Ride in Kyushu Day 38 (22/1/19) Part 1 Kikuchi 菊池
Shisui Confucius Park 泗水孔子公園
Kikuchi Castle Ruins 鞠智城跡
Various places of Kikuchi Family 菊池一族所縁の地
Battle Field of Seinan Civil War 西南戦争 菊池の戦い (Part 2)
今日は体調が戻ったように思えるので、訪問予定にしていた菊池市に行こうと思う。菊池市には、古代城、地方豪族であった菊池氏の隈府城跡、それと今辿っている西南戦争の戦いのあった所。どれだけ廻れるかわからないが、時間確保の為、朝早く出発。
I think I am recovered from bad condition by cold last three days. Then, today is the long ride day for Kikuchi City, where several interesting places will be found such as Kikuchi Ancient Castle Ruins constructed 1400 years ago, several places relating to Kikuchi Family, former local governers 1000 years ago, and Battle field of Seinan Civil War currently I am chasing.
泗水孔子公園 Shisui Confucius Park
菊池市街地へあと7キロのところの合志(こうし)に孔子公園の看板を見かけた。何なのかあまり気にかけていなかったが、橋には中国風の獅子の像、遠くに極彩色のお堂が見える。興味が湧いてきたので、寄ってみる。
道の駅 泗水にある。結構立派な孔子廟などがある。昔からあったものでは無いようだ。なぜこんな所に孔子廟があり、名前も泗水町で孔子所縁のものだ。調べると、以前はこの地は合志群(ごうしぐん)だった。明治時代に全国の市町村の名前を決める条例が出され、その時の村長が大の孔子ファンで「ごうし」を「こうし」と読ませ、町名を孔子に因んで泗水町としたという。馬鹿馬鹿しいと思うか、粋と思うか、人それぞれだろう。案内場にはここで毎年行われている孔子祭りの様子が展示してあった。100年以上も前の変わった村長の思いが受け継がれ今は孔子廟も建てられて、地域のひとは少なくとも孔子の代表的な教えは知っているだろう。公園には孔子の教えがいくつも紹介されている。当時の村長は儒教によって村営をしようとしていたのかも知れない。この後、この地の豪族であった菊池氏所縁のちqを訪れるのだが、その中で、孔子廟跡があった。菊池氏は領土の統制に孔子の儒教を柱にしたという。ひょっとして、その頃から、地域住民は孔子の教えに親しんでいた事が、このような町おこしの基盤になっているのかも知れない。単なる洒落でのことではなく、村長の信念の結果だと考えよう。その方が感動的だろう。
菊地に入る。熊本県の特徴かもしれないが、熊本から坂を登り、菊地に入る下りになる。山鹿も同じような盆地形態に街があった。
菊池氏所縁の地
地図を見ると菊地一族の史跡が多くある。ただ菊地氏一族の墓が多い。菊地氏はこの地方を鎌倉時代から戦国時代にかけて統治していた豪族。菊地氏の始まりは諸説あるが、太宰府の荘園関連で赴任して来た藤原則隆が始まりのようである。その後、この地域に定住し、初代菊地則隆を名乗った。菊池には藤原則隆が居城とした菊之池城跡があり、そこから遠くなところに則隆の墓もある。墓がある所に菊池の池を発掘復元していた。ここにも館があったらしい。
地方豪族という事、平安時代から鎌倉時代には平家と源氏の間をうまく渡って来た。この事が裏目に出て、源頼朝からはその忠誠心に疑いを持たれ、待遇はそれほど良くなかった。時代が流れて、南北朝では、後醍醐天皇の南朝側に組する。この時代は、足利尊氏、足利直冬(尊氏の子、直義の養子)、南朝後醍醐天皇の三つ巴状態であったが、菊地氏は南朝側にいた。足利氏の室町時代にはその政権下に入ったが、足利氏に忠実であった訳ではなく、限られた領土 (天草・玉名・山本・山鹿・菊池・飽田・託磨・益城各郡)で独立した統治を行なっていた。その後は、一族の内紛で衰退していく。最後は22代菊地能運に嫡子が無いまま家系が途絶えた。ちょうど戦国時代が始まる前であった。ここでも下克上が進み戦国時代に突入したが、菊池氏の遺領は菊池三家老と言われた赤星氏・城氏・隈部氏らが領するところとなった。
菊地市で菊地の銅像が3つあった。隈府城跡にある菊池神社、菊池公園、そして菊地市役所前。
菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)を祀っている菊池神社。銅像は12代の武時。
菊地公園の第15代菊池武光の銅像。この武光がどうやら一番人気のようである。南北朝時代に、南朝・後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍として九州に下向し、途中伊予国に滞在した懐良(かねよし)親王は、1343年菊池武光に迎えられ隈府城に入城した。その後、共に戦い大宰府を攻略し、以後、九州における公的機関の征西府を太宰府に置いた。菊池一族の中で最も領土を拡大した武将。
武光が建立した正観寺に武光の墓がある。亀趺式で作られている。ここには建立以前の寺の礎石が見つかっている。
第21代菊地重朝の像、学問を奨励し孔子堂を建てた。来る途中の合志に影響?
第13代 武重の墓 菊池千本槍という祭りがこの菊池であるのだが、それはこの武重の武功から来ている。
第22代 武運(よしゆき)の墓。21代の重朝 (市役所前の銅像の人物) の嫡子。叔父の謀反で戦闘となり、その時に受けた傷がもとで22才で亡くなり、守護職を菊池肥前守重安の長子の政朝 (政隆) に譲る。ここで菊池氏の正統はここに途絶える。1504年。
このほかに菊池には17代武朝、23代政隆の墓が残っているそうだが、場所がわからず行けなかった。いつ頃に建てられたのかはわからないが、古い物で観光目的に慰霊碑の様なもので無い。地元民が建てたのであろうから、この地方での菊池氏への想いが感じられる。菊池氏のホームページには菊地氏の歴史がかなり詳しく載っている。結構凝っている。動画の歴史漫画もあり、歴代の菊地氏を一人一人紹介している。ここまで詳しい内容のものは初めて見た。菊地市の力も入れ方は只者では無いが、まだまだ菊地はマイナーな武将のままだ。
雑学として、菊地氏を祖先に持つ歴史人物がいる。庶流として西郷氏があり、将軍徳川秀忠生母の西郷局、会津藩家老西郷頼母、薩摩藩下級藩士西郷隆盛は菊池氏の出とされる。西郷隆盛などは龍郷町時代の3年余り「菊池源吾」と名のり、子供達に“菊”の字を付けたことは、自分が「菊池一族」の後裔であることを意識してのことであったといわれている。また、戊辰戦争の会津での戦いでは、同じ菊地を祖先に持つ会津藩家老西郷頼母と西郷隆盛の官軍が戦った。
鞠智城
きくちじょうと読む。もともとこの地は「くくち」と読まれていた。それが「きくち」に変わり、「菊池」と書くようになった。鞠智城は続日本紀で大野城、基肄城と共に現れる。大野城は福岡を訪れた際に二日かけてまわった朝鮮式古代城。鞠智城もほぼ同時期に対新羅防衛のために造られた。ただ太宰府と65キロも離れているので、直接の防衛というよりは、兵站や薩摩方面の隼人対策もあったと推定されている。この大和朝廷はこの時期に北九州から瀬戸内海沿岸、近畿に同じような古代山城を築いていた。香川では高松にある屋島城を訪問した。朝鮮式山城と言われるのだが、城の構築の仕方に特徴があるのだが、厳密には、日本書紀や続日本紀などの歴史書に記載がある城を朝鮮式山城と呼び、記載はないが、おそらく古代山城であろうとされるものは神籠石式山城(こうごいし)と呼ばれている。地図などには時々神籠石が出ている事がある。山城という事で坂道を登り山の中にはいっていく。道路の先に菊池城の建物が見えてきた。
ここも震災の影響で修復作業のところがあり見れないものもあったが、城の構造がわかるように、遊歩道が作られて公園として綺麗に手入れされている。城の散策には約1時間程で大体のところがまわれる。ただ朝鮮式山城は山の自然の構造を利用して作られている。山の尾根には土塁を築き、谷の所には石垣で門を作っている。とにかくアップダウンが多いのが特徴だ。大野城は遊歩道がではなく山道であまり整備されていなかった事と比較すると、かなり充実した設備だ。復元された建物もあり、公園には無料の資料館まである。古代山城跡ではここだけと思う。
散策の途中に何箇所かまだ発掘作業をしている場所があり、作業員の方が仕事をしていた。発掘が終わると型を取り、保存するためにまた埋めてしまうので、発掘現場でその構造が入れるのは幸運だった。まだまだ新しい発見があるのだろう。
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