練馬区 24 (19/10/23) 関村 (4) 千川上水

関村 千川上水

  • 境橋、玉川上水水番所 (境水衛所)
  • 蛍橋
  • 樋口橋
  • 柳橋
  • 鎮守橋
  • 井口橋
  • 文字庚申塔
  • 石橋供養塔、庚申塔
  • 井口家のサンシュユと大ツバキ
  • 葭窪橋
  • 千川橋
  • 関前橋
  • 三郡橋

関町東と関町北の散策は終わったが、まだ時間があるので、関町を西から東に流れる千川上水沿いを走り帰宅する事にした。千川上水は玉川上水から分岐しており、練馬区から外れるのだが、その起点まで行き千川上水の開渠で残っている川沿いをめぐる。


千川上水

千川上水は、玉川上水を水源とし、境橋にある分水口から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路で江戸の六上水 (神田上水、玉川上水、本所上水 [亀有上水]、青山上水、三田上水 [三田用水]、千川上水) のひとつだった。
千川上水は1696年 (元禄9年) に開発され、初めは江戸の飲料水、後に近郊農村の灌漑用水として、文字通り江戸市民の命の水であった。千川上水は河村瑞賢の設計と伝えられ、仙川村(現在の調布市東端から三鷹市南部にかけての一帯)出身の徳兵衛と太兵衛が工事を請け負った。工事に功績のあった二人に仙を吉字の千に改め、千川性を与えたことから千川上水と呼ばれるようになった。明治時代以降も工業用水として、1971年 (昭和46年) まで利用されていた。平成元年、東京都は千川上水の堤を整備し、遺跡として、清流を通して保存している。

境橋、玉川上水水番所 (境水衛所)

武蔵野市関前に境橋があり、ここが玉川上水から千川上水への分水口になる。初代の分水口の場所は不明だが、その後、何度か取水口の場所は変わっている。この取水口から千川上水が下流に向かって始まっていた。
江戸時代に、ここから素掘りの水路を開削して、1696年 (元禄9年) に千川上水が開通。ここには玉川上水の水番所が置かれ、玉川上水の管理をするための番人が常駐して水量の監視、落ち葉などの清掃を行っていた。明治以降は、東京市水道部の管理になり、1894年 (明治27年) に 水番所を境水衛所と名前を変え、引き続き職員 (水衛) が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行った。下の写真は戦前の様子で左が玉川上水の分水口、右が千川分水口。
その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、境水衛所は1980年 (昭和55年) に廃止され、境水衛所跡地は散策路として整備されている。
千川上水はここから5km程は開渠のままになっているので、用水岸沿いを流れを見ながら進むことができる。開渠と残っている部分を走りながら上水沿いの史跡を見ていく。

蛍橋

千川上水沿いを進むとまずは蛍橋が架けられれている。江戸時代からあった橋なのかはわからなかった。

樋口橋

蛍橋から少し進むと樋口橋がある。

柳橋

更に進むと広い交差点に出る。ここには柳橋が架かっていた場所になる。昔の橋の面影は無くなっている。

鎮守橋

遊歩道を進むと鎮守橋。

井口橋

千川上水を進むと武蔵野大学のある交差点に出る。ここには井口橋が架かっていた。

文字庚申塔

武蔵野大学前には1784年 (天明4年) に造立されたかなり大きな庚申塔がある。今まで見た中では最も大きいものだ。この辺りは新町で1724年 (享保9年) から上保谷新田として開発された新田村だった。1783年 (天明3年) に、浅間山の大噴火、洪水、冷害が重なり江戸時代最大の飢饉が始まり、新田村の村民は飢饉が村に侵入しないようにと村全戸によって、この庚申塔を村の入り口に建てたという。正面の左脇には「五穀成就」と彫られ、村中あげて穀物が実ることを祈願している。塔の下部には十万に通じる道しるべをして、 上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子のウン、下端に三猿を刻んでいる。

石橋供養塔、庚申塔

文字庚申塔のすぐ近く東側、千川上水の辺りに石橋供養塔と庚申塔が並んで置かれている。この場所は五日市街道と千川上水が交わっており、井口橋が架けられ、修補を加えながら人びとに利用されてきたが、1841年 (天保12年) に関前村民や近隣諸村の助成を得て石橋に掛け替えられた。この石橋供養塔はその完成を記念するとともに、悪霊の侵入を防ぎ、神を慰める願いを込めて石橋を供養し建てられた。その隣には1840年 (天保11年) に造立された角柱文字型の庚申塔がある。
ここからは千川用水沿いにしばらく遊歩道が続く。

井口家のサンシュユと大ツバキ

上保谷新田の開発に功労のあった井口家の先祖が他の新田名主とともに1750年 (寛延3年) 頃に幕府から褒賞として与えられたサンシュユが残っている。またその近くの井口家屋敷裏の畑の奥にある稲荷社の境内にツバキの大木がこんもりとした姿を見せている。このツバキは、樹高約7m、根元周囲が2mもあり、樹齢が280年以上と推定される古木だそうだ。

葭窪橋

井口家を過ぎると葭窪橋がある。この地域はかつての保谷村葭窪と呼ばれた場所になる。

千川橋

遊歩道を進むと千川橋になる。千川橋が昔からあったのかはわからないが、千川と名付けられているので歴史ある橋なのだろうか?

関前橋

千川上水を進むと広い交差点になる。交差点部分は暗渠となり、交差点を過ぎると再び開渠となる。ここには関前橋が架けられていた。この辺りには戦前までは中島飛行機株式会社 武蔵野多摩製作所があり、戦闘機のエンジンを製造していた。

三郡橋

電通研究所前を過ぎると三郡橋になる。かつての新座郡上保谷新田、北豊島郡関村、北多摩郡関前村の三郡が隣接した場所に架けられていたので三郡橋と呼ばれていた。

三郡橋より西側の伊勢橋までの千川上水の開渠部分については関町南を訪れた際に散策している。

これで練馬区+千川上水開渠部分の散策は終了。明日は体を休めて、明後日から小豆島に向けて自転車で移動する。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)

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