東京 - 小豆島 (往路) 08 (28/10/23) 膳所 - 立花
東海道 膳所 - 立花
- 逢坂の関
- 山科川、関林寺橋
- 桃山
- 御香宮
- 坂本龍馬避難の材木小屋跡、濠川
- 桂川
- 高槻市
- 西の庄町
- 猪名川
- 藻川
逢坂の関
膳所の宿を出発して、大津市の中心部を走ると古い建物が残っている。
東海道に出る。旧東海道を少し走り、国道1号線に合流する。ここからは東海道最後の登り坂になる。
坂を登り切った所が逢坂の関 (相坂関、合坂関、会坂関)。東海道と中山道が通る交通の要となる関所が646年 (大化2年) から置かれていた。不破関と鈴鹿関を合わせて三関と呼ばれていた。休憩所脇にはこの逢坂の関をうたった和歌の石碑が三つ置かれていた。後撰和歌集にある盲目の琵琶の名手の蝉丸の歌の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」は良く知られている。後撰和歌集に収録されている三条右大臣の「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」と後拾遺和歌集にある清少納言の「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
山科川、関林寺橋
東海道は三条大橋が終点なのだが、東海道から外れて京都市内を避けて南側を走ることにした。しばらくすると山科川に架かる関林寺橋に出た。
この山科川に沿って遊歩道を走る。
桃山
暫く走ると桃山地区に入る。ここにも古い旧家が何軒も建っている。道の先には伏見桃山城があった丘が見える。この丘への登り坂を行く。ここには明治天皇の伏見桃山陵が置かれている。以前訪れているので素通りとする。
御香宮
丘を下ると賑やかな通り出る。御香宮がある。奈良時代からある古い神社。この伏見は門前町か城下町として発展したのだろう、道の先には長いアーケード街があり、多くの商店が営業していた。ここで伏見警察署の注意書きがあった。京都らしい文言だ。
坂本龍馬避難の材木小屋跡、濠川
幕末の伏見で奉行所の役人が船宿寺田屋にいた坂本龍馬を襲撃した寺田屋事件の際、逃亡を図った龍馬が身を潜めたといわれる材木小屋の跡が濠川沿いにあった。案内板が置かれている。
慶応2 (1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告
げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。 負傷した馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて豪川沿いの伏見薩摩藩邸 (ここからすぐ北にあった) に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んたとされる西浜の材木小屋は豪川の左岸南方にあったといわれています。藩邸へはすでにお花が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、 静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。 龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し、鹿島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向 います。これが、後に日本で最初の旅行といわれています。
桂川
道を進むと渡月橋で有名な桂川に出る。桂川沿いはサイクリングロードが整備されており何回か走っている。下流に行くと大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる。いつもはこのサイクリングロードを走るのだが、今回は先を急ぐので、別のルートを走る。
高槻市
道を進むと高槻市に入り、道沿いに高槻市役所があった。
西の庄町
更に進むと吹田市に入り西の庄町交差点に着く。
猪名川
吹田市から豊中市に抜け、猪名川を渡る。ここを渡ると尼崎市に入る。この川が市の境界になる。
藻川
尼崎市にある藻川を渡る。今日の目的地の立花はもう少しだ。
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