中野区 02 (28/08/25) 旧野方村 下鷺宮村

下鷺宮村

小字 原

  • 白鷺商栄会商店街シャッターアート
  • 天神山の森 (そろの木公園)
  • 庚申塚 - 庚申塚 (44番、45番)、地蔵菩薩 (53番)、馬頭観音 (44番)、聖観音菩薩 (45番)

小字 宮前

  • 屋敷森 (細田家住宅)
  • 白鷺せせらぎ公園
  • オリーブ橋

小字 本村

  • 瑠璃光山淨光寺仙藏院 (真言宗系単立)
  • 浄円寺 (浄土真宗本願寺派)

小字 塚越

  • 都立家政駅
  • 都立家政商店街
  • 慶運寺跡 (真言宗豊山派)
  • 庚申塔 (42番)

小字 沼袋境

  • 庚申大神 (41番)


昨日訪れた旧上鷺宮村の南端の鷺ノ宮駅から、都道427号線 (瀬田貫井線) を南に進み、旧下鷺宮村に入り、この村に残っている史跡等を巡る。


下鷺宮村

旧下鷺宮村の範囲は現在の白鷺1丁目、白鷺 2丁目、若宮1丁目、若宮2丁目、若宮3丁目にあたる。江戸時代は幕府直轄地の天領で、明治時代に入るまで続いていた。

1868年 (明治元年) に現在の中野区は武蔵県の一部となり、翌年の1869年 (明治2年) には品川県に編成がえになり、すぐに廃されて東京府の一部になったが、再度編成がえで神奈川県に属し、1872年 (明治5年) には東京府へと目まぐるしく管轄が変わっており、明治維新時代の混乱が分かる。

1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村は江古田村、上高田村、新井村、上沼袋村、下沼袋村、下鷺宮村の7ヶ村が合併し、野方村となった。この時に上鷺宮村は東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮となっている。1896年 (明治29年) に東多摩郡と南豊島郡はが合併して豊多摩郡となっている。1924年 (大正13年) に町制施行で野方村が野方町となる。1923年 (大正12年) の関東大震災の後、多くの人が移り住むようになり、野方村の人口は年間5千人ののペース増加していった。1927年 (昭和2年) に西武村山線(現在の西武新宿線)の鷺ノ宮駅が開業し、更に人口が増加し、農地は次々と住宅地となっていった。 

1932年 (昭和7年) に東京市と豊多摩郡など5郡が合併し、野方町は東京市に編入され消滅し、中野町とともに中野区の一部となる。旧大字上鷺宮は東京府東京市中野区鷺宮三丁目~六丁目となっている。(旧下鷺宮は鷺宮一丁目~二丁目)1943年 (昭和18年) 東京府・市は廃止され東京都となっている。

1937年 (昭和12年) 府立家政駅開業 (1943年に都立家政駅に改称)。1942年 (昭和17年) 西鷺宮駅が開業したが、1944年に閉鎖、1953年には廃止された。

住宅の増加で番地の整備の必要となり、1965年 (昭和40年) に鷺宮は、上鷺宮、鷺宮、白鷺、若宮の4つの町に分割され、新青梅街道以北が上鷺宮一丁目から五丁目と変更されている。

下鷺宮村の集落分布については、江戸時代から戦前までは大きな変化はなく、純粋な農村だった。1923年 (大正12年) の関東大震災の後に東京市内から多くの人が、この地域に移住している。戦後、東の小字も沼袋境、塚越を中心に住宅地が開発され、この地域はほぼ全土に住宅が建てられている。1965年以降は旧下鷺宮村全域が住宅地となっている。

下鷺宮村の史跡等



小字 原

江戸時代から明治にかけての小字 原は下鷺宮村の西の端にあり、現在の都道427号線 (瀬田貫井線) を村境として東に小字 宮前に接していた。小字 原は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下鷺宮小字原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 原は小字 宮前と共に鷺宮二丁目となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 原は白鷺二丁目となっている。


白鷺商栄会商店街シャッターアート

鷺ノ宮駅南口から交通厄除地蔵尊の前の道 (都道427号線) を南に進むと、道に沿って白鷺商栄会商店街になる。今日は平日なのだが開いている店は少ない。中野区も例に漏れず昔ながらの商店街は寂れている。深夜まで営業しているスーパーやコンビニの進出や店主の老齢化で後継者不足で閉店を余儀無くされているのが主要な理由だ。白鷺商栄会商店街の14店舗のシャッターにアートが施されている。商店街活性化の試みかと思っていたのだが、このシャッターアートのきっかけは長年悩まされてきた落書きの撲滅を目的で始められたそうだ。このプロジェクトは2015年に武蔵野美術大学や多摩美術大学の学生ボランティアが参加して行われた。学生は作品発表の機会になり、担当店舗と一緒にデザインを考え、画材道具は商店街が負担 し、25枚のシャッターアートを完成させた。このシャッターアートで客が増え商店街の活性化も期待が生まれたが、それは一時的なもの。何よりも行政ではなく、商店街が自主的にチームでプロジェクトを行った事に意義があるのだろう。


天神山の森 (そろの木公園)

白鷺商栄会商店街の道から西の妙正寺川方面に少し入った所にそろの木公園がある。妙正寺川から見ると高台になる。そろの木公園は小さな公園で、武蔵野台地の古き雑木林の頃の面影があり、公園内には何本も犬四手 (イヌシデ、そろ) の木が残っている。また、東屋、遊具などが設置されていた。この場所は天神山の森 とも呼ばれており、昔はこの地に天神を祀った祠があったそうで、この様に呼ばれれいた。


庚申塚 - 庚申塚 (44番、45番)、地蔵菩薩 (53番)、馬頭観音 (44番)、聖観音菩薩 (45番)

白鷺商栄会商店街の道に戻り、南に進むと若草通りに交差する。交差点手前に堂宇がある。庚申塚と呼ばれている。堂宇の中には五基の石仏が並べられ、千羽鶴が吊され花が飾られ、花も供えられており、今でも地元の人々に親しまれていることがわかる。明治20年代に流行り病があった時にこの石仏を拝んだと懲り、平癒したという。現在でも病気平癒の祈願をする人がいるという。

  • 馬頭観音 (44番): 向かって右には1766年 (明和3年) に鷺宮村講中により造立された舟型石塔の馬頭観音が置かれている。合掌六臂の姿で頭には馬の頭の冠をつけている。
  • 庚申塔 (44番): その隣は1746 (延享3年) に鷺宮村講中により造立された駒型石塔の庚申塔で、上部には日月が線刻され、中央に邪鬼を踏みつけ、手にはショケラをぶら下げた合掌八臂の青面金剛、その下には二鶏、三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (45番): 中央の駒型石塔も庚申塔で、1712年 (正徳2年) に造立され、上部に日月、その下に合掌六臂の青面金剛立像、足元に二鶏と三猿のが浮き彫りされている。「奉庚申待二世安樂所 願主 同行8人敬白」と刻まれている。
  • 地蔵菩薩 (53番): 左から2番目は1753年 (宝暦3年) 造立の舟型石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされており 「南無阿弥陀仏 武刕多摩郡下鷺宮村 奉造立地蔵菩薩 念仏講中二世安樂所 講中21人」 と刻まれている。
  • 聖観音菩薩 (45番): 左端は比較的新しく1919年 (大正8年) に作られた舟型石塔で、聖観音菩薩立像が浮き彫りされている。


小字 宮前

小字 原に都道427号線 (瀬田貫井線) を境に東に小字 宮前が隣接している。宮前とは鷺宮八幡宮の前に広がる村という事だろう。

小字 宮前は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下鷺宮小字宮前となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 宮前は小字 原と共に鷺宮二丁目となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 宮前は白鷺一丁目となっている。


屋敷森 (細田家住宅)

庚申塚から道を南に少し進んだ東に樹々に覆われた広い邸宅がある。3,250平方メートルの敷地の細田家住宅で、敷地は欅や杉など40種の木が密集した屋敷森になっている。敷地内には江戸時代末期頃にこの地に移築されたと伝えられる茅葺屋根の建物が残っているそうだ。明治後期頃から昭和初期頃までは地場産業の漬物の問屋が営まれていた。


白鷺せせらぎ公園

屋敷森の北側の道を東に進むと妙正寺川に出る。ここに大きな公園が整備されている。白鷺せせらぎ公園で、2015年 (平成27年) に開園している。公園整備前には、この場所には都営鷺ノ宮アパートがあったのだが、建て替えの際に建物を高層化し、余った土地に妙正寺川上流域の治水安全度向上のために鷺宮調節池が造られている。鷺宮調節池は掘込式で、調節池の上部は人工地盤造成が行われて白鷺せせらぎ公園として利用されている。


オリーブ橋

妙正寺川沿いの遊歩道を鷺ノ宮駅方面に向かって北に進むと、途中にオリーブ橋と名付けられた橋があった。この橋の袂にはオリーブ公園、近くには若宮オリーブ館があり、小豆島出身の私には何か縁があるのかと興味を持った。調べると、この白鷺1丁目には二十四の瞳の作家の壺井栄が1942年 (昭和17年) から亡くなるまでの25年間住んでいた。白鷺時代の1952年 (昭和27年) に「二十四の瞳」がこの地で発表している。この壺井栄を偲んで小豆島の名産品のオリーブの名がつけられたという。



小字 本村

妙正寺川が小字 宮前と小字 本村の境界線になる。小字 本村は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下鷺宮小字本村となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 本村は鷺宮一丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 本村は鷺宮三丁目と若宮三丁目の一部になっている。


瑠璃光山淨光寺仙藏院 (真言宗系単立)

オリーブ橋から都立家政駅を目指して進み、駅も間近という所に本尊として不動明王を祀る真言宗系単立の瑠璃光山淨光寺仙藏院がある。創建年代は不明だが、寺伝では江戸時代に中野宝泉寺末として権大僧法印朝蓮を開山として創建されたという。寛政年間 (1789 ~ 1801年) は住職不在、嘉永年間 (1848 ~ 1855年) から定林庵と改称し、1927年 (昭和2年) まで尼寺だったことから、「下鷺の尼寺」 と呼ばれていた。1958年 (昭和33年) に真言宗豊山派から離脱して単立寺院となっている。


洗心山浄円寺 (浄土真宗本願寺派)

仙藏院のすぐ北の都立家政駅近く線路脇に阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗本願寺派の洗心山浄円寺がある。境内もなく、普通の民家を寺としている。初代住職が、1935年 (昭和10年) に開基し、1948年 (昭和23年)に現在地に移り、念仏の道場として活動を行っている。



小字 塚越

都立家政駅踏切の道が小字 本村と小字 塚越との境界線だった。小字 塚越は下鷺宮村の北端の小字だった。小字 塚越は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下鷺宮小字塚越となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 塚越は鷺宮一丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 塚越に相当する地域は鷺宮一丁目、若宮一丁目、若宮三丁目にまたがっている。


都立家政駅

小字 本村から小字 塚越 に入った所に西武新宿線の都立家政駅がある。東京府立中野高等家政女学校 (現在の鷺宮高等学校)が1938年 (昭和13年) に学校が中野区桃園町から現在地に移転するのに先立って、西武鉄道村山線に新駅の開設を陳情し、地主による土地提供を得て、西武鉄道が「府立家政駅」として 1937年 (昭和12年) に開業している。1943年 (昭和18年) には東京府が東京都となった事で都立家政駅に改称している。

中野高等家政女学校は鷺宮高等学校となった後に、「東鷺ノ宮駅」 へ改称の話もあったが駅前に 「家政銀座商店街」 が誕生していたことや、地元の愛着もあり、引き続き旧来からの都立家政の駅名を使うことになった。


都立家政商店街

都立家政駅前の南北600mの両側に加盟店93店舗が並ぶのが都立家政商店街で、駅前には漫画家のちばてつや氏デザインの 「かせいチャン」 像が置かれている。「家政」と「火星」 をかけたもののようだ。ここでもよく商店街が行っている町おこしの一環で 1979年 (昭和54年) からは「かせい阿波踊り」 が開催され 、2013年 (平成25年) には「かせいチャン七福神」像 (次回巡る予定) を設置したりしている。


慶運寺跡 (真言宗豊山派)

鷺宮1丁目5-2には真言宗豊山派の慶運寺という寺があるとなっていたので訪れたが、寺は見当たらず住宅地になっていた。この寺は比較的新しく1948年 (昭和23年) に開山したそうだが、どこかに移ったのかも知れない。後日、調べると、やはり移転したが、廃寺となったのか、現在では寺はなく、その跡地に小さな祠が残っているそうだ。(写真右)


庚申塔 (42番)

都立家政駅と野方駅のちょうど中間地点の線路踏切の北側に小さな堂宇があり、中に庚申塔が置かれている。この道は江戸時代からある古道の中野道で新宿にあった会社へは東中野経由の通勤路で毎日通っていたのだが、ここに庚申塔があることには気が付かなかった。元々は線路の反対側にあったそうだが、近年にこちら側に移設されている。1714年 (正徳4年) に鷺宮村住民8人により造立された庚申塔は笠付角柱に日月、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。昔は野ざらしで顧みられなかったが、戦前、この辺りでは交通事故が多く、住民がこの庚申塔を供養したところ、交通事故が減少したという。それで、戦時中に堂宇を造り、それ以降何度か建て替えて大切にされている。、堂宇左側ににも角柱 (写真 左下) が置かれている。弘法大師と刻まれていたのだろうが、上部は欠損して 「法大師」しか読めない。



小字 沼袋境

江戸時代から明治時代には小字 塚越の南、小字 本村と大場の東に隣接しているのが小字 沼袋境で、東側は下沼袋村と上沼袋村に接していたので、沼袋境と呼ばれていた。小字 沼袋境は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下鷺宮小字沼袋境となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 沼袋境は鷺宮一丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 沼袋境に相当する地域は若宮一丁目、若宮二丁目、若宮三丁目にまたがっている。


庚申大神 (41番)

都立家政商店街の道を南に進むと別の道に突き当たる。この場所にも堂宇が置かれている。地元では庚申大神と呼ばれ、堂宇内には1725 年 (享保10年) に鷺之宮村講中16人により造立された駒形石塔が置かれ、石塔上から日月、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、足元には二鶏、下部には三猿が浮き彫りされている。



下鷺宮村 訪問ログ


参考文献

  • 中野区史 上巻 (1943 中野区)
  • 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
  • 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
  • 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
  • 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
  • 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
  • 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
  • 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
  • たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
  • 中野の神社をたずねて 南部編 (2010 中野区立中央図書館)
  • 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
  • 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
  • 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
  • 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
  • なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
  • なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)

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