Ride in Kyushu Day 37 (21/1/19) Battle Field Kichiji Pass 吉次峠の戦い

Battle Field Kichiji Pass 吉次峠の戦い
Battle Field Hantaka Mountain 半高山の戦い
Site of Kunimoto Shinohara’s Death in Action 篠原国幹戦死の地
Former place of Satsuma Tateiwa Battery 薩軍立岩砲台跡
Former place of Kanbun Nanatsumatsu Battery 官軍七ツ松砲台跡
Satsuma Three Brave Doldier’s Grave 薩摩三勇士の墓

今日は西南戦争の激戦地の吉次峠と半高山に行くことにした。ここへは行くかどうか迷っていたが、迷った時は行くべしの方針に沿って行くことにした。
吉次峠へは距離はそれほどで無いのだが、峠ということできつい登り坂がある。病み上がりなので無理をしない程度で行ってみる。先ずは上熊本駅を通過。立派な駅舎が建っている。ここは二本鉄道線が走っているが、これはJRの方。
先日夜走ったサイクリングロードを通って向かう。先日は夜だったので全く景気が見えなかったのだが、今日再度通ってみると、ほとんど田圃の中を走っていた。

Battle Field Kichiji Pass 吉次峠の戦い

サイクリングロードから外れ、吉次峠が見えてきた。写真の左側の一番高いのが三ノ岳、右の山が半高山、そして真ん中の一番低い山と半高山の間に吉次峠がある。ここから登り坂になり、最後は自転車を降りて押すのも大変な坂道になった。汗まみれになり吉次峠に到着。ここで3月4日に最初の激戦が行われた。薩軍は篠原国幹と村田新八が指揮をし、午前中の戦闘では官軍総崩れの状態だった。薩軍強し。この日の官軍の銃弾消費量は推定・数十万発で217名の戦死者がでている。以降、吉次峠のことを“地獄峠”と呼んだ程の激戦であった。
吉次峠/半高山の戦いの布陣図を作って見た。正確ではない。インターネットで出ているものや、現地にあった説明板を参考にした。熊本に来る前は、田原坂があまり有名でそこしか知らなかったが、田原坂は薩軍の熊本防衛線の要所で、その防衛ラインは相当な距離になる。地図の下の吉次峠から更に南西の三ノ岳にまで伸び、北は、植木から山鹿まで伸びている。官軍の北からの高瀬方面からと博多からのp二方向の進軍を阻止する目的であった。薩軍の行き当たりばったりのやり方の中でも、やはり要所は押さえている。さすが明治政府は陸軍を仕切っていた連中だ。
吉次峠から田原坂方面の見晴らし。田原坂までの間にはぎっしりと官軍が布陣していたはず。
吉次峠から見た半高山と篠原国幹が赤マントを翻し、奮闘していた戦地だろうところ。ここで血で血を洗う激戦が行われた。田原坂が3月20日に落ちた後も4月1日まで防衛ラインはとして残っていた。

Battle Field Hantaka Mountain 半高山の戦い

吉次峠の道路を挟んであるのが半高山でここも激戦地となった。

Site of Kunimoto Shinohara’s Death in Action 篠原国幹戦死の地

この戦いで篠原国幹が討ち死にをしている。西郷隆盛と共に明治新政府の陸軍の設立に尽力をした。西郷の忠実な部下で西郷の思いを一番理解していた側近の一人だ。彼が戦死したのは3月4日だ。吉次峠、半高山の戦いの初日だ。死ぬには早すぎる。この西南戦争が始まってから、篠原の様子は少し中途半端だった。高瀬の戦いではもう少し押せば勝てるところを銃弾不足として撤退。結果的に高瀬を落とした。想像だが、西郷同様、彼もこの戦争は望むところではなく、政府へとの話し合いの上洛の護衛との立場であった。熊本城が思っていたように落ちなかった事、官軍の進軍の速さ、兵力を目の当たりに見て、とても自分たちの想いは遂げられないと覚っただろう。死場所を探した。彼は静かな人だったと言われている。しかし、以前は尊王攘夷派の急先鋒で有馬新七と寺田屋事件に参加していた。本質はかなりラディカルだっただろう。銀装の太刀に赤マントでここの丘陵を駆け回っていた。麓から攻めている官軍には彼がはっきりと見えた。格好の銃撃の標的だ。それを篠原は望んだ。壮絶な後世に残る死を選んだ。享年41才。彼の死は残った薩軍幹部には、自分勝手な死と思われても仕方がないが、西郷隆盛はじめ幹部はそうは思わず、彼の死を悼んだ。篠原の気持ちは理解出来たのだと思う。彼らの中にも篠原と同じ様に思っていた部分がある。ただ死場所と時期が違うだけだ。この戦いを調べていくと、この戦いは薩摩が始めたというよりは、明治政府はの薩摩に対しての疑心暗鬼で薩摩に戦争をやらせてしまったのだろう。これが予定通りの計画だったのか、思わぬ方向に行ってしまったのかは分からない。

Former place of Satsuma Tateiwa Battery 薩軍立岩砲台跡

Former place of Kanbun Nanatsumatsu Battery 官軍七ツ松砲台跡

ここからは半高山や吉次峠が射程距離だ。多くの砲弾が飛び交ったのだろう。

Satsuma Three Brave Doldier’s Grave 薩摩三勇士の墓

この地域の住民に介抱されたが亡くなった薩摩兵士の墓。

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