中野区 03 (29/08/25) 旧野方村 上沼袋村

上沼袋村

小字 北原

  • 大和町八幡神社
    • 一の鳥居、狛犬
    • 魚魂碑
    • 忠魂碑、日露戦役記念碑、日露戦役三十周年記念碑、紀元二千六百年記念碑
    • 狛犬、手水舎
    • 社殿
    • むすび稲荷神社
  • 育英 (こそだて) 地蔵尊 (47番、48番)
  • 厄除地蔵堂、不動明王、庚申塔 (39番、40番)

小字 西原

  • 泉光山蓮華寺 (日蓮宗)
    • 山門、題目塔
    • 参道
    • 地蔵菩薩立像、無縁塔
    • 山荘之碑
    • 出井
    • 有縁殿
    • 本堂
    • 客殿、庫裡
    • 奪衣婆石像 (だつえば)
    • 墓地、寂光殿、無縁塚、増山氏墓所


今日は沼袋村を巡る。沼袋村は上沼袋村と下沼袋村に分かれている。まずは上沼袋村から巡る。


上沼袋村

室町時代には上沼袋村と下沼袋村は武蔵国多東群中野郷沼袋村として一つの村だったが、江戸時代になり、沼袋村は上沼袋村と下沼袋村に分割されているが、それぞれの村の領域は下記の図の様に明治時代以降の領域とは異なっている。江戸時代には新田開発によって上沼袋村から分出した枝郷として大場村が存在していた。この大場は室町時代には存在していた。明治初期の大場村には36世帯あった。1889年 (明治22年) に野方村の一部になった時に村長が大場村から出た事で、少々一悶着あり、旧大場村が大字上沼袋となりそれ以外の旧上沼袋村は下沼袋村に吸収されてることで決着している。

1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に大字上沼袋は沼袋南二丁目、沼袋南三丁目に分割され、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧上沼袋村に相当する地域は大和町一丁目 ~ 四丁目となっている。この大和町は「元から住む住民と新たに転入してきた住民とが大きな和をもって発展する町」ということで命名されたそうだ。

江戸時代から明治時代の地図を見ると、上沼袋村の北部には民家は見られず、南部に民家が点在しているだけだった。1923年 (大正12年) の関東大震災以降、東京からの移住者が激増し、昭和に入って南部全域に住宅街が広がっている。戦前には住宅地が北部に拡大し、1960年代には公共施設、寺社を除きほぼ全域が住宅で埋め尽くされている。


旧上沼袋村の史跡、スポット



小字 北原

妙正寺川を村境として、その南に存在していたのが旧小字 北原で、東は下沼袋村に隣接していた。明治時代までは人はほとんど住んでおらず原野か部分的に農地だった。その事から村の北の荒野という意味で北原と呼ばれたのだろう。小字 北原は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字北原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北原は小字の川の北、下ノ谷、西原と共に沼袋南三丁目となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 北原に相当する地域は大和町二丁目になっている。


大和町八幡神社

小字 北原の南の高台に八幡神社がある。ほぼ上沼袋村の中心にあたる。この八幡神社は永承年間 (1046~1052年) に八幡太郎と称された源義家が奥州征伐に向かう途中に、この場所に陣を置き、石清水八幡宮の遥拝所を設け、勝利を祈願した。その事から、村人が1056年 (天喜4年) に大場村の鎮守として、八幡社が創建されたと伝わっている。その後も新田義貞、太田道灌などに手厚く遇されたという。


一の鳥居、狛犬

鎌倉道だったとも言われる古道に八幡神社の参道入口があり、明治神形式の一の鳥居が建っている。この鳥居は1933年 (昭和8年) に建てられていた石の鳥居を2000年に入った頃に建て替えられた新しいもの。鳥居を潜ると1939年 (昭和14年) に奉納された狛犬が置かれている。

参道を進むともう一対の狛犬が鎮座している。こちらは1934年 (昭和9年) に奉納されたもの。参道沿いには幾つもの石彫のモニュメントが置かれている。


魚魂碑

参道沿い魚魂碑が建てられている。やまと釣魚会の釣り愛好家有志が奉納したもの。釣った魚の供養塔なのだろう。


忠魂碑、日露戦役記念碑、日露戦役三十周年記念碑、紀元二千六百年記念碑

参道から境内に入る所に1908年 (明治41年) に日露戦役 (1904年2月 ~ 1905年9月) で戦死した地元出身兵士の慰霊碑が置かれ、乃木希典書で忠魂碑 (写真 右上) と刻まれている。参道反対側には1910年 (明治43年) に日露戦役記念碑 (左下) が建立され、裏面には出征兵士氏名が刻印されている。その傍には1935年 (昭和10年) に造られた日露戦役三十周年記念碑 (中下) も置かれ、帝国軍人会中野区北部分会第五班の大和町の有志が寄付を行い境内を改修したと刻まれている。更に1940年 (昭和15年) に神武天皇即位紀元2600年を祝った紀元二千六百年記念碑 (右下) も置かれている。これら日清・日露戦争に関わる碑や紀元2600年碑は多くの神社で見られる。列強の仲間入りを果たした勇しい時代とそれに伴い国家神道が軍国主義と結びついていった時代を表している。


狛犬、手水舎

境内に入る所には入った所に1830年 (文政13年) に造られた狛犬が置かれている。この狛犬は丁髷 (ちょんまげ) をした珍しいもの。境内に入ると手水舎がある。ここにもコミカルな石像が置かれ、よく見ると神社版小便小僧とでもいうか、水が出る仕組みになっている。


社殿

現在の社殿は木造権現造り 1928年 (昭和3年) に造営されたもの。


むすび稲荷神社

境内の西側には1935年 (昭和9年) 建立の石の鳥居に続いて朱塗りの鳥居が並ぶ稲荷神社がある。宇迦御魂命を祀っている。この神社は江戸時代にここから少し西の大和北公園の辺りにあった稲荷森 (とうかのもり) に京都伏見稲荷神社の分霊を迎えて村人が五穀豊穣を祈念したのが始まりという。「むすび」 と呼ばれている由来については分からなかったが、縁結びからか、農耕時代に「実をむすぶ」 という事で豊作を願って命名したのだろうか?


育英 (こそだて) 地蔵尊 (47番、48番)

大和町鎮守の八幡神社の参道入口側の東西に伸びる古道 (現在の八幡通り) 沿いに堂宇が二つ置かれている。堂宇は八幡神社氏子総代会の寄進で1953年 (昭和28 年) に造られたもの。

向かって右側の堂宇には大小7体の地蔵菩薩が祀られている。中央の大きい丸彫の地蔵は育英 (こそだて) 地蔵尊 (47番) と呼ばれ、1746年 (延享3年) に念仏講中23人により造立されている。この育英地蔵尊は元々は四つ辻に建てられており、その台石は、道しるべになっている。台座側面に 「東 たかだミち、北さきのみやミち、南なかのミち、西 あさがやミち」 と刻まれている。育英地蔵と呼ばれるようになった由来は

子どもが大病になり心を痛ためていたところ、一夜、夢の中に地蔵が現われ、祈願すれば治ると告げられた。そこで、村にあったこの地蔵に毎日参詣し、一心に祈願したところ、奇しくも息子の大病が全治したといわれる。以後、育英地蔵尊として村人からも信仰されるようになった。

という.

育英地蔵に向かって左から右へ、舟形光背型石塔に浮き彫りされた地蔵菩薩立像 (48番)は、資料によれば子育て地蔵と呼ばれる以前、第五代将軍・徳川綱吉の時代、1685年 (貞享2年) この地で没した旅僧を供養して建てられたと伝わっている。1693年 (元禄6年) 造立の舟形光背型石塔に浮き彫りされた地蔵菩薩立像、宝暦年間 (1751 ~ 1764年) に造られた角柱の石橋供養塔になる。右側の3つの地蔵菩薩像についての情報は見つからなかった。


厄除地蔵堂、不動明王、庚申塔 (39番、40番)

育英地蔵尊の堂宇の隣には厄除不動堂が置かれている。堂宇内には3基の石仏が鎮座している。中心に置かれているのは造立年不詳の不動明王像で、その両脇の石仏は庚申塔になる。向かって右側は1693年 (元禄6年) に武州多摩郡大場村の11人により造立された唐破風笠付角柱石塔の庚申塔 (39番) だが、涎掛けで覆われて全体が見えない。涎掛けをめくって見ると上部に梵字種字のहूं (ウン) が刻まれ、その両側に日月が浮き彫りされ、中央に合掌六臂の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。

左側は1763年 (宝暦13年) に大場講中22人により造立された唐破風笠付角柱型の庚申塔 (40番) も涎掛けをめくって見ると上部に日月、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、足元両側に二鶏、その下に三猿が浮き彫りされている。



小字 西原

小字 北原の西隣が小字 西原で、北は小字 北ノ谷、南は小字 西通、 西は阿佐ヶ谷村の小字 東原に隣接していた。明治時代までは集落が小字 西原に中央部に二ヶ所程あり、それ以外は荒地、農地だった。その事から上沼袋村の東の荒地を表す 「西原」 と呼ばれたのだろう。小字 西原は1889年 (明治22年) に野方村が誕生した際に、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字西原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 西原は小字の川の北、下ノ谷、北原と共に沼袋南三丁目となり、更に、1965年 (昭和40年) の町名改正で、旧小字 北原に相当する地域は大和町二丁目と大和町四丁目になっている。


泉光山蓮華寺 (日蓮宗)

小字 西原と小字 西通の境界線にあたる早稲田通り (都道25号線) を西に進んで、道を北に入った所、上沼袋村の枝郷の大場村の西の端、明治時代には上沼袋村小字西原に日蓮宗の泉光山蓮華寺がある。山号の泉光山は清らかな水の湧き出る泉の場所にを仏の智慧の輝きの光がを表している。江戸時代、徳川三代将軍家光の側室のお楽の方が家綱 (四代将軍) を懐妊した時に、阿楽の方の母の泉光院増山氏が北山本門寺 (静岡県富士宮市) の14代住職日優上人に安産祈願を依頼し、無事に出産している。増山氏はお楽の方の家綱出産の功により、譜代大名に取り立てられている。それ以来、泉光院と阿楽の方は同寺に帰依し厚く信仰していた。この関係で1658年 (万治元年) に泉光院が開基、日優を開山として小石川関口台に蓮華寺が創建され、幕府より寺領20石の御朱印状を拝領している。その後は長島藩主の増山氏の菩提寺となり、1908年 (明治41年) に都市計画により現在の場所に移ってきている。


山門、題目塔

早稲田通り沿いに蓮華寺の朱塗りの山門がある。朱塗りの山門は江戸幕府から特別に許可を得た寺院にしかない。徳川家綱の生母の阿楽の方、その母親の泉光院の菩提寺という事で赤門が許されていたのだろう。この山門は1658年 (万治元年) に建立され、蓮華寺移転の際に移築されたもの。山門前には日蓮宗特有の題目塔が二基置かれている。


参道

山門を入ると参道が伸びている。参道脇には幾つかの燈籠が置かれている。面白いのは埴輪が置かれていた。埴輪の窯元がある茨城県真壁町の檀家の寄進されたものだそうだ。


地蔵菩薩立像、無縁塔

参道を進むと大きく右に曲がり、境内にむかうのだが、その曲がり角に地蔵菩薩立像が置かれている。詳細は不明。

更に参道を進むと、樹々の間に無縁塔も置かれている。


山荘之碑

無縁塔の隣には小さな堂宇がありその中には 「山荘之碑」 と刻まれた石塔が建っている。

この 「山荘」 は茗荷谷にあり、山屋敷、切支丹屋敷とも呼ばれた初代切支丹奉行井上政重 (下総国高岡藩の藩祖、元切支丹であったともいわれている) の下屋敷だった。遠藤周作の作品の 「沈黙 」 にも登場している。江戸幕府の鎖国禁教政策により、1646年 (正保3年) に、井上政重が宗門奉行となった際に、この下屋敷内に牢や番所などを建てて、キリシタン宣教師や信者を禁固収容していた。切支丹屋敷は1724年 (享保9年) に火災で焼失、その後は再建されることもなく放置された。1792年 (寛政4年) の宗門改役の廃止で正式に閉鎖されている。この屋敷所有が大江政晴に移り、山荘で獄死した人びとを悼んでこの石碑が建てられた。その後、石碑は小石川関口台の蓮華寺に移され、更に蓮華寺と共にこの地に移設されている。


出井

境内への寺門の東側には池がある。この湧き水の出る池は江戸時代には存在しており、出井と呼ばれて農業用水としても利用されていた。また、この出井の池はかつて流れていた蓮華寺川の源流で妙正寺川に流れ込んでいたそうだ。蓮華寺川は現在では暗渠化されている。当時この出井は、三十六人衆と呼ばれた村の氏子たちが所有しており、無格社だった八幡神社を村社への格上げを望み、八幡神社の所有資産を増やす為、出井を八幡神社に寄進して1934年 (昭和9年) に正式に村社に昇格している。神社の社格制度は第二次世界大戦後、GHQにより廃止され、1968年 (昭和43年 ) に蓮華寺の依頼により、出井は蓮華寺に譲り渡されている。蓮華寺の出井の池のの中に中之島 (写真 右下) があり、三十六人衆により弁財天が祀られている。


有縁殿

寺門を入ると左手の少し高くなった所に有縁殿が建てられている。一階は開山の日優上人及び歴代上人の位牌を祀り、檀信徒の道場の開山堂、二階は無縁を無くすための道場で永代供養の有縁堂、地下は歴代上人の分骨、墓地にある寂光殿の遺骨や、有縁堂建立に賛同した人及び先祖の遺骨を安置した納骨堂となっている。


本堂

有縁殿の奥に本堂が建てられている。有縁殿と本堂の間二派古そうな燈籠が置かれていた。


客殿、庫裡

墓地への道を挟んで客殿 (写真左下)、庫裡 (右下) が建てられている。


奪衣婆石像 (だつえば)

墓地へ道に奪衣婆石像が置かれている。奪衣婆は、日本の民間信仰で、三途の川のほとりで亡者の衣服を奪い取り、その罪の重さを測る役割を持つ鬼女。時代とともに安産や子育ての神としても信仰されるようになっていった。この奪衣婆石像は元々は雑司ヶ谷の成就山本住寺にあった「本衣婆」(衣姫・三途の川の老婆)で 「お咳のお婆さん」と呼ばれ、子供の百日咳や夜泣き、その他諸々の病気退散の諸願を叶えると云われ、寛政年間の頃より毎年多くの人が参拝に訪れていた。

蓮華寺が目白より現在地への移転の際に、本住寺は合併され、奪衣婆石像も移されて、蓮華寺位牌堂に安置されていた。保存されていたが、2011年 (平成23年) に蓮華寺本堂平成大改修事業の一環で、翌年に屋外に移し参拝が容易にできる様にしている。


墓地、寂光殿、無縁塚、増山氏墓所

寺の裏側は墓地になっており、そこには納骨堂の寂光殿 (左中)、その前に無縁塚 (左下、右上)、開基となった泉光院を始め長島藩増山氏の墓所 (右中、右下) がある。


上沼袋村は大部分が枝郷の旧大場村で新田開発によって誕生した村だったので史跡は多くなかった。



参考文献

  • 中野区史 上巻 (1943 中野区)
  • 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
  • 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
  • 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
  • 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
  • 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
  • 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
  • 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
  • たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
  • 中野の神社をたずねて 北部編 (2010 中野区立中央図書館)
  • 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
  • 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
  • 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
  • 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
  • なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
  • なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)
  • 大和町うるわし 東京都中野区大和町の歴史 (2015 大和地域歴史編纂委員会)

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