杉並区 06 (31/01/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧天沼村 (2) 宝光坊


小名 宝光坊 (小字 宝光坊 / 山下、旧天沼二丁目) [現 天沼一丁目、天沼二丁目の東部、本天沼三丁目の大部分、阿佐谷北三丁目の西部]

  • 庚申塔 (52番、53番)
  • 天沼熊野神社
    • 石鳥居、白玉稲荷神社
    • 石造手水盤
    • 拝殿、本殿
    • 稲荷神社、三峰神社、太現神社、須賀神社
    • 力石
    • 神輿庫
  • 天沼東公園 (檪山跡)
  • 区割整理記念碑
  • 庚申塔 (49番、50番)
  • 地蔵菩薩 (47番)、百番観音供養塔 (46番、48番)
  • 庚申塔 (44番)、地蔵菩薩 (45番)、庚申塔 (未登録)
  • 天沼地蔵前公園

以前は訪れた旧杉並村の一部となった天沼村の小名本村を訪れたが、今日は天沼村の残っている小名の宝光坊と中谷戸を巡る。



小名 宝光坊 (小字 宝光坊 / 山下、旧天沼二丁目) [現 天沼一丁目、天沼二丁目の東部、本天沼三丁目の大部分、阿佐谷北三丁目の西部]

小名 本村の南が江戸時代の天沼村の二つ目の小名の宝光坊になる。小名 宝光坊は、天沼村の中程にあり、一説では、1395年 (応永2年) に浅倉三河守と云う武将が、紀伊半島の熊野本宮 (十二社権現) のお札を持ち、この天沼で無事に帰農し、後に宝光坊という庵を創建し、十二社権現の別当となったのが始まりという。また別の説では昔、熊野神社に奉仕していた宝光坊という修験僧の名から、この様に呼ばれたという。江戸時代の小名 宝光坊は1889年 (明治22年) の町村制移行で宝光坊と山下の二つの小字に分割されている。
江戸時代から明治時代の集落は少なく天沼熊野神社付近と地域の南に見られる。昭和時代に入ってから集落は南の鉄道近くから拡大している。戦後は住宅地は拡大している。しかしながら周りの地域と比較するとその住宅地拡大は遅れている様に見える。1860年代には住宅地は公共機関を除き、地域全土に広がり飽和状態となり、現在に至ったいる。

小名 宝光坊内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。
  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 天沼熊野神社
  • 庚申塔: 44番、49番、50番、52番、53番、未登録1基
  • 馬頭観音: なし
  • 地藏菩薩: 45番、47番
  • その他: 西国供養塔 (46番、48番)


庚申塔 (52番、53番)

この二つの小名の境界線が現在の上荻二丁目にある光明院への参拝道だった観音道になる。現在では日大二校通りとなっている。観音道 (日大二校通り) の日大二校前交差点を南に渡り、道を南に進んだ住宅街の中に堂宇が置かれている。この中には二基の庚申塔が安置されている。元からここにあったのでは無く、随分離れた天沼八幡神社の南側の小谷戸から移設されたもの。区画整理などで移設されたものも多いのだが、その場合は、元の場所の近くか、寺などに移設されているので、ここの様に随分離れた民間敷地内に移設された経緯が気になる。向かって右側の笠付角塔の庚申塔 (52番) は1715年 (正徳5年) に造立され、石塔正面には上部に青面金剛を表す梵字の「हूं ウン」が刻まれ、その下に月日、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされ、「奉造立庚申供養二世安樂所」と刻まれている。左側の駒形石塔の庚申塔 (53番) は1728年 (享保13年) に天沼村の住民6人により造立され、正面には月日二鶏、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。

天沼熊野神社

天沼熊野神社は旧天沼村の総鎮守で伊邪那美命を祭神として祀っている。奈良時代の768年 (称徳天皇神護景雲2年) に、東海道巡察使が武蔵国に遣わされ、天沼を宿駅と定め、大和国へ帰る時に氏神を勧請し別当を置いたのが創建とされ、かなり古い時代と伝わっている。別の説では、600年も後の1333年 (元弘3年) に新田義貞が北条高時討伐の為、鎌倉へ進軍途中に、この地に陣を敷き社殿を造営し戦勝祈願した時が創建とある。更に別の説では1395年 (応永2年) に浅倉三河守と云う武将が、紀伊半島 の熊野本宮 (十二社権現) のお札を持ち、この天沼で無事に帰農することができたので、後に宝光坊という庵を創建したのが始まりという。江戸時代に宝光坊を十二所権現と改め、天沼村の鎖守としたと伝わっている。明治維新後に熊野神社と改称し、1874年 (明治7年) には天沼村の村社となっている。

石鳥居、白玉稲荷

神社へは道路に面した石鳥居をくぐり入る。この鳥居は1817年 (文化14年) に奉納されたものだそうだ。鳥居の向かって右側にも鳥居があり、その奥に1920年 (大正9年) に建てられた白玉稲荷神社が鎮座し保食神を祀っている。ここの鳥居の前には塞神の道祖神 (写真し下) の石塔がある。これは2002年 (平成14年) に新しく造られたもの。
鳥居から参道が拝殿まで伸びている。境内には何本もの白樫、椎、ソロ (あかしで) の大木が残っている。

石造手水盤

参道を進み、拝殿の手前に1862年 (文久2年) 奉納の石造手水盤が置かれている。

拝殿、本殿

参道奥に拝殿と本殿が鎮座している。これは2002年 (平成14年) に建て替えられたもの。

稲荷神社、三峰神社、太現神社、須賀神社

拝殿に右前に境内末社が集められ、向かって左から、江戸時代前中頃に鎮座した独立した社に稲荷神社が置かれ保食神を祀っている。その隣には三社を合祀した社があり、1807年 (文化4年) に鎮座した伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る三峰神社、1291年 (正応2年) に天沼に最初に鎮座した神とされる太現尊大神を祀る太現神社、素戔鳴命を祀る須賀神社が祀られている。


力石

末社の両脇に力石と境内にあった大木の切り株が展示されていた。力石はこの神社境内で力比べの奉納行事で江戸末期、明治初年期頃奉納されたもので、「三十メ(貫目)、四十メ(貫目)」の二つが置かれている。反対側にある切り株は、1333年に新田義貞が鎌倉幕府を倒す為、鎌倉へ進軍中に、この天沼熊野神社に立ち寄り勝利を祈願して手植えした杉で、倒幕後には近隣の住民から「心願成就の杉」とか「出世杉」と呼ばれ、大切にされてきた。植えられてから約600年後の1946年 (昭和21年) に枯れてしまい、その切り株が展示されている。案内板には戦前の写真が紹介されていた。二本の大杉が参道の両脇に聳えている。一緒に写っている人達と比べてかなりの大木だった事がわかる。

神輿庫

境内にはかつては神楽殿があったのだが、現在はなくなり、その場所は神輿庫となっている。中には夏祭りで披露される曳太鼓と新旧二基の子供神輿が保管されている。

天沼東公園 (檪山跡)

天沼熊野神社のすぐ南側に天沼東公園がある。この辺り一帯は昭和初期までは檪山 (くぬぎ山) と呼ばれていた。江戸時代には宝光坊 (現在の天沼熊野神社) を創建した越前朝倉家の一族がこの地に定着して開発した土地といわれ、樹林で覆われていたので檪山と呼ばれていた。

庚申塔 (49番、50番)、区割整理記念碑

天沼東公園 (檪山跡) から少し東に行くと道沿いに広場があり、区割整理記念碑と五つの石仏と石塔が置かれている。区割整理記念碑は、区画整理事業の完了した1938年 (昭和13年) に建てられている。天沼地区の土地区画整理事業は、1931年 (昭和6年) に組合が結成され着手、1938年 (昭和13年) に完成している。この区画整理事業では千川用水の分水路の改修を主とし、田畑山林の荒地に道路を貫き、橋梁を架し、土地開発が行われた。
この場所にある五つの石塔はいずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世での往生安楽を願って造立したもの。この様に石塔が集まっているのには大体二つの理由がある。明治元年に明治政府から村に点在する石塔や小祠を一ヶ所に集めるようにとにおふれが出されたケース。大正後期から昭和13年頃にかけての区画整理の際に集められ移設されたケースがあるが、ここに移設されたのは後者のケースに当たる。

庚申塔 (49番、50番)

区割整理記念碑の隣には二つ庚申塔が置かれている。これは南方の桃園川辺の路傍にあったものを区画整理事業の際に移設されたもの。当時は、人の中に棲むという三尸 (さんし) の虫が眠っている間に抜け出して、天帝にその人の罪科を告げ、早死にさせると信じられ、それを防ぐために、庚申の夜は身を慎んで眠らずに過ごすという庚申信仰が盛んで各地に講がつくられ、講中有志により庚申塔の造立も盛んに行われていた。
  • 庚申塔 (50番): 向かって左は1740年 (元文5年) に天沼村講中14人により造立された笠付角柱で、正面には「奉造立庚申供養二世安樂処」と刻まれ、石塔上部に青面金剛の梵字の「हूं  ウン」が刻まれ、左右にニ鶏をあしらった日月、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、邪鬼の下には三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (49番): 右側には1704年 (宝永元年) に講中19人により造立された笠付角柱で、正面には「奉造立庚申供養石塔一基二世安樂処」と刻まれ、石塔上部に日月、その下に合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされ、側面には蓮が浮き彫りされている。

地蔵菩薩 (47番)、百番観音供養塔 (46番、48番)

敷地奥の方には1基の地蔵塔と2基の供養塔が置かれている。これらも区画整理事業の際に、熊野神社際の路傍から移設されたもの。
  • 地蔵尊立像 (47番): 真ん中は1730年 (享保15年) に天沼村講中により造立された舟型塔で、人間の苦を除き、楽を与え六道衆生を救済するとされる地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。上部には地蔵菩薩を表す梵字「ह カ 訶」が刻まれ、地蔵尊立像横には「奉造立地蔵菩薩現當二世諸願成就脩」と刻まれている。
  • 百番観音供養塔 (48番): 左側には1759年 (宝暦9年) に天沼村講中により造立された山状角柱の百番観音供養塔が置かれ、梵字の「स サ」「坂東 秩父 奉納西國百番供養為二世安樂也」と刻まれている。江戸時代には百番観音信仰が流行り、関東地方では庶民の間では西国・板東・秩父の百ヶ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念、巡拝と同じ功徳を得るための百番観音供養塔が造立されている。
  • 百番観音供養塔 (46番): 右側のものも百番観音供養塔だが、光明真言信仰と一体にされている。光明真言信仰とは23の梵字のお経「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらまに はんどま じんばら はらばりたや うん」を唱える事ですべてのわざわいを取り除くことができるという教えで、お遍路などでは般若心経などとと共に唱えられている。1803年 (享和3年) に、朝倉半之丞 (法名 榮相法師) により造立され、正面には三つの供養の文言が刻まれている。百番観音信仰として梵字の「स サ」「奉納西國坂東秩父百箇處為二世安樂子孫繁昌也」、光明真言信仰として梵字の「ह्रीः キリーク」「先祖代々成三菩提也」、梵字の「सः サク」「奉供光明真言一百萬遍 唱主慈光妙清信女」

庚申塔 (44番)、地蔵菩薩 (45番)、庚申塔 (未登録)

明治時代は小字 宝光院の南は小字 山下だった。この地域は桃園川流域の水田地帯で、両岸の台地 (山) の下にあったから、山下と呼ばれた。この小字 山下にはほとんど史跡は残っていないのだが、山下を南につっきり、小字 小谷戸との境界の天沼村旧道沿いに小祠が置かれている。祠の中には庚申塔と地蔵菩薩立像が鎮座している。
  • 向かって右の庚申塔 (44番) は1698年 (元禄11年) に天沼村講中13人により造立された駒型石塔で、正面には「奉造立庚申供養一基二世安樂所」と刻まれ、石塔上部に青面金剛の梵字の「ह्रीः キリーク」が刻まれ、左右に日月、その下に合掌六臂の青面金剛像、邪鬼の下には三猿が浮き彫りされている。
  • その隣には1705年 (宝永2年) に天沼村講中多数により造立された舟型石塔に月輪光背に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像 (45番) が浮き彫りされ、「奉造立地蔵菩薩為二世安樂也」と刻まれている。
  • 左端に小さな角柱がある。これも庚申塔で1727年 (享保12年) 天沼村の講中11人により造立され「奉供養庚申講」と刻まれている。

天沼地蔵前公園

天沼村旧道の向かい側には天沼地蔵前公園が置かれている。この場所は小名 中谷戸の小字 小谷戸になる。


これで小名宝光坊巡りは終わり、次は小名中谷戸巡りに移る。



天沼村 小名 宝光坊 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 中巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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