杉並区 05 (30/01/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (1) 瀬戸原 / 谷頭

旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村

旧上井草村 小名 谷頭 (やがしら、小字 八頭、上井草町の北部) [現 井草五丁目の一部、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部]

  • 上井草駅、ガンダム像
  • 上井草スポーツセンター (向山、上井草球場跡) (2024年4月7日 訪問)

旧上井草村 小名 瀬戸原 (せとはら、小字 遅ノ井、上井草町の南部) [現 井草五丁目の一部、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部]

  • 上井草向山公園
  • 瀬戸原中橋跡
  • 瀬戸原橋跡
  • 瀬戸原上橋跡
  • 地蔵堂、庚申塔 (75番)、富士観音 (74番)
  • 瀬戸原緑地
  • 上瀬戸公園


下井草村巡りを終了して、上井草村巡りに移る。先ずは上井草村の東端から見て行く。

上井草村

江戸時代の正保年間 (1645年頃) に、井草村は上井草村と下井草村のニ村に分かれた。江戸時代の上井草村の範囲は現在の上井草の範囲よりは広い範囲だった。現在の今川、善福寺、桃井、上荻四丁目、上井草の西部(三丁目から四丁目)、西荻北の一部(三丁目から五丁目)が、かつての上井草村にあたり、現在の上井草の東部(一丁目・二丁目)は、江戸時代には下井草村の一部だった。江戸時代、上井草村は遅野井 (おそのい) 村」とも呼ばれていた。もともと「尾園」「小園」という地名があり、土地の人々が用水に用いる沼地を「尾園井」と呼んだことから、地名にも「井」の字を加えたという。善福寺公園にある善福寺池は「遅野井」と呼ばれ、井草八幡宮は遅野井八幡宮とも呼ばれていた。当時、上井草村には谷頭、瀬戸原、三家、八町、宿、新宿、寺分、渡戸の8つの小名が存在していた。1889年 (明治22年) の町村制施行で上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併して井荻村が成立し、上井草村は大字上井草となり、小字として中通道北、中通道南、新町、遅ノ井、八頭、寺分宿、善福寺、北原、原に再編されている。1932年 (昭和7年) に杉並区が発足した際に、町名改定が行われ、中通町、宿町、三谷町、新町、上井草町、井荻1~3町目、善福寺町となっている。その後、昭和38年から44年にかけて住居表示が実施され現在に至っている。


旧上井草村 小名 谷頭 / 瀬戸原 (旧上井草町)

江戸時代の小名の瀬戸原と谷頭は、1932年 (昭和7年) に合わせて上井草町になっている。
旧上井草町にあたる地域は明治時代にはその北端に谷頭と柿木集落があるのみで、それ以外の地域には民家はほとんど見当たらない。戦前まではその状況は変化していない。戦後の地図を見ると、土地整理が行われ、道路が碁盤目状に整備されて、西武新宿線南側に住宅が増え始めているが、小名瀬戸原 (小字遅ノ井) にはまだ民家は見られない。民家が本格的に増加したのは1960年以降で、現在では公共施設を除いた地域はほとんど住宅街となっている。
旧上井草町 (谷頭 + 瀬戸原) には史跡は見当たらず、上井草町の南境界線から南に少し外れた所に地蔵堂があるのみ。推測するに江戸時代はこの辺りは小名瀬戸原だったと思える。


旧上井草村 小名 谷頭 (やがしら、小字 八頭、上井草町の北部) [現 井草五丁目の一部、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部]

明治時代の地図を見ると谷頭は下井草村と上井草村にまたがって広がっている。1932年(昭和7年) に下井草村の谷頭は矢頭町となり、上井草村の谷頭は南に隣接していた瀬戸原と合併し下井草町となっている。上井草四丁目の井草森公園を中心とした一帯は戦前までは、下井草では柿木山と呼んでいたが、上井草五丁目北部集落民からは遅野井村発祥の地として遅野井山と呼ばれていた。両者でそれぞれが元祖争いの様な事があったのかも知れない。元々は柿ノ木山 (現在の井草森公園) に集落があったのだが、江戸時代に幕府の鷹狩場となり、住民は強制移住させられている。資料では柿ノ木山から南の柿木に移住したとあるが、一部住民は現在の上井草五丁目と四丁目北部に移住したのではないだろうか?谷頭の「谷」は水が滲み出る窪地を意味し、井草川のことを指していると思われる。「頭」は頭部つまり奥のことで谷頭は井草川の水源地域を表した地名と考えられている。また、別の説では「昔、太田道灌が豊島氏の石神井城を攻略した際に、この地に布陣して前方の敵陣めがけて盛んに矢を放ったので「ヤガシラ」の名が生まれたともいう。小名 谷頭内では寺社仏閣や民間信仰の塔はみあたらなかった。


上井草駅、ガンダム像

江戸時代の旧上井草町小名谷頭には史跡などは見当たらない。明治時代の地図でも集落は北部に見られるだけで、そこ以外には集落が無かった事によるのだろう。その中で、上井草駅の南改札口を出た所にガンダム像が置かれていた。2008年 (平成20年) に造られている。何故、ガンダムなのだろうと思い調べてみた。上井草周辺は多くのアニメ製作会社があつまるエリアで機動戦士ガンダムの製作会社も上井草にあるそうだ。このガンダム誕生の地である事と、町おこしも狙い、駅前にブロンズ製のガンダム像が建立されたそうだ。

上井草スポーツセンター (向山、上井草球場跡) (2024年4月7日 訪問)

上井草駅の南には上井草スポーツセンターがある。この辺りは少し高台になっており、昭和初期までは向山 (むかいやま) と呼ばれていた。ここにある上井草スポーツセンターは以前は東京で最初のプロ野球専用球場の上井草球場 (正式名称は東京球場) が運営されていた。旧西武鉄道が出資し1936年に結成された東京セネタースの球場として球団結成直後に建設された。収容人員は2万9500人という大きな球場だった。旧西武鉄道は鉄道輸送の拡大で収益増の目的もあった。1936年のシーズンでは21試合、翌1937年は56試合をこの球場で開催したのだが、1937年に後楽園球場が完成し、まだまだ上井草は都心から遠く、旧西武鉄道の輸送能力も脆弱で交通の便に劣っていた事で、1938年は6試合と激減し、これがこの球場では最後のプロ野球公式戦となった。その後も、プロ野球試合開催が増える事はなく1951年以降はプロ野球は開催されなくなっていた。戦後、神宮球場が進駐軍に接収され、1946年に東京六大学野球はこの上井草球場で再開されている。1949年には第4回国民体育大会の硬式野球会場として使用され、その際に内野スタンドは拡張され収容人数4万7500人にもなったが、それほど活用されず1964年に取り壊されてしまった。
上井草球場を本拠地とした東京セネターズは当時オーナーの有馬は貴族院議員で、球団社長も実弟で貴族院議員の安藤信昭が就任したことから、貴族院 (上院 Senator)  と米国のワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)に倣ってこの名称が付いたとされる。
戦争の影響で球団名は全て日本語に改めるように指示が出されたため、翼軍と改名している。1941年には名古屋金鯱軍と対等合併して大洋軍を結成。1943年に西日本鉄道に経営が移譲され西鉄軍に改称。戦後の1946年にプロ野球が再開されると、戦前の東京セネタースの主軸にセネタースが新球団として結成されたが、経済的な理由から翌年には東急フライヤーズとなった。その後数度の身売り・改称・移転を経て、現在は北海道日本ハムファイターズとして存続している。
球場跡地は、1967年に軟式野球場4面の他、テニスコートやプールなどを備えた都営の総合運動場となり、1979年には杉並区に移管され区営となり、1998年に冒頭の上井草スポーツセンターとして全面改装され現在に至っている。


旧上井草町の谷頭から瀬戸原に移動する。

旧上井草村 小名 瀬戸原 (せとはら、小字 遅ノ井、上井草町の南部) [現 井草五丁目の一部、上井草二丁目の一部、上井草三丁目の一部]

小名 瀬戸原は、妙正寺池周辺が村の中心であった時代には、村の背後にある未開の原野だったので、背戸の原と呼ばれ、背戸原になり、後に瀬戸原と書き改められている。確かに、明治時代の地図を見ると瀬戸原となっている地域には民家は見られず、南に隣接している小名の三家の北部に集落が見られるのみだ。

小名 瀬戸原内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: 75番
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: 富士向観音 (74番)


上井草向山公園

井草川遊歩道の四宮下橋の北側に上井草向山公園がある。江戸時代の小名 谷頭の中に向井山という地域があった。現在の上井草スポーツセンター一帯になる。ここにその時代にあった向井の名が残っている。


瀬戸原中橋跡

井草川遊歩道を四宮下橋から西に進むと瀬戸原中橋が架けられた所に出る。

瀬戸原橋跡

遊歩道を進むと、直ぐ瀬戸原橋跡の碑が置かれている、井草川の北部には多くの橋が架かっていた様だ。

瀬戸原上橋跡

更に進むと今度は瀬戸原上橋跡があった。

地蔵堂、庚申塔 (75番)、富士向観音 (74番 聖観音立像)

井草川遊歩道の瀬戸原上橋から少し東に外れた所に地蔵堂が建てられている。ここは明治時代には小字瀬戸原ではなく小字三家になるのだが、江戸時代にはこの辺りに集落が造られており、瀬戸原の一部だったと思われる。堂の中には二基の石造物が置かれている。聖観音立像と、青面金剛立像が彫られた庚申塔になる。いずれも、かつては現在地よりやや西方の道沿いにあったが、区画整理により、1923年 (大正12年) に移設されている。
向って右側は1749年 (寛延2年) 11月15日に遅野井村 (上井草村) の念仏講中によって造立された丸彫の聖観音立像 (74番) で、当時は、現世利益を本願とし種々の相に身を変えて衆生の悩みを救済してくれるといわれ、広く信仰されていた。杉並区に残っている観音像の石塔の中では聖観音が最も多く造られていた。ここの聖観音は移設前と同様に西を向いており「富士向観音」と呼ばれていた。
左側の笠付角柱の庚申塔 (75番) は1722年 (享保7年) 10月吉日に遅野井村 (上井草村) の講中により造立と刻まれている。当時、盛んだった庚申信仰の供養塔で60日に一度巡ってくる庚申の夜に眠っている間に体内の三尸の虫 がその人の罪を天帝に告げて寿命を短くするとされ、その夜は徹夜で庚申待をする道教説に由来する。角柱正面に日月、邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。側面には蓮が浮き彫りされている。

瀬戸原緑地

地蔵堂の後は集合団地があり、その中に瀬戸原緑地が造られている。それほど大きな公園ではない。瀬戸原の名が残されている事からやはりこの辺りは瀬戸原の地域だった様に思える。

上瀬戸公園

井草川遊歩道に戻り、瀬戸原上橋跡から道を少し進んだ南側には上瀬戸公園が造られている。ここにも瀬戸の名が残されている。



上井草村 小名 谷頭/瀬戸原 (上井草町) 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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