中野区 01 (27/08/25) 旧野方村 上鷺宮村

上鷺宮村

小字 北久保

  • 北原 (きたっぱら) 神社、庚申塔 (50番)

小字 中内出

  • 庚申塔 (48番)

小字 北原

  • 願かけ地蔵 (59番、60番)

小字 大鏡、中内

  • つげの木地蔵 (61番)
  • 御嶽神社
  • 子育地蔵尊 (59番)
  • 庚申塔 (49番)、地蔵菩薩立像 (57番)

小字 篭原 (籠原)

  • 庚申塔 (47番)、馬頭観音 (47番)、聖観音 (46番)、不動明王 (48番)
  • 旧地福院墓地、地蔵菩薩坐像 (56番、69番)

小字 御嶽前

  • 鷺ノ宮駅
  • 慈常山妙観寺 (法華宗 真門流)
  • 鷺宮八幡神社
    • 鳥居、狛犬、手水舎
    • 参集殿、六社さま (末社)
    • 力石
    • 神楽殿
    • 社殿
    • 石碑群
    • 御嶽神社、稲荷神社
  • 白鷺山正幡寺福藏院 (真言宗豊山派)
    • 参道、地蔵菩薩立像 (49番,50番)、馬頭観音 (43番)
    • 山門
    • 十三仏 (42番)、六道地蔵菩薩
    • 無縁塔
    • 子育地蔵菩薩 (51番)、修業大師像
    • 忠霊碑
    • 庚申塔 (31番)
    • 鐘楼堂
    • 本堂
    • 北向き地蔵 (52番)
    • 北門、ルンビニー庭園
    • 垢離不動尊 (71番、72番)
  • 交通厄除地蔵尊 (54番)、妙正寺川改修記念碑


今回の東京訪問は病院での定期検査では無く、自転車の運搬が主目的だった。新しく折り畳み自転車を購入。海外で自転車旅行がしたく、盗難が多くある地域では自転車をホテルの部屋に持ち込める様に折り畳み自転車とした。沖縄へはかなりの送料がかかるので、沖縄にある自転車を東京に預け荷物として運び、新しく買った自転車を沖縄に運ぶ予定だった。沖縄出発前に、沖縄の自転車を解体し梱包しようとしたが、フロントフォークが抜けず解体を断念。結局、東京から買った折り畳み自転車だけを運ぶ事になってしまった。

東京に到着後、早速、新しい折り畳み自転車を乗りやすくする為の少し改造。ハンドルにブルホーンハンドルを装着、ハンドルを取り替えでは無く元のハンドルも残して、握る場所のバリエーションを増やすのと、ブルホーンハンドルではスペースがないので、元のハンドルをフロントバックの装着に使える。キックスタンドを片足から、両足タイプに変更。自転車旅行では積む荷物が多くなり、重量も増え、片足キックスタンドでは不安がある。以前は重さに耐えかねて折れた事があった。両足タイプだと安定した駐輪ができる。後は荷台と泥よけを付けるのだが、それは沖縄に帰ってからの予定。(写真は沖縄に帰ってから更に手を加えて完成した旅仕様の折り畳み自転車)

新しい自転車で、今日から中野区の史跡巡りを始める。まずは東京での滞在先の娘宅の近くから始める事として、江戸時代は上鷺宮村と呼ばれていた地域を巡る。


上鷺宮村

江戸時代の上鷺宮村は武蔵国多磨郡の中の10の領地の一つの野方領の54ヶ村のうちの一つで、静かな農村地域だった。上鷺宮村の範囲は現在の鷺宮、上鷺宮、白鷺3丁目にあたる。江戸時代は井上河内守正就、その子の正利の142石の知行地で、1645年 (正保2年) から明治時代に入るまでは今川刑部直房の知行地だった。名主は大野氏、内田氏、早舩氏、篠氏の交代制だった。

鷺宮の名の起こりは、1064年に源頼義がこの地に八幡神を祀り社殿を建立した際、境内に鷺が多く棲んでいたことから、村人はこの神社を 「鷺宮大明神」 と呼び、それがこの地名となってと伝えられている。

1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村は江古田村、上高田村、新井村、上沼袋村、下沼袋村、下鷺宮村の7ヶ村が合併し、野方村となった。この時に上鷺宮村は東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮となっている。1896年 (明治29年) に東多摩郡と南豊島郡はが合併して豊多摩郡となっている。1924年 (大正13年) に町制施行で野方村が野方町となる。1923年 (大正12年) の関東大震災の後、多くの人が移り住むようになり、野方村の人口は年間5千人ののペース増加していった。1927年 (昭和2年) に西武村山線(現在の西武新宿線)の鷺ノ宮駅が開業し、更に人口が増加し、農地は次々と住宅地となっていった。 

1932年 (昭和7年) に東京市と豊多摩郡など5郡が合併し、野方町は東京市に編入され消滅し、中野町とともに中野区の一部となる。旧大字上鷺宮は東京府東京市中野区鷺宮三丁目~六丁目となっている。(旧下鷺宮は鷺宮一丁目~二丁目)1943年 (昭和18年) 東京府・市は廃止され東京都となっている。

1937年 (昭和12年) 府立家政駅開業 (1943年に都立家政駅に改称)。1942年 (昭和17年) 西鷺宮駅が開業したが、1944年に閉鎖、1953年には廃止された。

住宅の増加で番地の整備の必要となり、1965年 (昭和40年) に鷺宮は、上鷺宮、鷺宮、白鷺、若宮の4つの町に分割され、新青梅街道以北が上鷺宮一丁目から五丁目と変更されている。

下の図に上鷺宮村の変遷をまとめてみたが、江戸時代の小名 (こな、おな) についての資料が見つからず、空白にしているが、明治時代の小字にほぼ匹敵していると思われる。小名に関しての資料が見つかれば追記する予定。

1896年(明治29年) の地図を見ると北部と南部を除いて、各小字で小規模の集落が点在している。おそらく江戸時代も同様の分布だったと思われる。戦前までは民家は少し増えただけだったが、戦後は急速に民家が増加し始めて、1960年代にはほぼ全域に住宅地が拡大し、1990年代には全土が住宅街で密集状態となっている。


上鷺宮村の史跡等



小字 北久保

江戸時代の上鷺宮村の北部の小字 城山と西原には民家は殆どなく、史跡などは見当たらない。この二つの小字の南に隣接している北久保から南にかけて集落が存在していた。小字 北久保は1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村、江古田村、上高田村、新井村、上沼袋村、下沼袋村、下鷺宮村の7ヶ村が合併し、野方村となった。上鷺宮村は東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮となり、その管轄下に小字 北久保となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北久保は鷺宮五丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 北久保は上鷺宮二丁目と上鷺宮五丁目の一部となり現在に至っている。


北原 (きたっぱら) 神社、庚申塔 (50番)

鷺宮八幡宮の北側に位置する野原という意味で、上鷺宮の地域は北原 (きたっぱら) と呼ばれており、この神社は北原神社 (きたっぱら) という。大正初期に奈良漬けの高騰で大儲けをした上鷺宮の農家の人々が、この地域の鎮守として、1922年 (大正11年) に御嶽神社を創建し、武州御嶽神社、榛名神社、伊勢皇大神宮の三社が祀られていた。この地の名に因んで、北原 (きたっぱら) 神社と名付けられた。現在は北原講中崇敬会により管理されている。資料には上鷺宮村には (現在の鷺ノ宮駅の北) 500年程の歴史がある御嶽神社があったとある。1964年 (昭和39年) に鷺宮八幡神社に合祀されている。

1932年 (昭和7年) に建てられた鳥居を入ると、境内右手側には手水舎が置かれている。

奥に本殿と神輿庫が置かれている。この北原神社では、正月15日には、暮れに使ったスス払いの竹や、正月のしめ縄、門松を燃やす 「どんど焼」 が行われ、毎年4月15日に例祭が行われ、講中が集まり御神酒をいただいている。また、8月下旬の鷺宮八幡宮の例大祭では、北原神社神輿庫に保管されている北鷺町会の神輿も参加している。この例大祭では、北原神社は神酒所となり、神輿、山車が出入りする。

左側、社殿前に三つの石塔がある。右端は1928年 (昭和3年) に土地35坪を奉納したと刻まれた御大典記念碑 (右上、右中) が置かれている。その隣に1932年 (昭和7年) の大東京市記念碑 (左中、中中) で正面の石鳥居の寄進者の名が多数刻まれている。地元だけで無く、県外の人も見られる。1932年 (昭和7年) に寄進された、続いて庚申塔 (下) が並んでいる。左端の庚申塔 (50番) は、元々は上鷺東公園近くにあったもので、ここに移設している。1771年 (明和8年) に鷺宮村講中38名により造立された笠付角柱型石塔の上部に日月と二鶏、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。右側面には 「是ヨリ右 ぬくい道」 とあり、左側面には 「是ヨリ左 やくし道」 と刻まれて道標を兼ねていた。



小字 中内出

小字 北久保の南に位置していた小字 中内出は1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮小字中内出となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 中内出は鷺宮四丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、鷺宮四丁目は鷺宮四丁目と白鷺二丁目の一部となり現在に至っている。


庚申塔 (48番)

北原神社から南に進み都道440号線 (落合井草線) を越えた所、昔からの旧道傍の木の茂みの中に庚申塔 (48番) が隠れている。通常は綺麗に木は切り整えられているのだが、夏場は枝の伸びが早く追いつかないのだろう。1697年 (元禄10年) に造立された傘付き角柱で、上部には日月が浮き彫りされ、中央に「奉供養庚申二世祈所」 と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りされている。



小字 北原

小字 北久保の東に位置していた小字 北原は1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮小字北原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北原は鷺宮五丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 北原に相当する地域は上鷺宮一丁目となり現在に至っている。


願かけ地蔵 (59番、60番)

庚申塔から都道440号線を西に進み、都道427号線を北に少し進んだ所、道沿いに2体の地蔵尊が残っている。大きい地蔵と小さな地蔵が並んでいるので、地元では「子連れ願掛け地蔵」と呼ばれている。向かって左の地蔵菩薩 (60番) は上鷺宮村の念仏講中が1715年 (正徳5年) に造立したもの。隣の小さな地蔵尊 (59番) については造立年は不詳。この二つの地蔵には云い伝えがある。

この地蔵に祈願する人は、白装束で真夜中に祈りながら右側の小さい地蔵を倒します。すると大きい地蔵は、倒された地蔵を起こしてほしいために願いごとを聞き届けてくれるといわれ、願が叶ったら、自分の手で小さい地蔵を起しに行くというものです。

この風習は、1950年半ば頃 (昭和30年頃) まで続いていたそうだ。



小字 大鏡、中内

小字 北久保の南は小字 中内で、その南は小字 大鏡だった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮小字中内、小字大鏡となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 中内は鷺宮五丁目の一部、小字 大鏡は鷺宮六丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 中内に相当する地域は鷺宮六丁目と鷺宮五丁目の一部となり、旧小字 大鏡に相当する地域は鷺宮五丁目の一部と鷺宮五丁目の一部と上鷺宮二丁目の一部となって現在に至っている。


つげの木地蔵 (61番)

小字 中内の半ば、新青梅街道のすぐ北の道 (江戸時代はこちらの道が存在していた) に小さな堂宇が置かれ、中には丸彫りの地蔵菩薩立像が安置されている。戦前までは大きなつげの木の下にあったので、地元ではつげの木地蔵と呼ばれているた。終戦まもないころに何者かに盗まれてしまい、現在のお地蔵様は1954年 (昭和29年) に再建されたもの。この時に堂宇前に道標も再建され、右目白道 左田無道と刻まれている。


御嶽神社

先ほどの庚申塔の所まで戻り、前の旧道を南西に進み、旧小字 大鏡と旧小字 中内の村境に御嶽神社がある。御嶽神社はオイノサマ (御犬様) とも呼ばれ、武州御嶽神社の分社で、御嶽講中の人々が1908年 (明治41年) に建立している。旧小字中内 (現在の鷺宮4丁目) と旧小字大境 (現在の鷺沼6丁目)の約30人の御嶽講中により維持管理されている。祠内には大口真神のお札が祀られている。

境内には手水舎 (写真左上) と二つの石碑が置かれている。一つは現在の祠を1966年 (昭和41年) に再建した際の記念碑 (写真 右上)。

もうひとつ (写真下) は弘化年間 (1845 ~ 1848年) に悪疫が流行し多くの村人が病死し、御嶽に登山して平癒を祈り、病気が回復した事等が記され、石碑両脇には小さな地蔵菩薩像が2体づつ置かれている。この地域にはかつては、先に見た北原神社も含めて幾つかの御嶽神社があった。御嶽神社は農家の作神様として武蔵野では熱く信仰されていた。この御嶽神社や北原神社が創建される以前、江戸時代には、現在の鷺ノ宮駅の少し北側 (鷺宮3-30 ) 旧小字 篭原に御嶽神社が存在していた。1572年 (元亀3年) に地域に悪疫が流行った折、青梅の御嶽神社にお参りしたところ悪疫は収まり、篠源左衛門によって創建されたという。後に管理されず放置されていた。この場所の御嶽神社と北原神社は、もとは江戸時代からの御嶽神社から講中により分祀されたものだそうだ。

 

子育地蔵尊 (59番)

御嶽神社の塀の外側に地元では、子育地蔵と呼ばれている丸彫りの地蔵菩薩立像 (59番) が置かれている。1759年 (宝暦9年) に上鷺宮村の住民が子供が育たないので、祈願してこの地蔵を建立したと伝えられている。


庚申塔 (49番)、地蔵菩薩立像 (57番)

御嶽神社の道を挟んだ民家の敷地の隅に庚申塔と地蔵菩薩像が置かれている。以前は御嶽神社のすぐ向かいにあったが、住宅建築工事で、この場所に移されている。庚申塔 (49番) は1745年 (延享2年) に上鷺宮村講中28人に造立された傘付き角塔で、上部に梵字種字のहूं (ウン) が刻まれ、その両側に日月が浮き彫りされ、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。傘は落ちており、地蔵菩薩像の傍に置かれれいる。地蔵菩薩像は袈裟掛けに切断された様に上部が欠損している。1738年 (元文3年) に上鷺宮村講中36人により造立された丸彫り地蔵菩薩立像 (57番) で、道標も兼ねて、側面には 「いぐさ道」、「ゑと道」 と刻まれている。庚申塔の脇には動物像が置かれている。御嶽神社は 「おいぬ様」 と呼ばれるニホンオオカミの大口真神を祀っているので、これは狼だろう。



小字 篭原 (籠原)

上鷺宮の東端が小字 篭原 (籠原) で東西に長細く伸びている。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮小字篭原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 篭原は鷺宮三丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 篭原に相当する地域は鷺宮一丁目、鷺宮二丁目、鷺宮三丁目の一部となり、現在に至っている。


庚申塔 (47番)、馬頭観音 (47番)、聖観音 (46番)、不動明王 (48番)

もう一度、都道440号線の庚申塔に戻り、都道440号線を東に進み、都立家政駅の北側で中野道入ると右側に堂宇がある。この敷地内には文字型石塔が置かれている。この石塔は元々は新青梅街道 (雑司谷道) と通ってきた中野道の三叉路に1800年 (寛政12年) に上鷺宮村講中により建てられたが、新青梅街道拡張工事に伴いこの地に移設されている。石塔は道標も兼ね、庚申塔 (47番)、馬頭観音 (47番) と聖観音 (46番) も一緒に祀ってあるめずらしいものになる。石塔正面には梵字種字のहूं (ウン) 「国家安穏青面金剛 西」と刻まれ、悪疫を防ぎ人びとの健康長寿を願う庚申塔、左側面には梵字種字の हं (カン) 「馬頭観世音菩薩 そふし加やみち 北」 と刻まれ、牛馬の供養のための馬頭観音、右側面には梵字種字の स (サ) 「天下泰平観世音菩薩 奈加のみち 南」 と刻まれ、苦難からの救済を願う聖観音供養塔となっている。石塔の脇には小さな山状角柱の仏塔が置かれている。1799年 (寛政11年) に造立された不動明王立像 (48番) が浮き彫りされている。

この広場には手水舎があり、奥には堂宇が建てられている。本坪鈴が吊るされているので神社の様だが、内部に何を祀っているのかは分からなかった。隣には神輿庫と思われる建物もあった。この場所は上鷺宮村小字篭原にあたるので、篭原の鎮守だったのかもしれない。


旧地福院墓地、地蔵菩薩坐像 (56番、69番)

中野道を南に進み、最初の四角で道を西に曲がり進んだところに墓地がある。この墓地はかつてこの地にあった地福院という寺院の墓地だった。地福院は廃寺となり、住宅地となったが、墓地だけが残り、現在は福蔵院の墓地となっている。墓地に入ったところに2体の丸彫り地蔵菩薩坐像置かれている。

向かって左は1792年 (寛政4年) に造立された地蔵菩薩像 (56番) で三界萬霊塔と刻まれている。右は1763年 (宝暦13年) 造立の地蔵菩薩 (69番) で長菜上人と刻まれている。



小字 御嶽前

小字 篭原の南に隣接していたのが小字 御嶽前で、妙正寺川を挟んだ狭い地域になる。この地域からは、南北朝時代の板碑三基が発見されており、古くから人が住んでおり、八幡神社の辺りが村落形成の中心であったとされている。小字 御嶽前の北部は林が広がる高台になっており、現在の鷺ノ宮駅の少し北側 (鷺宮3-30)に御嶽神社が存在していた。後に八幡神社に合祀されたが、この御嶽神社がこの小字の名の由来になった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字上鷺宮小字篭原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 御嶽前は鷺宮三丁目の一部となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 御嶽前に相当する地域は白鷺一丁目、鷺宮三丁目の一部となり、現在に至っている。


鷺ノ宮駅

道を更に西に進むと西武鉄道新宿線の鷺ノ宮駅に出る。鷺ノ宮駅は1927年 (昭和2年) 開業の古くからある駅。

この西武鉄道新宿線は東京首都圏への通勤通学で利用されて、時間帯によっては本数が多く1時間で40分もの踏切遮断機が降りている。開かずの踏切の悪評がある。中野区ではこれの解消の為、鉄道の立体交差化も含めた鷺ノ宮駅周辺の整備計画を中野区都市計画マスタープランの一部として進めているが、実施計画までは至っておらず、実現時期については触れられておらず、実施線表も無い。まだまだ柔らかい構想段階の様で、実施には様々な課題がある事から、実現はまだまだ遠い先の様に思える。


慈常山妙観寺 (法華宗 真門流)

鷺ノ宮駅を南に越えた所の住宅地の中に法華宗 真門流の慈常山妙観寺がある。伝統的なお寺の建物では無く、普通の民家がお寺になっている。ホームページによれば妙観寺は2012年 (平成24年) に法華宗真門流の末寺として北海道 旭川 立正寺第三世勝弘院日悠上人によって開堂され、三十三観世音菩薩像を祀っている。


鷺宮八幡神社

妙観寺から南の妙正寺川を渡った高台の下鷺宮村境に鷺宮八幡神社がある。江戸時代には福蔵院を別当として上鷺宮村と下鷺宮村の鎮守で、第15代応神天皇、その父の第14代仲哀天皇、母の神功皇后を祀っていた。平安時代の1062年 (康平5年) に鎌倉幕府は長引く前九年の役 (1050 ~ 1062年) の打開策として河内源氏二代目棟梁の源頼義を陸奥守及び鎮守府将軍に任命し東国 (東北地方) に出兵させた。小松柵、衣川関、鳥海柵、厨川柵を次々と攻略し阿倍氏を討ち果たして12年間に渡った前九年の役が集結した。この様に東国を安定させ秩序を取り戻した後、源頼義は1063年 (康平6年) に鶴岡八幡宮を建立、1064年 (康平7年) に鎌倉街道に面したこの場所に社殿を建てて、戦勝感謝国家安泰、源氏の隆盛を祈願して八幡神を祀ったのが鷺宮八幡神社の始まりと伝わっている。(更に鎌倉街道を挟んで高松八幡神社 [若宮八幡宮] も同じ由緒で建立されている) 松平定常 (1767 ~ 1833) の四神社関記には阿豆佐美天神と呼んでいたと記されている。いつの頃からか、この神社の森に鷺が住みつき、次第にその数も増していき、土地の人びとは、いつしかこの神社を 「鷺の宮」 また 「驚の森」 などと呼ぶようになり、神社の氏子の住む地域も 「驚の宮」 と呼ばれる様にり、これが地名の起因になったという。1645年 (正保2年) に今川直房の所領となった折に八幡神社と改称し、地元村民からは鷺宮八幡、鷺宮大明神と称されていた。 1648年 (慶安2年) には、この地を統治していた今川家の功績により、江戸幕府より社地7石余の御朱印状を拝領している。中野区内では、御朱印を付与された唯一の神社だった。


鳥居、狛犬、手水舎

旧鎌倉道から石門を入ると、明神鳥居がある。以前は1780年 (安永9年) に建てられた石製明神鳥居で中野区内では最古の鳥居だったが、残念ながら2011年の東日本大震災で破損し、鉄合金製に改築されている。鳥居を潜ると社殿への参道両脇に狛犬が2対置かれている。手前の狛犬は1888年 (明治21年)、その先の狛犬は1830年 (天保元年) に奉納されたもの。狛犬の後方には龍の口から水が流れ出す様に作られた手水舎がある。この明神鳥居は一の鳥居で、以前はこの先に二の鳥居 (1928年 昭和3年造) があったのだが、取り払われている。


参集殿、六社さま (末社)

参道左側には明治100年記念事業として、1967年(昭和42年) に新築された参集殿、その奥には 同年に改築された「六社さま」 と呼ばれている祠があり、五穀を始め食物全般の神様・商売繁昌・家内安全の神の宇迦之御魂神を祀る稲荷神社、占いの神の櫛真知命を祀る御嶽神社、須佐之男命を祀る須賀神社、医薬、農業、酒造りの神の少彦名神を祀る粟島神社、大己貴命 (大国主神) を祀る疱瘡神社、そして菅原道真を祀る北野天満神社の六社を合祀している。


力石

六社さまの前には、かつては村の若者たちが力くらべを行った力石が13個並べられている。神社の祭の際に、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげて、その力を競い合い、持ち上げた石の重量や姓名を刻んで奉納していた。一番重い力石は90貫 (約340kg) もあり、最も軽いものでも35貫 (約132kg) だそうだ。


神楽殿

参道反対側、手水舎奥には1967年(昭和42年) に改修された神楽殿がある。

毎年8月の例祭日には、中野区無形民俗文化財の鷺宮囃子が奉納されている。鷺宮囃子は、江戸を中心に広がった祭囃子の中で、多摩川流域から神奈川県にかけて広がった相模流に属し、江戸時代末期に阿佐ヶ谷を経由してこの地に伝わった。大太鼓、しめ太 (2人)、笛、鉦の五人一組で演じられる。鷺宮囃子は、鷺宮囃子保存会により、現在も伝統が引き継がれている。


社殿

更に参道を進むと、1988年 (昭和63年) 奉納の石燈籠が置かれ、もう一対狛犬が1975年(昭和50年) の天皇陛下御在位50年記念として奉納され、その後ろには朱塗りの木製燈籠がある。その先に社殿が建てられている。

戦後、宗教法人法により1950年 (昭和25年) に国有境内地の譲与を受け、社殿を1960年(昭和35年) に本殿、幣殿、拝殿の構成で改築され、その後、1981年 (昭和56年) に本殿と幣殿の屋根葺替え改修を行い、更に1988年 (昭和63年) の天皇陛下御在位60年記念事業として、社殿を改修し現在に至っている。

社殿内には明治時代に奉納された絵馬が保管されている。


石碑群

神楽殿の向かって左側に幾つかの石碑が建てられている。

向かって左の石碑は1888年 (明治21年) に建てられ、碑文は漢文もどきで、内容は社殿が老朽化し、1887年 (明治20年)に改築した事が刻まれている。その隣にも社殿改築記念碑が建てられている。1960年(昭和35年) に社殿を改築した時のものだろう。

左側には篠正嗣先生顕彰碑 (1993年 平成5年造) が置かれ、三代目宮司の篠正嗣 (明治42年生) が戦後に国有地であった境内地の払い下げに尽力し、社殿を造営した功績を讃えている。

更に奥にも二つの石碑が建っている。左側は1967年(昭和42年) の明治百年記念事業として、参集殿新築、神楽殿改築、石塀設置、稲荷神社と御嶽神社の合祀が行われた事の記念碑になる。

その隣には1906年 (明治39年) に造られた東郷平八郎の揮毫による日露戦役紀念碑が置かれている。今まで巡ってきた多くの神社でこのような日清日露戦役の紀念碑を見かけた。明治維新後の急速な発展で、列強の仲間入りをするまでになった当時の日本国民の高揚感が垣間見える史跡だ。

左側には明治の神仏分離後に初代宮司となった篠正元氏の顕彰碑としての篠正元翁碑 (1920年 大正9年造) で、正元氏の生い立ちや1872年 (明治5年) に宮司に就任後、寺子屋の庭泉塾 (後に双鷺小学校、鷺宮小学校となる) を開き、地元の子弟を教育した功績が刻まれている。

この篠家は江戸時代に井草村 (杉並区)、上鷺宮村、中村 (練馬区) を領有していた高家今川氏から嫁を取るなどの上鷺宮村の名家で、上鷺宮村の名主 (4家の交代制) も勤めていた。先に訪れた神社などでは寄進者として篠姓の名が幾つも刻まれていた。


御嶽神社、稲荷神社

石碑群の奥には二つの祠が建てられている。向かって右側には1965年 (昭和40年)に現在の鷺ノ宮駅の少し北側 (鷺宮3-30 旧小字 篭原) にあった500年もの歴史のある櫛眞知命を祀った御嶽神社をこの鷺宮八幡神社に合祀) している。御嶽神社が篭原にあった時代には富士浅間神社が合祀されていたそうだ。現在では無限の力を持った国常立神 (くにのとこたちのかみ)、大己貴神 (おおなむちのかみ、大国主命)、太占を司る櫛眞知命 (くしまちのみこと)、大国主命とともに国作りを成し遂げた少彦名命 (すくなひこなのみこと) を祀っている。祠の前には1778年 (安永7年) に大野氏により奉納された手水鉢 (写真右下) が残っている。

左側には下鷺宮村にあった下鷺宮一円の崇敬社で、宇迦御魂命を祀った稲荷神社を1967年 (昭和42年) に合祀している。江戸時代には、下鷺宮村の新養真言宗豊山派の仙蔵院が別当をつとめていたが、明治維新後廃されました。言い伝えでは、1713年 (正徳3年) に、下鷺宮村の万吉が京都伏見稲荷大明神を勧請し、社号万吉稲荷といわれていたという。


白鷺山正幡寺福藏院 (真言宗豊山派)

鷺宮八幡神社の隣には御府内八十八ヶ所霊場14番札所の真言宗豊山派の白鷺山正幡寺福藏院がある。福藏院は1521年 (大永元年) に頼珍によって開山され、旧野方村、上鷺宮、下鷺宮の農民たちの菩提寺だった。明治時代の神仏分離令までは鷺宮八幡神社 (鷺宮大明神) の別当寺を務めていた。第九世鏡薫 (1649年 慶安2年寂) の時代、鷺宮八幡神社が御朱印を賜わった際に中興している。 1762年 (宝暦12年) に鷺宮八幡神社と共に火災に遭い、本堂等堂宇すべてが灰塵に帰している。1874年 (明治7年) には地福院と天福寺を吸収合併している。


参道、地蔵菩薩立像 (49番,50番)、馬頭観音 (43番)

鷺宮八幡神社から道を東に行くと福藏院への入口があり、新しく作られたのだろう土と瓦を交互に積み重ねた練塀の築地塀 (ついじべい) に囲まれた参道が山門に向けて伸びている。練塀は瓦で洒落たデザインになっている。参道の右手には二体の地蔵菩薩立像と弘法大師と刻まれた石塔 (写真 右上) が置かれている。向かって左の丸彫り地蔵菩薩立像 (49番 左上) は1752年 (宝暦2年) に上鷺宮村の念仏講中15人により造立されたものを移設している。左側の丸彫りの小さな地蔵菩薩立像 (50番 中上) は1901年 (明治34年) に念仏講中により造立され、ここに移設され、子授地蔵菩薩と刻まれている。参道を進むと左側には1834年 (天保5年) に現在の上鷺宮1丁目の北端に造立された馬頭観音坐像 (43番 左下、中下) が移設され、台石には 「天下泰平 国土安穏」 と刻まれている。道標も兼ねており、「東江戸道、三市所沢道五里、南高井戸道二里、北練馬道一里」 とある。


山門

参道を進むと山門があり、境内に入る。


十三仏 (42番)、六道地蔵菩薩

山門を入った右手には死後の忌日を司る十三仏 (42番) が冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願って並んでいる。右から不動明王 (初七日)、釈迦如来 (二七日)、文殊菩薩 (三七日)、普賢菩薩 (四七日)、地蔵菩薩 (五七日)、弥勒菩薩 (六七日)、薬師如来 (七七日)、観世音菩薩 (百か日)、勢至菩薩 (一周忌)、阿弥陀如来 (三回忌)、阿閤如来 (七回忌)、大日如来 (十三回忌)、虚空像菩薩 (三十三回忌) が並べられている。。

十三仏は室町時代以降、民間で広く信仰され、ここに置かれている十三仏の八体は、1666年 (寛文6年) 造立の大日如来像を最古として、1685年 (貞享2年) の普賢菩薩像に至る19年間に造立されたと刻まれている。残りの5体は破損したとみえ、1796年 (寛政8年) に真言講中27人によって再建されている。

十三仏の向かいには六道地蔵菩薩も置かれている。比較的新しいもの。向かって右から、放光王地蔵菩薩、豫天賀地蔵菩薩、金剛幢地蔵菩薩、金剛悲地蔵菩薩、金剛宝地蔵菩薩、金剛願地蔵菩薩とある。


無縁塔

十三仏の背後は墓地になっており、丁度、十三仏の裏側には無縁塔が置かれ、永代供養と刻まれた石塔を中心に石塔、石仏が並んでいる。その傍には特に大切にされている様な3体の石仏も置かれている。


子育地蔵菩薩 (51番)、修業大師像

参道に戻り、本堂に向かって進むと、参道脇に1944年 (昭和19年) に造立された綺麗な顔立ちの子育地蔵菩薩立像と弘法大師が、高野山を開く前や真言密教を広めるために日本各地を巡錫した際の若き日の姿を表した修業大師立像が置かれている。


忠霊碑

本堂前は広い広場になっており、広場を囲んで、幾つかの石仏、石塔が置かれている。

向かって左側には大東亜戦争で戦没者の英霊を慰霊及び顕彰している忠霊碑が1966年 (昭和41年) に建立さている。石碑裏面には地域毎の戦没者氏名が刻まれている。その隣には成田山と刻まれた石塔、そして五輪塔も置かれている。


庚申塔 (43番)

本堂前広場の西側には唐破風笠付角柱の庚申塔 (43番) が置かれている。1682年 (天和2年) に造立されたもので石塔中央に 「奉供養庚申二世安樂」 と刻まれ、三猿が浮き彫りされている。

庚申塔の奥ので樹々の合間に丸彫り坐像の石仏もあったが、詳細については見つからず。また、本堂の前には十三重石塔も置かれている。


鐘楼堂

庚申塔脇の階段を登ると墓地になり、そこには1963年 (昭和38年) に完成した鐘楼堂があり、1749年 (寛延2年) に鋳造された鐘が吊るされている。


本堂

広場正面に本堂が建てられている。現在の本堂は隣接している庫裏 (写真右下) と共に1960年 (昭和35年) に落慶したもので、その後に設置されたのだろう屋根にソーラーパネルが置かれている。ソーラーパネルが設置されている本堂は初めてだが、もう少し屋根全体を覆う様であればあまり違和感は無いのにと思えた。

本堂内には本尊として運慶の作と伝わっている不動明王が祀られているのだが、公開されていないようで写真も見つからなかった。(智證大師の作との説もある) 福蔵院には幾つかの中野区指定文化財があり、その写真が資料に掲載されていた。

  • 仏涅槃図 (写真 下): 江戸時代中期の作と考えられる釈迦の釈迦入滅を描いた仏涅槃図には、涅槃図の諸作例に共通するモチーフで、中央に沙羅双樹の間の寝台に横たわる釈迦、その周囲に涅槃を悲しむ菩薩や天、仏弟子、俗人、下方には多数の 鳥獣、右上方には釈迦の母摩耶夫人が侍者とともに雲に乗 って飛来する姿が描かれている。
  • 十三仏図 (右上): 参道脇には十三仏の石仏が置かれていたが、その十三仏の図が保管されている。初七日から三十三回忌までの十三回にわたる死者の 追善供養に際し、各供養の本尊となる十三の仏のことで、十王 (冥土を主宰する十人の裁判官)の本地仏である不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音、勢至、阿弥陀の十尊に、阿閦、大 日、虚空蔵を加えたもの。曼荼羅風に各仏の坐像が配列されている。
  • 十一面観音及両脇侍立像: 本堂には明治七年に天福寺とともに併合され地福院の旧蔵と伝えられる十一面観音 (左上) とその脇侍の雨宝童子と難陀龍王 (中上) が安置されている。十一面観音は右手に錫杖を持たせ、その左右に雨宝童子と難陀龍王を配した長谷寺式になっている。制作時期 は16世紀頃とみられる。鎌倉時代に活躍した仏師快慶の作風を模したようなところがあり、 快慶が弟子の行快らをひきいて1219年 (建保7年) に再興した長谷寺像を模刻した可能性がある。


北向き地蔵 (52番)

福蔵院の墓地は山門の道の南側にもある。この道はかつての上鷺宮村と下鷺宮村の境界なので、この墓地は下鷺宮村内になる。墓地入口に祠が建てられ、その中に丸彫りの地蔵菩薩立像 (53番 造立年不詳) が置かれ、村民からは北向き地蔵と呼ばれていた。昔から、北を向いた地蔵はご利益があると信じられていた。また、こぶとり地蔵とも呼ばれていたそうだが、その由来についてはわからず。


北門、ルンビニー庭園

福蔵院へは山門のある参道とは別に、鷺ノ宮駅から妙正寺川沿いの道があり、庫裏奥の北門に通じている。道沿いに道標が残っている。「左 福蔵◼️ 向 三宝◼️」 と刻まれている。「三宝◼️」 は練馬の三宝寺の事だろうか?江戸時代の道はもっと西側にあったので、この道標は移設されたのかもしれない。北口に向かっての道の途中には福蔵院のルンビニー庭園が造られている。釈迦生誕の地のルンビニー花園に因んでの名で、庭園内には釈迦の誕生仏が置かれている。


垢離不動尊 (71番、72番)

北口への道沿いに「垢離不動尊」と書かれた堂宇が置かれている。堂宇内には二つの石塔があり、福蔵院の本尊でもある不動明王が浮き彫りされている。向かって右は1813年 (文化10年) に造立され、右側は造立年不詳で敷石供養塔と刻まれている。詳細は見つからなかったが、垢離 (こり) とあるので、寺に入る前にこの場所で身を清めたのだろう。地元で 「イボ取り地蔵」 と呼ばれており、小石を供えて病気の平癒の願をかけ、治ったら団子を供えていたそうだ。


交通厄除地蔵尊 (54番)、妙正寺川改修記念碑

福蔵院北口への道が始まる都道427号線 (瀬田貫井線) 沿いに公園がある。この公園内には、1983年 (昭和58年) に当時の福蔵院住職が発起人となり、地域内の1470人の寄付を集めて、交通事故死亡者の御冥福を祈る日本で最初の交通厄除地蔵堂を建立し、(昭和12年) に造立された丸彫り光背の地蔵菩薩立像を安置している。

また、公園の奥には立派な妙正寺川改修記念碑が建てられている。

妙正寺川は江戸時代から神田川補助用水として使われ、沿岸一帯の水田の灌漑用水でもあり、住民からは愛稱大川と呼ばれていた。明治初期に水源地名の妙法寺川と命名されている。

昭和の初期に西武鉄道が開通して以来、この地は急速に発展して、田畑は市街化と変わり、d道路が整備され、多くの建造物が増えていき遊水地対がなくなり、戦後は降雨の度びに激しく氾濫し、沿岸住民に浸水の被害を与えていた。その被害が甚大で地域住民は何度も改修促進の訴えの運動を起こし、ようやく1968年 (昭和43年) に工事が開始され、工事進捗は遅れ、1970年 (昭和45年) にようやく完成している。地域住民の喜びを表して1972年 (昭和47年) にこの記念碑が建立された。


これで旧上鷺宮村の史跡巡りは終了。ここより南側は旧下鷺宮村になり、明日巡る予定。


参考文献

  • 中野区史 上巻 (1943 中野区)
  • 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
  • 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
  • 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
  • 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
  • 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
  • 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
  • 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
  • たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
  • 中野の神社をたずねて 南部編 (2010 中野区立中央図書館)
  • 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
  • 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
  • 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
  • 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
  • なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
  • なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)

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