練馬区 24 (19/10/23) 関村 (3) 関町北

関村 関町北

  • 武蔵関公園
  • 溜淵遺跡跡
  • 溜渕橋
  • 馬頭観音 (85番、86番) (未訪問)
  • 天祖若宮八幡宮
  • 天祖神社東遺跡
  • 井口稲荷大善神
  • 本立寺
  • 井口家累代の墓
  • 庚申塔 (132番)
  • 題目塔
  • 青梅街道


関町東を巡り終え、次は関町北に移動する。


関村 関町北

関町北は練馬区の西部に位置し、東は石神井台、関町東、南は関町南、西は西東京市東伏見、富士町、北部は南大泉に接している。

関町北は江戸時代の武蔵国豊島郡関村の小名である大関、小関、葛原、小額、および竹下新田の小名淵崎あたりに相当する。江戸時代からの関村は1889年 (明治22年) の町村制施行により、関村と竹下新田は東京府北豊島郡石神井村大字関甲と関乙となり、関町北は当時の字の川北、溜淵、葛原、上竹にほぼ相当する。

関町は石神井地区の一つだったが、石神井公園駅周辺への公共交通の便が悪く、その反面、杉並区の荻窪駅、吉祥寺駅、武蔵野市の三鷹駅への公共交通は充実しており、関町住民の生活消費はもっぱらこちらを中心に行われている

1932年 (昭和7年) に板橋区が誕生した際に東京府東京市板橋区石神井関町二丁目の一部と石神井関町三丁目となる。練馬区が板橋区から分離し、1949年 (昭和24年) には、石神井の冠称をとって関町 (一丁目 ~ 六丁目) となっている。

西武新宿線が開通した1927年 (昭和2年) に武蔵関駅が開業している。三重県に国鉄関西本線に関駅があったため、旧国名の武蔵を冠し武蔵関としたそうだ。同じころ青梅街道との間20万坪(66万㎡)に土地改良・区画整理事業が行われ、住宅地として分譲された。そのため、駅の乗降口はしばらくは南口だけだったので駅南側の発展が早かった。

武蔵関駅が1927年 (昭和2年) にできて以来、駅の南側が開発され、戦前にも人口は増加している。
戦後も人口増加は続き、高度成長期には終始人口増加が見られ、特に前半は非常に高い増加率を示している。この人口増加で、1978年 (昭和53年) に住居表示が実施され、関町一丁目は関町南 (一丁目 ~ 四丁目)、関町二丁目は関町東 (一丁目 ~ 二丁目)、関町二丁目の一部と関町三丁目 ~六丁目は関町北となって現在に至っている。住居表示実施以降も世帯数は増加が続いたが、人口増加は鈍化し近年は人口、世帯数とも横ばい状態になっている。


練馬区史 歴史編に記載されている関町北内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 本立寺
  • 神社: 天祖若宮八幡宮、井口稲荷大善神
  • 庚申塔: 1基  馬頭観音: 3基 (探すも見つからず)


まちづくり情報誌「こもれび」- 武蔵関 (関町北)



関町北 訪問ログ



関町北の東側にある武蔵関公園から東に向かって、石神井川沿いにある史跡を巡る。



武蔵関公園

武蔵関公園は石神井川が注ぎ込んだ富士見池を利用して造られている。石神井川は小平市の花小金井南町あたりから下流とされているのだが、昔は、更に西方の鈴木町の武蔵野団地付近が水源だった。ここから流れ出た水は、田無市、保谷市を通り、練馬区域に入って、武蔵関公園の富士見池 (ひょうたん池) 付近にあった池沼の水を合わせ、更に東に流れ石神井公園三宝寺池から流れてくる川と合流していた。流れは練馬を抜けたところで田柄川と合流して、板橋区域から北区滝野川に入り、隅田川 (旧荒川) に注いでいた。江戸時代の地誌や紀行文などでは石神井川の源流は三宝寺池と記されており、この公園の富士見池付近にあった溜井 (ためい) から下石神井の石神井川に合流する川筋は石神井用水と呼ばれ、石神井川の支流とされていた。江戸時代には石神井用水は農耕のための溜池で、上石神井村、下石神井村、田中村、谷原村、関村の五ヵ村で保守を行い、石神井用水として利用していた。石神井川はその地域によってその名称は様々だ。関村では溜井からの流れが石神井用水、大川、関 (堰) 川など、上石神井村から下板橋村を抜けるまでを石神井川、豊島園西隣では石川、滝野川村では滝の川、王子村では王子川、音無川と呼ばれていた。

ここにある武蔵関公園は大正時代に遊具施設などが整備された若宮遊園として始まっている。公園北の入り口には公園由来碑があった。
1935年 (昭和10年) に東京市が公園整備を行い武蔵関公園となっている。
1938年 (昭和13年) に武蔵野鉄道 (現西武鉄道) と武蔵関公園建設協賛会から公園地として寄付され、東京市立に移管されている。1978年 (昭和53年) に東京都から練馬区に移管されている。
池の周りは公園になっており、遊歩道が整備されている。その道沿いには練馬区に住んでいた書道家の松井如流 (1900年~1988年) の作品の「丹愚」の書碑が建てられていた。また、池の淵沿いにも遊歩道が設けられている。

溜淵遺跡跡

石神井川の川沿いのこの付近は戦前まで、武蔵野の面影を色濃く残した丘陵地帯で、この池の周辺には原始・古代の遺跡が数多く点在している。武蔵関公園富士見池の南側には大規模遺跡群があり、葛原遺跡、溜淵遺跡、武蔵関遺跡、天祖神社東遺跡、下野谷遺跡が発掘されている。
この場所は溜淵と呼ばれていた地域で富士見池南側の標高5メートルの台地上で、1955年 (昭和30年) に高層住宅建設時と昭和55年に発掘調査が行われ、旧石器、縄文時代早期~中期の遺構・遺物が発見され、溜淵遺跡と名付けられた。旧石器時代の礫群、縄文時代の竪穴住居址3軒、土坑4基、屋外炉穴17基などの他に、中近世の溝が発見され、ナイフ形石器や槍先形石器、縄文時代早期 (約八千年前) から後期にかけての土器などが発掘されている。

溜渕橋

武蔵関公園の南端に石神井川に架かっている橋が溜渕橋で、この辺りはかつての溜渕の集落があった場所になる。

馬頭観音 (85番、86番) 関町北3-37 (未訪問)

資料では武蔵関公園の東側の関町北3-37に馬頭観音が2基あるとなっていた。さらに下の番地までは記載されていなかった。関町北3-37全域は戸建ての住宅地になっており、この住所の道路を何度か廻ってみたが2基とも見つからなかった。資料では馬頭観音 (85番) は1859年 (安政6年) 造立の文字型方形塔、馬頭観音 (86番) は1868年 (明治元年) 造立の文字型方形塔とされていた。


天祖若宮八幡宮

武蔵関公園の東には天祖若宮八幡宮がある。この神社は1974年 (昭和49年) に若宮八幡宮をこの地にあった天祖神社に合祀して天祖若宮八幡宮と呼ばれるようになった。天祖神社には大日孁貴女尊 (おおひるめむちのみこと)、狭依姫命 (さよりひめのみこと)、倉稲魂命 (うがのみたまのみこと) を祀り、若宮八幡宮には八幡大神 (応神天皇)、仁徳天皇を祀っている。若宮八幡宮は、奈良時代に武蔵関塞 (関所) が設けられたとき、関塞守護神として祀られたと伝えられている。関塞廃止後、慶長年間に関村村民の氏神となった。 天祖神社は本立寺持の三十番神社で、もとは「番神さま」と呼ばれていたが、明治維新の神仏分離により天祖神社と改称されている。1874年 (明治7年) には村社に列格されている。
長い参道には1885年 (明治18年) と1978年 (昭和53年) に造られた二基の石造明神鳥居がある。
元竹下厳島神社拝殿を大正2年に竹下の厳島神社が溜淵厳島神社に合祀した際に、この地に移転修築して覆殿を新設し、同時に幣殿も新築し、元々あった1843年 (天保14年) 建築の拝殿を明治期に一部改修したが、1973年 (昭和48年) に改築されている。拝殿前には1843年 (天保14年) の水盤、1857年 (安政4年) の石燈籠、狛犬が置かれている。
境内社として1908年 (明治41年) に溜淵の厳島神社を合祀し、1913年 (大正2年) には竹下の厳島神社 (先に稲荷神社を合祀) を合祀した厳島神社 (写真上)、稲荷神社 (中)、御嶽神社 (下) が鎮座している。この竹下の厳島神社と稲荷神社が現在の竹下稲荷神社になる。
境内には1980年 (昭和55年) 造営の神楽殿神楽殿、神輿倉、社務所、御嶽山大々神楽奉納記念碑 (明治29年)、神楽殿落成記念碑 (昭和55年) などが建てられている。

天祖神社東遺跡

天祖若宮八幡宮の一之鳥居の北側にも大規模遺跡群のひとつの富士見池遺跡群の天祖神社東遺跡が昭和58年に都営練馬区関町三丁目第3団地建て替えに伴う調査で発見されており、現在は小さな公園となっている。武蔵関公園の富士見池の湧水とそれを水源の一部とする石神井川の水を利用して生活していた古代人の住居跡と考えられている。堅穴住局跡が12軒、石蒸調理跡と考えられる集石土坑が15基、小穴、土坑、溝などが見つかり、住居跡からは縄文時代の中期と考えられる深鉢形土器、ナイフ形石器などが出土している。

井口稲荷大善神

天祖若宮八幡宮の南の道を東に少し進むと井口稲荷大善神の祠が置かれている。
この稲荷社は、中世に三浦半島の豪族の三浦氏の系譜に連なる関町付近の井口氏が、代々 祀ってきた神社になる。創建の年代については不詳だが、井口家には1570年 (永禄13年) に伊豆国伊東の地に、三浦氏 (井口氏の出自) の始祖三浦平太夫為通から十八代の先祖を尊んで、井口但馬守平義久が 願主となり、井口稲荷大明神を祭り稲荷社を造立したと伝わっている。毎年二月の初午は、関町付近の各井口家、その関係者、地元商店街の諸家、一般参詣者で賑わい、井ロー族の菩提寺である日蓮宗本立寺住職が催事を行っている。
1649年 (慶安2年) に伊豆国伊東にあった祠をこの場所の武蔵国豊島郡関村矢倉台に移築している。現在の社殿は1973年 (昭和48年) に立て替えられたもの。
御利益は病気の時に詣でてから医者に行くと治ると書かれていたのだが、よく言われているのは医者でも治せない病気が治るのだが、ここはやはり医者には行かないと行けないようだ。補助的な御利益という事だろう。


本立寺

井口稲荷大善神から北の石神井川沿いの武蔵関駅を越えたところに寺院がある。この寺院も日蓮宗で法燿山本立寺 (ほんりゅうじ) という。本立寺は、17世紀半ばに日誉によってに開かれたとされている。開基は先程訪れた井口稲荷大善神ので登場する井口家の井口忠兵衛で、当地の名主を勤めていた。本尊として祖師像の旭日蓮大菩薩 (三宝祖師) で地域の人に厚く信仰されていた。戦後、寺院の建築物が一新され、本堂は開山当時の建物を1968年、山門は1982年、客殿は1997年、鐘楼は2000年に竣工している。

本立寺では毎年12月に日蓮の命日に営まれる「お会式」の行事に合わせて「関のボロ市」と呼ばれている催し物が行われ、各地から多くの人が集まってくる。蚤の市である。ルーツは江戸時代中期頃にまだ農村だったこの地で農機具や古着などの生活用品が主に売られていたのが起源という。「ぼろきれ」も売られていたことから「ボロ市」と言われるようになったとの説がある。明治時代から昭和時代にはボロ市で相撲の興行や芝居小屋、オートバイの曲芸などのイベントも開かれ、また様々な飲食店の露店が出るなど賑やかなお祭りに変わっていった。檀信徒らによる万灯行列が街を練り歩くイベントも行われ、約10万人が集まる練馬の冬の風物詩になっている。

井口家累代の墓

参道の左側の墓地には開基以来関村名主を勤めた井口氏累代の墓がある。江戸時代の初め頃の創建当時から関村の名主であった井口家と深い関係で創建にもかかわっていた。


通常日蓮宗の寺院には石仏はあまり見られないのだが、この寺には比較的多くの石仏があった。山門を入り、本堂への階段下には1888年 (明治21年) 造立の行者像、造立年不詳の丸彫の魚籃観音菩薩立像、1911年 (明治44年) 造立の帝釈天を浮き彫りした角柱型石塔、1940年 (昭和15年) の地蔵菩薩がある。

庚申塔 (132番) 

この石仏群の右端には庚申塔 (132番) もあった。造立年は1937年 (昭和12年) と庚申塔としてはかなり新しいもので、舟型石塔に日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りされている。
境内には幾つもの題目塔が建てられていた。


題目塔

武蔵関駅の南東にみすみ霊園があり、入り口に1850年 (嘉永3年) の句碑、石燈籠、石塔が置かれていた。塀の前の角柱 (写真左下) は「南無妙法蓮華経 一千ヶ寺供養塔」と刻まれた題目塔の一千ヶ寺供養塔で1803年 (享和3年) に造立されている。


これで関町北の史跡巡りは終了。まだ時間があるので千川上水の起点まで行き、上水沿いを走り、青梅街道を通って帰る。



青梅街道

青梅街道は、東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る132kmの東西に横断する道で、1606年 (慶長11年) に江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時は成木往還と呼ばれ、その後、江戸へ向かう道として江戸道、小川道、箱根ヶ崎道と呼ばれ、また青梅・奥多摩へ向かう道として、あふめ道、みたけミちなどとも呼ばれていた。また、箱根ヶ崎においては原江戸道とも呼ばれた。青梅街道の名称は昌平坂学問所地理局に編集の新編武蔵風土記稿 (1830年) に見られ、この名称が定着したのは明治時代で、また東京街道、甲州脇往還などとも呼ばれていた。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅から青梅街道最大の難所の大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村で甲州街道と再び合流するので、青梅街道は甲州裏街道とも呼ばれ、江戸と甲府を結ぶ甲州街道と共に江戸に往来できる道だった。

関町北の東の端、関町東との境辺りの青梅街道沿いに道標と案内板が建てられている。

参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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