杉並区 30 (18/05/25) 旧高井戸町 (高井戸村) 旧下高井戸村
旧高井戸町 (高井戸村)
旧下高井戸村
小名 宿
- 嶺玉山龍泉寺 (曹洞宗)
- 山門、聖観世音菩薩像
- 四面勝縁菩薩、勝縁石
- 本堂
- 干支地蔵菩薩
- 北向地蔵、折り紙地蔵
- 六地藏
- 旧永泉寺墓地
- 大慈会教団本部
- 清月山覚蔵寺 (日蓮宗)
- 山門
- 開山日相聖人塔、日蓮聖人五百遠忌塔
- 本堂
- 参集堂
- 墓地
- 叡昌山宗源寺 (日蓮派)
- 山門、宗源寺開基碑
- 不動堂
- 稲荷社
- 無縁塔、供養塔
- 本堂
- 高野槇 (ラカンマキ)
- 下高井戸宿本陣跡
- 一里塚跡
小名 柏之宮
- 玉川上水路跡、玉川上水第二公園、玉川上水第三公園
- 用水路跡
- 万葉植物園
- 田中稲荷大明神
小名 鎌倉橋
- 庚申堂 (馬頭観音 235番、庚申塔 236 - 237番、地蔵菩薩)
- 鎌倉街道
- 鎌倉橋
- 塚山公園、下高井戸塚山遺 (塚山遺跡)
- 神田川、塚山橋、梢橋、藤和橋、藤和緑地
- 下高井戸八幡神社
- 一の鳥居、二の鳥居、石燈籠
- 手水舎
- 社殿
- 裏参道
- 境内末社
- 稲荷神社
- 天祖神社、御嶽神社、祖霊社
- 神楽殿、神輿庫
- 彰忠碑、力石
小名 向山
- 吉守稲荷神社
今日から、杉並区の最後の村の高井戸村巡りを始める。今回の東京滞在もあと4日で、高井戸村にあった6つの旧村をなんとか巡り終えたい。今日は高井戸村の東地域にあたる下高井戸村を訪れる。
旧高井戸町 (高井戸村)
武州多摩郡野方領高井戸村は、江戸時代の初めに、上下二ヶ村に別けられ、京都に近い西側は上高井戸村、遠い東側は下高井戸村と名付けられ、1604年 (慶長9年) 頃に甲州道中 (甲州街道) が整備され、高井戸に宿場が置かれてからは、上高井戸宿、下高井戸宿と呼ばれていた。
この上高井戸宿、下高井戸宿の他に、江戸時代に大宮前新田、中高井戸村、松庵村が開墾された誕生し、久ケ山村も含めて高井戸村の総称で呼ばれ、いずれも徳川幕府の直轄地の天領だった。
下高井戸村の宗源寺境内にある高井戸不動尊は昔は台地高台の堂宇に祀られ、この堂宇が遠くからよく見えたので、村人や通行人から 「高いお堂の不動様」 と呼ばれ、後に、「高井堂不動」 が通り名になり、この高井堂から高井戸の名が生まれたと伝わっている。
高井戸六カ村は水田が少なく、多くは畑で野菜の生産が多く、江戸市民の台所となっていた。また、良質の杉丸太が多く生産され、 「高井戸丸太」 は丸太の代名詞に使われたぐらい有名だった。
上高井戸村の中には下高井戸村の大飛地、小飛地があった。下高井戸村は租税が少なく、税収を補う為、上高井戸の正用の一部を下高井戸村へやったので、上高井戸村内に下高井戸村の飛地ができたと伝わっている。大飛地は、大正時代に正用西、杉並区になって上高井戸五丁目になっている。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、これら六ケ村は統合され、高井戸村になり、その後、1926年 (大正15年) に高井戸町となっている。北は井荻村、杉並村、南は松沢村、千歳村 (世田谷区)、東は和田堀内村、西は吉祥寺村 (武蔵野市)、三鷹村 (三鷹市) に接し、中程の低地に神田川、南側の台地に玉川上水が西から東へ流れている。
旧下高井戸村
江戸時代の下高井戸村には宿、柏之宮、鎌倉橋、向原の四つの小名があった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され六ケ村は統合され、高井戸村になり、旧下高井戸村は大字下高井戸となっている。
旧下高井戸村の行政区の変遷については、当該小名の項目で触れるので、ここでは旧下高井戸村の住宅地が拡大する変遷を見ていく。江戸時代から明治時代には集落は甲州街道沿線と、小名 向原に収集しており、小名 柏之宮と鎌倉橋にはほとんど民家はみられない。この状態は戦前までほとんど変化はなく、甲州街道南に走る京王線の駅周辺に民家が増えている。戦後、1950年代までは、甲州街道沿線と小名 向原の住宅地が少し拡大したのみ。1960年代以降、急速に住宅地が拡大し、1960年代後半には、旧下高井戸村全域が住宅地に変わっている。
旧下高井戸村の史跡スポット等
小名 宿
旧下高井戸村の南地域、現在の甲州街道 (国道20号線) に沿った両側が、江戸時代には小名 宿で宿場町だった。宿場だったこともあり、下高井戸村は下高井戸宿とも呼ばれていた。1602年 (慶長7年) に五街道の1つとなる甲州道中建設と共に起点の日本橋から4里 (16km) になる下高井戸村に高井戸宿が設けられた。甲州道中は徳川幕府が江戸城が敵に攻められ危機に瀕した場合に、将軍家を甲府城へ避難させるための道路としてとして開かれたが、甲州道中を利用する大名は、信州高遠藩の内藤氏、飯田藩の堀氏、高島藩の諏訪氏の三大名のみで、定期的に公的に通行したのは甲州勤番・お茶壷・八王子千人同心など、甲州と信州に行く旅人も限られ、五街道のうち一番旅人の数が少なかった。とはいえ、開設当初の高井戸宿は、江戸から最初の宿場だったので、24軒の旅籠屋や、酒屋、飲食屋などの商家が軒をつらね、大いに繁昌していた。しかし、当時の下高井戸村は貧しい農村で、多くの賦役も課されており、一村では宿場を経営できる経済力は無く、宿運営は住民にとっては大きな負担だった。そこで、下高井戸村の懇願により、1604年 (慶長9年)に隣村の上高井戸村に烏山村内 (世田谷区) の甲州道中六丁の両側の土地を上高井戸村へ組入れて、強引に上高井戸宿が作られた。上下合わせた高井戸宿は月の1日から15日までは下高井戸村、16日から月末迄を上高井戸村の問屋名主が管理運営を行っていた。高井戸宿は大いに賑わっていたが、1698年 (元禄11年) に浅草阿部川町の名主高松喜兵衛等五人が、異加金(権利金)5,600両を幕府へ上納して、日本橋と高井戸宿との中間の内藤新宿に、岡場所 (遊廓) を目的とした宿場を建設した事から、旅人は高井戸宿を素通りして、岡場所の飯盛女がいる内藤新宿に泊まるようになった。高井戸宿は急速に衰徴し、天明年間の頃 (1781 ~ 1789年) には、旅籠屋がわずか6軒になってしまった。以後、幕末まで宿場の経営は地域農民の大きな負担となり、宿場関係者の中には没落した旧家が少なくなかったといわれている。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、これら六ケ村は統合され、高井戸村が誕生、旧下高井戸村は大字 下高井戸となり、そこに属していた小名 宿はそのまま小字 宿となっている。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 宿は東端の地域 (現在の永福一丁目) 以外は下高井戸一丁目となっている。更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正では、大きく区画割が変更された。ほぼ旧小名 宿にあたる下高井戸一丁目は、旧小名柏之宮にあたる下高井戸二丁目と合わせて、下高井戸一丁目、三丁目、四丁目に分割されている。杉並区の他の地域でもこれ程の行政地域に入れ替えは行われていない。行政区画の変更は人口や面積などを考慮して、道路や河川を境界線として行われるのだが、歴史や文化を無視して行われた事は残念だ。
先日、3月14日永福町の寺町を廻ったが、この寺町にはもう一つ寺があり、旧下高井戸村の小名 宿の東端に建てられている。ここから、小名 宿にある史跡を西に向かって見ていく。
嶺玉山龍泉寺 (曹洞宗)
先日巡った 永昌寺の永泉寺坂を西に渡った所に曹洞宗の木造釈迦如来坐像を本尊とする嶺玉山龍泉寺がある。この寺も永福町の寺町の中の寺院。開創年代は元禄と享保の火災で記録が類焼したため明らかではないが、寺伝では、1603年 (慶長8年) に江戸麹町に新宿区舟町にある本寺の雄峰山全勝寺二世晋庵瑞迪 (しんあんずいてき) 大和尚を開山として開創されたと伝えられている。寛永年間 (1624年 ~ 1644年) に、麹町から四ッ谷南寺町に移転し、さらに、1903年 (明治36年) に東京市より、市内に散在する墓地は衛生外観等の公益上好ましくない事から市外への移転を告示され、墓地のみの移転は得策ではないと、墓地と共に寺も1909年 (明治42年) に、この地に移転してきている。
山門、聖観世音菩薩像
龍泉寺山門前には、禅宗寺の特徴の禁葷酒の石塔が置かれ、その塀の上には、甲州街道の交通安全と地域の安全、参詣者の安全、玉川上水で亡くなった人々の供養の為に2023年 (令和5年) にある聖観世音菩薩像が建立されている。
四面勝縁菩薩、勝縁石
境内に入ると、縁結びを意味する勝縁石、その側に観世音菩薩、虚空蔵菩薩、普賢行菩薩、大勢至菩薩の四面勝縁菩薩立像が置かれ、更に隣に手水砂、別の観世音菩薩、信徒休憩所、庫裡と続いている。
本堂
庫裡に隣接して本堂が建っている。1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で寺町が焼き尽くされ、龍泉寺の本堂と庫裡も全焼している。その後、1971年 (昭和46年) に再建されたのが現在の本堂になる。
干支地蔵菩薩
境内の反対側、墓地入口付近には、2003年 (平成15年) の龍泉寺開創四百年を記念して建立された干支地蔵があり、12の子供地蔵がそれぞれの動物と一緒の像になっている。
北向地蔵、折り紙地蔵
干支地蔵菩薩の後には錫杖と宝珠を携えた丸彫の地蔵菩薩立像 (造立年不詳) が置かれている。北向地蔵と呼ばれ、江戸時代から、額に北風を受けることから、熱病などに効果があると伝えられ、四谷に龍泉寺があった頃には多くが参詣に来ていたという。
北向地蔵の隣には近年に作られたどんぶりを持った地蔵があり、折り紙地蔵菩薩と言う。折鶴に願い事を書いて、地蔵のドンブリのビー玉に挟むと、願いが叶うそうだ。
六地藏
北向地蔵の側、墓地の塀沿いに六地蔵も置かれている。延命地蔵、不休息地蔵、?地蔵、讃竜地蔵、宝性地蔵、護讃地蔵と並んでいる。江戸中期の作で、刻まれている年号がまちまちで、1777年 (安水6年)、1780年 (安水9年)、1801年 (享和元年)、1811年 (文化8年)、1835年 (天保6年)、1838年 (天保9年)、1842年 (天保13年)、1843年 (天保14年)、1827年 (文政10年) などなので、異なった時期に作られたものを集めて六地蔵としているのかも知れない。
六地蔵の前には無縁塔と思われる場所があり、その中に少し変わった地蔵菩薩が置かれていた。1841年 (天保12年) に造立された7面の石柱に6面に六地蔵が浮き彫りされている。無縁塔の後ろには、天災戦災被害者慰霊塔も置かれている。
旧永泉寺墓地
龍泉寺の西隣りには、すぐ近くにある永昌寺の墓地がある。永昌寺の敷地にも墓地はあったのだが、永昌寺は (明治43年) にこの場所付近にあった永泉寺を合併して現在地ヘ移転してきたいう経緯がり、ここは旧永泉寺の墓地で、永昌寺が管理している。
墓地には六地蔵が置かれている。台座はかなり古いものの様に思えるが、六つの地蔵菩薩像は昭和50年代に再建されたとなっていた。向かって右から、護讃地蔵、弁尼地蔵、宝性地蔵、延命地蔵、不休息地蔵、讃竜地蔵と並んでいる。
大慈会教団本部
龍泉寺から玉川上水路跡に沿って西に2ブロック入ったところに大きな門構えの寺があった。大慈教団本部と書いている。どのような教団なのか聞こうと中に入ると、信徒以外は中に入らない様にと断られた。大慈会は19531953年に霊友会から分派独立した単立寺院だそうだ。いつも思うが新宗教の寺院は桁違いに立派。
清月山覚蔵寺 (日蓮宗)
一里塚跡から甲州街道を水道道路を越えて少し進むと、日蓮宗の清月山覚蔵寺があり、十界曼荼羅と宗祖日蓮聖人像を本尊として祀っている。創建年は不詳だが、元々は真言宗の寺だったが、慶長年間 (1596年~1614年) に実成院日相が日蓮宗に改宗し中興したと伝えられている。1881年 (明治14年) には高明学校 (現在の高井戸小学校の前身) がおかれていた。
山門
甲州街道沿いに入口があり、日蓮宗特有の 「南無妙法蓮華経」 と刻まれた題目塔が建てられている。参道を進むと石門があり、その先に山門が置かれ、清月山と書かれた扁額が掲げられている。
開山日相聖人塔、日蓮聖人五百遠忌塔
山門から境内に入ると、左側に中興開山の実成院日相の三百五十遠忌で1966年 (昭和41年) に開山日相聖人塔が建てられている。その隣には1781年 (天明元年) 頃に建立された日蓮聖人五百遠忌塔があり、1981年 (昭和56年) の聖人七百遠忌の年に本堂前に銅像を建立している。
本堂
境内奥に1956年 (昭和31年) に改築された本堂が、その隣りには庫裡が建てられている。覚蔵寺には日蓮聖人の直刻と伝えられている鬼子母神像が安置され、江戸時代から有名だった。これは、1271年 (文永8年) に日蓮聖人が龍ノ口法難に遭う前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされ刑場に向う途中、一老女から胡麻の牡丹餅を供養され、そのお礼として手渡したものといわれている。江戸時代の中頃に、鎌倉の妙法寺から覚蔵寺に移され、それ以降、開運鬼子母神として、人々の信仰を集めていた。
参集堂
境内は駐車場になっているが、庭も溶け込むように整備されている。境内には2023年に建てられた参集堂などがあり、斎場としても使われている。
墓地
墓地には2023年に建てられた二重の塔の回向堂、れきだい歴代住職の墓所、塀沿いに無縁塔などが見られる。歴代住職の墓所の中に鍋島直茂はじめ鍋島家類代の墓があった。この覚蔵寺の歴代住職は鍋島家の様で、肥前佐賀藩の鍋島家と関係がある様だ。
叡昌山宗源寺 (日蓮派)
覚蔵寺のすぐ西に日蓮宗の叡昌山宗源寺が建っている。宗源寺は、寺伝によると江戸時代の初めに日善上人 (1608年 慶長13年遷化) が宗源庵と称し現在地に創建し、正保年間 (1644 ~ 1648) に房州小湊誕生寺の末寺となり、庵号を廃して宗源寺と改めている。1909年 (明治42年) には四谷にあった栄林寺を合併している。
山門、宗源寺開基碑
甲州街道沿いに入口があり、左に「南無妙法蓮華経宗源寺」 と刻んだ大きな題目塔が置かれ、山門に続いている。山門を入ると、植え込みに幾つかの石塔、石碑などが置かれている。その中に、1916年 (大正五年)に宗源寺の檀家である吉田甚五郎により建てられた子爵の小笠原長生筆の題額の「宗源寺開基碑」 (写真下) があり、明治大正時代に活躍した思想家、地理学者で檀家の志賀重島の識文が刻まれ、宗源寺の開基の吉田氏に関わる伝承を伝えている。
当山開基光伯院日善上人は、畠山重忠の一族、江戸遠江守太郎判官重永の未族なり。土御門天皇の元久三年 (1206年) 畠山氏亡ぶや、重永の長男宗光甲斐国吉田郷に住む、建治年中 (1275 ~ 77年) 日蓮聖人甲斐国波木井郷 (身延) 通行の際、教化を授かり、宗光の嫡男宗利法華に改宗し、入道となりて名を宗源と改め、後世吉田を以て姓となす。貞和年間 (1345 ~ 49年) 足利尊氏、畠山氏の残党を追及すること厳しく、宗利の一族武蔵国に移り、創めて此の地方を開き、庵室を建て房州小湊誕生寺の末寺となり、宗源寺と号す
碑文にある様に、開山した光伯院日善の祖先は、畠山重忠の一族である江戸遠江守太郎判官重永の孫で、甲斐国吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのにちなみ、慶長年間 (1596年~1614年) の頃、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としている。
不動堂
参道左側に不動堂が建っている。この不動堂は、この近く下高井戸宿の入り口にあった修験道の高井山本覚院、通称高井堂にあり、堂内には、元高井山本覚院の本尊だった木造りの不動尊像が安置され、府中の門前房配下の修験僧が管理していた。神仏分離令、廃仏毀釈で荒廃し、1872年 (明治5年) に廃寺となり、1911年 (明治44年) に現在地へ移し、1967年 (昭和42年) に改築したもの。この不動堂はかつては、高台にあったため、「高井堂」 と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったともいわれている。
不動堂がこの宗源寺に移された事に関しての逸話がある。
不動堂境内地の一部にカゴ作り職人の一家が居住していたが、主人の梅さんが不図したことから右腕を疾んで困って居た。或る夜不動尊が現われて、自分を粗末にして置くから立腹して居るとの御告げがあった。そこで早速村の有志と境内の不動堂内を検べて見ると、塵に汚れて本尊の右腕が折れて落ちて居た。一同は驚いて金を出し合ってこれを修理した所がカゴ屋の疾はすっかり平癒して終った。この事を伝え聞いた世田谷の廻沢方面の人々が、霊験あらたかな不動様を譲り受け度いと申し出た。相当の金額も用意されて居たらしく村人は異議なく承認したが、其の夜に、再びカゴ屋の主人は、この土地を離れて他の土地へ行くのは嫌だとの不動様の夢のお告げを受けた。村人は怖れをなして堂内を清掃した所、不思議と宗源寺の額を発見した。宗源寺とは数丁離れて何等の交渉もないのに奇異を感じ、これはきっと宗源寺へ行き度いとの御神意であろうと解して、わざわざお金を投じてお堂ぐるみ宗源寺へ移転して終った。
稲荷社
不動堂の隣には朱塗りの堂宇が置かれ、稲荷社を祀っている。江戸時代、神仏習合の時には宗源寺は浜田山の八幡神社の別当で、稲荷神社の別当はは宗源寺でしたが、廃寺となった本覚院だった。このような関係で、ここに稲荷社が置かれているのかも知れない。
無縁塔、供養塔
稲荷社の隣には無縁塔があり、地蔵菩薩立像を中心に幾つもの石墓が置かれている。その隣には、1848年 (嘉永元年) の供養塔が置かれ、1722年 (享保7年)、1817年 (文化14年)、1848年 (嘉永元年) の年号で何名かの戒名が刻まれて供養されている。
本堂
境内正面の本堂は、1966年 (昭和41年) に再建されたもので、本尊として十界諸導 (宝塔、釈迦、多宝如来、四菩薩、四天王) と日蓮聖人像が祀られている。本堂に隣接して庫裡 (写真下) がある。
高野槇 (ラカンマキ)
境内の庭は綺麗に手入れがされており、その中、本堂の右前には、杉並区指定天然記念物となっている樹齢四百年といわれる高野槇 (ラカンマキ) の古木が聳えている。
下高井戸宿本陣跡
江戸時代、下高井戸宿ができた当時は宗源寺の西隣りの冨吉屋に下高井戸宿本陣が置かれ、本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが馬と人足が常置していた問屋だった。その後、1698年 (元禄11年) に内藤新宿ができた後は、寂れてしまい、1839年 (天保10年) には下高井戸宿本陣は、既に無くなっている。現在では、それを偲ぶものは何も残ってはいない。
一里塚跡
甲州街道 (国道20号線) を西に進む。この甲州街道 (江戸時代は甲州道中と呼ばれていた) は徳川幕府が江戸城が敵に攻められ危機に瀕した場合に、将軍家を甲府城へ避難させるための道路としてとして開かれた街道で、日本橋から下諏訪宿で中山道に合流するまで一里毎に一里塚が置かれていた。この場所は江戸時代には日本橋から4里にあたり、四つ目の一里塚が土を盛り上げ榎木が植っていた。上北沢駅入口交差点付近に案内板が置かれている。と解説板があります。この案内板は 「甲州道中分間延絵図」 と、地元の古老証言により、場所を推定して置かれたもの。それによると、高速道路高架下あたりの道路上にあったという。今では一里塚の面影は全くないのだが、東の離れた場所ではあるが、甲州街道沿いに 「一里塚」 というバス停に名が残されている。離れすぎているのは、この地が品川県だった時代 (1869年 明治2年 ~ 1871年 明治4年) に、このバス停のすぐ西に一里塚の標識が建てられ、1927年 (昭和2年) に荒玉水道道路工事で撤去される迄あったそうだ。(撤去された新一里塚標識は個人宅で保管されていたが、行方不明になっている) 江戸時代の一里塚は新一里塚標識が設置された頃は既に消滅していたのだろう。地元の人たちは、新一里塚標識が一里塚の場所と認識していたので、このバス停が 「一里塚」 となったのだろう。
小名 柏之宮
江戸時代から明治時代にかけて、小名 宿の北側には小名 柏之宮があった。室町時代の1457年 (長禄元年) に太田道灌が江戸城を築城の際に、柏木左右衛門尉に命じて鎌倉橋に鶴ヶ岡別殿を勧請し武運長久を祈願した事で、柏木左右衛門尉の奉行精功を感じ、柏木ノ宮 (高井戸八幡神社) と名付けられた事から、この地を柏之宮と呼んでいた。
1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、下高井戸村は大字 下高井戸となり、それまでの小名が廃止され、旧小名 柏之宮は蛇場美 (じゃばみ)、柏の宮、四ツ割の三つの小字に分割されている。
- 小字 柏ノ宮は小名時代に本村があった地域で、太田道灌の命で八幡神社を検地建築した柏木左右衛門尉の名が由来という。
- 小字 蛇場美は昔、小さな蛇を鎌で殺したら大蛇になって襲ってきた。その首が流れ着いた所なので蛇場美と呼んだとの言い伝えがある。
- 小字 四ツ割は、この地を四人で分割して開拓を行った事からきていると推測されている。
1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に蛇場美、柏ノ宮、四ツ割の三つの小字は旧小名 宿と旧小名鎌倉橋の小字 鎌倉橋と共に下高井戸二丁目となっている。更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正では、やはり下の表の様に大きく区画割が変更されている。
玉川上水路跡、玉川上水第二公園、玉川上水第三公園
小名 柏之宮には見るべき史跡などはないのだが、小名 柏之宮と小名 宿の境界線は玉川上水で、現在では暗渠化され、玉川上水第二公園として整備されている。上北沢駅入口第二交差点から東斜めに甲州街道を外れて暗渠化された玉川上水路跡がある。暫く進むと、遊歩道となっている玉川上水第二公園、そして玉川上水第三公園が龍泉寺辺りまで続いている。
公園内には花壇が所々に整備されて色々な花が咲いていた。
用水路跡
江戸時代には小名 柏之宮の中には神田川と玉川上水を結ぶ用水路が何本か造られて、農地の灌漑用水となっていた。現在では殆ど全てが埋め立てられたか、暗渠化されている。その内で遊歩道となっているものがあり、自転車で走る。
一本は、旧玉川上水の上北沢駅入口第二交差点付近 (写真左上) からの用水路で、旧字 四ツ割の東と北の字境に沿って流れ、もう一本の用水路に合流している。(写真右下) 途中に、この用水路から水を引き込むポンプ (写真右中、左下) が残っていた。
このもう一本の用水路は、神田川に架かる鎌倉橋の辺りから、小字 鎌倉橋 (旧小名 鎌倉橋) を東に突っ切り、小名 柏之宮の小字 柏ノ宮に入り、南下して向陽中学校にある万葉植物園付近で、先程の水路と合流している。
合流地点 (写真左上) から小字 蛇場美の真ん中を流れて、下高井戸おおぞら公園 (写真左下) を通り、永福南小学校の西側で神田川に合流している。
万葉植物園
旧小字の蛇場美の二つの用水路の合流地点近くの万葉植物園を訪れた。この万葉植物園は1987年 (昭和62年) に 向陽中学校創立40周年記念事業とし造園されたもの。教師、PTAも含め、生徒達が万葉集に歌われている160余の植物を探し出して、植え育てている。約40年近く維持管理をしているのは凄い事だ。生徒が万葉集や植物に興味を持ち、それぞれの想いで深掘りするのは意義深い。
田中稲荷大明神
万葉植物園のすぐ西が小字 四ツ割で、そこに入った所に稲荷神社の小さな祠があった。創建年代は不明だが、江戸時代には、小字 四ツ割の住民により造られ祀られていた。田中稲荷大明神と呼ばれているが、「田中」 とは田圃の中にあったからだろうか?当時はこの辺りは全面農地だった。その中に、この稲荷神社は200坪以上もの除地 (年貢免除の土地) を有していた。1892年 (明治25年) に西隣りの小名 鎌倉橋の八幡神社に合祀され、八幡神社にも境内末社として祠が置かれている。現在では民家の隙間に狭い境内に小さな祠が建っているだけになってしまったが、それでも地域住民に信仰されている。鳥居の横の塀に稲荷社参りが行われる初午三社詣での案内板が置かれていた。
小名 鎌倉橋
小名 鎌倉橋は、神田川に架かっている鎌倉街道の鎌倉橋の周辺地域をさしている。小名 鎌倉橋の名の由来は鎌倉街道が通り、鎌倉橋という橋が架かっていた事から名がついたという。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、下高井戸村は大字 下高井戸となり、それまでの小名が廃止され、その下に旧小名 鎌倉橋は新山、鎌倉橋、鎌倉橋坂上の三つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 鎌倉橋坂上は下高井戸二丁目に、小字 鎌倉橋は下高井戸二丁目に編入され、小字 新山は下高井戸三丁目になっている。更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正では、やはり下の表の様に大きく区画割が変更されている。
庚申堂 (馬頭観音 235番、庚申塔 236 - 237番、地蔵菩薩)
上北沢駅入口に戻り、このすぐ東の鎌倉街道入り口交差点から玉川上水路を越え北に伸びる道路がある。この道が鎌倉街道の一つで、江戸時代には小名 宿と小名 柏之宮の境界線になっていた。鎌倉街道を北に進み、小名 鎌倉橋の小字 新山に入った所、鎌倉街道の二股道沿いに1985年 (昭和60年) にコンクリート造りで建てられた堂宇が置かれている。
堂宇内には庚申塔が2基、馬頭観音1基が祀られている。
- 庚申塔 (237番): 左端の駒型石塔の庚申塔は1695年 (元禄8年) に造立され、正面上部に日月が刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。側面には造立年と「武列多摩郡野方領下高井土」 、台座には願主名12名が刻まれている。
- 庚申塔 (236番): 中央には1696年 (元禄9年) に下高井戸村の15名により造立された笠付角柱が置かれ、正面に日月、「奉庚申信仰敬白」、側面には 「武列多摩郡下高井土」 と刻まれている。
- 馬頭観音 (235番): 右側には小さな角柱型の馬頭観音で1855年 (安政2年) の造立されたもの。正面に 「南無妙法蓮華経馬頭観世音」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩: 堂宇の外、石囲い沿いに昭和50年 (1975年) 代に造られた隅丸角柱に月輪を背にした錫杖宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、側面には交通安全祈願と刻まれている。
鎌倉街道
鎌倉街道を更に北に進む。道沿いに庚申塔バス停があり、庚申塔の名が残っている。この鎌倉街道は、この地の小字 新山の中を北に伸び、神田川で鎌倉橋、更に、小字 鎌倉橋坂上、小名 向原、大宮八幡宮を通り中野から板橋へと抜けている。鎌倉街道は何本もあり、その中で主要なものは上道、中道、下道で、鎌倉時代には東国御家人と鎌倉を結ぶ道だった。この道は、何本かある中道の一つで、鎌倉時代から室町時代にかけては、通行人も多く繁栄したが、江戸時代以降は次第に衰え、江戸時代後半には道は荒れて、通る人もまばらだったそうだ。
鎌倉橋
鎌倉街道を北に進むと神田川に出る。ここには鎌倉橋が架かっている。小名 鎌倉橋の名の由来となった橋だ。伝承では、1457年 (長禄元年) に大田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願い、家臣に命じて下高井戸八幡神社を創立させ、鎌倉八幡宮の神霊を祀り、鎌倉八幡宮の近いこの橋を鎌倉橋と名付けたといわれている。また、この付近には、鎌倉時代に陣屋櫓が作られ、後に大田道灌の支配地になってからは、家臣某が任に当っていたという伝承がある。橋の南詰には鎌倉街道と記された古い石碑が建っていた。
塚山公園、下高井戸塚山遺 (塚山遺跡)
鎌倉橋の手前、西側は神田川南岸の緩やかな台地で現在は塚山公園となっている。この公園が造園される前、この地では1932年 (昭和7年) から1938年 (昭和13年) にかけて発掘調査が行われ、25の竪穴建物跡や多数の遺物が検出されている。縄文時代中期 (約5,500年 ~ 4,400年前) の環状集落の跡になる。環状集落は、数世代から数十世代に亘って同一台地上の転々と地点を移動しながら集落を構成するため、最終的に台地の中央部 (祭祀場) 以外は、住居で埋め尽くされてしまう特徴をもっている。台地縁辺部から内側に向かって時代が新しくなる傾向と未調査部分を含め、200基程度の住居址が埋蔵されていることが解っている。また、関東ローム層からは、武蔵野台地では最古の石器と思われる旧石器時代 (約3万年前) の局部磨製石斧やナイフ形石器が出土している。この下高井戸塚山遺 (塚山遺跡) は神田川と湧水によって侵蝕形成された舌状台地上全域に分布しており、遺跡の一部は公園南側の住宅地域にまで広がるものと推定される。
この地は、永らく朝日新聞社所有の朝日農園だったが、1973年 (昭和48年) に朝日新聞社はこの土地と築地の国有地とを交換し、大蔵省はこの地に公務員宿舎の建築を計画していた。これに対し、遺跡や自然環境を保護しようと地元の強い要望で反対運動が起こり、1965年 (昭和60年) に土地は杉並区に払い下げとなり、1988年 (昭和63年) に史跡公園として区立塚山公園が整備された。
公園内には、1985年 (昭和60年) の調査で発掘された住居跡が復元保存され、縄文時代の家族の暮らしぶりを再現した竪穴住居も建てられている。
管理事務所には出土品のレプリカや、集落の復元模型などが展示されている。
神田川、塚山橋、梢橋、藤和橋、藤和緑地
塚山公園から神田川沿いの遊歩道を通って下高井戸八幡神社に向かう。川には何匹もの大きな鯉がゆったりと泳いでいる。
塚山公園の前には欄干が塚山遺跡出土の土器のデザインの塚山橋。
続いて鎌倉橋だが、これは先ほど見ている。鎌倉橋の次に架けられているのが、歩行者専用の梢橋でスッキリしたデザインになっている。
次が藤和橋で梢橋との間、川沿いに昔の用水路跡を整備して藤和緑地が造られている。
この藤和橋のすぐ南が八幡神社で到着。
下高井戸八幡神社
下高井戸八幡神社は、旧下高井戸村の鎮守で主祭神として応神天皇、相殿として受持神 (保食神) を祀っている。1457年 (長禄元年) に太田道灌が江戸築城の際に柏木左右衛門尉に命じて鎌倉八幡宮の神霊 (鶴ヶ岡別殿) を勧請して建立したと伝えられている。地元では 「柏木ノ宮」 と呼ばれ、明治の神仏習分離令までは宗源寺が別当だった。この地の小字名の柏ノ宮は、この柏木ノ宮から名付けられたと思われる。現在では下高井戸浜田山八幡神社、浜田山八幡神社とも称されている。
一の鳥居、二の鳥居、石燈籠
八幡神社へは紀元二千六百年記念建立の石の一の鳥居をくぐり進むと3段の階段、上がると二の鳥居が置かれて、参道は社殿に向かって一直線に伸びている。参道両脇には、1827 年 (文政11年) 奉納の石燈籠がある。
手水舎
石燈籠の先左手に手水舎があり、ここで身を清めて先に進む。
社殿
参道には、更に狛犬が二対、その背後に石燈籠が置かれ、参道奥に社殿が鎮座している。社殿は、1847年 (弘化4年) に再建されたとあり、その後、本殿以外の拝殿と覆殿 は1959年 (昭和34年) に再建され現在に至っている。
裏参道
本堂の向かって右脇には裏参道があり、神田川から入る事ができる。ここにも石燈籠が置かれている。
境内末社
境内には参道の半ば程、左手に石鳥居があり、その奥に四つの境内未社が置かれている。現在の祠は1977年 (昭和52年) に整備されている。
稲荷神社
向かって左には稲荷神社が鎮座している。先に訪れた旧村内字四ツ割にあった稲荷神社 (田中稲荷、祭神受持神、別当本覚寺) を1892年 (明治25年) に合祀したもの。祠の前には二対の狐像、祠内にも数え切れない程の狐が並んでいる。
天祖神社、御嶽神社、祖霊社
稲荷神社の隣には左から、天祖神社 (写真上)、御嶽神社 (左中、左下)、大黒天 (中中)、右端には、この八幡神社に功績のあった人を祀る祖霊社 (右中、右下) が置かれている。
神楽殿、神輿庫
境内には、その他に神楽殿、神輿庫が置かれている。
八幡神社の9月下旬の例大祭では神楽殿 (舞殿) で里神楽が奉納されている。
神楽殿に並んで神輿庫があり、浜田山、下町、中町、上町の四つの神輿庫が並んで建てられている。例大祭では各地域の神輿が出されて、祭りが盛り上がっている。
彰忠碑、力石
塀ぎわに、日露戦争で戦死した地元出身の三名を弔った慰霊碑があり、乃木希典書の「彰忠碑」と刻まれている。彰忠碑の脇には村の人たちの力試しに使われた其々30、38、45貫の力石が三個置かれている。
鎌倉橋に戻り、旧小字 鎌倉橋坂上内の鎌倉街道を北に進む。
小名 向山
小名 向原は、宿から見て神田川の向かい側の地域で、現在の浜田山にあたる。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、下高井戸村は大字 下高井戸となり、それまでの小名が廃止され、旧小名 向原は浜田山、大道東、大道西の三つの小字に分割されている。
- 小字 浜田山は、この地域の中に、明治の半ば頃まで新宿の米問屋の浜田屋所有の山でがあり、そこに浜田家の墓地があった事から、この様に呼ばれる様になった。
- 小字 大道東と大道西は、鎌倉古道の井の頭道沿い (大道) の地域だった。1674年 (延宝2年) の下高井戸村御縄打帳写には、何故か大道南、大道北と記されている。
1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に旧小名 向原は小字 鎌倉橋坂上と共に、下高井戸四丁目になり、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正では、やはり下の表の様に大きく区画割が変更され、旧小字 浜田山は浜田山一丁目、二丁目、三丁目に、旧小字 大道東は浜田山三丁目、四丁目に、旧小字 大道西は浜田山二丁目、四丁目に分割されている。
吉守稲荷神社
小名 鎌倉橋坂上から小名 向山の小字 浜田山に入った所、鎌倉街道の四角に吉守稲荷神社が残っている。
この神社はこの浜田山一帯地域を開拓した吉田家子孫の屋敷神で、地域住民にも信仰されていた。現在では下高井戸八幡神社が管理している。
これで、下高井戸村の史跡巡りは終了。
今日訪れた下高井戸村のログ。
参考文献
- すぎなみの地域史 2 高井戸 平成30年度企画展 (2018 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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