Ride in Kyushu Day 58 (11/2/19) Shuseikan 集成館 (not completed)

Shuseikan 集成館

Nariakira Shimadzu & Shuseikan Modernization Project 島津斉彬と集成館事業 

集成館事業は当時西欧列国が清でアヘン戦争を起こし、清の領土の割譲を強要した事に、次の目標が日本になるのではと危機感を抱いた第11代藩主島津斉彬が始めた薩摩工業化の事業だ。曽祖父第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもっていたが、この洋学には兎に角、金がかかる。重豪は藩の財政を顧みず、金をこの洋学に湯水の如くつぎ込んだ、その結果藩の財政は逼迫。これを斉彬の父第10代藩主斉興は家老・調所広郷(笑左衛門)を起用し財政を立て直した。斉彬に対しては重豪の二の舞になるのではとの危惧で、次の藩主候補で薩摩藩を二分する抗争 お由羅騒動まで起こす事になった。斉彬は幕臣を味方に付けこの抗争に勝ち、藩主となった。早々に開始したのがこの集成館事業だ。この事業は驚くほど、多くの分野に及んでおり、その一部が跡地として紹介されている。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開。軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野も含んでいるのが、印象的だ。鹿児島から、霧島に向かう道にいくつかの場所があるので立ち寄る。

集成館事業のうち、製鉄・造船に関わる機械工場、反射炉跡など3資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されている。

Former Spinning Mill & Foreign Engeneer’s Residence 旧鹿児島紡績所跡と旧鹿児島紡績所技師館(鹿児島異人館)

斉彬は大型帆船建造の一環としてその帆布をそれまで他藩から購入していたものを自前で製造しようとして事業を進めた。斉彬亡き後も、薩英戦争で英国との軍事力の差に愕然とし、英国から技術者を招き、この地で蒸気機関を利用した紡績工場を作った。薩摩人の凄いところは、僅か一年で紡績技術を習得した事。もう一つは、お由羅騒動で斉彬に藩主の座を諦めた久光が異母兄の斉彬の事業を継続した事だ。久光は常に兄と比較されながらも、斉彬を認め継続したことは評価すべきことと思う。

Former Machinary Factory 旧集成館機械工場(尚古集成館)

斉彬が築いた集成館は薩英戦争で焼失したが、島津忠義/久光によって復興再建。蒸気機関により、洋式機械による金属加工、艦船・蒸気機関の修理、部品加工が行われた。現在は島津家の歴史・文化と集成館事業の博物館「尚古集成館」となっている。島津家の歴史やこの集成館事業の展示があった。内部は撮影禁止なので外観のみ写真におさめた。この集成館や仙巌園は島津興業が経営している。未だ島津家の影響は大きい様だ。

Former Reverberatory Furnace 旧集成館反射炉跡(仙巌園内)

写真左が現在の跡地で、右側がVRで復元したもの。この反射炉をはじめとして多くの工業施設が、島津家の庭園であった仙巌園に建造された。斉彬の意図は何だったのだろう。普通は庭園内に作ろうとする選択肢は出ないのだが、常に自分の目の届くところにこのプロジェクトをおいておきたかったのではないだろうか。仙巌園ではリラックスして、色々なアイデアが出てきたのだろう。それをすぐやらせて検証するには近いところそれも歩いて行けるところが良かったのだと思う。自分ならそうするだろう。そう考えると、この集成館事業は斉彬にとって日々の生活そのものだったと思う。何となく、斉彬の人となりが見えてくる様だ。

寺山炭窯跡/関吉の疎水溝

この反射炉に必要な熱源には石炭が取れないので寺山で焼いた木炭を使い (寺山炭窯跡)、水は関吉から仙巌園まで8キロに及ぶ「関吉の疎水溝」をつくった。機械工場で機械部品などを製造するための動力として水車を使うためだった。これも薩摩一連の世界遺産になっている。この二つは山中のあり、訪問はしなかったが、サイトからの写真を載せておく。
この庭園の山の中に関吉からの疎水溝あとが残っている。

Former Residence of Nakahara Naosuke 中原猶介宅跡

島津斉彬を始めとして薩摩藩の強みは人材の育成を行う風土が育っていた事がある。この反射炉が短期間で成功したのも人が育っていたからだ。射炉事業に貢献した中原猶介 (なかはら なおすけ)宅跡が市内にあった。18歳にして藩命により長崎でオランダ人から蘭学を習得。帰国後、集成館事業や薩摩藩水軍増兵、軍艦建造、反射炉建設の職にあたり、近代海軍の礎を築いた。薩英戦争に備えて日本初の機械水雷を開発、薩摩切子の紅色薩摩切子の製作に成功など、鹿児島県や日本の近代技術の面で大きな功績を残した。越後長岡城の戦いで、河井継之助と対陣し、敵弾を右足に受け、37年の生涯を閉じた。

Shimadzu Satsuma Kiriko Gallery Shop 磯工芸館

集成館プロジェクトは軍事のための工業だけでなく、様々なものも製造していた。薩摩切子がその一つだ、海外との貿易の主力製品として開発し、職人を養成していた。集成館跡地に薩摩切子のショップがある。これも島津興行の経営。旧吉野植林所を移設した建物に磯工芸という店がある。薩摩切子は斉彬が外貨獲得のため、昔からあったガラス細工を発展させ、海外の技法を取り入れ、薩摩独自の手法も入れて、独特のガラス製品となり、海外から人気があったらしい。ただ、この工場は西南戦争の後は、使われなくなって、一時は薩摩切子は途絶えていた。それを100年後の1985年に復活させたもの。店には多くの作品が展示販売されている。かなりの値段だが、素晴らしいものが多い。お金に余裕があれば欲しいものだ。
余談だが、後日霧島から都城に行く途中に島津家の寒天工場跡の標識も見つけた。このように島津家主導の産業施設が鹿児島には多くある。今なお島津健在!
VRで当時の工場群の様子が再現されていた。この中に薩摩切子の工場もある。
磯工芸館の隣にはスターバックスがあった。明治時代の旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所を移設している。これも島津鉱業の持ち物、テナント料は高いのだろう。

Sengan-en 仙巌園

斉彬に始まる集成館事業の舞台となった島津家の庭園。1658年(万治元年)に第19代当主の島津光久によって造園。借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴しい庭園。
斉彬がガス管をつないで点火させ灯火として用いた石灯籠が残っている。日本のガス灯発祥の地。
御殿が公開されている。島津らしく渋い作りになっている。
庭園は山の麓にあるのだが重豪の希望で山に茶屋を作った。下の茶屋 (観水舎) と上の茶屋 (集仙台) の二つがある。山を登っていかねばならないが、あまり登る物好きはいない様で、誰にもすれ違わなかった。二つの茶屋からは桜島が見える。茶屋自体は残っていないのだが、茶屋からは絶妙の角度で桜島が見えたことだろう。薩摩人にとって、桜島は特別な存在であることが改めて分かる。

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