた。


大宮前新田を東側から散策する。


小名 野田 小字 宮下

大宮前新田の東側は江戸時代二つあった小名の一つの野田だった。「野の田圃」 という事からつけられたと思われる。 1889年 (明治22年) の町村制で、旧小名 野田は三つの小字に分割されている。旧小名 野田の北地域は小字 宮下となった。「宮 」 とは 西の北中宿にある春日神社のことで、ここは京 (京都) から見て、春日神社その下方と言う事で、この様に呼ばれた。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 宮下はそのまま大宮前二丁目となり、更に、1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正でおこなわれた際に、大宮前二丁目はそのまま、宮前二丁目となり現在に至っている。大宮から宮に変わったのは、旧和田村に小名 大宮があり、混同を避けるためだそうだ。町名改正による新行政地区はそれまでの小名、小字境界線とは異なり、道路や河川などを境界線として再編されたのだが、大宮前新田は江戸時代に開墾された際に整然と道と住居地域、畑地域が区画されていたため、ほぼ昔のままの行政区が維持されている。


宮前公園

旧小字 宮下には史跡などは見当たらないが、気持ちいい公園があった。宮前公園で、比較的広く、自然に富んでいる。この周辺は春日神社の東側にあるので 「宮前」 と呼ばれていた。この公園には昨年、まだ桜が散っていない4月8日に訪れた。

園内には 「耳のオアシス」 という一角があり、色々な形の装置が置かれており、それぞれに耳を当てるると様々な音を聞くことができる。



小名 野田、小字 富士見浦、大下

1889年 (明治22年) の町村制で旧小名 野田の南地域は富士見浦と大下 (おおしも) の二つの小字になっている。この富士見浦と大下 は1932年 (昭和7年) に大宮前一丁目、1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で宮前一丁目 (一部は高井戸東四丁目) に変更されている。富士見浦は昔は、ここから富士山が見えたので、この様に呼ばれていた。小字 大下の地名由来はわからず。


庚申塔、庚申の藤

砂川道 (五日市街道、都道7号線) 沿い、旧小字の富士見浦、大下、宮下の境に、2基の庚申様を祀った小さな堂宇がある。ここは昔から慈宏寺の寺有地になる。

堂内向かって右側の駒型石塔庚申塔は1696年 (元禄9年) の造立で、塔上部に日月が刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛立像、更にその下に三猿が浮き彫りされている。「大宮前新田村」、「奉 寄進庚申供養 武州多摩郡大宮前新田村 」 と31名の氏名が刻まれており、全員が苗字も刻まれている事から、大宮前新田の開墾者の殆んどは、帰農武士であったことが判る。

左側の庚申塔は1678年 (延宝6年) に造立された舟型石塔で、上部に日月が刻まれ、その下に剣を持った二臂青面金剛像と三猿が浮彫りされている。13名の名が刻まれているが、苗字は無く、名前だけ、上高井戸村の百姓の人々が建立したと考えられる。

庚申堂の背後には藤の古木があり、ここに庚申堂を建立した際に植えられたと伝わっており、樹令は300年を超えており、「庚申の藤」 と呼ばれている。一時期は東京府天然記念物に指定されていたが、樹勢がす衰え指定は解除されてはいるが、現在でも、地主の慈宏寺や地元住民に大切にされている。



小名 本村、小字 北中宿、南中宿

砂川道 (五日市街道、都道7号線) を西に進むと、春日神社に着く。ここから、江戸時代の大宮前新田の小名 本村 (ほんむら) になり、1889年 (明治22年) から、砂川道の北側が小字 北中宿、南側が小字 南中宿だった。1932年 (昭和7年) に北中宿と南中宿はそれぞれが大宮前三丁目、大宮前四丁目に、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で宮前三丁目と大宮前四丁目になっている。


春日神社

小字 宮下から小字 北中宿に入ったところ、五日市街道 (砂川道) に面して春日神社がある。春日神社は大宮前新田の鎮守で慈宏寺持だった、大宮前新田を開発した井口八郎右衛門の子で名主の杢右衛門義重が、1673年 (寛文13年) に奈良の春日大社の神霊を勧請し創建したと伝わっている。現在は神職は常駐しておらず、下高井戸八幡神社の兼務社となっている。


石鳥居、石燈籠

社頭の1931年 (昭和6年) に奉納された石鳥居の前には 「大宮前鎮守」 の碑 (写真 中中) が置かれている。これは1969年 (昭和44年) の地名変更で失われた旧地名を保存するために建立されたと言う。石鳥居をくぐると石畳が拝殿に向かって敷き詰められている。傍に敷石供養記念碑 (左下) が置かれている。「御即位大典社前敷石記念」と刻まれているので天皇が即位した時に奉納されたのだろう。鳥居背後には1862年 (文久2年) 奉納の石燈籠が置かれている。境内の街道寄りに石碑が立っている。日露戦役の記念碑 (右下) で、正面には陸軍大将・乃木希典の揮毫で「明治世七 八年役紀念碑 希典書」と刻まれ、裏面には大宮前、久我山、中高井戸、松庵の従軍者13名と戦病死者2名の氏名も刻まれている。


力石

社頭の左脇に15個の力石 (担ぎ石) が置かれている。明治大正時代に若者たちが、この神社に集まり力くらべをしていた。この力石は優勝記念や大会記念として、石の目方と氏名を刻んで奉納されたもの。最も重たい力石は「七拾三貫目」とあり、273kgに相当する。重量挙げ選手でも難儀する重さだ。この村には、これを持ち上げた青年がいたと言う事か。この力石は杉並区内に残っている力石では最も重い担ぎ石だそうだ。


手水舎

石燈籠の左手には1726年 (享保11年) に大宮前新田の28名により奉納された手水舎があり、ここで身を清め参拝へと向かう。


神鹿像

石畳の参道の両側に石像がある。部分的に破損しているが、狛犬にしては形が変わっていると思い、よく見ると鹿の石像だった。狛鹿は珍しいが、神の使いとされている春日神社から神霊を勧請しているので鹿になっている。神鹿像は二対置かれており、手前のもの (写真上) は1937年 (昭和12年) に、この地の鳶職が奉納したもの。更に参道を進んだもう一対の大神鹿 (写真下) は先程の狛鹿より少し古く、1894年 (明治27年)に奉納されたもの。


境内末社 (稲荷神社、第六天社/御嶽神社、三峯神社)

狛鹿の左手に境内末社の祠が二つ 鎮座している。向かって左の祠には稲荷神社と第六天社/御嶽神社が合祀されている。昔は受持神を祀った稲荷神社が唯一の境内末社だった。稲荷神社の前には1900年 (明治33年) に奉納された神狐一対が置かれている。右の祠には三峯神社 (右上、右中) を祀っている。


社殿、石燈籠

参道を進むと社殿前に1736年 (元文元年) 奉納の常夜燈 (写真右下、左下) が置かれている。拝殿 (左中) は1877年 (明治10年)、その奥の本殿 (右中) は1888年 (明治21年)に総檜造りで再建され、元々の祭神の春日大神、天照大神、八幡大神の御神像三体が祀られている。明治初期に経津主命 (フツヌシノミコト)、天児屋命 (アメノコヤネノミコト)、武甕槌命 (タケミカヅツクミコト)、比売命 (ヒメノミコト) の四神に変えられた。(変更された理由が気になるのだがわからず)拝殿には多数の絵馬が奉納されており、そのうち狩野洞月詮信筆の 「板絵着色雷神図 (中下)」 は杉並区指定有形民俗文化財となっている。


神楽殿、神輿庫

参道の南側に神楽殿 (写真右)、境内末社の隣に神輿庫 (写真左) が建っている。神楽殿では、大宮前郷土芸能保存会が囃子などを練習して、毎年9月、杉並宮前春日神社の例大祭 (写真下) で 「大宮前囃子」 が奉じられている。


井ロ山慈宏寺 (日蓮宗)

春日神社の西側には日蓮宗の井口山慈宏寺がある。1673年 (寛文13年) に、大宮前新田を開発した関村名主の井口八郎右衛門信忠の嗣子の大宮前新田名主の井口杢右衛門義重が開基となり、練馬南大泉の妙福寺の慈宏院日賢上人 (開山) を招いて開創している。


立正安国長寿石

石柱の門を入ると、本堂に向かって一直線に参道が伸びている。門を入った両側には石燈籠、その右手には2基の題目塔が置かれている。参道を進むと右手に1968年 (昭和43年) 造立の立正安国と彫った長寿石が配置されている。


庚申円筒型手水鉢

長寿石の後方の熊笹の中には1804年 (享和4年) に造立された三猿が浮彫りされた円筒型手水鉢が見える。庚申塔を兼ねた手水鉢は珍しく、この様な庚申塔は始めて見る。


本堂

参道奥に本堂が建っている。本堂は1841年 (天保12年) に改築され、1875年 (明治8年) には高井戸学校の前身の郊西学校が開校し、この本堂を使用していたが、3年後の1878年 (明治11年) に貰い火で全焼した。そこで、1868年 (明治元年) に廃寺となっていた松庵村の円光寺の本堂 (写真右下) を移築している。1971年 (昭和46年) には本堂と庫裡を鉄筋コンクリートの耐火造りに改築し現在に至る。

本堂には本尊として日蓮の弟子の日朗上人の作とされ、木綿の僧衣をまとった旅姿の光明木旅立ちの御影と呼ばれる日蓮聖人立像 (写真左上) が祀られている。一般には 「荒布 (あらめ) の祖師」 と呼ばれている。堀ノ内の妙法寺にも日朗上人作の日蓮聖人座像が安置されている。この二体の日蓮聖人像は、日蓮が伊豆に流刑の際、日朗上人が由比ヶ浜で何日も御題目を唱え続けていた時に、不思議な光を放ち漂う霊木が流れ着き、日朗上人はその霊木が佛天の導きと拝し、日蓮大聖人の姿を二つ彫刻し、日蓮大聖人の無事を祈願したという。二体の日蓮大聖人像は碑文谷法華寺に安置されていたが、1691年 (元禄4年) 五代将軍徳川綱吉の時代に法華寺は天台宗に改宗させられ、日蓮聖人立像はこの慈宏寺に坐像は堀之内の妙法寺に移されている。

慈宏寺の日蓮聖人立像にはおもしろいエピソード (実話だそうだ) がある。

明治の初め頃、慈宏寺は無住となっており、或る日、荒布の祖師が盗まれて厨子が空っぽになっていた。驚いた村人たちは手分けをして捜したり、東京の古道具屋 の店先などに気を配りました。御本尊が無くなってから七日目の朝、総代の井口氏が寺の本堂にあがって見ると、盗まれたはずの荒布の祖師が厨子の中に立っていて、一通の手紙が置いてあった。「私は、ご本尊を盗んだ泥棒でございます。古道具屋へご本尊をたたき売ったのですが、それから後は夜、怖くて眠れないのです。眠ると高い山から千尋の谷へ投げ落とされる夢を、毎晩のように見続け、あれ以来一晩も眠ることが出来ないのです。これはご本尊の罰と思い、早速ご本尊を古道具屋から買い戻し、お返ししようと考えましたが、何分にもご本尊を売った金は、酒代に使ってしまった後のため、お金の工面に時間がかかり、遅くなりましたが、ようやく買い戻しましたので、お返しいたします。これからは泥棒はやめ、真面目に働きますから勘弁して下さい」と書いてあった。


写経堂

慈宏寺には写経堂がありそうなのだが、見つからなかった。本堂の横に大きな平屋の建物があるのだが、その奥にあるのかも知れない。写経堂の写真は慈宏寺のホームページに掲載されているものを借用。この写経堂には明治時代に松庵村の松庵稲荷神社の西隣にあった廃寺の天台宗円光寺の本堂を移築した際に、共に移された円光寺本尊だった木造馬頭観音像が祀られている。この馬頭観音像は十一面千手観音と馬頭観音が合体したような非常に珍しい作りになっている。雲渦文円形の光背を背負い、蓮華座上に直立する一面三目多階の像で、天冠台の周囲に十一面の小さな化仏が配され、頭頂に馬頭が置かれている。多臂のうち、胸前で合掌する手、香金を捧持する手の他、脇手は左右に各十一手掌を上にむけて張り出し、掌に日天・月天、宝棒、錫杖を携えている。


墓地、久遠塔、萬霊供養塔

墓地には慈宏寺開基の豊島郡関村本堂の脇の竹林の道を奥に進んだところが墓地になっている。墓地には樹木が植えられており、桜も咲いていた。

墓地入り口には、有縁無縁の供養墓、永代供養、並びに合葬合祀塔の久遠塔、ペットの火葬合祀墓の萬霊供養塔などが置かれている。


当村開起慈宏寺大檀那供養碑

墓地には名主だった井口家六代八右衛門をはじめとする大宮前新田開発の功労者の供養塔の 「当村開起慈宏寺大檀那供養碑」 (写真 右) が置かれているそうだが、見つからず。杉並区の文化財に指定され、説明が発行されており、そこから写真を借用した。


井口家六代八右衛門は大宮前新田をはじめ、武蔵野市の関前新田、三鷹市の連雀新田などを開発した人物になる。今まで練馬区と杉並区を巡ったが、至る所で、井口家に関わる史跡があった。先日も、郷土博物館で移設された井口家住宅長屋門を見学している。

井口氏は坂東平氏の系統に属する相模の三浦氏の後裔で、三浦義澄 義村親子は1180年 (治承4年) の源頼朝挙兵に参加し、鎌倉幕府の重臣となっている。源氏三代滅亡後、執権北条時頼により三浦氏は滅亡に追いやられた。1247年 (宝治元年) に三浦泰村の子は、伊豆の江川三郎重行を頼り鎌倉を脱出し、伊豆伊東に常住するに至り、以来二百年間この地に居住していた。泰村から八代目の一丈入道は、1467年 (応仁元年) 足利義政の時代に三浦郡走水庄井口郷に移住し、三浦姓を井口と改姓し、井口家初代となっている。1516年 (永正13年) 北条早雲と数年に亙る戦闘に敗れ、三崎の新井城で滅亡、義清は武蔵国に移った。義清の子の二代但馬守義久は北条氏に仕えたが、1590年 (天正18年) に北条氏は滅亡し、義久一族は豊島郡井草村に土着し、名主となった。その後、1615年 (元和元年) 三代玄幡頭義政は長男の倍重と共に大阪夏の陣に参加し討死。義政の次男の五代忠兵衛義晴は帰農して豊島郡関村に土着し名主となり、父祖の冥福を祈って関村に法耀山本立寺を創立。六代八右衛門信忠は武蔵野壱千町野の開拓を計画し、1669年 (寛文9年) に幕府より「高井戸札野新田」の開発が許可されて、大宮前新田、無礼前、連雀新田、関前新田の合計148戸分の屋敷と耕地の開発に成功し、三人の子をそれぞれ大宮前、連雀前(三鷹市)、関前(武蔵野市)に分家させ、名主とした。

また、大宮前に春日神社を創建し、井口山慈宏寺をはじめ数ヶ寺を開基している。八代八郎右衛門春森の代には、関村以下十二ヶ村の総代名主に任命されている。

分家の大宮前の名主井口氏は幕末には、中高井戸村と松庵村との三ヶ村の名主となって明治を迎え、1889年 (明治22年) に高井戸村が誕生した際には初代村長に選任されている。


祖師堂

墓地入り口には墓参に訪れた人達の為の休憩所が設けられ、その近くには斎場としても利用されている祖師堂も建てられている。


大宮前公園

旧小字 北中宿内の西側には大宮前の名を残した公園がある。1969年 (昭和44年) に開園した大宮前公園になる。大宮前新田が開墾された当時は南の砂川道 (五日市街道、都道7号線) 沿いに民家を配置し、その北に各戸の田畑、その北に新山と区画割がされていた。この公園には雑木林も多くあり、昔の武蔵野の新山の名残りなのかも知れない。公園の中には井戸のモニュメントが置かれている。昔からあったものを整備したのか? 新田にとって最も大切な水を得る井戸を作り、開墾時代の記念碑としたのだろうか?



小名 本村 小字 北本村、小字  南本村

北中宿と南中宿の西隣は砂川道 (五日市街道、都道7号線) の北側が小字 北本村、南が南本村だった。1889年 (明治22年) に高井戸村が誕生した時に小名 本村が、大字 本村となった際にできた小字になる。1932年 (昭和7年) に北本村と南本村はそれぞれが大宮前六丁目、大宮前五丁目に、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で大宮前六丁目は西荻南一丁目と西荻南二丁目に、大宮前五丁目は宮前五丁目になっている。何故、大宮前六丁目は宮前六丁目にならなかったのだろうか?何か理由があるはずだが、わからず。


寳鏡山久我寺 (単立)

旧小字 南本村の南の端に寳鏡山久我寺がある。本山に属さない単独寺院で、比較的新しく、少し大きな民家を寺としている様だ。創建年は記載されていないが登記は1972年(昭和47年) にされている。


広徳寺 (浄土真宗系単立)

旧小字 北本村にも単立寺院があった。この寺は浄土真宗だそうだ。この寺も民家を寺院として使っている。創建年代等は不詳だが、1994年 (平成6年) に設立登記されている。


延命地蔵

旧小字 北本村の西の端に小さな地蔵が置かれている。これは西荻窪の商店街が中心の町おこしの一環で設置された西荻六地蔵の一つで、西荻窪駅の周辺に置かれている。幾つかはすでに見終わったたが、それぞれの設置されている場合を昔の行政地でまとめると以下の通り。

  • 子育て地蔵 (旧上井草村 小名寺分 小字原)
  • 延命地蔵 (旧大宮前新田 小名本村 小字北本村)
  • 釘抜き地蔵 (旧中高井戸村 小字南)
  • 夢見地蔵 (旧松庵村 小字北)
  • 縁結び地蔵 (旧上荻窪村 小名三ツ塚 小字二ツ塚)
  • 幸せ地蔵 (旧中高井戸村 小字北)

これからもわかる様に、旧高井戸村のこの地域は西荻窪の商業圏になっている。


中高井戸村

1670年 (寛文10年) に開墾された高井戸札野新田の内の高井戸新田は、承応年間 (1652 ~ 55年) に玉川上水路が掘盤されたとき、水路工事に当たった農家7軒が強制移住させられ、開拓を行った地域だった。旧地高井戸の名をとって中高井戸村と名付けられた。昔はこの村の鎮守の稲荷社があったが、1934年 (昭和9年) に松庵稲荷神社に合祀されている。この時には中高井戸村は13戸と開墾時に移住してきた7戸から僅か6戸しか増えていなかった。江戸時代、中高井戸村には小名は無かった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、中高井戸は、上高井戸、下高井戸、松庵、大宮前新田、久ケ山と共に合併して高井戸村となり、中高井戸村は大字中高井戸となっている。この時に、大字中高井戸は南と北の二つの小字に区分けされた。1932年 (昭和7年) に小字北と小字南はそれぞれが西高井戸二丁目、西高井戸一丁目に、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で西高井戸二丁目は松庵三丁目と西荻北三丁目の一部に、西高井戸一丁目は松庵二丁目と松庵一丁目の一部になっている。


佛心山西教寺 (浄土真宗本願寺派)

旧小字 の地域で現在の西荻窪駅のすぐ西の住宅街の中に一見寺とは思えない建物が浄土真宗本願寺派の佛心山西教寺だ。1926年 (昭和元年)に説教所として始まり、創建され、1947年 (昭和22年) に佛心山西教寺に改められた。数年前までは寺らしい外観 (写真上) だったが、建て替えてこの様な現代的な建物になっている。


幸せ地蔵

西教寺のすぐ東の大通りに面した郵便局の前に西荻六地蔵の一つの幸せ地蔵が置かれている。


釘抜き地蔵

旧中高井戸村の真ん中を南北に走る砂川道 (五日市街道、都道7号線) の南側が旧小字 南だった。この旧小字 南の南端の蕎麦屋の店先にも西荻六地蔵の一つの釘抜き地蔵が置かれていた。



松庵村

松庵村は、この地の開拓を指導した医師の荻野松庵の名前を村名にしたといわれている。東は中高井戸村、西は吉祥寺村、南は久ケ山村、北は遅野井村に隣接し、開墾当時は13戸が入植し居住していた。江戸時代、松庵村には小名は無かった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、松庵村は、上高井戸、下高井戸、大宮前新田、中高井戸、久ケ山と共に合併して高井戸村となり、松庵村は大字松庵となっている。この時に、大字松庵は南と北の二つの小字で区分けされた。1932年 (昭和7年) に小字北と小字南はそれぞれが松庵北町、松庵南町に、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で庵北町は松庵三丁目と西荻北三丁目の一部に、松庵南町は松庵二丁目と松庵一丁目の一部になっている。


松庵稲荷神社

旧中高井戸村から、砂川道 (五日市街道、都道7号線) で松庵村に入った所、街道沿いに松庵村の鎮守で、受持命 (保食命) を祭神として稲荷神社が残っている。創建年代は不詳だが、おそらく開墾後村ができて、間もなくの時期に後に廃寺となる天台宗の円光寺の一隅に創建されたと思われる。明治維新で神仏分離、排仏毀釈により円光寺が廃寺となった際に稲荷社が独立している。1934年 (昭和9年) に、旧中高井戸村鎮守の中高井戸稲荷神社を合祀し、それ以来は 「西高井戸松庵稲荷神社」が正式名称だそうだ。(旧中高井戸村は1932年 昭和7年に西高井戸一丁目二丁目となっていた)


鳥居、手水舎

1935年 (昭和10年)奉納の石の一の鳥居をくぐると、その先に朱塗りのニの鳥居があり参道が社殿に伸びている。参道の右手には1893年(明治26年)奉献の手水鉢が置かれている。


お狐様ミイラ

一の鳥居を入った左手に祠があり、前には朱塗りの鳥居が置かれている。1934年 (昭和9年) に、旧中高井戸村鎮守の中高井戸稲荷神社を合祀した際に、本殿と共にこの未社の祠が建てられた。この祠には 「お狐様ミイラ」 が祀られているそうだ。祠には扁額では無く、その由来についての説明板が掲げられている。一般には公開されていないのだが、資料にその写真 (写真 右下) が載っていた。説明板には

昔、当稲荷神社の西側に円光寺というお寺がありました。そばに大きな築山がありまして、狐が穴を掘って子狐を育てていました。あるとき、隣村の村人が子狐を捕えて食べてしまいました。親狐は子狐と別れた悲しみのあまり、前足をくわえたままの姿で拝殿の床下から発見されたのです。以来、この狐を社にあらためてお稲荷様のお使い姫としてそのご神体を敬いお祀りしてあります。

とある。


庚申塔 (250番、251番)

狐の小祠の裏側に堂宇が置かれて、その中に二基の庚申塔が安置されている。

  • 左側は1690年 (元禄3年) に松庵村住民10名により造立された笠付角柱の庚申塔 (251番) で、上部には日月が刻まれ、中央に合掌六臂のの青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。
  • 右側は1693年 (元禄6年) に造立された舟型石塔の庚申塔 (250番) で、上部には日月が刻まれ、中央に合掌六臂のの青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。


社殿

参道を進むと左右に、子狐、大狐の石像(明治26年) 四月、氏子中)や常夜燈があります。には転倒防止の鉄棒がつけられた常夜燈、更に進むと1893年 (明治26年) に氏子により奉納された子狐と大狐の石像が置かれている。参道奥には、1934年 (昭和9年) に、旧中高井戸村鎮守の中高井戸稲荷神社を合祀した際に建てられている。総檜造りで、幣殿、拝殿、本殿が設けられており立派な造りになっている。当時の松庵村の戸数は少なく、これ程の立派な社殿を建築するから財力はなかったと思われるので、名主など財力のある家が資金を出したのだろう。


神楽殿、神輿庫

境内には神楽殿と神輿庫が建てられている。


円光寺歴住墓地

神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があるのだが、見落としたので次回訪問予定。ここには廃寺となった天台宗寺院の杉仙山円光寺の歴代住職の墓碑の無縫塔 (卵塔) 五基建てられているは、円光寺の創建年は不詳だが、墓碑の最も古いものが1696年 (元禄9年) の初代、住職の寿海和尚のものなので、この松庵新田が開墾された時期 (1670年 寛文10年頃 ) と思われる。中央には地元の人々が、歴代住職の供養の為に1965年(昭和40 年) に建てた五輪塔が置かれている。

元禄時代 (1688 ~ 1704)のころ、松庵新田の豪農岸野仙蔵 (後の江戸紫元祖の杉田屋仙蔵) は、京都智積院の僧円光の指導を受け紫草の栽培に成功し、江戸紫染めを完成させた。その後、染め工場が火事で焼失、そのショックで仙蔵は倒れ間もなく亡くなったが亡くなった。仙蔵の死後も、子が円光の助けを借りて江戸紫染めを広めて大変栄えたという。円光寺はこの仙蔵が円光に感謝し建立し、五日市街道から新田街道 (現 西荻駅付近) までの土地を寄進したとも、円光が仙蔵の菩提を弔い、仙蔵が生前大事にしていた木彫りの馬頭観音像を本尊にして建立したともいわれている。円光寺の開山、開基などは不明だが、この言い伝えから開山は円光、開基は杉田屋仙蔵の可能性が高いだろう。山号が杉仙山となっていた事からも杉田屋仙蔵の関わりは極めて高かった事がわかる。円光寺が明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった際に本堂と本尊の馬頭観音像は慈宏寺に移されている。

歴代住職の墓については以下の様な話がある。

円光寺の境内を畑にして、村中で分配し、住職の墓石 を畑の片隅においやってから、村の旧家に凶事が続出したそうです。明治、大正、昭和とその話が語り継がれた ため、旧家で何か良くないことが起こると、年寄はすぐ円光寺の土地のことに結びつけて噂にしました。1965年 (昭和40年) に、歴代住職の霊を慰めて、凶事が起こらないようにしようと、村中で浄財を出し合い、住職基地を整備し五輪塔の供養陣を新しく建てて、手厚く供養しました。不思議なことにそれ以後、凶事が起こったという話は聞かなくなった。


夢見地蔵

旧小字北の北側の中央本線南の道沿いに西荻六地蔵の最後の夢見地蔵が置かれていた。



これで旧大宮前新田、中高井戸村、松庵村巡りは終了。この地域は昨年4月に訪れているので、それ程時間はかからず、次に旧久我山村に移動。久我山訪問レポートは別途。久我山を巡った後、夕方には、以前働いていた会社の同僚と神田で夕食を共にするので神田に向かう。



参考文献

  • すぎなみの地域史 2 高井戸 平成30年度企画展 (2018 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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